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●被爆体験の継承 2

家族8人全員のいのちとからだを傷つけた原子爆弾

川越潔子さん

2013年3月25日(月)証言
京都「被爆2世・3世の会」で聞き取り、文章化

川越さん
■原爆投下の瞬間

 私は昭和12年(1937年)生まれで、原爆投下の昭和20年の時は9歳、国民学校3年生でした。長崎市内南東部の上西山町に自宅があり、歩いてすぐの下西山町に学校がありました。爆心地からは2.7kmぐらいの距離になります。

 西山地域は爆心地とを結ぶ直線上に小高い丘があり、その分だけ直爆被害は少なかったのだと思います。しかし後になって、西山は長崎市内でも放射線による汚染が特別強かった地域の一つであることが明らかにされました。

 8月9日原爆投下の瞬間は、登校していて2階の教室にいました。夏休みの期間中でしたが「勉強できる時に」と授業があり、でも疎開した子もいるなどして、生徒の3分の1ほどが出席していたと思います。

 飛行機の爆音が聞こえて、みんな防空頭巾の紐をひっぱろうとしていた瞬間、いきなり閃光とともに、“シャーン”という異様な音がし、窓のガラスが一瞬にして粉々に砕け、そのガラス片をまるで豪雨に叩きつけられるように全身に浴びました。

* * * * *

 当時は、いつ何時何があるか分らないような時代でしたから、みんな何時でも逃げられるように、幼いながらも心の準備や身構えはしていたように思います。夏の盛りでも衣服は長袖を着ていました。

 先生からはすぐに自宅へ帰るよう指示されましたが、足がすくんでなかなか思うようには動けませんでした。ワーワーと泣き出す子も何人もいました。壊れかけた階段をなんとか降りることができ、どうやって外へ出たのか覚えていませんが、自宅に辿りつきました。

 こんな時にはしっかりしなければといつも母に言われていたことを思い出しながら帰ったことを不思議と覚えています。

 自宅は焼失は免れましたが天井などは完全に落ちていました。この後暫くは壊れたような家で雨露をしのぐことになりました。

 西山地域には「黒い雨」が降ったと言われていますが、私は直接には体験していません。後日話として聞いていました。

■家族のこと

 私の家族は、祖母、女学校教員の父、母、中学2年の兄、2歳上の姉、小学校1年生の妹、生後間もない妹の8人家族でした。8人全員が被爆しました。

 父は勤めていた長崎県立高等女学校で、祖母と母と妹二人は自宅にいて、兄は勤労奉仕で動員されていた兵器工場で、姉は学校の指示で松ヤ二とりのために友だち数人と出かけていた木場という山の林の中でそれぞれ被爆しました。生後間もない妹は原爆投下の瞬間、母が風呂桶をかぶせて守ったそうです。

■急性症状

 兄も、姉妹もみんな放射線被曝による急性症状を発症しました。私は原爆投下の2〜3日後から脱毛が始まり、口や歯ぐきから出血、赤い斑点状のものも出ました。髪の毛はバサッと抜けてひどいものでした。

 赤い斑点を発症すると確実に死ぬと言われていましたが、私の場合は幸いにも体が強かったのか、生き延びることができました。母は、「しっかりするのよ!」ととにかく気をしっかり持つように励まし続けてくれました。

■兄のこと

 急性症状が一番ひどかったのは兄で、内臓破壊からの下血までしました。

 中学生だった兄は兵器工場に勤労奉仕で動員されていて、爆心地から遠く離れたところにあった作業場のトンネルの中にいました。原爆投下後すぐに、同じ学校の友達を捜索するよう指示されて爆心地近くまで入っていきました。みんなが手分けして同じ行動をしたのです。

 人を捜すと言っても死体を確認したり、大火傷や怪我をした人達とたくさん触れまわる中でのことでした。8月9日当日から10日、11日と続きました。原爆の直爆による怪我はありませんでしたが、友達探しによって大量の放射線を浴び、そのことが命を縮めることになりました。

 今思うと兄は8月9日が生涯で一番元気な時だったと思います。その後はものが食べられない状態も続くようになり、体調を悪くしていきました。体調悪化は緩慢でゆっくりとしたペースで進みましたが、その変化は家族の誰の目にもわかるような状態でした。

 結婚もし、子どもにも恵まれましたが、結局40代の終わりに急性骨髄性白血病で亡くなりました。私の記憶でも一度も元気な顔を見せた事がありません。兄は5人の兄弟姉妹の中で一番辛い人生を送りました。今でも兄のことを思い出すと胸が締め付けられるようになります。

■祖母のこと

 祖母は原爆投下の翌日倒れて、生死が分らない状態が4日続き、そのまま亡くなりました。今から思えば被爆によるショック死だったと思います。倒れた時、あちこちに医者を探しまわりましたが大混乱の中すぐには見つけることはできませんでした。

 亡くなって2日後ぐらいにやっと死亡診断書だけは書いてもらい、遺体は学校で焼却することになりました。原爆によってたくさんの人が亡くなっており、5つの家族が協力して火葬することになり、その時祖母も焼かれました。

 家族が家族を自らの手で荼毘に付すことはとても辛く重い作業でした。人間の体はそう簡単に焼けるものではないこと、それを見ている私達には大変辛いものであることを、この時痛切に体験しました。

 子どもでしたが、それでも「人間の尊厳は一体どこにあるのだろうか? どうしてこんなふうにして人の尊厳が失われるのか?」と、無念な思いを胸に深く刻み込むことになりました。

■父のこと

 父は、原爆投下の瞬間は勤め先の県立長崎高等女学校にいました。家族の無事を確かめた後は家には帰らず、兵器工場に勤労奉仕で動員されていた生徒達の救援、救護、連れ戻しに没頭することになりました。

 多くの生徒が亡くなっていましたが、まだなんとか助かりそうな生徒はすべて学校の校舎内に収容しようと泊まり込みで奔走しました。

 やっと我が家に帰ってきたのは相当の日数が経ってからのように思います。同僚の先生方で亡くなられた方も少なくありません。父はあの時よく死なずに済んだなと思いました。

 そしてまた父は、生徒の救援と同時に校長先生と二人でご真影を安全なところに移すことになりました。教頭でもない父が校長とこんな時に!写真ならどこにでも隠せるのに!と、私は強い怒りを抱きました。

 このことは後年私の自伝的小説に書き記しました。(『文化評論』に掲載された小説で入選作品となりました。)

 小説といってもほとんど実録です。原爆被爆のことについて何か形あるものを残さなければと思い執筆したものです。

川越さんの小説が掲載された『文化評論』1974年11月臨時増刊号
川越さんの小説が掲載された『文化評論』1974年11月臨時増刊号

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■母のこと

 父が女学校で奔走している時、父は母に「自分を頼るな、すべて家族は君の裁量で守れ!」と言い渡していたようです。母は、爆弾投下で「これで日本は戦争に負けた」と直感し、敵軍がすぐに乗り込んできて女、子どもに危険が及ぶかもしれないと思いました。

 何かあったら母は自分の決断で対処するから心配しないように!と、私達に語っていました。母のある種の覚悟のようなものを感じました。当時の母親はみんなそうであったのではないかと思います。

 あの頃の母から受けた緊張感は今でも私自身を支えているような気がします。

■姉妹達

 姉も病気との闘いの人生でした。60歳の初めで亡くなっています。大病を患ったわけではありませんが、本当に一生懸命生きようとしたのに、健康を保てなかった、という思いがします。

 妹二人は今も健在ですが、家族の女性は全員子宮、卵巣の手術を受けています。

■飢えと渇きの襲来

 原爆投下から間もなく終戦。それから間もない頃のこと、一番苦しかったことの想い出、最も強く脳裏に焼き付いていることは“飢えと渇き”です。この“飢えと渇き”が一緒になって襲ってきました。食べるものがない、飲める水もない、危機的な状況の経験でした。

 原子爆弾による破壊で井戸水に地域の汚物が入り込んだりして、飲める水がなくなりました。食料は戦争中は統制配給制度でしたが、最後の頃は「10日間配給がない」ことも珍しくない状態でした。それでも10日待てばなんとか手に入る期待がありましたが、原爆投下後はその期待さえ失われてしまいました。

 空腹と共にくる渇きは我慢できません。たまりかねて妹と近くの池の水を飲んで渇きを癒したこともあります。あの時の味、感触は今でも忘れられません。池の水なんか飲んでよく無事だったなあと今にして思います。

 道に落ちている石ころさえ食べ物に見えたこともあります。地域の人達もみんな同じ状況だったと思います。原爆の直接の被害ではなく、飢えか病を重くし命を落とした人も多くあったと聞きました。

 原爆投下後の日本は、特に広島、長崎は政治から「うっちゃらかされ」て、国民の生活は放置された状態でした。今の福島と一緒ではないですか。

■病気との闘い

 戦後はずっと長崎で育ち、長崎で高校教員にもなりました。20歳代最後に結婚、30歳代になって夫が生活している京都に引っ越し、以来京都に住み続けてきました。

 病気とは縁の切れない人生でした。20歳代後半に白血球減少症を発症し、最悪の時は白血球数が1,000以下になったこともあります。今は克服しました。

 20年前から膠原病、リウマチ、シェーグレン氏病、4年前から甲状腺腫、昨年から甲状腺機能低下。膠原病は血栓のできやすい病気で、その影響で昨年は脳梗塞も発症しました。

 どうしてこんなに病気になるのかと思いますが、病気から逃げるわけにはいきません。かかった病気とは正面から向き合っていこうと思って生きてきました。
 これからもみなさまと一緒に頑張っていこうとしている毎日です。

■ABCC(原爆障害調査委員会)のこと

 戦後、昭和23年(1948年)、長崎にもABCC(原爆障害調査委員会)が開設されました。私は姉妹の中でも特に急性症状がひどかったので健康への不安が強くあり、「無料で治療するから心配な人は来なさい」というABCCの誘いに乗って行きました。

 沢山の人が並んで順番を待っていました。4〜5人前の人に様子を聞くと、全身裸にされて写真を撮られたりするらしいとか、検査の実情を聞かされてとても驚き、何もせずに飛んで帰りました。ABCCは検査、記録をする機関であって、一切治療などしないところであることを身をもって知りました。

 はるか後年、京都に移り住んでも、ABCCの後身である放射線影響研究所から調査アンケートと協力依頼が寄せられました。アンケートを読み進んでいくと、発症している疾病は原爆被爆とは関係なく、アメリカ政府などに都合のよい結論に導こうとしているとしか思えない内容でした。

放影研から送られてきた冊子とアンケート(2010年)
放影研から送られてきた冊子とアンケート(2010年)
■私にできることをやり尽くす

 時々身内の方が亡くなられた人の話を聞いていると、亡くなられた方はその様子から明らかに被爆されている人と思われるのに、話している人達にはまったくその認識のないことがあります。

 (本人含めて)被爆者とは認識もされずに世を去った人は実は多数にのぼるのではないかと思います。原子爆弾による犠牲とは認識されず、その数にさえ入れられていない人達です。原子爆弾のもたらした真実の姿を覆い隠してきた歴史による結果です。

 祖母を学校の運動場で焼いた時に胸に刻み込んだ無念の思い、飢えと渇きに苦しんだ時の悲しさ、悔しさ、あの時の怒りが私の原点です。あの怒りをこれからも絶やすことなく燃やし続けていきたいと思います。

 人生も後そう長くはないでしょうが、私が伝え続けるべきこと、語らなければならないことは少なくなく、最後までやり尽くしていきたいと考えています。

 今、憲法改定案が公然と持ち出され、9条がないがしろにされようとしたり、国防軍の創設なども声高に叫ばれたりしています。なのに、世の中どうしてこんなにのどかなのかな?と疑問に思っています。こうした状況を変えるために少しでも力になれることを望んでいます。

以上     

爆心地と長崎市の地図

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