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●被爆体験の継承 11

原爆と枕崎台風と二重の惨禍の中で
私と姉と兄の被爆体験

佐々本秋雄さん

2013年12月3日(火)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

佐々本さん
■原爆、福山空襲、終戦

 私は大正10年(1921年)9月20日の生まれで今年92歳になります。終戦の時は23歳でした。広島県東部の福山市から北方19kmにある府中町(現在は府中市)に生まれ育ち、終戦の時も府中町で合板の会社に勤めていました。

 兄弟姉妹は8人いて私は次男坊でした。長女のよし子は大阪大学病院の外科で看護婦を10年経験し、その後結婚して福山へ嫁いでいました。

 長男の三郎は2度目の出征をしていて、原爆投下の時は広島の宇品に司令部のあった陸軍暁(あかつき)部隊に配属されていました。兄弟姉妹も多い大家族で、長女、長男が家にはいないわけですから、私の稼ぎも家族の暮らしの重要な支えになっていました。

 府中は昔から木材、家具産業で有名なところでしたが、戦争中は合板の生産が特別盛んに行なわれていました。戦闘機や、特殊潜航艇などの材料として必要とされていたということでした。戦後も合板は生産の追いつかないほど需要が高まりましたが、今度は全国の都市の焼け跡に立つバラック需要のためだったと言われていました。

 8月6日に広島に原爆が投下されましたが、私達のところにはすぐには正確なことは伝わってきませんでした。

 8月8には福山市にアメリカ軍のB29による焼夷弾爆撃がありました。私のいた府中からもその凄まじい様子は見えました。焼夷弾は初めに街の周囲にぐるりと投下され、どこにも逃げることのできないようにしておいて今度は街を十文字に切るように投下されたそうです。無差別爆撃の残忍さの際立ったものでした。

 敗戦は8月15日のラジオ放送で知りました。その日は朝10時頃から、今日重大放送があるのでラジオを聞くようにと言われていました。昼、とにかくラジオを聞けということで、スイッチを入れた途端に天皇陛下さんが「敗戦のやむなきに至りまして」と語り、初めて天皇陛下の生の声を聞きました。「これはしかたないなあー」と思ったものです。

■大野陸軍病院に収容されていた兄

 敗戦の決まった直後になって広島に配属されていた兄の消息が入ってきました。広島県西部の大野浦にある陸軍病院に大やけどをして収容されている、はよう行ってやってくれ、とのことでした。大野浦は丁度、安芸の宮島の対岸となるあたりで瀬戸内海に面した村です。

 8月16日、私の父と、兄の妻の父親と、そして私の姉のよし子の3人がとりあえず大野浦に駆けつけました。大野陸軍病院では被爆者患者を収容しきれないため、近くの大野西国民学校も臨時救護所にされていて、兄はそちらの学校の教室を使った救護所にいました。一部屋に15〜16人の患者が押し籠められるように寝かされていて、菰(こも)1枚分が1人分のスペース、付添者には満足に看病できるような場所もありませんでした。付添者には食べるものも与えられませんでした。

 当時、広島の陸軍暁部隊に所属していた兄は、8月6日の朝、軍馬を連れて市内を歩いていました。突然の熱戦と爆風を浴び、右半身の頭から足先まで大変なやけどを負いました。熱風に襲われて身に着けていた軍服が燃え、近くの川に飛び込んで一命をとりとめたほどでした。幸い救出され、大野浦にあった陸軍病院に搬送、収容されていました。

■大野浦から府中への帰途、広島へ入市

 私の父と兄の妻の父の二人は様子を見てすぐ府中に帰り、姉だけが兄の看病のため大野浦の陸軍病院に残りました。

 陸軍病院とはいってもこの頃は既にまともな薬などもなく、包帯すら満足にない状態でした。火傷には赤チンを塗るぐらいのもので、胡瓜(きゅうり)の水や瓜(うり)の水で火傷の傷口を洗ったり、熱さましをしたりするような有り様でした。

 このため府中で取り揃えられるものだけは急いで揃えて、8月17日、今度は私が一人で大野浦に向かいました。国鉄福塩線で福山まで出て、山陽線で広島駅を通過して大野浦駅に着きました。

 着いたその日は私も病院に一泊し、兄と姉と私とで三人が一緒に一枚の菰(こも)に寝ました。

 救護や看病に必要なものを届けておいて、私は翌日には府中へ帰ることにしました。大野浦から国鉄宮島口駅に向かう山越えの途中、弁当に用意したおにぎりを食べようとして強烈な異臭に見舞われました。

 陸軍病院や臨時救護所では沢山の死体や汚物が積み上げられていて、それらが地下水にも染み込んでいて、その水を汲み上げて炊飯や調理をしており、時間がたつと食べものからもこの臭いが出てくるのではないかと思いました。

 府中への帰途、広島駅で途中下車して廃墟の広島市内を歩きました。私の家の近所の女の子が女子挺身隊員に動員されていて、広島市内で原爆投下に遭って即死していました。

 また同じく私の家の近所の青年が広島市内の白島の警察学校に行っていました。その人達の状況や様子を伺うことが主な目的でした。

 広島駅から西方向に向かい、白島地域から八丁堀にかけての一帯を歩きました。

 広島の街はまったくの焼け野原でした。

 この頃にはもう道路だけは綺麗に片づけられていましたが、その道路に人通りがほとんどなかったのがとても強く印象に残っています。半焼けになった福屋百貨店、広島駅構内で横倒しになっている機関車なども記憶に残っています。

 警察学校に通っていた青年は生きて帰ってくることはできましたが、数年後、体のアチコチからたくさんのガラス片が出てきたりしました。また原爆ぶらぶら病といわれる症状に襲われて生涯苦しみ、まともな仕事ができない体になってしまいました。

■陸軍病院の惨状

 姉はその後も大野陸軍病院に残り兄の看病を続けました。

 陸軍病院では毎日毎日たくさんの人が亡くなっていきました。病棟や救護所で亡くなった人は、救援に動員されていた大野浦の村の人達によって運び出され、死体は便所の横に5〜6体ずつ積み上げられていきました。

 最早治癒の見込みの全くない人には死を早める注射もされていました。私の兄もその注射を打たれるところでしたが、たまたま看護婦経験があってカルテのドイツ語も読める姉がそれを見つけて、必死の思いで注射を止めるよう訴え、24時間つきっきりで看病して兄の命を救いました。

 大野陸軍病院では、進駐してきたアメリカ軍によって、被爆入院患者の肉片が切り取られたり、血液の採取などが行なわれていたことも、兄や姉の記憶に強く残っていました。原爆放射線の人体に与える影響のデータとして収集されていたことは明らかです。

■壊滅の街を襲った枕崎台風

 私が大野浦に兄を見舞ってから一ヶ月後の9月17日、西日本をとても大きな台風が襲いました。

 すべては後になって分ったことですが、戦後最大規模の台風で、鹿児島県の枕崎に上陸し、九州を横断、豊後水道を経由して、広島県西部、丁度大野浦あたりを直撃して北進し日本海に抜けた台風でした。後日、枕崎台風と名前がつけられました。

 この頃は学校再開によって国民学校の臨時救護所は閉鎖され、私の兄達も、付添いの姉も陸軍病院本館の方に移されていました。

 台風が広島県を襲ったのは9月17日の深夜、停電となって真っ暗闇の中でした。風も凄い強風でしたが、それ以上に集中豪雨が物凄くすさまじいものでした。

 台風によって陸軍病院背後の山々で多数の山津波が発生し、土石流が陸軍病院を襲い、建物はあっという間に壊滅、倒木や巨岩とともに瀬戸内海まで押し流されてしまいました。入院患者、医師、看護婦、多くの病院関係者等の150人以上の命が奪われ、大変な惨禍となりました。

 私の姉は土石流に押し流されましたが幸いにも途中の岸にひっかかって一命をとりとめました。兄の方は、まったく海まで押し流されてしまいましたが、自力で海岸まで泳いで戻ってきて、こちらも生き延びることができました。あの大火傷の傷がまだ癒えない体で生き延びることができたのは奇蹟でした。

 枕崎台風は広島県下全域に大きな被害をもたらし、広島県東部の府中町にも河川の氾濫、大洪水被害が発生して、多数の死者が出ました。私の兄の妻は胎児と共に、そしてその両親の3人も家屋ごと水害で流されて亡くなりました。

壊滅した大野陸軍病院
壊滅した大野陸軍病院

■姉の生涯

 大野陸軍病院が壊滅したため、生き残った患者達は広島市内の陸軍病院宇品分院に移送されました。患者本人は宇品分院に収容されましたが、付添者までは最早一緒にいることが許されませんでした。

 まるで病院から追い出されるような扱いで、付添いの時に身に着けていた白衣のままで、一銭の持ち合わせもないまま故郷府中をめざすことになりました。

 宇品から船で尾道まで向かいましたが、同乗していたとても親切な人に助けられ、その人に尾道から府中までの国鉄の切符を買ってもらったり、僅かのお金もいただいたりして、なんとか故郷の街に辿りつくことができました。

 姉は102歳まで生きて天寿を全うしましたが、宇品から府中まで辿りついた時の、見ず知らずの人から受けた親切は、握られた手の温もりととともに生涯忘れることはありませんでした。

 後年姉は、3号被爆(救護)者として被爆者手帳の交付を受けました。長寿ではありましたが、心臓を悪くし、10年間の入院、心臓ペースメーカー装着などの経験もした人生でした。

■兄の闘病人生

 宇品の陸軍病院宇品分院に収容された兄はその後、福山にあった陸軍病院に転院し、1年ほどの入院の後、やっと府中に帰ってくることができました。

 被爆による火傷の傷は酷いものでした。右側頭部に残ったケロイドは散髪のパリカンが通らないほどでした。顔の右頬もつっぱったままでした。右腕、右手にもケロイドは残り、手の甲は骨が見えるほどでした。足は右ひざにも障害が残りました。肝臓がん発症を皮切りに、体内のアチコチにがん細胞は転移し、最後は多重がん状態に襲われ、闘病人生を72歳で終えました。

 私の姉も兄も、一度も被爆体験を詳しく語ることなく逝ってしまいました。あの凄惨な体験は二度と思い出したくなかったのだと思います。

■私と姉と兄の被爆体験を語り続ける

 私は昭和29年(1954年)、西陣関係の仕事に就くために京都に移りました。被爆者手帳の交付を受けたのは昭和53年(1978年)です。叔父さんからの紹介で初めて被爆者手帳を取得できることを知り、京都で取得しました。2号被爆(入市)者です。

 府中にいる頃には腹膜炎を、京都に来てからは胆嚢炎、胆管炎を発症し、入院も、手術もしました。それでもまだこうして元気に、私と姉と兄の被爆体験を語り続けています。

【枕崎台風 参考資料】

 アジア太平洋戦争の敗戦から1ヶ月後、1945年(昭和20年)9月17日に鹿児島県枕崎市に上陸して日本を縦断した台風。1934年(昭和9年)の室戸台風、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風と共に昭和の三大台風に数えられている。

 上陸時に観測された最低海面気圧は916.1ヘクトパスカル、枕崎での最大瞬間風速は毎秒62.7メートルが記録されている。枕崎に上陸した台風は九州を横断、豊後水道を経て広島県西部に再上陸、そのまま日本海に抜け、その後さらに奥羽地方を横断して太平洋に至るコースを辿った。

 枕崎台風による全国の死者は2,473人、行方不明者は1,283人、負傷者は2,452人という甚大な被害だった。この内広島県の死者と行方不明者は2,012人、負傷者は1,054人、流失家屋は1,330戸にのぼり、台風上陸地点の鹿児島県や九州地域よりもはるかに大きな被害を被った。

 広島県呉市では多数の山津波、土石流の発生によって1,156人の死者が出た。広島市と近郊では太田川が氾濫、広島市内の20に及ぶ橋が流失した。(原爆で破壊・焼失した橋は8だった)

 広島県西部の大野村にあった陸軍病院は山津波、土石流の直撃を受け多くの施設、病棟が壊滅、被爆患者、医療関係者合わせて150人以上が犠牲となった。

 大野陸軍病院を拠点に医療支援活動を行なっていた京都帝国大学原爆災害総合研究調査班も11人の研究者の犠牲を出した。

 終戦直後のため気象観測体制も十分ではなかったこと、そして気象情報が市民、国民に的確に届けられるような状態になかったことが、これだけの惨禍をもたらした原因となった。

 日本は敗戦によって太平洋上の気象情報を満足に得ることができない状態になっていた。そのため台風上陸地点が台風情報を得る最前線の位置になっていた。

 上陸地点の枕崎測候所では最大級の暴風雨デ―タを観測してはいたが、戦禍による通信線途絶のためそのデ―タを中央気象台に送ることができなかった。このため中央気象台から全国の地方気象台に提供される情報は、中心部の重要データを欠いたままの、実際の台風とは勢力も速度もずれて異なるものだった。

 広島地方気象台は正確な情報を得ることなく当日の夜を迎えざるを得なかった。仮に正確な情報が得られていたとしても、今度はそれを市民・県民に届ける手段もまた失われたままだった。

 人々は、原爆による惨禍から立ち直るきっかけさえまだ見出すことのできない日々だった。その上に災害に対してまったく無防備な状態のところに枕崎台風は襲いかかり、広島市民に二重の惨禍をもたらすことになった。

 台風そのものは自然現象だが、戦禍によって防災情報と防災機能を失い、それが原因となって招いた災害は愚かな人間のもたらした人災だ。

【参考資料】柳田邦男『空白の天気図』(2011年・文春文庫)

原爆投下時の広島市・近郊地図
京大原爆災害総合研究調査班遭難記念碑(広島県旧大野町)
京大原爆災害総合研究調査班遭難記念碑
(広島県旧大野町)



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