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 今回は濱恭子さんの被爆体験と、その体験を語り継ぐ長女・鳥羽洋子さんの被爆二世体験、お二人のお話です。濱恭子さんの被爆体験は2006年5月にお話しされたものに、今回追記を書き加えていただきました。鳥羽洋子さんは京都「被爆2世・3世の会」会員です。

●被爆体験の継承 17

大阪空襲と広島被爆〜二度の死線を越えて〜

濱(はま) 恭子(きょうこ) さん

2006年5月4日 〜九条の会摂津〜での報告

濱(はま) 恭子(きょうこ) さん
■大阪大空襲の日

 みなさん今日は。私は大正14年10月生れでもうすぐ81歳 (2014年現在88歳) になります。私が育った時代と言いますのは、6才の時に満州事変が、7才の時に上海事変が起こり、そして、12才の時には日中戦争が始まりました。

恭子(きょうこ)6歳の時 女学生時代

恭子(きょうこ)6歳の時(左)、女学生時代(右)

 どんどん戦争へ戦争へと進んでいったわけでございます。16歳の時には真珠湾を奇襲攻撃し、米英との戦争も始めました。最初は、勝っていたのですが、小さい国ですから物資もございませんので、だんだんと負ける様になってまいりました。

 女学校を昭和18年に卒業し19年になりますと、神風特攻隊の出撃とか、竹槍、バケツリレーで水を運び火を消す訓練とか、防空壕をつくらされたりしました。そして、贅沢の禁止令、疎開の命令、兵役が20才から17才に下げられたりしてどんどん戦争が激しくなってゆきました。

 昭和20年4月に米軍が沖縄に上陸し、直前3月東京の夜間大空襲があり、東京の大半が焦土化しました。そして、3月13日、大阪が初めての空襲をうけ私たちは罹災しました。

 夜中の11時すぎだったと思います。空襲警報が鳴り、274機の大編隊でB29という爆撃機がやってまいりました。私どもは、まだ爆撃された経験がなかったものですから、あわてて外へ出て空を見ましたら、敵機から落とされます油脂焼夷弾が、銀紙を撤いた様にキラキラ光って落ちできたんです。たちまち南の空が真っ赤になってきました。

 私は西区北堀江と言う所に住んでいましたが、空が一面に赤くなり、あわてて家の中に入りました。母もよっぽど慌てたんでしょう、仏壇の掛軸を懐に入れ、配給のパン2本を私のオーバーのポケットにつっ込みました。そして、足に触ったコタツ布団をひきずって持って出ました。緊急袋も作っていたのですが、よほど慌ててたのかそれを持ち出す余裕かなかったのです。

 表に出ましたら、通りは逃げ惑う人で右往左往でものすごく混雑しておりました。家族に男の人がいれば、引っ張ってくれるんでしょうけど、私が生まれて11ヶ月の時に父が病気で亡くなり、母と2人暮らしだったものですから、もううろたえてどうしたら良いかわからなくなり、私たちは逃げ遅れてしまいました。

燃える大阪の町(写真:ピースおおさか)

燃える大阪の町(写真:ピースおおさか)
■灼熱地獄

 気がついてみたら、周りの人は全部逃げてしまっていて、私と母だけが残されてしまったんです。火の気の多少少ない交差点で、あちらこちらとうろうろしていましたが、その交差点も火がゴウゴウと渦を巻いて、灼熱地獄の恐怖はひしひしと迫ってきました。

 その時、町角にあった高い塀が焼け落ち、その塀の中の空き地に防火水槽があるのが目につきました。コタツ布団をこの水に浸けて2人で頭からかぶりました。火の粉が体にどんどんかかりすぐに乾いてしまいます。水に浸けてはかぶり、それを何度も繰り返して命拾いをしました。ほんとに、いつ死ぬかという思いでいっぱいでした。生きながらの地獄でした。

布団を水につけ何度もかぶった もんぺ姿(デッサン恭子)

布団を水につけ何度もかぶった(左)、 もんぺ姿(デッサン恭子。右)


 翌日、3月ですからまだ夜があけるのが遅く暗い時でした。大阪は商人の町で土蔵があちらこちらに建っていたのですが、土蔵の中の空気が周りの熱気で膨張して分厚い土壁なのに、蔵の形のままでどーんと空中高く吹き上げられ、ガラガラと崩れ落ちてくるのです。ほんとに凄まじい光景でした。

 昼頃やっと燃え尽きてきて下火になりましたので、母とこれからどうしよう、何処に逃げようかと相談し、両親の郷里である広鳥に逃げようということになりました。それで、昭和8年に開通していた地下鉄御堂筋線が、地下だから通っているかなという愚かな考えで、白髪橋から川沿いに歩いて心斎橋まで行ったのですが、そんなもの通っているわけがありませんでした。

 それで御堂筋を北へ北へひたすら歩きました。途中に焼け死んだ人とか死体が転がっていたのですが、長い間恐怖を味わったものですから、もう頭は真っ白で感情もなくなっていまして、死体を見ても怖いとか気の毒とかいう感情はなかったですね。

 やっと夕方近くになって梅田に着きました。西区とか天王寺方面はおおかた焼けたのですが、東区とか北区は残った様です。大阪駅から無賃乗車させて貰って汽車で広島に向かいました。


空襲直後の大阪市西区近辺 (写真:ピースおおさか)

空襲直後の大阪市西区近辺 (写真:ピースおおさか)

 疎開した後の大阪のことはわかりませんが、後の空襲で京橋なんかはとても大変なことだったらしいのです。京橋には砲兵工廠と言いまして、軍のものを造る工場がいっぱいあったものですから爆撃の目標になったのです。そこで私の友だちのお父さんも、直撃弾を受けて即死されました。

■疎開

 広島に着いたのは15日の夜中でした。避難先(爆心地から1・2kmの所、上流川町)の叔母が私たちを見て大変驚きました。翌朝になって、何処へ疎開するかを相談しました。この家の若い者は、仕事で上海に行っておりまして、残っているのは叔母と孫2人だったのです。島根県という所で神社の宮司をしている従兄の所へ、雪の深い中を叔母がたのみに行ってくれました。引き受けてもらったからと叔母が帰ってきましたので、早速、疎開の準備を始めました。

 当時疎開の荷物は20個という制限がありましたので一生懸命まとめましたが、年寄り子ども相手ですからなかなか捗(はかど)らず、やっと4月20日に島根県へと出発しました。広島の家には母と大阪南堀江で罹災した祖母を呼び寄せて二人で暮らすことになりました。

 私は疎開先の日貫村(ひぬいむら)にもなれてきたのですが、食べる物が少ないので田植えを手伝った先で御飯を御馳走になったり、お米を分けてもらったりして、かなり苦しい生活になりました。

 そのうちに敵の軍艦が日本の近くまで来るようになり、そこから艦載機が飛んで来て、山口県とか広島県を低空で機銃掃射するんです。歩いている人を見たら徹底的に撃ちまくるのです。それを聞くと、残してきた母や祖母のことが心配でたまらなくなり、広鳥へむかえに出ることになりました。7月27日に出発して29日に着きました。

 空き家にしておくと、もし焼夷弾が落ちても消すものがいないから、後に入居する人を見つけないと警察の引っ越し許可が出ないので一生懸命探して、やっと見つかりました。

■8月6日、その日

 8月6日、その日は晴天でした。

 早朝、母は警察へ許可証をもらいに出かけ、祖母は散髪に出かけました。そのあと間もなく警戒警報が鳴って、母と祖母が引き返し帰ってきました。すぐあとの8時15分、何かピカッとマグネシウムをたいた様な青白い閃光を家の隙間から感じたと同時に、2階建ての家が崩れ落ちてきました。家中の釘を全部一度に抜いた様にワァーと落ちて来て、私達は下敷きになりました。梁や柱がどんどん落ちてきて、アッという間の出来ごとでした。

 母が私の名前を呼んで、それから「お母さん」と祖母を呼び、皆生きていることがわかりました。とにかく、また大阪のように火の海になるから早くここから逃げ出そうと言うことで、祖母は床下に足がおちてはさまったのを、自力で引き抜き、くずれた木材をくぐったり越えたり、3人がどうして出たか、表通りにやっと出ることが出来ました。

 裏の家に2人の女の人が住んでいて「助けて」という叫び声が聞こえてきたのですが、どうしてあげることも出来ませんでした。

 表に出ますと家という家はつぶれて、ポツンポツンとビルの様なものが残っていただけでした。はや、ところどころに煙が出だしておりました。大阪の様に大火になるから早く川へ逃げようと思いましたが、どちらに歩いたら川に出られるのかさっぱりわかりません。

 前方から、今までに見たことのない全身黒く焼けて丸裸の人が、皮がズルーとぶらさがり髪の毛は焼けちじれ、見た目も人の姿ではないのです。そういう人達が夢遊病者のようにふらふらフラフラと歩いて押しよせてくるのです。こちらをむいても、あちらをむいても、そういう人がいっぱい歩いて来て、どっちへ逃げたらよいかわかりません。いったい何事がおきたのかと思いました。

 私は家の下敷きになった時、梁が背中(心臓の後あたり)に落ち、さけてパクッと開いた傷口から血がドクドクと出ていました。縁側に近いところにいたので、ガラス障子がこわれて、ガラスが左半身に百数ヶ所ささりました。今では小さい傷は消えましたが、左肘に今も数カ所ケロイド状の傷あとが残って居ります。

 祖母と母は気丈な人なので自分の傷はかくして、私を救うのに必死でした。2人に両方から支えられ歩き出しましたが、目の前で、孫にささえられていたおじいさんが倒れて亡くなりました。火傷はなく、私たちのように家の下敷きになられた様子でした。それを見て私も、出血多量で気が遠くなってきました。母は急いで自分の服と祖母の服の裾を裂いて、一つを折りたたみ傷口にあて、もう一つでしっかり縛って止血をしてくれました。おかげで血が止まり、気をとり直して2人に支えられて歩き出しました。


母と祖母に支えられて歩く

母と祖母に支えられて歩く

 幸いなことに、饒津(にぎつ)神社という浅野長政を祀る神社にたどり着きました。境内の松の幹がさけて、まるで雷に打たれたように、ブスブス煙が出ていて、火の気のないところなので不思議に思いました。その神社の下が川原になっていて、そこへ先ず腰をおろしました。川には多勢の死体が浮いていました。母は自分も怪我をしているのに、私を救いたい一心で、足を引きずりながら、飛び散っている物を拾いに歩き出しました。

 トタン板とか柱になるよう棒を4本、バケツやビールの空きビン、和紙の日記帳などを拾って帰って来ました。布団も拾ってきて私を寝かせ、母と祖母で両手に棒を持ち、その上にトタンをかぶせて屋根がわりにのせ、黒い雨から私を守ってくれました。自分達は頭だけ入れて雨をさけていました。

 大阪で降った雨は煙を含んだ黒い雨でしたが、広島の雨は放射能を含んだ黒い雨ですから、体にかかったたら絶対によくなかったと思います。その時は原爆と言うことも知らなかったのですが。


母と祖母は拾ってきたトタンで黒い雨から守ってくれた

母と祖母は拾ってきたトタンで黒い雨から守ってくれた

 とにかく周りの人は火傷の人ばっかりで、小学生の男の子が痛い痛いと泣き叫んでいても、どうしてあげることもできないのです。大八車に革の長靴をはいて、丸裸の真っ黒に焼けた人が乗せられていたのです。たぶん上位の兵隊さんだと思いました。その方は、「水、水」とほしがっておられましたが、だめな人には水をあげてもよいが、助かる人には水をあげてはいけないということで、その辺りには水もなく、私共はどうしてよいかわかりませんでした。

■悪臭

 翌朝早く救護所が、鶴羽神社の境内に出来たことを、メガホンで告げにこられました。私は肋骨にヒビが入っているのか、息をするとメリメリ音がするし、熱も出て普通ならとても歩ける状態ではなかったのですが、気も立っていましたし助かりたい一心で、両方から母たちに支えられて救護所まで歩いて行きました。しかし、そこはもう火傷の人でいっぱいでした。母親が、すでに死んでいるのに、あかちゃんを一生懸命名前を呼んで揺すっているのですね。堪えられない思いでした。

 暑い時でしたので悪臭がするんです。黒く焼けて身体からものすごい悪臭がして、ハエがとまってウジがわいておりました。生きながらにそんな状態なんです。救護といっても薬をつけてもらった覚えも、注射してもらった覚えもないんですが、後の首筋に刺さっていたガラスの破片を抜いてもらった記憶だけが残っております。それから、公園で腰を下ろしていましたら、救援の人が来られて、自分の着ている開衿シャツを脱いで私にかけて下さり、靴下を脱いではだしの足にはかせて下さいました。

 芸備線が広島矢賀駅から山陰にむいて出ているので、相当距離がありましたが、一生懸命歩いて夕方に着きました。また、無賃乗車で汽車に乗せてもらったのですが、空襲警報で備後十日市駅でおろされ、一晩駅で野宿いたしました。翌8日午後おそく、三江線川戸駅に着き、沖田屋旅館に泊めてもらうことになりました。

 宿のおかみさんが、私たちの傷口から、バイ菌が入ったらいけないと新風呂に入れてくださったのには大変感謝いたしました。隣の室の泊まり客が翌朝、「あなた方は大変うなされていましたが、どうなさったのですか」と聴いてくださいました。大阪から来られた娘さんで、お話しした後、「大阪に帰られたら大阪の弟に知らせて下さい」と母がお願いしておりました。

■皆で力をあわせて

 当時、日貫村(ひぬいむら)へはバスが通っていませんので、トラックの荷物の上に乗せてもらうしかありませんでした。振り落とされないように積荷にかけてある綱をしっかり持って、9日の昼頃、やっと村に着きました。その後、宿で出会った娘さんが叔父に知らせてくださり、叔父が駆けつけて来まして、丁度神戸から村の実家に疎開して帰っておられた外科の先生に、叔父の血を輸血していただきました。私はその輸血のお陰で命をとりとめることが出来ました。

 こうして生きていることが出来たのも、広鳥で出会った人や日貫村(ひぬいむら)の皆さん、何と言っても親族4世帯13人がお世話になった、宮司の従兄一家、母、祖母、叔父の力が大きかったと心から感謝しております。

 あれから60年、長生きさせていただいて80を越しましたので、ほんとうに生き地獄だった戦争の悲惨さを皆さんにお話しして、今後どうして生きていくか考えていただきたいと思うようになり、下手な話をさせていただきました。

 私たちは決して戦争を望んだわけではありませんのに戦争の坩堝(るつぼ)にもっていかれたのですから、今、9条など大事な憲法をなくそうとしておりますのを何としてもくい止めなければなりません。戦争へと引きこまれない様、皆で力をあわせ阻止しなければいけないと思います。

 まだまだお話はございますが、これで終らせていただきます。どうもありがとうございました。
( 2006年 5月4日 )

◆追記=恭子、その後 (長女 鳥羽 洋子 記)

 母恭子はその後一年間は、日貫村(ひぬいむら)で療養しながら暮らし、祖母が浜田で美容院を開いたのを機に浜田に移り、美容師の資格を取って祖母の仕事を手伝いました。母は島根で一生過ごす気にはなれず、大阪に戻りたい一心で、祖母を置いて一人で大阪に出てきました。

 ぶらりと元の職場に同僚を訪ねたら、偶然にも、転勤先から会社に来られていた元の上司に出会いました。「どうしているのか?」と尋ねて下さり、これまでの事情を話した後、再就職先を探していることも伝えまると、「なぜここに帰ってこないんだ?ちょっと待っていなさい。」と階段を駆け上がって行かれ、しばらくして戻ってこられました。

 「明日からこの会社に戻って働きなさい。」母は総務部秘書室へと配属されました。

 これが、父との出会いのきっかけとなりました。父は九州の福岡出身で、久留米の 連隊に入隊しましたが、馬の世話をしていて蹴られ、足を痛めて入院している内に終戦となりました。もし、元気なままだったら南方に出征させられ、戦死して母と結ばれることもなく、私も生まれてこなかったでしょう。母は結婚後、四人の子どもを育てました。

 私が中学一年の時、父の経営していた鉄工所が不振となり、父は私学の経営の仕事に転職しましたが、私が大学に入学した1970年、53歳で胃がんで亡くなりました。

 母は祖父の火災保険の代理店を引き継ぎ、さらに夜も知り合いの洋品店を手伝うなど、苦労しながら私たち4人を育ててくれました。舅、夫だけでなく、姑、実母、叔父の死も看取りました。その後も母はずっと保険の仕事を続け、80歳でようやく引退、この年から語り部を始めました。

被爆地点(上流川町)からの足跡


被爆地点(上流川町)からの足跡 ※右クリックで「新しいタブで画像を開く」か、画像を一旦、
PCに保存してから開くと拡大して見ることができます。

被爆体験をどう語り継ぐか

被爆二世 鳥羽 洋子

■厳しかった祖母

 私は、2歳から15歳まで、被爆した祖母と曾祖母の住む豊中の家で暮らしました。当時、大阪の梅田新道に事務所兼自宅がありましたが、私は豊中の静かな住宅地にある祖母の家を好み、次第に住み着くようになったそうです。ですから、子どもの頃から広島弁で語る祖母たちから被爆体験はしっかりと聞かされて育ちました。

 お風呂に一緒に入る度に祖母の背中や腕にあるガラス傷をなでていたのを覚えています。祖母は二十歳代で夫を亡くし、女手一つで母を育てあげたこともあり、「女性も手に職をつけなければだめだ」と、教育熱心でした。学校から帰ると何よりもまず先に宿題をさせられ、参観日には必ずやってきました。この祖母の逞しさと機敏な判断があったからこそ空襲と被爆から母を救うことができたのではないかと思います。

 私が小学校三年生のとき、祖母に連れられ、従姉妹と一緒に広島を初めて訪ねました。祖母たちから聞かされていたとはいえ、原爆資料館で見た展示物の生々しさは衝撃的で、その晩は眠ることができませんでした。

 六年生のとき、近所に住む同学年の加代子さんが白血病で亡くなりました。お母さんが長崎で被爆されたそうですが、この時はまだ、あんなに元気だったのにかわいそうとしか感じられず、自分と重ね合わせて見ることはできませんでした。

 私は15歳の時に祖母の家を出て、母達が当時移り住んでいた茨木市に戻りました。父が亡くなったのはその三年後でした。祖母は父の看病に大阪の病院まで毎日足を運びました。その祖母も、甲状腺と心臓病を煩ったあと、最後は胃癌で亡くなりました。87歳でした。被爆手帳は持っていましたが、原爆症の申請はしていませんでした。

■被爆二世の死を知って

 私が被爆二世であることの使命を強く意識したのは、教師になって間もない頃です。

 1975年、阿倍野高校二年生の峯健一君が、妹の純子ちゃんに続いて白血病で亡くなりました。母親のスミ子さんは長崎で12歳の時被爆されており、戦後三十年も経って二人のお子さんを相次いで亡くされたのです。お母さんの悲しみ、そして、勉学とサッカーに励み、死の三日前まで機能回復のペダルをこいで白血病と闘っていた健一君の無念さを思うとたまらない思いになりました。

 それ以来、現代社会、歴史などで生徒と共に核問題や『戦争と平和』について考える授業に力を入れるようになりました。'80年代反核運動の盛んな時期には、新聞部で母達の避難経路を辿るドキュメンタリー8ミリを自主制作したり、'95年にはフランス核実験再開に抗議する生徒と共に文化祭で原爆展と『平和50字メッセージ』に取り組んだりしました。この時、生徒達が聞き取った祖父母の戦争体験集の中に初めて母の手書きの手記を載せました。

 そして、2005年以降、私自身の授業に母を招き、被爆体験を話してもらうことを始めました。ちょうど戦後六十年の節目の年でした。母八十歳からの語り部活動の開始です。母はこの年、年金組合が編集した戦争体験記集に自身の手記を発表し、9条の会などでも体験を語るようになりました。


2010年、福井小学校と福井高校の合同授業
「ヒロシマから平和を考える」での講演

2010年、福井小学校と福井高校の合同授業
「ヒロシマから平和を考える」での講演
■母の体験がカンタータに

 その三年前の2002年、私は偶然京都でフランス人作曲家のルネ・マイヤー氏と出会いました。その頃、教職の傍ら、私はフランス語を勉強するために京都の関西日仏学館に通っていましたが、たまたま立ち寄った南禅寺で観光されていたマイヤー氏と出会い、声をかけたところから意気投合し、三日間京都を案内しました。以来、手紙やメールのやりとりを通して交友を深めてきました。

 2005年の暮れにフランスでお会いした時、母(恭子)の話になりました。その年の8月、母の大阪空襲と広島の被爆体験が新聞の記事にも取り上げられていたのです。少年期にドイツの侵略に苦しんだ戦争体験を持つマイヤー氏は、この話に関心を示され、母の実体験を是非フランス語にしてほしいと依頼されました。

 私は母の体験の仏翻訳に挑戦し、当時の写真や母の描いた挿絵をつけ「Survivre」として十ページほどにまとめました。マイヤー氏はこれを読み、二度の戦禍を生きぬいた母の話に深い感銘を受けて直ちに作曲に取りかかられました。

 ちょうどその年、2006年の7月から一年間、私はフランスに留学するチャンスに恵まれ、滞在中に母と同年である作詩者のモニク・シャルル女史にもお会いすることができました。力強い彼女の詩を再度日本語の詩へと私が翻訳することになりました。  

 その年のクリスマスに、マイヤー氏自身のピアノ演奏と歌で初めてこの曲を聴かせていただいた時の感激は忘れられません。

 マイヤー氏は、その後、様々なオーケストラに働きかけられ、2009年3月、ついにロンドンロイヤルフィルハーモニックオーケストラでレコーディングの運びとなりました。五年の歳月を経て世に出ることになったカンタータ「ヒロシマを生きぬいて」は、日仏だけでなく様々な国の方々との共同作品となり、国境を越えた友情の結実となりました。

 残念なことに、そのマイヤー氏はパリでの初演を待たずに2012年12月、膵臓ガンで亡くなられ、この作品は彼の遺作となりました。このカンタータは、戦争によって奪われた多くのいのちへの鎮魂歌であると同時に彼や母の思いでもある「憎しみと戦争を乗り越え、人々が一つになる世界に向けて生きぬこう」と謳いあげる「希望のメッセージ」となっています。


ルネ・マイヤーさんと(2007年6月撮影)

ルネ・マイヤーさんと(2007年6月撮影)                   
■母との二人三脚

 2005年から、高校などで母と語り部活動を続けてきましたが、2012年には、美帆シボさんからの依頼があり、9月にフランスでの市民集会に招かれて母とともに被爆体験を語ってきました。アンジェではサハラ砂漠での核実験に参加した被爆元兵士の方々と交流し、リヨンでは空手クラブの青年たちが企画してくれた集会で核廃絶と平和への願いが共通であることを確認し合いました。そして昨年夏、念願の広島にやってきたこの若者達と、再会を果たしました。

 今後も、核兵器廃絶を願う世界の人々とも連帯しながら、母と共に平和な世界をめざして活動していきたいと思っています。

2013年8月6日 空手クラブ青年達と

2013年8月6日 空手クラブ青年達と

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