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●被爆体験の継承 12

じわじわと体を蝕(むしば)まれてきた私の被爆体験

F・I さん

2014年1月23日(木)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

F・I さん
■8月6日のその時

 私は昭和8年(1933年)11月24日の生まれです。去年80歳になりました。被爆したのが11歳の時、小学校(当時国民学校)6年生でした。家は広島の街の西部になる福島町にあってそこで被爆しました。爆心地からの距離は2キロメートル以内ですね。

 あの頃は広島市西部には己斐(こい)川(山手川)と福島川とが流れていて二つの川に挟まれた位置のところでした。二つの川は今は大改修されて太田川放水路一本になっていますけどね。

 私の家族は父母と、長男の私と、姉が2人、妹が1人、弟3人の合計9人の大家族でしたんや。父親は出征していて、原爆が落ちた時は家族8人が一緒に生活していたんですわ。

 原爆が落ちた時はね、私は福島町の沖町というところにおってね、その日友達と一緒にオート三輪で宇品まで連れて行ってもらうことになっていてね、車庫の中でオート三輪のエンジンの火を熾(おこ)している最中だったんですわ。当時は木炭車やからねえ。

 何気なしに車庫の外を見たらね、地面にジワジワっと白いものが湧いてきたんですわ。そしたら突然車庫の屋根がドスンと落ちてきたんですわ。屋根は三輪車の枠に当たって、私は直撃から免れてね。あれがなかったら私は死んでいたかもしれないんですわ。一緒にいた友達は顔に大怪我をして血を流していましたわ。「どうもないかあー」とお互いに言い合って、友達から「F、早よう家に帰ったれやー」と促されてね家に向かったんですわ。

 家に帰る途中の道々はもう散々なもんになってましたね。もう泣き叫んでいる人、怪我している人、そりゃもう大変でしたね。 なんとか家にたどり着いてみると、幸い家族は全員大きな怪我をしたもんはおらんやったね。妹が顔にちょっと怪我した程度で。

 家もつぶれてはいなかったけど、2階の部屋の布団が焦げ出していてモクモク煙を出していてね。慌てて2階に駆け上がって布団の火を消し止めたんですわ。

■黒い雨

 母親が「こんな家の中にいたら危ない」と言うて、近くにあった畑に避難しようということで行こう思ったんやけど、途中から黒い雨が降り出してね。真っ黒い雨じゃ。こりゃ油まかれて、そこに焼夷弾落とされてみんな焼け殺されてしまうと思ってね、またみんな家に帰ったんですわ。あの真っ黒い雨はてっきり油や思うたなあ。

 家からようけの布団を持ち出して、その布団をかぶって雨をしのいだんですわ。

 その頃から被災した人がいっぱい溢れだしてきてね、みんな体が焼けただれて、焼けた人はジャガイモの皮がむけたような、ひどいもんでね、むごいもんじゃった。「水をくれー、水をくれー」と言うてね。「火傷してる人に水飲ましたらすぐ死ぬからやったらあかん」と言われていたんでね、可哀そうやけど水をやらんかったんですわ。

 その内に雨はあがってね。家は無茶苦茶になっとって、食べるもんもなく、しようがないんでその日は宮島線の廿日市にあった親戚をたよることにしたんですわ。

 その夜は一家全員親戚の家で泊まって、あくる日私とすぐ上の姉とで福島町の自宅に帰ってみたんやけどね、帰ってみてびっくりしたんは、目ぼしいものが何もかも盗まれていたんですわ。こんな時によくもこんなことができるもんだと驚いたね。

■地獄の街

 2〜3日後には他の家族もみんな帰ってきて、近くの畑にバラック建てて仮住まいを始めたんですわ。8人もの家族なんでね結構大きなバラックが必要で2軒ほど建てたんですわ。私らだけではどうしようもないんでね、近所の若い人らがよう助けてくれましたわ。今から思うと不思議なほどなんやけど近所の人達も大怪我した人はあんまりなくて、みんな割と元気な人が多かったですわ。

 父親がおらんので、小学校6年生でも長男の私の負担は大きかったし大変でしたわ。それでもね、あの頃私は町内の少年警防団に入っとって役員もしとったんですわ。だからそれなりの訓練もいろいろしとってね、空襲警報やいうてサイレン鳴らしたことなんかもあるしね。自分で言うのもなんやけど才知みたいなのはあったんやと思いますわ。

 私の家は電車通りの近くにあったんでね、壊れた電車が赤茶けていてね、その中に死んだ人が真黒になってぶら下がったりしているのも見ましたわ。そりゃもうひどいもんでしたよ。

 近くの己斐川と福島川にようけの人が水を求めて入って、そのまま折り重なって死んでいましたわ。引き潮のときで川が浅くなっとって、それで余計にようけの人が水を欲しがって川に降りて行ったんですわ。潮の満ち引きで海に流されてしまった人も多いんじゃないかと思いますわ。あの時の光景を思い出したら、みじめ過ぎると言うか、何とも言いようがないですわ。ほんまに地獄もいいところじゃ。

 市内の中心部はね、紙屋町やら3日ぐらいは燃え続けていたんじゃないかねえ。廿日市から帰ってきた日の夜は、空が真っ赤になって燃えとったのを覚えていますわ。

 父親は大工でした。父親が出征した後はね母親が一生懸命頑張ってくれてね、一家を支えたくれましたんや。かいしょもんの母親で、これだけの子どもを抱えてしっかりした母親でしたわ。自慢の母親でしたね。

 父親は終戦の前年の昭和19年にフィリピンのレイテ島で戦死してるんですわ。そのことを知ったのは戦争が終わってからですわ。遺骨の代わりに石ころ一つが還ってきましたわ。陸軍伍長だったんですけど、招集されたのは40歳を超えてですからね。40を超えた人間を招集するなんて戦争に勝てるわけがないわね。戦争で死んだ人はみんな犬死ですよ。可哀そうに。

爆心地と広島市の地図

昭和29年(1954年)頃の己斐川(山手川):左と福島川:右との合流地点
昭和29年(1954年)頃の己斐川(山手川):左と
福島川:右との合流地点
■京都へ

 戦後になって、姉が結婚で京都に嫁いだんですわ。その関係で私も18歳の頃から姉のやっていた洋品雑貨の問屋の仕事を手伝うようになって、ちょくちょく京都に来るようになりましてね。昭和28年(1953年)二十歳の時に完全に京都へ引っ越して京都で本格的に仕事をするようになったんですわ。

 そして、広島の自宅が立ち退きになったこともあって家族全員が京都へ引越しすることになりましてね。それから私と二男、三男の兄弟3人で独立して、洋品雑貨を取り扱う仕事を立ち上げ、ずっと京都に住みついてやってきたわけですわ。

■夢にも思わなかった被爆の影響

 昭和31年(1956年)、22歳で結婚しました。そのすぐ後頃から歯がボロボロと抜けるようになってね、歯医者に行く度に歯を抜かれて、20歳代で上下全部の歯が抜けてしまったんですわ。今では原爆のせいやと言われてますけどね。当時はなんでなんか分らんかった。

 34歳の時、昭和42年(1967年)ですが、右目が白内障になったんですわ。あの頃の白内障の手術は大変なものでしたんや。18日間も石枕で顔の両側を挟みこんだままにされてね。あの時、市立病院の院長先生が「(原因は)原爆と違うかなー」とつい漏らされた独り言は今も耳に残ってますわ。先生もしっかりした確信は持てなかったようで、それ以上何もありませんでしたが。当時は「被爆のひの字」もなかったし、私らも原爆が影響するなど夢にも思ってませんでしたから。

 右目の白内障は昭和57年(1982年)49歳の時に再発してね、手術はしたが結局失明してしまったんですわ。その後左目も発症して出術してるんです。今はまだなんとか見えてますけど。

 70歳の時人間ドッグで肺ガンが見つかって、3.5センチほどの摘出手術をしたんですわ。今年で11年目になりますけどね、今は経過観察中というわけですわ。その頃にはもう肺ガンは原爆の影響だとはっきり思ってましたから原爆症認定申請をして、認定もされてます。去年の11月には、突然倒れて緊急入院したんですわ。11日間入院してね、診断が肺炎だったんです。

 原爆が落ちた時の急性症状というのは全然覚えていないんですが、被爆した後からは下痢をしやすい体になったんですよ。今でもしょっちゅうそうです。下痢が激しい時には、4〜5キログラム痩せたこともあるんですわ。

 今は他にも、三又神経痛、高脂血しょう、慢性膵炎(すいえん)、慢性胃腸炎にもかかとって、治療を続けてるんですわ。

 今振り返ってみると、長い時間かけてじわじわじわじわ体を蝕(むしば)まれてきたような感じですわ。

■姉と弟の死

 被爆者健康手帳は結婚後に京都で取得したんですわ。最初はこんなもんあることも全然知らんでね。母親が再婚して義理の父親となった人が私らに親切でね、証人探しなんかいろいろ頑張ってくれてね、取ってくれたんですわ。

 一番上の姉はね悪性リンパ腫で54歳の時に亡くなってるんですわ。その姉は被爆者手帳を取れずに亡くなっているんですわ。申請にいろいろ書類を揃えたり、たくさんのことも書かなければならないでしょう。それが大変で、とうとう申請できないままに亡くなっているんです。

 もう一人、一番下の弟も34歳の時胃ガンで亡くなってるんですわ。

■「被爆2世・3世の会」の頑張りに応えて

 娘が二人おるんですけどね、一人の方の娘が結婚する時、興信所から調べられたことがあるんですわ。親が被爆してるのかどうかとかね。そんなこともあって娘たちは原爆の話を聞くのを嫌がってね。こっちも話したくない。

 本当は私は原爆のこと思い出すのも嫌なんや。ずっと話したくなかったんですわ。でも「2世・3世の会」ができて、みなさん熱心やから、一生懸命やっておられるんで、それに応えよう思って話すことにしたんですわ。できるだけの協力はしようと思ってね。だから私の被爆体験は娘より「2世・3世の会」の人の方がよっぽどよう知ってることになりますわ。

 福島の原発事故、あれはダメですわ。あんなひどいことはない。人間が住もうと思っても住めないようになってしまってるじゃないですか。東京電力かなんかしらんけど、誤魔化しばっかりゆうて、嘘ばかりついてるじゃないですか。

 京都原水爆被災者懇談会とは母親の代からの付き合いやね。だから懇談会が出来たころからずっとではないですかね。昔は三千院や宇治の黄檗なんかにみんなで行って会議やリクリェーションしたことなども思い出しますわ。

■広島カープの思い出

 私がまだ広島にいる頃の思い出の一つにね、広島カープのことがありますよ。カープは昭和24年(1949年)にできたんですが、まだ広島市民球場ができる前の頃でね、試合は広島総合球場で、観客席はロープで仕切っとるようなところでやっとって、それでもいつも満員でしたわ。

 私らも熱心なファンやった。白石、銭村兄弟、長持、門前、長谷川らが活躍していてね。カープが経営危機になって危ぶなくなった時、樽募金がとりくまれて、私らも一生懸命手伝ったもんですわ。京都に来たずっと後になって広島市民球場が出来た(昭和32年/1957年)ことを聞きましたわ。あの頃は100%カープファンやったけどね、今は80%ぐらいのファンかな。でもとにかく懐かしい。

以上     






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