原爆投下の昭和20年(1945年)、私は19歳でした。国鉄門司鉄道局の長崎駅構内で、電力関係の事務所の経理事務をしていました。
警察署長だった父は昭和19年(1944年)に亡くなっており、4人兄弟の長兄も佐世保にいて昭和14年(1939年)支那事変で戦死していました。残された家族は母と2人の姉と自分と妹の5人で 、そのうち、当時、出来大工町(できだいくまち)にあった実家には母と次姉と妹と自分の4人が住んでいました。
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8月9日の朝、私は長崎駅の一つ北にある浦上駅に、当時15,6歳だった若い職員2人を連れて在庫調べに行きました。仕事が終わって帰ろうとしましたが、次の汽車まで時間があるので、3人で歩いて帰ることにしました。
浦上駅と長崎駅の中間にある銭座町(ぜんざちょう)付近まで帰ってきたとき空襲警報が鳴り、近くの防空壕に避難しました。爆心地からは1.8キロのところです。警報はすぐに解除されましたが、上を向くとまだB29が飛んでいるので、すぐにもう一度防空壕に戻りました。防空壕は山の裾に横穴を掘ったようなもので、中では20人くらいが体育座りのような格好で避難していました。
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5分もしなかったと思うのですが、もの凄い閃光を目に感じました。次に強烈な爆風によって身体が防空壕の中の壁のあっちこっちにたたきつけられました。その後2.3分は放心状態になっていたのだろうと思います。記憶がありません。
やがて焦げくさい臭いが立ちこみ始めたので出口の方に行くと、焼けただれた服装でお化けのような格好をした人たちがたくさん防空壕めがけて入って来ました。そのときは意識しなかったのですが、焦げ穴だらけの薄着、下着一枚のような女の人もいました。「何があったのか」と3人で、入って来る人とぶつかりあいながら外に出てみると、防空壕に入る前にあったはずの景色が何もないのです。家も建物もすべてがなくなり、ぺしゃんこになってくすぶっていました。
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こんな時には、人は自然と山の方に向かって避難しようとするものなのか、私たちは長崎の街の東方後ろにある金比羅山(こんぴらさん)めがけて登って行きました。道は家屋でふさがり、木材が燃えて熱かったのを覚えています。私達の後について4,5人の人も一緒に来ました。
山への入り口の所で、女の人が「この子がおかしい、何とかして下さい、助けて下さい」と叫んでいました。
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山の中腹まで来たとき、建物の下敷きになっていた男の人がものすごい力で私の足首をつかまえて引っ張り、「水を下さい」と訴えてきました。私は気が転倒しそうなほど恐怖感を覚えましたが、「すぐ持って来るから、待ってて下さい」とその場をごまかすウソをつき、その男の人の指を一本ずつ一本ずつひきはがしました。
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もう少し行くと4、5人の兵隊さんが倒れていて「兄さん、水をくれんか」「木陰あたりに引っ張ってくれ」と助けを求めてきました。山の小高いところに高射砲陣地があり、そこに配属されていた兵隊さんたちだったと思います。ここでもとりあえずいい加減なことを言って、私たちはその場を去りました。
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小高い山の頂上で3つぐらいの子どもが横たわったお母さんにしがみついて「おかあちゃん、おかあちゃん」とワーワー泣いていました。頂上付近で一休みしていると、下から下からどんどん人が登ってきました。
その後、「泣いていた子どもを誰かがかかえて連れて行った」というのを聞いてほっとしました。60歳くらいの女の人が「私はキリスト教徒なのにキリスト教信者はみんな死んだ」と言っていました。
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山のさらに奥の方に逃げて行くうちに夜中になりました。また爆弾が落ちるかもしれないと思い、近くにあった古畳をかぶってその夜は野宿をしました。夜間、山の東南の方角を見ると家が見えました。あっちには爆弾は落ちてないんだと思ったのを覚えています。
翌朝、山を大きく迂回して長崎市北方の長与村(ながよむら)に降りて行きました。
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当時、長与村には国鉄長崎管理部の事務所が疎開していました。そこで「長崎の旧市内は残っているらしい」という情報を得ることができました。実家のある出来大工町(できだいくまち)は旧市内です。諫早(いさはや)から通勤していた若い職員とはここで別れ、私は一人で線路づたいに南へ歩き、家に向かって帰ることにしました。
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長与村から旧市内までは、丁度爆心地の松山町を中心にして半径3キロの距離の北の端から南の端まで(合計6キロ)となります。街は南北に流れる浦上川を中心に細長い谷のようになっていて、川の西側には三菱造船や三菱製鋼、三菱兵器などの軍需工場が連なっていました。国鉄と市内路面電車が南北に並行して走っているところでした。
原爆投下の翌日、言語に絶する惨状の爆心地と長崎市街の中心を縦断するようにして、歩いて帰りました。
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この途中、私が見たのはまさしく原爆の地獄絵そのものでした。
路面電車は熱線で焼け焦げており、倒れて横倒しになった電車もありました。牛や馬がたくさん死んでいました。当時、牛はお百姓さんが長崎市内の肥えを運ぶのに使っていたものです。馬は日通が兵器工場など軍需産業の運搬用に使っていました。
線路沿いの道も、浦上川も死者でいっぱいでした。線路の土手で死んでいる人、浦上川にうつぶせになって死んでいる人が溢れていました。長崎駅はもはや駅舎はなく、ホームの屋根だけが残っている状態でした。旧市内も飛び火で火災が起こっていましたが、消防団の消火活動で食い止められていました。
夕方、やっと家にたどりつきました。母たちは、「生きとったか」と喜んでくれました。
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原爆投下直後は駅の仕事がなかったので、その後すぐに島原に嫁いでいた姉のところに1か月ほど身を寄せることにしました。身体はだるかったのですが、下痢や発熱のような症状はありませんでした。百姓仕事を手伝いながら、ゆっくり静養したのがよかったような気がしています。同僚たちは、原爆投下後3日目から死体の片付けや死体を焼く仕事に命令でかり出されていました。ほとんどの同僚が30歳までに亡くなったと記憶しています。
また、金毘羅山へと一緒に避難した2人の若い職員も、2人とも30歳までに亡くなったと聞いています。
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2年前の平成23年(2011年)に亡くなった妻とは職場結婚でしたが、妻も長崎駅構内で事務をしていて被爆しています。金毘羅山の東方の西山貯水池の方まで避難していました。
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戦後、私は国鉄の長崎管理部というところで仕事をしていましたが、昭和30年(1955年)、線路や駅舎をつくる建設部門に異動となり、明石・吹田間の線路複線化の仕事の関係で大阪事務所に転勤し、その時から京都の宿舎に住むことになりました。その後、新幹線が開通し、関西地区の保守担当に転職。労務、総務の責任者として組合交渉の窓口の仕事をすることにもなり、56歳で定年退職しました。国鉄がJRに分割民営化される前の時代のことです。その後、民間企業で69歳まで働きました。
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京都原水爆被災者懇談会と関わり始めたのは66歳の時です。被爆の影響は「孫にも出るぞ!」といった2世・3世に関わる風評を長崎で聞いたり、神奈川県の進んだ二世施策を知って、当時の懇談会の総会で代表の永原誠氏に「懇談会は被爆二世のことを考えていないのか」とくってかかりました。その時、故岩崎謙護さんから「文句ばかり言ってないで自分でも世話人になれ」と言われたのがきっかけで、以来今日まで世話人をさせてもらっています。
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50歳で胃がんが見つかり、その後胆嚢炎で手術もしました。1年に1回は精密検査するなど健康管理には努めてきました。現在は糖尿病などをかかえていて治療継続中です。
3人の子どもや、孫、ひ孫に私と妻の被爆の影響がありはしないかと、考えるととても心配です。
以上
『広島・長崎 原子爆弾の記録』より