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●被爆体験の継承 15

68年目の被爆者手帳−私の被爆体験

玉置(たまき)孝子さん

2014年3月7日(金)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

玉置さん
■小学3年生の時の原爆投下

 私が原子爆弾にあったのは小学校3年生、8歳の時だったんです。住んでたのは広島市から北方向の安佐郡古市町でした。今は平成の市町村合併で広島市の一部になって、広島市安佐南区古市になってますけど。家族は両親と9歳上の姉と私と4歳下の妹の5人家族でした。私の通ってた学校は当時嚶鳴(おうめい)小学校と言って、今もあの頃と同じ場所に学校名を古市小学校と変えてあります。

 8月6日のあの朝、私は学校校舎の2階の教室で本を読んでました。突然ピカッと閃光が走って、窓側に居た人達が「熱いっ!」と言ったのを覚えています。私は教室の廊下側にいました。ドカンとすごい音もしました。急いで階段を駆け下りて校舎の外に出ました。爆風で窓ガラスがほとんど割れてて、その落ちたガラスで怪我をした人もたくさんいました。

 学校の先生から自宅に帰るように言われて、学校のすぐ近くにあった我が家に帰りました。家は窓ガラスなんか全部割れてて、中はぐちゃぐちゃになってました。家に居るはずの母と妹がいなくてとても不安だったことを憶えてます。

 父親はその時勤労奉仕で広島市内に出掛けていて帰宅途中だったんです。母親と妹はその父親を途中まで迎えに行ってて、国鉄の古市橋駅付近で出会っていました。そこで3人一緒に原爆にあったんです。幼い妹は母親と手を繋いでいたのに、物凄い爆風で吹き飛ばされてしまったんだそうです。やがて3人とも無事に家に帰ってきて、私もやっとほっとしたことを憶えてます。

 その日しばらくした後で、私は学校にかばんを忘れていたのを思い出し取りに行きました。その頃にはもう学校の中は、校庭も校舎の中も被爆して避難してきた人達でいっぱいになってました。そのためかばんを持ちかえることもできませんでした。

 その夜は空襲警報が発令されて、近所の人達と一緒に近くの古川という川の河原に行って、そこで一晩を過ごしました。広島市内の方向は真っ赤に燃えてて、とても怖かったのを憶えてます。

■親に連れられて広島市街地へ入市

 2〜3日経ってから、広島市内で焼け出された父親の知り合い夫婦を私の家に泊めることになったんです。その夫婦はそれまで避難生活してた寺町付近の防空壕に保存食を置いてたので、私の家族5人とその夫婦の合計7人で、一緒に大八車を牽いて保存食を取りに行ったんです。

 古市から大きな通りを南方向へ歩いて横川駅まで行き、横川駅からもっと歩いて橋を渡って寺町の防空壕に辿りつきました。爆心地から1kmぐらいのところになります。片道で3km以上、時間にして2時間以上歩いたと思います。火傷を負った人や、怪我している人達がたくさん街中に溢れてたのを憶えてます。幸いたくさんの缶詰が残されていて持ち帰ったことも憶えてます。

 後日ですが、その時一緒に行ったご夫婦は早い時期に亡くなられました。

 その次に8月10日頃、広島市内の天満町に住んでた母方の祖母の消息を訪ねて、母と姉と私の3人で広島市内に行きました。寺町の防空壕に行った時と同じように横川駅まで大きな通りを歩いて行きました。横川駅からは広島市内路面電車の線路をたよりに電車道に沿って歩きました。横川駅から橋を渡ってすぐの寺町の辺りでは、道路の左側にあったたくさんの墓地を憶えています。十日市を通って、堺町あたりから己斐駅に向かう方向(右)に曲がって、天満橋をわたって天満町に着きました。その辺りは爆心地から1.5kmより内側の距離になります。

爆心地と広島市の地図

 祖母の住んでた家はまったく燃え尽きてて、祖母を見つけることができませんでした。誰かに話を聞こうにも、焼け野原となった辺りには誰一人残ってませんでした。街並みははるか向こうの宇品まで見渡せるほどで何も残っていませんでした。残ってたのはコンクリートの建物が少しと建物の骨組み程度だけだったのを憶えてます。

 一日中あちこちの避難場所なんかを探しまわりましたが、結局祖母に会うことはできませんでした。

 いつも一緒に歩いてた母親は、小さい私たちにできるだけ惨(むご)たらしい様子を見せないようにしてたように思います。でもたくさんの亡くなった人、火傷や怪我を負った人たちのすさまじい様子は目に入りました。

 街は、とにかくみんな焼けてしまって、なんにも無くなってしまっていた印象が強く残ってます。悲しいというより、子ども心に恐怖の感覚を強烈に持つようになって、その恐怖感はいつまでも残っていきました。終戦の後も、サイレンの音を聞くたびに胸がドキドキして動悸が激しくなって、何ヶ月か後までそんな状況が続きました。

 私の姉はあの時17歳で、海田(かいた)というところにあった陸軍兵器行政本部で働いてたんです。もちろん被爆をしてます。原爆が落ちた時すぐには帰宅が許されなくて8月9日になって帰ってきました。次の日の10日に母と私と一緒に広島市内の祖母を探しにでかけたわけですが、その翌日にはすぐまた仕事に戻っていきました。

■専売公社に就職、反対を押し切って結婚、関西へ

 嚶鳴小学校を卒業して、中学は途中で4校統合された安佐中学を卒業しました。卒業して広島市内の皆実町にあった専売公社に就職して、高校は国泰時高校の定時制に進学しました。あの頃は全日制の高校へ進学する人はまだまだ少なくて、クラスでも5人程度、そんな時代でしたね。

 私が専売公社にいる頃、同年代の同僚には白血病になる人が多かったです。そういう人は顔が蒼白く、体がだるいだるいと言って。しんどうなると1週間ぐらいは休んでいました。亡くなった人も多かったんじゃないですかね。

 専売公社には10年ほど勤めて、広島大学の学生だった主人と知り合って、主人の就職と同時に結婚して、主人の就職先だった大阪に移り住んだんです。関西に来てからはいくつか住み変えて、最後は今の精華町に落ち着きました。

 結婚する前に、私が被爆してることは話していました。主人の家族は結婚に反対でした。主人の父親はもう亡くなってましたけど、主人のお兄さん、お姉さん、お母さんみんなから「なんで広島で原爆にあってる人なんかと一緒にならんとあかんのや!?」と言われてました。私はそれで駄目になるんならしようがないという気持ちにもなってましたが、主人が「絶対やめん!」と言って押し切ってくれて、結婚することができました。

 その主人は停年の60歳まであとわずかという年齢で、1996年(平成8年)に亡くなりました。中国の蛇口というところへ5年〜6年赴任してて、その後はアメリカにもよく出張してました。毎週土曜日には熱を出してたりして、仕事が忙しすぎて無理がたたったんだと思います。

 私の母親は53歳の時に、食道がんで亡くなりました。がんだと言われて1ヶ月ももたなかったですね。父親は割と元気でしたね。8月10日の日に祖母を探しに広島市内へ行った時、父親は一緒でなかったですからね。そういうことも関係してるのかもしれませんね。

■バレーボール

 余談ですが、私が行ってた小学校はバレーボールがとても盛んで小学校の頃からずーっとバレーやってました。強過ぎて同じ小学生同士では試合させてもらえんで、いつも中学生相手にやってるほどでした。中学に行ってからも、専売公社に就職してからもずーっとバレーをやってました。まだ私らの頃は9人制でしたけど。

 広島専売公社のバレー部と言えば後年のミュンヘンオリンピックで活躍した男子バレーの猫田選手なんかが有名ですけど、彼は嚶鳴小学校の私の後輩なんですよ。家も近かったし、猫田のお姉さんもバレーやってて私らと一緒にやってたんですよ。

■68年目の被爆者健康手帳

 父も母も被爆者健康手帳は取得してませんでした。私たち子どもに対しても「手帳はとってはいかん」と強く言ってました。「原爆にあってると言うたら女の子やからどうしようもなくなる」と言って。私たちもそのことをずっと肝に銘じてきてたんです。

 ですが、1984年(昭和59年)、47歳の時に私は乳がんにかかって、右側の摘出手術を受けたんです。手術の後も10年間抗がん剤を飲み続けました。そのことがきっかけになって、できたら手帳をとりたいと思うようになりました。墓参りで広島に里帰りした時、地元の議員さんに相談したこともあります。けれど「広島に住んでたらなんとかしてあげられるかもしれんけど、外に出たらもう難しいよ」などと言われて、妹とも「仕方ないねえ」と言って、もう諦めてたんですよ。

 ところが、2012年(平成24年)の頃になってですが、たまたま同郷出身のお友達からすすめられて、あらためて京都府に手帳の交付申請をすることにしたんです。原爆から67年も経ってからのことですから、申請のために被爆の時の詳しいことを思い出そうと思っても、もう忘れてしまっていることも多いし、記憶もはっきりしないことも少なくありません。随分と苦労もし、時間もかかりました。

 いろんな方の手助けもいただきました。戦前私の家の隣に住んでた幼なじみの人に連絡をとって、当時のことを思い出してもらって証明を書いてもらいました。今はアメリカのシアトルに住んでる私の姉のところに、私の姪に訪ねてもらって姉からの証言も寄せてもらったりしました。

 結局、申請から1年と9ヶ月もかかりましたが、この2月にやっと手帳交付してもらうことができたんです。このことをきっかけに京都原水爆被災者懇談会のみなさんともお付き合いするようになったわけです。

 実は姉もアメリカに行く前に手帳をとってたんですよ。そのことは今回のことがあるまで、つい最近まで私も知らなかったんですけどね。姉もアメリカに行く前何かあった時の備えに手帳はとっておいた方がいいと思ったらしいです。今度は私も手帳をとったもんで、次は妹もとろうかなと言ってますけどね。

8月8日に撮影された広島市内十日市付近の情景(『広島・長崎−原子爆弾の記録』より)
8月8日に撮影された広島市内十日市付近の情景(『広島・長崎−原子爆弾の記録』より)





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