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●被爆体験の継承 14

被爆のことを語れるようになった今

真村信明さん

2014年2月14日(金)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

■小さい頃の記憶

 僕の生年月日は昭和19年(1944年)6月2日やから長崎に原爆が落とされた時は1歳と2ヶ月なんですわ。だから僕自身があの時のことを覚えてるはずないから、ほとんど母方のお祖母ちゃんからちょこちょこ聞かされたことが、おおまかに頭の中に残っているだけなんですね。

 僕の家は大浦天主堂の近くでね、今の路面電車の終点の石橋とゆう駅のちょっと上の方だったんですよ。原爆が落ちた時、親父(おやじ)は仕事かなんかで家にはおらんかったらしい。兵隊に行っとったんかもしれんのですが。だから家にはお袋と僕だけで、近くに母方のお祖父さんとお祖母さんが住んどったんですよ。

 原爆の落ちた日はお祖父さんが浦上の方へ仕事に行っとって、そのお祖父さんを探しにお袋が僕をおぶって浦上の方まで行ったらしいんです。

 お袋は原爆の後、長いこと入退院を繰り返しててね。だからお袋と一緒に暮らしたという実感も少ないんです。お祖母ちゃんの家に結構いたようなことを憶えとるね。

 お祖父さんいう人は鍛冶屋の仕事をしとったらしいんです。僕に三輪車を作ってくれたりしとった。その三輪車に乗って一人で坂道で遊んどって、転んで川の中に飛び込んでしまったことがある。そんな記憶はあるんですよ。

爆心地と長崎市の地図
■お袋の死

 お袋は僕が小学校に入ってすぐの頃亡くなったんですわ。葬式は家でやったんやけど、僕は子供やからとか、遠いからとかいろいろ理由をつけられて、霊柩車と一緒に火葬場には連れて行ってもらえんかったんですわ。町内会らの人も一緒に行けんで、わずかの人だけで出て行ったんですよ。

 後になって聞かされた話なんやけど、あの時葬式が終わってからお袋はほんまはABCCに連れていかれて、解剖されたらしいんやね。僕のお袋が被爆者やとどこで調べたんか知らんけどね。

 広島と長崎にABCCいう病院ができたでしょう。あの病院はもともとはアメリカの病院やったからね。日本人は助手的に手伝わされとっただけの病院やったらしい。日本は戦争に負けてあの頃は独立国じゃないから、だからABCCというと物凄い権力をもっとったらしいですよ。被爆者やったら強制的にでも解剖されたらしいですからね。

 お袋が亡くなる前に親父とは離婚しとったらしいんやけど、お袋が亡くなった後は僕は親父に引き取られましてね。小学校は地元の南大浦小学校に通って、中学校は「梅中、梅中」ゆうとった学校、梅香崎中学やったかもしれけど、そこに通ったんです。親父とはあわんでね、中学出たら早よ家を出たくて出たくてしようがなかったんですわ。そいで中学卒業してすぐに家飛び出したんです。

■僕の原点

 僕が物心ついた頃からお祖母ちゃんのところに遊びに行ったりした時、きつく言われとったんは「被爆してること隠せ、しゃべるな!」いうことだったんですわ。どうしてかいうとあの頃は差別があったんやね。被爆してたら就職できん、仕事はもらえん、それから結婚したら、子どもを産んだら、その子にうつる言われてね。伝染病みたいに言われとったらしいですから、あの頃は。

 それが僕の人生の原点みたいなもんになったんですわ。「被爆者いうこと隠せ!」、これが子どもの頃から僕の頭の中にこびりついとってね。

 それでも被爆者手帳は受け取ったみたいで、まだ子どもの頃やったんですが、一度だけ手帳を見せられたことがあるんです。だけど見たのは1回だけで、更新の手続きもせなんだ。被爆者いうことがバレたら就職できんという思いが強うあったからね。

■大阪での就職と突然の病気

 大阪に来たんが18歳か19歳の時ですわ。そろそろ落ち着きたくなったんやね。流れ着いたのが大阪やったみたいな感じで。たまたま知り合った友達が大阪の工場で働いとって、その友達の紹介でその工場に採用されたんです。

 はじめは臨時工で入って、3ヶ月ほど過ぎてから工員(社員としての採用)にしてもろうたんです。会社の寮にも入れてもろうた。やっとあちこちウロウロせんと、初めて落ち着いた仕事、生活ができたなあという感じでしたね。会社は鉄工所みたいなところで、金型(かながた)つくる工場やったんですわ。めちゃめちゃ粉塵が舞っとるような工場やった。

 その工場で働いて1年ちょっと経った頃、ある日突然原因不明のね、四股麻痺(しこまひ)になったんですよ。普通に働いとったのに、なんでか分らんまま急にふにゃふにゃとなって倒れてしまってね。全身が痺れてしまってどうにもならんようになって。頭ははっきりしとるのにね。

 会社の人が慌てて近くの町医者にに連れてってくれて、それから尼崎にある病院に連れていかれて、なんだかさっぱり分らんまま即入院になったんですよ。僕ははじめ粉塵のせいか思うとったけど、ずーっと原因は分らん言われとったんです。

■新聞記者と被爆者手帳

 入院している間に新聞社の記者や言う人が訪ねてきてね。大部屋じゃまずいいうことで個室みたいな所に連れていかれて、ちょっと話させてくれいうことになって。医師立ち会いのもとで、記者から「真村さん、あんた被爆しとるんやね」と突然言われたんです。僕はずーっと被爆者やいうのを隠しとったのに、どこで嗅ぎつけたんかしらんが、なんでそんなこと言うんかと思ってね。そん時はよう返事せんやったけど、その記者は何回も訪ねて来てね。3回目やったかな、とうとう被爆者やいうたんですよ。実はこうこうなんやと、僕もお祖母ちゃんから聞いただけなんやけど、と。

 実は入院して3ヶ月ほど経った頃会社の方は首になっとったんですよ。原因不明のまま倒れて、病院の方もいつ治るか分らんと会社に告げてたもんやから。首になってもしようがなかったんですわ。会社もよう3ヶ月も辛抱してくれたと思うんですわ。

 その前にも仕事してる時、目眩(めまい)があったり、体がだるーなったり、微熱が出て休むことも多かったからね。会社からは「あいつ、おかしいな、体弱いやつやなあ」と思われてもいたみたいやから、3ヶ月しか辛抱してもらえんかったんやろな。

 会社首になって、貯金も持ってへんかったし、病院代払えんようになっててね。頼れる親も親戚もなかったし、自分一人身だったし。もう病院追い出されるなあ思ってたんですわ。

 そん時に、被爆者じゃゆうて被爆者健康手帳とったら病院代払わんでもいいから、と新聞記者から説明されて。「別に隠さんでも恥にはならんから」とも言われてね。子どもの頃とった手帳は更新せんと破棄してたんやけど、そんなこと関係ないから今からもう一度手続きしなさい言われてね。そいでしぶしぶ手帳取得の手続きしたんですよ。

 僕にとったら2回目の手帳取得やったけど。あの記者が来てくれたんが案外助け船になったんかもしれんのですよ。おかげで治療代心配せんでよくなったからね。

 手帳申請の手続きする時証人が3人いる言われてね。そんなもんずーっと隠してきたんだからいるわけない。それで、手帳と言っても医療費はただになるけど、手当は出ん、そんな種類のもんもらったんですわ。

■骨髄検査

 尼崎の病院にはかれこれ半年ぐらい入院しとったんやけど、入院中に無茶苦茶ひどい目におうたことがあるんですよ。ある日、絶対安静状態にさせられて、何しろ動くなということで、トイレにも行かされん状態にさせられて、翌日、ストレッチャ―に乗せられて手術室に連れていかれたんですよ。手術室で真っ裸にさせられて、前かがみにさせられて、みんなに押さえつけられて、ホースがついた畳針ぐらいの注射針みたいなものを、それを7本も背中の脊髄に、背骨と背骨の間のところに打ち込まれたんですよ。麻酔もかけずにやから、とんでもない痛さや。何か液を調べるためやったらしいけど。あんまり痛くて気を失って、気付いたのは3日後やった。

 後で医者に「あれは何やったんや?」て聞いたら、「検査や」言われてね。これも後になって知ったことやけど、あの時は京大病院やら他から6〜7人も医者が来てたらしいんですわ。

 その内に体の痺れも自然となくなってきて、自分で立ち歩きもできるようになったんで、またあんなことされたらどうもならん思うて、こりゃ早よ逃げよ思うて退院したんですよ。

■京都での生活と極度の低血圧発症

 尼崎の病院を退院してからはまた2〜3年アルバイトや日雇い人夫の仕事をしてウロウロしてました。その頃もまだ戸籍を書いた履歴書なんか出すのが怖くてね、それからも被爆者やいうことはずーっと隠してました。落ち着いた仕事を見つけるのを避けてたみたいな感じですね。被爆者手帳もまた更新せんと放って破棄したんですよ。

 その内に、もういっぺん落ち着いた仕事しようかと思うようになって、23歳か24歳の頃、車の免許証は持ってたから京都にあった運送会社に就職したんですよ。たまたま知り合ったその運送会社の社長の薦めでね。その時は社長には言いましたよ、「被爆してるけどいいんですか」とね。

 はじめは小型のトラックから始めて、仕事は主に牛乳の運搬でしたわ。その内に大型の免許もとって、高速道路で長距離トラックも運転するようになってね。運送会社では10数年間は仕事してたかなあ。

 50歳になる前頃かなあ、東京からの帰りの長距離トラックを運転してて、高速道路走ってる最中に、急に目の前が暗おうなってきてね。こりゃやばいぞ思って直ぐに会社に連絡して。なんとか配送先まではフラフラになりながら辿りついたんやけど、すぐ近くにあった献血センターみたいな所に連れていかれて診てもらったら、血圧が物凄く低くなっとったんですわ。それから病院に連れて行ってもらった。

 あの頃は血圧を上げる薬と言うのはなかったらしいんやね。だけどこのまま血圧戻らんかったら死んでしまう言われて、医者から副作用があるかもしれんがこの注射してもいいかと聞かれて、僕には親兄弟がいないんで、社長が代わりに「注射して下さい、お願いします」言うてくれたんですよ。血圧がもう上が80以下、下が40位になっとったらしい。あの注射のおかげで僕は助かってね。社長の英断やった思うとるんです。

 そんなことがあった後でまた運送会社で働けるようにはなったけど、もう長距離トラックは降ろされて、市内配送にまわされたんですわ。

■足の裏の病気から車椅子生活に

 その後しばらくして今度は両足の裏に膿が出るような病気になってね。もう痛くて痛くて、足の裏を床につけることもできんから、立つこともできず、仕事にいけんようなことになったんですよ。足の裏に水ぶくれのようなものができて、膿がたまって、それがつぶれたらビチャビチャになって、乾燥したらまた次の水ぶくれができて、という具合にね。

 血圧が物凄く下がった時のあの注射の副作用で足の裏から膿が出るようになったんとちがうかと自分では思うとったけど、何の病気か分らんかった。大きな病院にも、いろんな病院にも診てもらったんですよ。4〜5ヶ月間社長は黙って面倒診ててくれましたね。病院代もかかったんやけど、それは社長がもってくれたんです。社長も「副作用がでるかもしれん」と言われとったんで、自分にも責任があると思ってたらしくてね。

 でもいつまで経っても足の裏から膿が出る病気はよくならん。その内にとうとう運送会社も辞めなあかんようになって、お金も入らんようになったんですわ。会社もそれまでよう面倒見てくれたと思うてますよ。それで仕方なく3回目の被爆者手帳をとることにしたんですわ。

 退職になってその後で吉祥院病院紹介されて、1年近くは入院してました。収入がなくなってたんでその時から福祉のお世話になるようになったんですわ。その時も運送会社の社長が福祉の手続きなんかいろいろやってくれたんですよ。

 吉祥院病院を退院してから今の吉祥院の住まいに住むようになったんですわ。もう20年以上になるね。足の裏がつけられんからずーっと車椅子の生活なんやね。

 どこの大学病院やったかしらんけど、吉祥院病院から足の検査に行かされたこともあるんですよ。一般の診療時間が終わってから、学生集めて、教授が僕の足の裏を指し棒で指して説明するだけやったんですけど。終わった後その教授が僕に「生涯つき合わなあかんやろな」て言いましたよ。

 足の裏は薬も塗られんからね。治療らしい治療もないんですよ。一度軟膏みたいなもん塗ってみたことあるんやけど、そしたら滅茶苦茶熱もってきて、どうしようもなくなって、夜中にアイスノンどつさり買ってきて、一晩中冷やして寝てたこともあるんですよ。

 どれだけ足を防水して直接かからんようにしててもその上から水がかかったりお湯につけたりしたら、それだけでぐわーっと腫れてきて熱持ってくるんやね。湯気の立ってる中にいてもダメ。だからお風呂に入れんのですわ。シャワーもダメ。だから体は拭くだけなんですわ。今のケアマネージャーさんがいろいろ調べてくれて、頼んでくれて、僕にも後押ししてくれて、週2回、デイサービスに行って浴室を使えるようになってるんです。午前中のまだお湯のない時間にね。そこで体拭いたり、頭を洗ったりしてるんですよ。

 足の他には内臓、腸が悪いんですわ。前は腸の痙攣(けいれん)、腸ねん転みたいなこともあった。今はそんなことは少なくなってきたけど、そんでも夜中痛みがあって目が覚めることもあるんですよ。

■やっと被爆を語れるようになって

 なんべんもゆうけど、小さい頃お祖母ちゃんから「被爆のこと隠せ!、誰にも言うな!」と言われてたことが、長い間僕の中でずーっと続いとったんですわ。

 結婚も自分で渋ったぐらいやもん。女性と付き合うことはあったけど、自分の子どもが生まれること思うと、恋愛はしててもどうしても踏み切れんかったんですわ。手を握るのが精一杯やったね。被爆のことが“うつる”という観念しかなかったですからね。

 被爆しとるゆうことで自分で引いて生きとったような感じですわ。吉祥院病院に入院してからやね、被爆者ゆうて引かんようになったんわ。こんな風に自分から被爆のことも話せるようになったんわ。

 長崎の原爆資料館なんかには一回も行ったことないんですわ。その代わり、大阪に来てからは、何か気持ちが苦しゅうなったら広島の原爆資料館に行ってたんです。もう5〜6回は行ってるんとちがうかな。原爆のひどさはこんなもんなんやいうのは、僕の頭の中には広島の資料館で見たもんが入りこんでるんかもしれんです。

以上     

ABCC

 ABCCとは、原爆傷害調査委員会(げんばくしょうがいちょうさいいんかい、Atomic Bomb Casualty Commission)のことで、原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録するために、広島市と長崎市に原子爆弾投下の直後にアメリカが設置した機関。

 米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加。

 施設は当初、広島市は広島赤十字病院の一部に、長崎市は長崎医科大学付属第一医院(新興善小学校)内に設けられた。その後広島ABCCは比治山山頂に、長崎ABCCは長崎県教育会館に施設を移した。

 ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。 ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった。

 1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された。
長崎県教育会館に移設した頃の長崎ABCC
長崎県教育会館に移設した頃の長崎ABCC





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