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●被爆体験の継承 19

母と弟、子供達のために生き抜いた私の人生

T・K さん

2014年5月12日(月)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

 私は昭和17年(1942年)11月3日の生まれなんです。ですから原爆が落ちた時は2歳。2歳ですからところどころ虚(うつ)ろな絵のようなものは頭に残ってるんですけど、被爆の体験はみんな後から母や他の人たちから聞かされた話ばかりです。

 私の家は広島市の仁保町という所にあって、あの日、家には私と母とだけがいました。家と言ってもあの頃でももう珍しい藁(わら)ぶきの三軒長屋でした。倒れかかっていて突っかい棒で支えられているような家でした。

 母はいつもは私を連れて子連れで病院の仕事の勤めに行ってたんですが、あの日に限って何かの都合で仕事を休んで遅めの朝ご飯を食べていました。あの日はいい天気で、私は近所の子供たちと外で遊んでいたんですけど、B29が来たといってワーイワーイとやってました。母が飛んできて私を抱え込んで防空壕に連れて逃げたんです。その後は何がどうなったのかまったく分らないんです。

 私の被爆者健康手帳は8月8日の市内中心部への入市被爆になっているんです。その被爆者手帳申請書によると、その日、母は私を背負って、江波に住んでいた母の妹(私の叔母)の安否を訪ねて出かけました。

 朝8時仁保町の自宅を出て、旭町、皆実町を抜け、御幸橋を渡り、電車路づたいに鷹野橋、大手町、住吉橋を歩いて舟入町の土手を江波町に向かっています。江波山東側の叔母の住まい一帯を探しているんですがなかなか見つからず、終日歩き回って、夕方になってようやく防空壕の中で負傷し収容されていた叔母に出遭っています。その叔母を連れてもと来た道を仁保町まで歩いて、夜11時頃までかかって家に帰っています。

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 私の実の父親は私が1歳になる前に急性肺炎で亡くなりました。実の父が生きていたら「あんたらもいい暮らしができていたのに」と近所の人によく言われたもんです。その後母は再婚し、二人目の父(義父)ができました。すぐ下の弟が昭和21年(1946年)5月に生まれました。胎内被爆者ですね。そしてさらにその下の弟が昭和23年(1948年)の10月に生まれました。私と弟たちと父親は違うんですけど、3人姉弟になりました。

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 私は小学校に上がる前に一時期国鉄呉線の安登(あと)というところに暫く預けられていてそこで小学校1年生になっています。ところが広島の仁保町に呼び戻された時、本当は2年生になるはずのところ、手続きがうまくいかなかったかどうかで、そこでもまた1年生から入り直すことになって結局1年生を2回やることになったんです。あの頃はそういう子どもたちはたくさんいたんですね。1年年上ですから体力的には随分勝っていましたね。走ることとか投げることとか運動はね。

 小学校は仁保町の大河(おおこう)小学校でしたが、私の家は貧乏だったので、子守りため4つ年下の弟を毎日のように連れて学校に通ってました。授業中は弟を「待ってなさい」といって校庭で遊ばせておいて、給食の時間になると弟が「お姉ちゃん」と言って教室に来るんですよ。私も給食代払えなくて給食ないんです。だから家から持ってきたパンを分けてやるとかしてました。

 その頃は兄弟の世話のため学校へも行けない子はたくさんいたんです。私なんか学校へ行けただけまだ幸せな方でした。隣近所の家にも兄弟が多くてね、子守りの弟や妹に追いかけられて遊ぶこともできない人いっぱいいましたからね。「Kちゃんはいいよね、姉弟たった3人だから」なんて言われたりしてました。

 そんな子ども達を一生懸命に可愛がってくれてよくしてくれた女の先生がいて、今でも忘れることはできませんね。

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 私が小学生で10歳の頃、乙羽信子さんが主演した新藤兼人監督の『原爆の子』という映画があって(1952年制作)、その撮影が私の家の近所であったんです。撮影風景をよく見に行きました。隣近所のおじさん達も通行人になったりしてたくさんの人がエキストラで映画に出ていたのを憶えています。

映画『原爆の子』から
映画『原爆の子』から

 翠町(みどりまち)中学校を卒業して、半年ほど広島市内の食品工場で働きましたが、その年の9月に友達と二人で思い切って東京に出ました。まだ15歳でしたがあの頃は一日も早く家を出たくてしようがなかったんです。

 義父はその頃家を出奔していて、仁保町の実家には母と弟たちだけが残されることになりました。東京に行っても弟たちのことが心配で心配で、給料もらって、たとえわずかでも必ず母宛に仕送りしてました。お正月とかお盆とかでも絶対に帰れないんですよ、お金かかるから。みんなから手紙をもらって「たまには帰っておいで帰っておいで」と書いてあるのを読んで、それでも帰れないからトイレの中で泣いてました。そんなお金があるんなら母に送ってやりたいと思っていたので。

 東京では足立区の銭湯で住み込みで働いていました。あの頃の銭湯はお風呂からあがってきた赤ちゃんたちに洋服を着せたりするような仕事があったんです。どこのお風呂屋さんでも子どもに服を着せたり、掃除をしたりする、そういう仕事をしてました。

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 東京には2年ほどいましたが、17歳の時、大阪に出ていた義父から帰ってきなさいと言われて、義父の親戚が京都にあったのでそこに預けられ、その親戚筋の飲食店で住み込みで働くことになったんです。この店では4年間お世話になりました。その時に「女の子はどんなところへお嫁に行くことになるか分らないから」といって洋裁、和裁、お華、お茶、料理など習い事の一通りを全部勉強させてもらったんです。マージャンまで教えてもらいましたよ。

 いろんな事情があってその飲食店を辞めることになり、退職金は全部母親に渡して、その後は京都市内の書店で働くことになったんです。それからすすめる人があってお見合いをし、昭和41年(1966年)、24歳の時結婚しました。結婚の時私が被爆者であることは夫にも誰にも明かすことができませんでした。

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 結婚して、子どもを宿してから私がよく病気をするようになって、家の中がおかしくなってきたんです。その時初めて「実は私は被爆してるんだ」ってことを夫に話したんです。そしたら「おかしな子どもが生まれるんじゃないか」とか言われるようになってきたんです。

 本当は子どもできても仕事は続けたかったんですけど、4ヵ月目に妊娠中毒にかかって入院することになってしまいました。腎臓が悪いので浮腫(むく)むんですよね。夫は私が被爆者であることや、結婚の時隠していたことを物凄く不満に思って、一切理解しようとはせず冷たく接するようになりました。

 8ヶ月目にも入院しましたがその時も一人です。もう退院していいよと言われると一人で銀行に行って現金引き出して、それで入院代払って、一人でまた家に帰るといったようなことでした。そしていよいよ出産という時にも自分一人で病院に行き、一人で出産しました。出産の時は思い出したくもないぐらい辛いことがいっぱいあったんですけど、私は何が何でもこの子を絶対産むんだって、気持ちを奮い立たせて産んだんです。昭和43年(1968年)3月長男を出産しました。

 2年後の昭和45年(1970年)10月下の子の長女が生まれました。この時は私も子どもも元気な出産でした。ところが長女は生まれながらにして顔に血管腫ができていて、痣がずんずん大きくなって、胸にも背中にもできていったんです。

 生まれて1ヶ月になる前からその子を連れてずっと府立病院に通いました。夫からは「やっぱり原爆の子や」って言われました。血管腫の子は他にもいるんだから関係ないと言っても、聞いてもらえないんです。私も自分の被爆のせいかと思ったりするようにもなりました。

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 長男は幼稚園の入園式の日、突然足が痛い、歩けないと言い出したんです。私は引っ張るようにして無理やり入園式に連れて行ったんですけど、翌日になると今度は手が痛い、肩が痛いと、いろんな関節が痛くなってくるんです。近所の病院に行っても原因が分らない。1週間後になると、首から下の全身に紫の斑点が出て来て、頭にはこぶのようなものができていて頭が痛いって言うんです。病院に駆け込むと、即入院、帰宅はダメと言われ、第一日赤病院を紹介されました。

 紫斑病と診断されました。身体に斑点が出ているということは内臓にも全部同じものが出ているんだと言われました。「私の被爆が原因なんでしょうか?」と聞きましたけど、「いやそれは分りません」と言われました。結局原因は分らないままなんです。当時は紫斑病は難病にも指定されていなかったので、治療代も、個室でないとダメといわれた入院費もすごく高くついて大変でした。その時は夫も一生懸命働いてくれました。

 長女もよく発熱して、その都度ひきつけ起こして、3回ぐらい救急搬送されたこともあります。病人ばっかりかかえた家族でしたね。

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 長男が小学校に上がった頃二人の子を連れて被爆2世の健診に行ったことあるんです。その時長男の方は白血球が多すぎると診断され、国立病院の医療センターで精密検査受けたこともあります。長男はその後も目眩(めまい)でよく倒れたりしました。一度は大阪の地下鉄御堂筋線の駅のホームから線路に転落して大怪我を負ったことなんかもあるんです。

 今でもよく目眩はするみたいです。本人は自分が被爆2世だということは分っているんですけど、被爆2世の検査に行くのも嫌がってね。無理に行かなくてもいいとも思ってますけど。よく怪我はしますけどね。長女の方は白内障とは言われてるんですけど、他の方は大丈夫なようです。

 自分が被爆しているのでこんなことになるんじゃないかと心配する事はたくさんありました。二人の子どもには恵まれましたけど、でもその子たちの健康には気の休まる時がありませんでした。二人とももう結婚していて、それぞれ家庭を持っています。配偶者にも、その家族にも、私が被爆していること、ですから子ども達が2世であることはちゃんと話してあって理解もしてもらっています。でもそれ以上の周りの人達には2世であることは話さないようにしているみたいです。

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 私は早くから東京に出て、その後はずっと京都で暮らしてきたので、被爆者手帳のことなど何も知らずにいたんです。昭和59年(1984年)になって広島にいた母が手続きをやってくれたんです。今の内にとっとかないと証明してくれる人がいなくなるよと言ってくれてね。京都府発行で手帳を取得することができました。

 15歳の時私と一緒に東京に働きに行った友達は手帳のことも知らないままに乳がんになって40代前半で亡くなってしまいました。

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 私は子どものころから風邪をひきやすく、体も弱く、熱もよく出て、疲れやすくなっていましたね。歯茎に骨膜炎を発症して手術もしました。

 二人目の子を出産した後、子宮の手術をしました。昭和63年(1988年)に乳がんになって、8月に片方の部分切除、9月には全摘手術をしました。2回目の全摘手術の時、夫は家族の同意署名もしようとしてくれなかったんですよ。もう上の子は大学生でしたけど、子どもたちにも集まってもらって、相談して、夫には身体中全身を見せて泣いて訴えたんです。それでやっと分ってくれて理解を示すようにはなってくれたんですけど。

 突発性難聴に襲われ2週間入院したこともあります。突然耳で蝉の鳴き声が聞こえるようになったんです。病院に行ったら即入院でした。血圧もとても高くて薬を止めたらどこまで上がるか分らないほどなんです。足先などの神経腫瘍、目尻上の血管腫瘍にもかかっています。それから麻酔がとても効きやすい体質になっていて、手術の時にはとても慎重にやってもらわないと大変な事になる可能性もあるんです。

 そして昨年(2013年)11月人間ドック健診で胃がんがみつかり、第一日赤で摘出手術したんです。幸い本当に小さな癌の状態で発見されたので割と軽い手術で済ますことができました。

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 弟たちは二人とも中学を卒業したら私を頼って京都に来たんです。最初は私のところから仕事を探して働きに行きました。私が母親代わりのようなものでした。広島に残った母の暮らしも大変で、私の人生は、母や弟たちを助け、仕送り仕送りばっかりの人生のようなものでした。

 義父は昭和50年(1975年)に亡くなりました。母は平成10年(1998年)、78歳の時肺結核で亡くなりました。胎内被爆だった上の弟は平成17年(2005年)に肺がんで亡くなりました。58歳でした。下の弟は健在で今も京都に住んでいます。

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 上の弟はその後息子(私の甥)を連れて広島に帰り母と一緒に暮らしていました。暮らしは貧しくて大変でした。母は肝硬変になって“真(ま)っ黄黄(きいきい)”になって苦しんで寝てましたよ。入院せんといかんのに孫がいるから入院できないと言って家に居たままでずーっと治療してたんです。

 広島の街に住んでいるのに、広島は被爆した街なのに、どうしてもう少しちゃんと被爆者を助けてくれるような制度やしくみはないのだろうかと思ってましたね。私がしょっちゅう世話をしに京都から広島まで行ってました。

 母は肺結核にもなってからとうとう入院したんですけど、その時もひょっとして母の病気は原爆と関係あるんじゃないかと思ってお医者さんに「何か手続きしたらなんとかしてもらえるんじゃないですか?」っていろいろ聞くんですけど、「はあ、はあ」と言われるだけで結局何もしてもらえませんでした。今の原爆症認定制度のような、被爆者を助けるしくみがあるんじゃないかと訊ねたのに、あの頃は誰も何も教えてくれなくて、放ったらかしのようにされて。貧困のどん底の中で亡くなっていった母が本当に可哀想でした。

 弟も広島に帰ってから肺がんになって苦しんで亡くなりました。母や弟が病気で苦しんでいる時、どうして助けてもらえなかったのか、悔しい思いをいっぱいしました。広島市なんかから放ったらかしにされたような気がしてね。生活保護も受けられなくてね、本当に可哀想な生活と病気でしたね。まあ医療費がかからないだけでもいいか、私が顔を見せれば喜んでくれるからそれでいいか、と自分を自分で慰めながら広島に駆けつけて看病してました。

 被爆者が亡くなって市役所に被爆者手帳返しにいくでしょ。その時本当に腹が立ってね、「誰も助けてくれないんですね」と市の職員に食いかかったこともありますよ。よく考えてみたら市は関係ないことだったのかもしれませんが。

 弟のお葬式出す時もね、お香典いただくとお返しができないので「お香典は受け取りません」って案内してやったの。そしたら弟の友達からそれではお線香あげられないからどうしても香典受け取ってくれって混乱したこともあるんです。

 義父も、母も、弟も、最後の看取りも葬式もみんな私がやったんです。他に誰もやれる人いないんですから。私の育った広島の家はもう無いんですが、二人の父と、母と、弟と、みんなのお墓を広島の仁保町に建てたんです。年に1回は京都から出向いて墓参りしているんです。

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 私が被爆者であることや、子どもたちにその影響が出たのではないかということで、夫との関係がうまくいかない時期が長くありました。家の中で暴れられたりね、辛いこともいっぱい経験しました。そんなことで責められて、辛くて辛くて子どもを背中におんぶして京阪電車に飛び込もうと思ったこと何度もありました。

 でもその都度なんとか思い直して、それから子ども達には絶対大学まで行かそうと思って、夫の反対を押し切って頑張って行かせたんです。時間はかかりましたが、夫は今では原爆傷害のこと、被爆のことについてよく理解してくれるようになり、いろいろと心配もしてくれるようになりました。

 父も母も弟も旅立たせ、息子も娘も結婚して孫もでき、夫の理解も深くなり、私の背負ってきたいろんなことから今は解き放たれて、やっと静かな落ち着いた毎日を送ることができるようになりました。

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 京都原水爆被災者懇談会のいろいろな企画も案内いただくだけで一度も参加したことなかったんですが、夫から「いつも案内ばかりもらってて一度ぐらい参加してみたらどうか」と勧めてくれて、今年初めて総会に出させてもらったんです。総会に出て、原爆症認定申請のことなどもいろいろと教えていただき、本当に良かったと思っています。

爆心地と広島市の地図

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