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●被爆体験の継承 16

原爆被災者で埋め尽くされた街道と救護

熊谷好枝さん

2014年3月22日(土)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

熊谷さん
■原爆投下のその日

 私が生まれて育ったところはその頃広島県安佐郡三川村(みかわむら)といってたところなんです。今は広島市安佐南区古市という地名に変わっていますけどね。広島市から北へ約7キロメートル、広島から可部、三次方面に通じる昔からの街道、幹線道路に沿った所です。その道は戦後国道54号線になり、今はまた183号線になっていますけど。今のJR可部線の古市橋駅の近くですね。

 あの日8月6日、私は8歳で嚶鳴(おうめい)小学校3年生(当時は国民学校と言ってました)。その時は学校の2階の教室で本を読んでました。私は窓側の席にいたので、閃光が光った瞬間はもろにその光を感じましたよ。きれいかったよー、光った時は。「いやー、誰か写真撮ったん?」と誰かが言ったのを憶えてますよ。そこへ先生が飛んできて、「廊下に出て、耳と口をふさいで、ふさせなさーい!」と言って、で一時、廊下にふせとったんですよ。ふせた途端にドーンと来たんですわ。ぐわーっと揺れてね。それから落ち着いて、「早く家に帰りなさい」と言われて、学校の裏の校門から出て家に帰りました。

 あの頃のこと、着てた服のことまでよく憶えてますよ。昔はね、セルという生地があってね、男物の着物の生地で。それを赤と青に染めて、それでブラウスを縫ってもらって、暑い時なのに長袖でね。それを着て、胸当てズボンをはいてましたわ。今やったらあんな暑いもの着れへんけどね。

 キノコ雲のような雲は見ましたよ。黒―い雲でした。「すごい雲やねー」って言ってたの憶えてますよ。もっと広島に近い祇園あたりからはもっとハッキリ見えたらしいですけどね。

原爆投下2分後に安佐郡古市町(広島市から北方向へ7km)から撮影された原子雲
原爆投下2分後に安佐郡古市町(広島市から北方向へ7km)
から撮影された原子雲
■家族

 あの頃私の家族は、おばあちゃんと、おとうちゃんとおかあちゃんと、私が長女で、弟が3人いて家族7人やったんです。父親は大工してたんですよ。あの頃は、広島の街は建物疎開で家がどんどん壊されていてね。あの日は、父親と母親は建物が壊された時、出る板や樽木なんかをもらいに、広島市内に行ってたんですよ。横川の駅からもっと先まで行ってたらしいんやけど、材木積んで大八車引いて帰る途中、三滝のあたりまで帰っていた時に被爆したんですよ。爆風で二人とも相当吹き飛ばされたって言ってましたわ。

 すぐ下の弟、私より2歳年下ですけど、まだ小学校に上がる前でしたが、幼稚園に行ってたと思います。おばあんちゃんは一番下の弟を連れて近くの防空壕に避難してました。あの時は学校から家に帰っても誰もいなくてね、家の中はもう無茶苦茶になってて、とても心細かったんです。

 夕方になって両親も帰ってきて、それから役場の人がまわってきて「今晩は家で寝たらあかかん」言われて、薄い座布団のようなものみんな一枚づつ持たされて河原で野宿したんです。私の家から道路を隔てたところに川があってね、私たちは「前川、前川」と言ってましたけど、結構大きな川で、そこの広い河原でその夜は寝たんです。

 古市では雨は降ってないんですよ。おとうちゃんとおかあちゃんが被爆した三滝の方は降ってるんですけどね。おかあちゃんは黒い雨にあったといってましたわ。

■負傷者と死者の街道

 次の日からですよ。ゾロゾロゾロゾロ、国道の道路いっぱいに、祇園方面から火傷した人とか、怪我した人とか、髪の毛が焼け縮れた人とか、肉や皮がぶら下がった人とが、どんどんどんどん歩いてきたんですよ。私たちはそれをずーっと一日中見てたんですけどね、とにかく人の列が途切れることなかった。あの人たちみんな広島市内の方からずーっと歩いてきはったんやねえ。それからみんな歩いて田舎へ行かはったんやねー。

 その人たちは、「すいませんけど水下さい、水下さい」と言って来られるんですよ。でも役場の人からは「水あげてはいけません!」って言われてましてね、なかなかあげることできなかった。

 私の家は道路のほとんどそばやから、「ちょっと休ませて下さい」って休んだり、歩けなくなった人がたくさん縁側に腰下ろしていくんですよ。見たら背中がぐわーって割れてて、そこにガラスの破片がいっぱい入ってるような人もいてね。骨まで見えてるんですよ。痛いやろなーって思いながら。私らも赤チンやオキシドールつけたり、一生懸命ピンセットでガラスとってあげたりしました。体の肉とか皮とかがぶら下がってるような人もいるんですよ。それを手でちょっと持ち上げて赤チン塗ってあげたりしてね。わたしのおかあちゃんもオニギリとか作ったりして、「食べなさい」ってすすめてましたよ。元気な人は食べられたけど、もう食事もできない人もいましたね。

 近所の人たちはみんなそうしてました。私ら子どもたちも一生懸命治療とか救護とか手伝ったんですよ。誰かに命令されたり、指示されたりしたわけでもなく、みんな自然とやってたんですね。うちの前に桜井商店という大きなお店があったんですけど、そこでも従業員の人たちが一生懸命面倒見てあげてましたよ。役場の人たちもグルグル回ってきて、とにかく「水を与えたらいかんよ」とか言って様子を見に来たりしていましたね。

 それから小学校にも行ってみましたよ。歩いて5〜6分の近さなんでね。そしたら講堂にはもう死体がいっぱいに重ねてありましたわ。みんなここまで歩いてきながら、途中で亡くなってしまった人達なんですね。

 古市の火葬場は小さいんですよ。倒れて亡くなった人がいっぱいでもう火葬場で焼くなんてできないんですよ。だから河原で焼いてましたねたくさんの人を。シャベルで河原を掘って、死んだ人をいっぱい焼いてました。おとうちゃんたちも手伝っていましたよ。私たちもその様子を「わあ、ようけ焼いてはるねぇ」と言って見てたんですよ。その臭いたるや、ものすごいものでしたわ。

 死体もいっぱい見てしまいましたからね、もう怖いとか恐ろしいなんて感覚はなかったですね。

 こんなことが2〜3日以上、一週間近くは続いたんではないでしょうか。

古市を中心とした広島の地図
■伯母と従妹たちの被爆死

 実はあの頃私は体にぶつぶつが出来てて、その治療のため毎日、8月5日までは広島市内の病院に通ってたんですよ。たしか日赤病院だったと思うんですけど。一人じゃなくて、近所に住んでた伯母さん(父の姉)に連れられて、その伯母さんの子(私の従妹)も一緒にね。私は8月6日はたまたま病院に行かなかったの。だけど伯母さんと二人の子、光子と悟はその日も同じように病院に行って、市内電車で帰る途中だったんですよ。3人は電車に乗ったまんま原爆に遭ったんです。電車ごと焼けて、電車に乗ってた人で辛うじて生き残った人達はみんな一緒に兵隊さんに連れられて似島に運ばれたんだそうです。

 私たちは「伯母さんたち帰ってこないねえ、帰ってこないねえ」と言って、小学校に積み上げられていた死体の一人ひとりまで確かめて探していたんですよ。1週間ほど経って、8月13日になってやっと伯母さんたちは兵隊さんに連れられて帰ってきたんですよ。だけど、伯母さんや光っちゃんや悟の顔は放射能のせいでとんでもなく腫れ上がってて、崩れたようになってて、そりゃもうむごいもので可哀そうでした。口も崩れかかったような状態でしたけど、なんとか話すことはまだできていて、似島に連れて行かれたことなんか話してくれたんです。伯母さんと光っちゃんと悟と3人並べて、親戚の人たちも集まって、私らも手伝って、治療や看病してあげたんやけど、2〜3日で3人とも亡くなってしまったんですわ。3人とも前の河原で焼かれました。

市内電車
■その後

 古市というところは川の氾濫がよくあったところでね、何回も水に流されたり、水に浸かったりしてるんですよ。だから古い写真や子どもの頃の思い出のものもみんな流されてね、何にも残ってないんですわ。昭和20年(1945年)9月の枕崎台風も憶えているような気はするけど、何回も水害に遭っているからどれがそうだったのかはよく分りませんね。

 その後私は嚶鳴小学校を卒業、安佐中学校を卒業して広島市内のお店に就職して働いて、20歳の時すすめる人があって結婚、福岡に嫁いだんです。そして昭和39年、私が29歳の時夫の転勤で京都に来たんです。

 結婚の時にね、夫になる人のお姉さんから「広島から嫁もらうゆうとるけど、原爆は大丈夫かね?!」って言われてたの憶えてますよ。直爆や入市でもなかったし、無視してましたけどね、そんなこともありました。

■救護被爆で被爆者健康手帳取得

 一緒に住んでた私のおばあさんは終戦の後すぐに亡くなりました。父親と母親は横川に近い三滝で被爆してましたから早くから被爆者手帳はとってましたね。

 私は広島市内で直爆被爆してるわけではないし、入市もしてないし、黒い雨にも遭ってないので、原爆手帳なんかはもらえないもんだと思ってたんですよ。ところが、私のお友達のご主人からすすめられたり、伯父さん(母の兄)からもすすめられて、駄目でもともとでいいから申請してみようと思ったんですよ。それで広島に何度も足を運んで証人になってもらう人に書類に必要なこと書いてもらったりして、申請したんです。原爆の影響があるというお医者さんの証明のためにもあちこちの病院にかかりました。

 当時の京都府庁の担当の人は、女性でしたけどとてもいい人でね、「熊谷さんなんでもうちょっと早く申請手続きしなかったのよ」などと言われて、とても親切に対応してもらったんです。小学3年生だった時、たくさんの被爆者の人たちを一生懸命治療したり、救護したりしたことが認められて、第3号被爆者(救護被爆者)として認められ、手帳発行されたんです。平成4年(1992年)でした。原爆から47年も経ってからですね。

 両親はもちろんですが、私のすぐ下の弟を残してそれ以外の弟はもうみんな亡くなっています。身内で生きているのは私とすぐ下の弟だけになってしまいました。
 今まで生きてきてそう大きな病気はしなかったですね。胆石になって石とったのと、2年前に大腸がんになってガンはとりましたけどね。原爆とは関係ないとは思ってますけど。

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