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●被爆体験の継承 20

学童疎開の空に見た原子雲

塩谷 浩 (えんやひろし)さん

2014年6月16日(月)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

塩谷さん

 私は昭和8年(1933年)5月9日の生まれで今年81歳になります。子どもの頃、両親は島根県の出雲にいたんですが、私は国民学校2年生の時から広島の西白島(はくしま)町の祖父の所に来て暮らしていたんです。父親は繊維メーカーのグンゼの社員で、繭を育てる農家を指導するのが仕事で、所謂(いわゆる)転勤族で全国を転勤していたんですね。子どもも一緒に全国を転々とするのはよくないからというので祖父母に預けられていたんです。

■機銃掃射で殺された友達

 原爆が落ちたのは私が12歳、国民学校5年生の時なんですが、その前に、私にとっては原爆以上に悲しいことがあったんです。年月ははっきり覚えていませんが、かなり戦況は悪くなってた頃だと思います。

 広島ではたくさんの兵隊が宇品の港から出征して行くんですが、それを見送る「出征兵士を送る会」という壮行会がいつも広島駅の東方に広がる東練兵場で行なわれていましてね、私たち子どもも壮行会に参加していたんですよ。

 あの日も壮行会に出るため友達と一緒に東練兵場に向って走っていたんです。その時アメリカ軍の艦載機のグラマンがいきなり物凄いスピードで低空に降下してきたんです。エンジン止めて爆音を消して忍び寄るように滑るようにして降下してくるんです。空襲警報も出てないままいきなりです。そして人間めがけて機銃掃射し、その時だけエンジンかけるんですね、バリバリバリバリバリーっと。

 一緒に走ってた友達が倒れたので傍に行って「おいっ」と声をかけるともう即死でした。血だらけで、背中に機関砲の穴があいていて、胸がバクッと開いていてね。いくら戦争といっても小学生の子を機銃で殺しますか?上を見たら、グラマンのパイロットがにこっと笑ってるんですよ。

 何が辛いかと言って、あのことを思い出すのが一番辛いんです。これも戦争体験なものですからいつもお話ししてるんです。

■学童疎開

 昭和20年(1945年)の4月14日に、学童集団疎開で白島国民学校から3年生、4年生、5年生の42人が飯室(いむろ)という田舎に疎開したんですよ。飯室というのは広島市から北方向になる郡部の田舎で、今は市町村合併で広島市安佐北区飯室町という地名になっているところです。浄国寺という大きなお寺に集団疎開しました。

 あの頃は、6年生以上は勤労奉仕に必要だということで学童疎開せず、1〜2年生もまだ親と離れて生活するのは無理だと言って疎開してなかったと思います。だから3年生から5年生までだったと思います。

 42人だったんですが、その内の4人が原爆投下の日には家庭の事情で広島市内へ帰ってたままなんですね。その子たちのことはその後も全然分らないままなんです。一番悲惨だったのは、上田君と言う、私の家の向かい側の家の兄弟なんですが、お父さんが亡くなって葬式のために広島に帰って、その翌日に原爆に遭ってるんですね。

 学童疎開というのは惨めでつらいものでしたよ。疎開していたお寺の周りでは疎開してきた子どもたちはみんなまるで乞食扱いでしたからね。情けなかったですね。下級生はみんないつでも腹減らしてましてね。食事といっても、お椀にポコンとのせてある麦飯、その上に梅干しがチョコンとのって、あとはたくあん二切れついているだけ。味噌汁はなく塩汁だけ。そんな毎日でしたからね。

 お寺からずっと上の方へ行った所に、地元の飯室国民学校で同級生になった子の家がありましてね。その一軒だけでしたね、私によくしてくれた農家は。「来い、来い」と言うもんだから何回か行くと、麦刈りとか田圃の草取りとかいろいろな農作業を形ばかりにさせてくれて、手伝ってくれたからと言ってオニギリ作ってくれるんですよ。私がそれを持って帰ってみんなにやるんだと言うと、「そんなことせんでいい、ここで食べろ」って言って、代わりのお土産にサツマイモふかしたのを持たせてくれるんですよ。もらって帰って、下級生に配ってやったこと覚えてますけどね。そのこと以外は本当に乞食扱いでしたね。

 学童疎開は飯室よりもっと田舎の郡部に行ってた学校もたくさんありますからね。そんなところから子ども達が6〜7人夜逃げしてきましてね、私らのいたお寺まで辿りついてきて座り込んでしまったことがありますよ。私らのいたお寺でも下級生達が「帰りたい、帰りたい」と言ってみんな騒ぐんだけど、「帰ったら駄目だよ」と言って私ら上級生が言い聞かせて、しっかり押さえたりしていましたね。

広島市から可部駅までと可部線の地図

■キノコ雲

 集団疎開には女の子もいるんですけど、やっぱり男の子が集まりますと戦争ごっこばっかりでしてね、毎日が。お寺の裏山に登って、ハゼの木を切って刀を作って、体がかぶれてしまって男性のシンボルがとんでもなく腫れてしまったんですよ。それで飯室の国民学校の近くの診療所に3日目毎に通ってたんですよ。

 丁度8月6日のその日も診療所に行く日で、お寺から出て診療所に向かって歩いている時に、光だけがいきなりバァーッと見えたんですね。頭の上の雲がダァーン、ダァーンと走って、そりゃあびっくりしましたね、あの時は。そういう時には、何か恐いと思った時は、とにかく低い所に避難しろと教えられていたんで、一緒に歩いてた4人の子どもはびっくりして傍にあった小川に飛び込んで、首から上だけ出してじーっとしてたんですよ。川の中でじーっとしてる頃にキノコ雲がグァーッと上がっていくのを見たんです。それから診療所で薬をもらって、とにかく早く帰れ、大変な事になってるから早く帰れ、ということでお寺へ帰ったんです。

 昼過ぎまでは何事も無かったんですけど、午後3時か4時になった頃ですかね、その頃になるとたくさんの人が飯室の駅からゾロゾロゾロゾロ歩いてくるようになったんですね。聞いてみると、国鉄可部線は広島の横川駅から可部駅まではもう動いてなくて、みんな広島から可部まで歩いてきたらしいんです。その歩いてくる人達を私たちはお寺のそれほど高くない壁の上から覗くようにして見てたんです、下の県道をゾロゾロゾロゾロ歩いて来る人を。真正面から見たら何でもない人が、過ぎた後の後ろ姿を見たら水膨れで背中がこんなに膨れ上がっているんです。それから顔半分が焼け爛(ただ)れてしまっている人とか。みんな下ばかり向いて、トボトボトボトボ、ゾロゾロゾロゾロ歩いてくるんです。

 子どもたちはみんな一緒になって見てたんですが、その内3年生や4年生の下級生は泣き出しましてね。5年生は4人いて私が集団長してたんですけど、その4人がまとまって、とにかく下級生たちを部屋の中に入れて、蚊帳を吊ってみんなをその中に入れて落ち着かせようとしたんですが、とてもおさまりませんでした。みんなわんわんわんわん泣いてね。

 広島が大変な事になったらしいということも伝わってきて、家がどうなっているのか分らない、家族が怪我をしてるかもしれないって、みんなが騒ぎ出したんですね。引率の先生たちもどうしようもなくなって、収拾がつかなくなってきたもんですから、引率の男の先生とお寺の和尚さんと5年生の4人の合わせて6人で広島に行ってみることにしたんです。だけど状況がまったく分らないのですぐには出られない。何時行けるか分らんけどとにかく必ず行ってくるから待ってろ待ってろってみんなを宥(なだ)めておいて、2日目の8月8日になって出発したんです。

■壊滅の街 広島

 飯室から可部までは汽車ですけど、可部からは歩くしかありませんでした。しんどいとは思いませんでしたね。とにかくとてもとても心配で、行き交う人は怪我した人や大火傷した人ばっかりですからね。三篠(みささ)橋まで辿りつくと、原爆が落ちてもう2日も経っているというのに橋の上にはまだ死体がどっさりなんですよ。太田川にもいっぱい死んだ人が浮いているんです。

 橋の上の人一人がやっと行き交えるほどの狭い間を歩いて行ったんですが、もう少しで渡り切って西白島に着くという所で、私はいきなり足首を掴まれましてね。掴んだままその人は「兄ちゃん、水くれーっ、水くれーっ」って言うんです。その時は体全体が震えて、どうしていいか分らなくて、どうにもならなくてじーっとしてたら、向い側から歩いてきた松葉杖ついた怪我した兵隊さんが「坊主、蹴飛ばせ!蹴飛ばさんとお前も死ぬぞ!」って大きな声出してくれて、まわりの人も一緒になって掴まれてた手をむしりとってくれたんです。叩いたり、引っ張ったりしてはずしてもらったんですけど、「可哀想だけど、この人に水やったらすぐ死んでしまうから駄目」、「絶対やったらいけないんだ」ってまわりのみんなに言われましてね。

 白島に入りましたけど、通れるのは人が歩ける道だけでしたね。まわりは瓦礫ばっかりでした。三篠橋からそんなに遠くない自分の家を探しました。私の家には玄関の横に目印になる大きな松の木があって、それに登って遊んだりもしてたもんですが、松の木の下にはコンクリートで作った用水槽もありました。

 その松の木が見えたので行ってみたんですけど、家はまったく焼けてしまっていて影も形もありませんでした。全部瓦礫です。松の木の横に防空壕が掘ってありましてね、そこへ食器や食糧、味噌や米類を少しづつ入れてあったらしいんです。何かあるかもしれないと思って覗いてみたんですけど、もう何もありませんでした。あらいざらい誰かに持っていかれたみたいで、何も残っていませんでした。

 私たちが通っていた白島国民学校も心配になりましてね、私の家から10分もかからない所だったんですけど、行ってみると、防火壁が1枚ストンと立っているだけ、後は全部焼けてしまって瓦礫とガラクタばっかりになってました。

 その日の8月8日の夜は陸軍病院の近くで野宿をしました。救援の人からもらったオニギリがどんなに美味しかったことか、今でも忘れることはできませんね。そして翌8月9日にまた飯室の浄国寺に帰りました。

■飯室を離れる日

 学童疎開していたのが42人で、4人は原爆投下の日に広島に帰っていてそのまま消息は分らないままになり、残り38人が飯室にいたわけです。8月15日に戦争が終わって、疎開していた子どもたちは親が迎えに来てくれる子から一人また一人と順次飯室を離れてそれぞれに帰っていくことになりました。

 私の場合は8月18日に出雲から父親が迎えに来てくれたんです。親が迎えに来てくれた順番から言うと4番目で、他の子たちより比較的早かったんです。ですから私の後に残った多くの子ども達のその後のことはほとんど分らずじまいになってしまいました。

 お父さんも、お母さんも、共に原爆や戦争で亡くなってしまって、迎えに来る親のないままいつまでもいつまでも待たされてしまった子もいたはずですよね。そんな子も決して少なくはなかったのではないかと思いますよ。

 終戦になった時、玉音放送聞いて引率の先生は二人ともとんずらしてしまいましてね。しようがないのでお寺の和尚さんが地元の学校の先生と相談して一生懸命後の面倒見てくれたんです。あれも忘れられないことです。その後一度も飯室を訪れた事がないんです。死ぬまでに一度は浄国寺も飯室も訪ねて、お礼をしなくちゃとは思いながら。

* * * * *

 8月18日は父親と一緒に可部、横川を通って、かってあった自分の家の前を歩いて広島駅まで行きました。広島から芸備線経由で出雲に向ったんです。広島の街を歩いている途中に「この下に二人の女性の死体あり」と書かれた看板が立っているんですよ。何とも言えなかったですね。

 私は父親に連れられて出雲に帰り、両親と弟と私との4人暮らしになりました。両親と離れて祖父母の下で長く暮らしていたものですから、出雲に帰った頃は、出雲と広島の生活の格差がとにかく情けなかったです。食事一つとってみてもね。

 私はうどんが大好きだったんですけど、出雲に帰った日にそのうどんが山ほど出てきたんですよ。「出雲の田舎ではみんなこんないいものをたくさん食べていたのか」と思ってね。集団疎開での食事は食事とも言えない貧しいもので、そんな毎日でしたから出雲での食事には「みんなこんないいもの食べてたのかあ」としみじみ思いましたね。

■祖父、祖母、叔母のこと、そして被爆者健康手帳

 私が学童疎開する前、西白島町の祖父の家では4人が住んでました。祖父と祖母(母方です)、母の妹(私の叔母)、そして私です。あの日、祖父は出勤前の準備をしていて、祖母がその手助けをしていました。原爆で家屋の屋根までドサッと落ちてきましたが、窓枠が間に挟まって二人は助かったのだそうです。奇跡としかいいようがないと言ってました。祖父は足の親指を骨折しましたが、祖母は無傷で済みました。

 その後避難して、かねてからいざという時に落ち合う場所と決めていた田舎の農家で叔母と合流しています。あの頃は万一に備えた集合場所をみんな決めていて、祖父母も日頃から野菜などを届けてもらっていた懇意の農家と約束していたんですね。

 叔母の方はその日徴用で宇品に行っており、宇品で被爆しました。一旦西白島町まで向い、その後落ち合い場所の田舎へ避難して無事でした。

 祖父母と叔母もその後出雲に移り住むことになりました。

 出雲に移り住んだ後になって、祖父母や叔母は被爆者健康手帳を取得したんです。その時私の手帳も一緒にとってくれました。ところが手帳とって1年ほど経ってからですか、祖父が「私たちよりもっともっとひどい目に遭って苦しんでいる人達がたくさんいる」と言い出して、祖父は足の指の骨折だけですし、祖母は無傷ですし、私もベロに筋が入っただけでそれももう治っていたわけですから、「私たちの手帳は返納しよう」ということになってしまったんです。私の父も祖父も元々教師で、教育者上がりなもんですから、そういう謹厳さが影響したんだと思います。以来私は被爆者手帳を持ったことがないんです。

 私は被爆した後すぐにベロに6本の筋ができてまともな食事ができないようになっていたんですよ。熱いものも駄目、冷たいものも駄目で、水も満足に飲めない。かろうじてうどんだけが食べられる状態が1年半ぐらい続きました。それもピカドンのせいだと言われていたんです。

■農家のご主人の体験

 被爆直後祖父母たちが避難してみんなと落ち合った農家は可部からもう少し先の田舎にあったようです。その農家のご主人の悲惨な体験を祖父や祖母から聞かされていました。

 農家のご主人たちは原爆投下の後、亡くなった被爆者の死体を焼却する仕事に勤労奉仕で動員されたんだそうです。太田川の川辺に1週間毎日通わされたそうです。人間の体っていうのは頭部が重いんだそうですね。積み上げて焼いている死体から頭がゴロゴロ焼け落ちてくるんだそうです。それをスコップですくって、奥の方に放りあげるのを泣きながらやっていたんだそうです。「こんことしてたら俺はロクな死に方しないだろう」と思いながらやってたそうですよ。

 嫌な思いというより、とにかく悲しかった、という話をそのご主人は祖父母に語っていましてね。それを私に聞かせてくれたんですよ。

■戦後の暮らしと狭心症の発症

 その後出雲の小学校を卒業し、まだ旧制だった地元の中学に進学しましたが、2年生の時に父親の転勤で群馬県の前橋に転校しました。高校卒業後は、東京で1年間大学夜間部に在籍しましたが、祖父母に呼び戻されて一度出雲に帰り、再び東京に出て就職をし、そしてまたまた出雲に帰るなどしました。

 出雲で昭和36年(1961年)28歳の時に結婚しました。島根県や山陰地方でミシンのセールスマンを長くやってましたが、その後事情があって一時期神奈川県の平塚に行き、それから妻の妹が京都に居たのを縁に、私達も40歳を超えてから京都に移り住みました。京都ではタクシーの運転手をやって、65歳の定年まで続けました。

 京都でタクシーに乗るようになってからですけど、昭和48年(1973年)に狭心症を発症しましてね。年に2回も3回も入院を繰り返したんです。心臓カテーテルを18回もやって、その内バルーンを9回ぐらいやってるんです。それぐらい心臓の血管を痛めてますから私の心臓には補強材が4か所も入ってるんですよ。1種4級の障害者手帳も持ってるんです。

 睡眠時無呼吸症候群にもなっていて時々きつい目眩も出るんですよ。呼吸が復活する時に心臓にすごい衝撃がかかるそうで、それを気をつけなさいと言われてるんです。手術をすればいいらしいんですが、これだけ体を痛めてきて、この年になってという思いも強くて手術は勘弁してもらってるんです。

 長年連れ添った妻は3年前亡くなりました。今は娘と孫と3人で一緒に暮らしています。

■『消えた広島』との遭遇

 地域で一緒に活動している私のお仲間の一人が永原誠先生の『消えた広島』を持ってるのをたまたま見つけましてね。すぐに原水爆被災者懇談会に連絡して2冊買い求めたんですよ。一冊は自分で読んで、もう一冊は埼玉にいる叔母のところへ送ったんです。叔母は亡くなってますけど従兄弟がいましてね。すぐに反応ありましたよ。

 永原先生の『消えた広島』は鉄砲町が主な舞台ですけど、私の住んでいた西白島とは隣り合わせですからね。『消えた広島』読んでるとロシア人のパン屋さんが登場しますよね。とても懐かしかったですよ。私たちもそのパン屋さんから実際にパンを買っていたんですから。そんな場面がたくさんあるんです。

 それから、永原先生のあの本の特に第三部「壊滅の日々」。あれは政治家みんなに読ませたいですね。これ読んだらどんな気持ちになるかと思ってね。戦争は駄目ですよ絶対に。今の安倍さん、一体何考えてるんですかね。

* * * * *

 私は誰かに私の戦争体験、被爆体験をしっかりと話しておきたいとずーっと思っていたんですよ。私もあちこち頼まれて語り部もやってますが、語り部は時間の制限もあるし、みんながみんな真剣に聞いてくれるわけでもなかったりしますからね。そうではなくて、きちんと全部を話しておきたいと思っていたんですよ。二度ともうあんな辛い思いはしたくないですからね。

 今度京都「被爆2世・3世の会」との縁ができて、こうして私の被爆体験をすっかり聞いていただいて、私もこれでほっとしました。


爆心地と広島市の地図

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