ロゴ4 ロゴ ロゴ2
ロゴ00

●被爆体験の継承 13

私の被爆体験とノーモア・ヒバクシャ訴訟

柴田幸枝さん

2014年2月8日(土)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

柴田さん
■長崎市西小島町

 私が生まれた所は長崎市の西小島町というところで、長崎市の中心地から少し南方向、爆心地からは4キロメートルほどのところなんです。もう少し行くとオランダ坂や大浦天主堂なんかがあるようなところです。私は昭和15年(1940年)3月10日の生まれですから、原爆が落とされた時は5歳でしたね。

 あの時は家の近所の外で遊んでいたんです。誰かが空を見上げて「B29や!」と言ったんで、怖くなって隣の石橋さんという家の中に飛び込んだんですわ。ピカッと光ったのと聞いたこともない異様な音を覚えています。家の中に上がり込んだら箪笥が倒れかけてきて、我が家にいた父親がすぐ迎えに来てくれて、私を助けて抱えてくれました。

 そして外へ出た瞬間に爆風で父親と一緒に吹き飛ばされてしまったんです。10メートルほども飛ばされたんじゃないかと思いますね。後になってですが、「あの時は大橋さん(私の旧姓)親子が飛んできた!」と近所の人達からよく聞かされたもんです。

 あの時は一瞬気を失ったんですが、意識が戻ると右わき腹に何かが突き刺さって怪我をしていましてね、その時たまたま近所に住む三菱造船で看護助手をしていた人が通りがかって、赤チンで治療してくれたんです。

 母親はその日は婦人会の勤労奉仕で防空壕堀りに動員されていたらしくて、家にはいなかったんですよ。もちろん被爆はしていますよ。

 父親はその頃三菱兵器の大橋工場に勤めていたんですが、たまたまその日は家事のため仕事を休むことにしたんです。

 近所に山下さんという親一人子一人の家があって、娘さんが父親と同じ三菱兵器大橋工場に勤めていたんです。その娘さんが朝出勤の時父親を誘いに来たんですが、父親は「今日は休む」と言って娘さん一人を送り出していたんですね。

 父はその日休んだおかげで死なずに済んだんですけど、娘さん一人を出勤させたことにすごく責任を感じたらしくて、次の日から娘さんを探しに爆心地の方に行くことになったんですわ。父親と私の母親と山下さんのおばさん(娘さんのお母さん)と、それに私も父の背中に背負われて、毎日毎日探しに行ったんですよ。5日間位行ったんではないかと思いますけどね。結局娘さんは生きては見つからず、亡くなって帰ってくることになったんですよ。

■封印していた恐怖の記憶

 父親や山下さんの娘さんの勤め先の三菱兵器大橋工場は爆心地から北へ1キロメートル先の方なんですが、そこまでは行けず、爆心地手前の岩川町あたりまでしか行けなかったらしいことが、後の被爆者手帳申請書類などには書かれてあるようです。爆心地から800メートルぐらいの距離ですね。

 5歳の子供にはとても怖いことばかりだったと思いますわ。だからあの時のことはほとんど忘れている、というか記憶から消しているような感じです。

 一つだけ鮮明に記憶している情景がありましてね。爆心地の方向に向かって歩いている途中で、足もとで、「おじさん、おじさん」と父を呼ぶ声がするんです。見ると真っ黒に焦げて性別も分らない人が「水を下さい!」と言ってるんです。水筒は持ってたんですが容器がないので、近くの焼け跡から茶碗のかけらを拾ってきて、父が水をあげたんです。そしたらその人は「おじさん、あ・・・・・・・」と言って、「りがとう」まで言えないまま息を引き取ったんです。私は恐ろしいもんだから、父親に必死にしがみついて泣きじゃくっていた、そんな記憶だけがあるんですよ。

 原爆症認定の裁判をするようになって、弁護士の先生から「当時の長崎の写真を見ますか?」と言われることがあるんですが、それだけは今でも見れないんです。東北の大震災のこともね、テレビで津波の瓦礫が映ったりすると、長崎の原爆のことを思い出して、すぐにチャンネルを変えたり、テレビの前から逃げてしまうんですよ。

 他のことは何にも覚えていなくて、私の中では記憶を封印してしまっているみたいなんですね。記憶が飛んでいるみたいな。親も私には原爆の話は一切しませんでした。ただただ大変やったというだけでね。

 同じように記憶が飛んだ経験をされた京都原水爆被災者懇談会の花垣ルミさんから、「飲み物の記憶は?」、「食べものの記憶は?」と記憶を辿っていくと思いだすこともあるよ、と言われてやってみたんです。すると、飲み物と言えば「家の横に井戸があって、それを飲んでいたなあ」とか、何を食べてたかなーと考えると、「隣の畑から芋のつるみたいなものを盗ってきて食べてたな―、赤い実のようなものを食べたのも微かに記憶があるなぁー」、などと少しづつは思い出していますけどね。

 放射能のせいの急性症状のことも裁判で聞かれるようになって思い出したことが多いんです。親と爆心地のまわりを歩き回った後で、下痢、吐き気があって、高熱も出て、脱毛もしたんです。鼻血もありましたわ。

■被爆後から続く疲れやすい体に

 原爆に遭うまでは男の子のように元気な子やったんですけどね、原爆に遭ってからは疲れやすくて体の弱い子になってしまったんです。小学校の頃も、中学校の頃も疲れやすい体の状態がずーっと続いたんです。ですから学校もよう休みましてね、母親からは「あんたはなまけもんや!」とよう言われたもんです。

 高校生の頃はまだ比較的元気な方でしたけど、社会に出て、就職してからはまた疲れやすい体になって。仕事に行こう思うんですけど起きれないんですよね。病院には行かんと、薬局で栄養ドリンクばっかり買うて飲んでましたわ。

 病院はお金かかるからいかんかったんですわ。原爆手帳使うのもどうしても嫌だったんですわ。今もおんなじ状態で、朝なかなか起きれないんです。無理して朝早く起きたら、必ず2〜3日は寝込んでしまうんですよ。

 そんな体の状態ですから、どうしても仕事を休むことが多くて、職場も同じところを長くは続けられませんでした。ですから、本当にいろんな仕事を、いろんなところで転々としたんですよ。

 そんな中で主人と知り合って、交際を続けて、昭和47年(1972年)に結婚したんです。私が37歳の時でした。主人ももともと体の弱い人でね、私の体の様子なんか見てて、「この人も自分と一緒で体が弱いんやなあ」、「お互い体が弱い者同士なら助け合っていけるんかなー」と思って、結婚する気になったんですって。

 結婚した後になって私が原爆に遭ってること話したんですよ。そしたら主人は、「ああ、大変やったんやねえ」と、ただそれだけでした。

■闘病の日々

 若い頃はしんどい、しんどいという感じだけやったけど、だんだんだんだん病気の診断がされるようになってきたんですよ。結婚した頃からもう体はあちこち良くない状態でした。

 最初に医者にかかったのは昭和50年(1975年)頃、体がとてもだるくなって、すごく寒気を感じて、汗をかくようになったんです。ひどい目眩(めまい)がしてストーブに倒れ込むようなこともあって、首がおかしくなって、ムチウチのような痛みが走って、愛生会山科病院にかかったんです。

 愛生会山科病院では同じ長崎出身の患者さんにも巡り合ってね、同じ長崎だから話してたら分るんです。その人から被爆者の健康管理手当のことなんかを初めて教えてもらったんです。そこでもらった診断が運動機能障害だったんです。

 平成7年(1995年)、55歳の時、何となくろれつがまわりにくくなって、初めは歯を抜いているから空気が漏れているのかと思ってたけど、その内に片方の足がとても痛だるくなってきて、血圧も上がってきたんで、主人に勧められて病院へ行ったんです。検査をしたら脳梗塞だと診断されて、それからずーっと定期検査を続けるようになったんです。

 平成12年(2000年)、60歳の時には、買い物に行こうとしていた時に突然目眩がひどくなって、まわりがぐらぐら揺れ出してね、時間外だったけどタクシーで京都府立病院へ駆け込んだんです。

 それから平成15年(2003年)には甲状腺機能低下症、平成21年(2009年)には両目白内障だと診断されてきてるんです。白内障の片方の目はものすごく進行してて、医師からは「もう見えないでしょう」と言われてるんだけど、手術は原爆症認定裁判が落ち着いてからと思って辛抱してるんですわ。

 今かかっているお医者は歯科は別にしても8つにもなってるんですよ。内科の消化器、循環器、脳外科(脳梗塞)、眼科、整形外科が骨粗鬆症と足、甲状腺の耳鼻科、泌尿器科とね。その上がんの疑いがあるというんで5月には採血検査も予定してるんです。もうほんまに頭の先から足の先までですわ。

 今は全部京都府立医科大学付属病院ですけど、これだけの科に通院するだけですごい時間がかかって、体力もかかって大変なんです。

■原爆症認定申請とノーモア・ヒバクシャ訴訟の提訴

 平成21年(2009年)1月に甲状腺機能低下症と白内障の原爆症認定を申請したんです。あの頃は京友会(京都府原爆被災者の会)との関係があって、京友会で、「甲状腺機能低下症と白内障だったら認定申請できますよ!」と言われてね。

 ところが2年近くも経って平成22年(2010年)の10月に却下処分されたんです。悔しかったですね。原爆に遭う前にはあんなに元気な子供だった私が、今こんなに悪くなってしまっているのにと思ってね。

 却下処分に対して異議申し立てをしようと思ったんですが、その時主人が事故で倒れたりして異議申立期間(3ヶ月)には間にあわなかったんです。それなら期限が6ヶ月後の裁判ならできないのかと思って京友会に相談したんですが、京友会は「裁判までは面倒見れない」と言うんですよ。

ノーモア・ヒバクシャ訴訟での報告集会にて。夫妻で(2013年12月11日)
ノーモア・ヒバクシャ訴訟での報告集会にて。
夫妻で(2013年12月11日)

 私の体がこんなに悪くなったのは原爆のせいに違いないんですよ。なのに国は私の甲状腺機能低下症や白内障は原爆の放射線とは関係ないと言うんですよ。諦めずに、なんとか弁護士さんに相談しようと思って、相談できるところをいろいろ探したんですよ。

 そして京都の弁護士会館に行っていろんな法律相談のコーナーみたいなところで、原爆症裁判に詳しい弁護士ということで久米先生、諸富先生、寺本先生を紹介してもらったんです。裁判に訴えられる期限の6ヶ月までもうギリギリのところだったんです。

 久米弁護士らにお世話になるようになって京都原水爆被災者懇談会のみなさんともお付き合いできるようになったわけです。

 裁判は、自分の証言じゃない時でも、他の原告の方の時でも、できるだけ主人と一緒に傍聴に出かけるようしてるんです。裁判所が大阪なんで出かけるのも大変ですけどね。

■父のこと、母のこと

 私の子供の頃は家は貧乏でね。高校の頃には教科書も満足に買ってもらえなかったんですよ。それでも母親は愚痴一つ言わず、辛くても、悲しくても何も言わない人でした。

 「落ちぶれて袖に涙のかかる時人の心の奥ぞ知らるる(おちぶれて そでになみだの かかるとき ひとのこころの おくぞしらるる)」。誰の詠んだ歌なのか知らないんですけど、母親がいつも台所で口ずさんでたんです。いつも口にしてたので私も自然と子ども心に覚えてしまって、今でも忘れないんですわ。貧乏しててもケセラセラの母でしたね。

 私の被爆者健康手帳は私が知らない間に、母親がとってくれていたんです。昭和32年(1957年)の取得で、私が17歳の時にとられているんです。昭和32年というと、被爆者医療法ができて手帳の制度ができてすぐの頃になりますね。母親は手帳はとるつもりはなかったらしいんですが、周りの人達から「とっておいた方がいいよ」と盛んに言われてとったらしいです。私が自分の手帳のあることを知ったのは20代の頃で、母親から初めて「手帳がいるならあるよ」と言われました。手帳はその後母から京都へ送ってくれたんです。

 父親は昭和58年(1983年)、72歳で亡くなったんです。詳しい原因は分らないんですが、脳軟化症を患っていて、肝臓も悪くしていたみたいです。母親は平成2年(1990年)、83歳で亡くなりました。肺がんだったんですが、最後は大腸がんも併発してたんです。

 私の原爆症認定申請が却下された時、私はもう諦めようかと思ったんですよ。ところが主人が、このままでは私の父親も母親も原爆が原因で亡くなったのかどうか分らないままになる、と言ったので、私の申請が認められれば、父も母も原爆が原因だったんだということを証明できると思い、裁判することにしたんです。

 私の場合は4キロメートルでの被爆とその後の入市ですけどね、以前テレビで見たけど、長崎で8キロメートル位の距離で被爆した人でも苦しんでいる人がいる、と言ってましたね。爆心地からの距離だけで認めたり、認めなかったりするのは、おかしいでしょう。

 私たちみたいな被爆者を二度と作らないで欲しいと、いつも思ってるんですよ。

以上     

爆心地と長崎市の地図

■バックナンバー

Copyright (c) 京都被爆2世3世の会 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system