私は昭和13年4月15日生まれで、現在76歳になります。国民学校の一年生、7歳の時、被爆しました。当時爆心地から2kmの段原中町に住んでいました。父、四郎(48歳)、母、豊枝(37歳)、長兄、順一(13歳)、次兄、耕二(10歳)、そして妹、真知子(4歳)の6人家族でした。
その日は、7時半頃に警戒警報が出て、全員家にいましたが、8時頃解除されたので、父は中国新聞社のビルに出勤しました。一番上の兄は勤労奉仕に行く予定でしたが、体調不良で家にいました。私と次兄の耕二は夏休みの宿題「夏の友」を持って、広島駅の的場の方(爆心から1.5km〜2km)にあるお寺に向かいました。そこで勉強するためです。
私はちょうちん袖のブラウスにスカートという格好でしたが、ちょうどお寺の入り口の段々の一段上がったところでピカッと光ったと思ったら、爆風で飛んできた瓦で右頬をやられました。その時は痛いも何も感じなかったんですけれど、今もこの様に傷が残っています。何が何だかわからない状態で、気づいたら周囲は何もなくなっていました。兄は私の手を引いて必死で走って家へと連れて帰りました。途中の道で、女の人が「助けて!」と叫んでいて後ろが燃えているんです。その女の人の上を歩いて帰るの・・・。それと同じような話を何十年もたった後にNHKで男の人が泣きながら話してはりました。
家では、母が私たちを探しに行くと言ったそうですが、お年寄りが「親は家にいるもんだ!子どもたちは必ず家に戻ってくる。もし、帰ってきたときに家に親がいなかったら子どもはまたどこかへ行ってわからなくなってしまう」と諌められ、待っていました。そして、そこへ私らが帰ってきたんです。そして、それが多分、午前十時くらいまでのことだと思います。それから父を探しに行きました。
父は流川の中国新聞のビルの中にある今は「共同通信」というんですけど、以前は「同盟通信」という通信社の記者をしていました。人の言うことを速記して、写真を撮り、家の押し入れの中でよく現像していました。
中国新聞の所に行くまでに確か「新町」というところまで、探しに行ったんです。そしたら、父はまだ燃えていない家の軒下にいました。大きな父でしたがこうしてお辞儀した格好でよその家の玄関のところに置いてあったんです。おしりと背中でお父ちゃんとわかりました。兄が一番に「お父ちゃん!」と叫んで、私も兄と父のポケットを探りましたが、シガレットも名刺もめがねも財布も何もないんです。きっと誰かに盗られたのだと思います。死んだ人間のポケットからも盗むのか・・と思いました。
母は、4人の小さい子どもたちを安全なところに置いてからすぐ父の遺体を取りに戻るからそのまま置いておいてくれと何度も頼んでいましたが、その後再びそこに戻ると、既に遺体はもっていかれていました。他の遺体とまとめて油をかけて焼くんですが、そうされた後でした。
私は7つなので母親に手を引かれていましたが、妹は4つではぐれると大変なので、ずうっと母親が背負っていました。妹は何も覚えていませんが、「臭い」だけは覚えていると言います。「死体の臭い」です。母親の背中からなので私の視線とはちょっと違うんですね。
家の近くには猿猴川や京橋川が流れているんですけど、その川の中は全部人が水を飲みに行って死んでいるわけですね。私は背が低いので見えなかったけど、妹は母の背中からなのでわかるし、匂いもいまだに覚えているって言います。
それと自分の家の畳は爆風の勢いで全部天井にひっついてしまっていましたが、妹は他のことは何も覚えていないのに「畳が天井にひっついていたのは何でやろ?」といまだに言います。その時4歳やったのにね。
家は全壊はしていませんでしたが、焼夷弾が落ちるからと言って、その辺にあったブドウ畑で三日ほど過ごしました。
その時に炊きだしがあり、孟宗竹の節から少し上のところを切ってお椀にし、それを持って皆並びました。でも、いい年をした男の人が私ら子どもを押しのけて自分らが先にもらうんです。私らは悲しいけど一番後にもらいに行くでしょ、そしたら、中身は何もないの。お汁だけ。それが三日ほど続きました。
食べるものがなくて母も苦労しました。焼け野原から煉瓦を拾ってきて、こちらとこちらに二段に積んでそこに鉄を通して飯ごうでお芋を炊いてくれるんです。でも、私らガリガリでした。本当に。
それから、兵隊さん達に軍のトラックに乗せられて鈴張村のお寺に家族ごと、町内の人も皆、収容されました。そこに収容されていた人達のことをよく覚えています。中でも、女の人の背中の火傷の水ぶくれがつぶれてそこにウジがわいて真っ白になっているのを母親が一つ一つお箸で取っている光景は忘れられません。顔中水ぶくれの人やらいっぱい見ました。
この鈴張村にいたとき、終戦を知ったんです。それからまた段原に戻りましたが、元の家はどろどろで住めず、近くにあるよその空き家に住みました。
9月に入り、私の傷の手当てをするのにガーゼの取り替えに二週間くらいかかり、並んで待って治療してもらいました。そんなときに、台風が来て、私の膝下くらいまで水が来て、母に手を引かれて逃げました。
その後、母の実家が滋賀県にあるお寺だったので、皆が一緒にそこに帰ることができたんです。滋賀県志賀町北小松の徳勝寺というお寺で、家族全員で厄介になることになりました。そこに帰るとき、列車は兵隊さんたちで一杯で皆座っていました。妹がうんちをするときだけ席を空けてくれて、汚物を窓から捨てると食べ物か何かを投げられたと思ったのか、浮浪児たちがそれに駆け寄ってきました。
京都には朝の4時につきましたが、その時間では江若鉄道も動いてないし、ひとまず薬局をしていた京都五条近くの松原寺町の親戚の家に歩いて行き、そこから連絡してもらって北小松に向かいました。お茶など出してもらえませんでした。
志賀は田舎のこともあり、被爆者から放射能がうつるとか、いい加減な風評が飛び交っていましたし差別もされました。北小松のお寺の祖母宅では、私たちはあまり馴染まず、なつきませんでしたので、祖母も大勢いる他の孫の方がかわいかったのではないかと思います。
私は8歳になっていましたが、昭和21年の3月まで待って4月に志賀の小学校へもう一度一年生から入り直しました。戦争のまっただ中で空襲警報ばっかりで学校に行けず、殆ど勉強ができなかったからです。一年遅れで被爆者ということもあり、いじめもありました。でも、私は背が高く大きかったので、いじめもはね返しました。
私は自分から母に何か買ってくれと言ったことはありません。ランドセルも買ってもらったのかもしれませんが、背負った覚えはありません。
母は、白いお米ちょっとと麦をたくさんでご飯を炊いていましたが、米と麦とを混ぜたりはしませんでした。母は、下にたまった白いご飯の方を妹にやり、こう言いました。「4歳でこんな目に遭ってお父さんの愛情も知らんから、私らの愛情をあげなあかん。これは妹にやってね。」
上の麦の部分は私がお弁当で学校に持って行くんですけど、私はそれを母親に食べさそうと思ってわざと忘れていって、学校では「弁当忘れてきた」といって昼の間は一人で運動場でブランコに乗っていました。でも、帰ったら弁当はそのまま置いてあるんです。母から「また、こんなことして」と叱られましたが、週に二三度はそんなことをしていました。
田舎の学校でたいした教育も受けられず、中学を16歳で卒業してから高島の繊維会社でタイヤのゴム等の繊維をつくっていました。日給も安く、一日230円くらいでした。昭和36年、22歳の時に京都の伏見稲荷に引っ越し、日本電池に入社しました。そしたら有給休暇はあるし、生理休暇もあるし、日給も550円でした。
伏見稲荷では一ノ坪のアパートに住んでいましたが、10年後に火事で焼け出され、下川原に引っ越しました。
長兄は祖父に勧められ、中学2年で中学をやめ、明石の逓信学校へ行き、その後、高島の郵便局に勤め、結婚しました。
すぐ上の兄は、あの日から以前のことは記憶喪失で、住んでいたところも私を連れて逃げたこともわかりません。その後のことは覚えています。田舎に帰っても、祖母にはなつかず、よく学校をサボって湖岸や畑などに行っていました。中学1年のとき、肋膜炎といわれ比良園へ入れられて以来、人を怖がるようになりました。箱屋に丁稚奉公に出されましたが、耳をぶたれ、聞こえなくなりました。その後、いろんな仕事を転々としましたが、今は年金暮らしです。
母は「厚生年金をもらえるようせなあかん」といつも子どもたちに言っていましたが、自分自身も墨染にあるグリコの会社に勤め、ウインナーソーセージづくりをしていました。
母と私は、原水爆被災者懇談会の「被爆者をはげます会」を毎年楽しみにしていました。それと、霊山観音では毎年8月6日の8時15分にお経を上げてくれるんです。お経の中に、亡くなった人の名前も呼んでくれるし、兄も母も一緒に父の命日なんで、よくお参りに行きました。そこには戦没者や被爆で亡くなった人のお墓もあるんですけど、うちは入れていません。母は78歳のとき、脳梗塞で倒れ、亡くなりました。
私は、いろんな病気をしました。被爆直後には急性腎炎になりましたが、直さなかったので、その後、糸球体腎炎の慢性と言われました。ヘルペスもしました。11年前、65歳のときには乳がんになり手術しました。私は結婚もしていなかったし、きっぱりと乳房もリンパも全部取ってもらいました。
今でも4ヶ月おきに検査してもらいに通っています。眼は黄斑円孔の手術をしました。加齢によるものですが、術後しばらくはずっと下を向いて生活しなくてはならず、大変でした。それに比べれば白内障の手術などたいしたことはありません。
被爆手帳は兄が取ってくれました。家族全員滋賀県で取りました。京都に出てきたときには既に取得していました。健康管理手当の方は、頬の傷は原爆によるものと京都の病院ではなかなか判断してもらえませんでしたが、20人ほどで徳島の病院まで行って認定してもらいました。兄や妹は大橋病院で一年ごとにレントゲンを取ってもらって健康管理手当の印をもらいました。手当は今はもうなくなりましたけど・・・。
私は結婚しませんでしたが、それは「被爆者が出産すれば障害をもった子が生まれる」といわれたことを恐れたからです。母は、「一度結婚してみてだめだったら戻ってくればいい。」と言ってくれましたが、母の面倒を見るためにも結婚はあきらめました。妹は、「一人で好きなことができていいなあ」といいますが、一人も寂しいもんですよ。
私は小さいときに人によくこう言うてました。「戦争やから兵隊さん同士が殴り合いしていても仕方ないけど、何も知らん市民、おばあちゃんやら赤ちゃんやら、ワンちゃんやらネコもいるでしょ。朝、夏の暑いときで皆薄着、その上に、世界で初めて作った爆弾を落とすのは許せん。」て、泣きながら人に言ってたんです。
妹は幼かったので忘れているし、被爆のことは話したがりません。結婚して子どもも孫もいますが、その孫が、中一のときに原爆のことを勉強していて、「それやったら当事者の珠美ちゃんに聞いたらええ。」と言われ、私に話を聞きに来ました。私の話を聞いて涙を流して泣きました。私は長兄からずっとこうした話は何度も聞いてきたので、このように良く覚えているのだと思います。