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●被爆体験の継承 21

“ふりそでの少女”と共に−私の被爆体験

藤田晴子さん

2014年7月9日(水)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

爆心地と長崎市の地図
■家族の転勤

 私は1932年生まれで82歳です。原爆が落ちた時は13歳でした。もともと東京の人間ですが、父が銀行員でしたので転勤があって、たまたま長崎に3年居た時の2年目に被爆しました。翌年はもう次の転勤地に引っ越しをしました。

 長崎の原爆当時は、祖母、父、母、姉妹3人の6人家族でした。

 私たちの時代は、国民学校(小学校)6年生から男子は中学校へ、女子は女学校へ受験して入学する制度でした。13歳は今の中学1年生です。私は長崎県立長崎高等女学校の1年生でした。

 1945年3月頃は、もう日本の国は何もかも無くなって、入学試験用の紙もなかったのでしょう、私たちはペーパーテストではなく口頭試問でした。一人一人が5・6人の先生の前で一教科一問一答で答えなければなりませんでした。憶えているのは、算数のテストで、「日本軍がアッツ島に何個師団(数字は憶えていません)上陸しました。一個師団は何人(これも数字は憶えていません)です。全部で何人上陸しましたか?」。歴史は、「今までの国難を知っているだけ言いなさい」というのでした。

 それから、私たちの時は入学式のあと撮る総合写真もありませんでした。フイルムもなかったのでしょう。

 入学してから原爆まで勉強らしい勉強はありませんでした。教練のような訓練や、校庭を耕して畑にしたり、防空壕を掘ったりの作業の日々でした。

 私の姉は、家族と離れ、東京の女学校の寄宿舎に入っていましたが、戦局がひっ迫し、動員学徒として行っていた工場も3月10日の東京大空襲で焼けてしまいましたし、寄宿舎も閉鎖になり、長崎の家族のところへ帰ってきました。そして、私と同じ女学校に転校してきました。

 転校したといっても、前年発令された「学徒勤労動員令」によって、やはり翌日から工場へ毎日通勤して兵器の部品を作らされていました。その工場は、三菱兵器茂里町工場で1.2キロのところにありました。そこで姉は被爆しました。

■原爆投下

 私の家は爆心地から3.4キロの所にありました。中川町というところです。家には祖母と母、私、妹の4人でした。この年は私たちの学校は夏休みがありませんでした。3、4年生が工場に行っているので、1、2年生も登校していたのだと思います。

 あの日も学校に行きました。7時45分警戒警報発令、で家に帰る途中(7時50分)で空襲警報になりましたが、8時半には解除になり警戒警報の状態になりました。空襲警報解除後の警戒警報の時は、皆ホットします。その状態の時、広島も長崎も原爆が落とされました。

 私は家に帰ってもすることがないので、ブラウスでも作ろうと思い、ミシンの前に座っていた時突然「グワーッ」とものすごい音がしたのです、いつものB29の音と違うので、低空飛行して機銃掃射されるかもしれない、窓際は危ないと思い、立ち上がった瞬間「ビカッー」とそれはそれは凄い光が空から光ったのです。

 そして、あたり一面オレンジ色になりました。それから、大急ぎで階下に降り、いつも入る防空壕のある部屋に行きました。防空壕は家には3つありました。庭に一つ、裏庭に横穴の壕、茶の間の下の地下壕で、いつもはその地下壕に入るのですが、空襲警報が解除になっていたのでもう閉めてあり入れませんでしたので、とっさに4人皆で畳に伏せました。途端に「ドカーン」とものすごい爆発音と爆風で、「死んだー」と思いました。

 爆心地から3.4キロですのにガラスや建具はめちゃめちゃに割れて吹っ飛び、応接間の窓は窓枠ごと吹き飛ばされ、家の中は、がれきと吹きとんで粉々になったガラスで足の踏み場もありませんでした。私たちがいた茶の間は神棚から物が落ちてきたぐらいで、不思議と誰もけがをしませんでした。急いで裏庭の横穴の防空壕に入りましょうとガラスの上を踏んでゆきましたが、皆、怪我もしませんでした。

 防空壕に入ると祖母と妹は泣き出すし、母は茫然としているので、私がしっかりしなくてはと、勇気を奮って、玄関に回って皆の履物を取りにゆき、爆風で倒されガラスも割れている戸を押し上げて、取り揃え持って行きました。祖母の上着も瓦礫の家の中から取ってきました。

 あのものすごい爆発音と爆風の後は、物音ひとつしない不気味な静寂が続いていました。

 女4人だけでは心細くなったので、町内の防空壕に行こうということになって、4,5分歩いたところにある町内の防空壕へ行きました。その壕の前には、ガラスで怪我した人や、落下物で怪我した人、家が倒れて大けがをした人など大勢いらして、壕のなかは、立錐の余地もないほど満員でした。

 しばらく満員電車のような壕の中に居ましたが、ここに居ても仕方がないと、また4人でぞろぞろと家に帰り、横穴の防空壕に落ち着きました。でも、何が起こったのか?どこに爆弾が落ちたのか、何もわかりませんでした。

■姉のこと

 父の銀行は、西浜町で市電の思案橋に分かれて行くT字路になっている角にありました。爆心地から3.1キロぐらいところです。鉄筋の建物だったので、ガラスで怪我した行員さんは何人かいらしたようですが、父は怪我もなく、夕方2人の方をお連れして帰ってきました。この方たちは爆心地に家があるので帰れなかったので、うちにお連れしたようです。

 結局この方々のご家族は全滅だったようです。父が帰ってきて、爆心地が浦上方面だと分かったのです。浦上というと姉が行っている三菱兵器茂里町工場が近くになります。

 それを聞いた母は気が狂ったように「私が美智子を迎えに行く!」と言い出したのです。でも、もう火事がすごかったのです。長崎原爆は、地上9,600メートルの所から落下させ地上500メートルのところで炸裂して、その時の地表の温度が3,000度とも4,000度とも言われていますので、自然発火するのです。

 夕方の時間帯は、もう爆心地一帯は火の海でした。それを聞いて母も諦めました。夜、山の向こうから真っ赤な雲が一晩中流れて行きました。その光景は今でも忘れられません。姉はもうだめだと思い、横穴の防空壕で母と妹の三人でお通夜をしました。父とお客様二人と祖母は、瓦礫とガラスをどうにか片付けて寝たようです。

 翌朝、姉は幽霊のようになってお友達と二人で帰ってきました。夕方までぐっすり寝て、その後昨日からのことを詳しく話してくれました。

 姉は原爆が落ちた途端気を失っていました。瓦礫の間から這い出るまでどのくらい時がたったかわかりませんが、上にかぶっていたトタンをどうにかはねのける事が出来、立ちあがって見たらさっきまであった工場もへし曲がった鉄骨だけで何もなくなっていて、道も何もわからない状態だったそうです。

 転校してすぐから工場だったので、家から工場までの道以外の地図がわからず、どうしようかと思っていた時、後ろから一緒に帰りましょうと声をかけてくださった同級生がいらして、その方と山越えをして帰ってきたとのこと。

 途中目の前に真っ黒な男の人が倒れそうになっていたので、二人で防空壕までお連れしたり、胸をえぐられたお母さんが、二人の男の子を「この子たちだけは助けてください」と託されたので、二人で一人づつおぶって山を登り、上に救護の人がいたのでその子たちを預けたそうです。

 自分たちもふらふらになりながら、そこに座りこんだら立てなくなり、あたりを見回したら、そこは墓場だったそうで、墓石に刻まれている死者の没年月日を見ながら、今日が私の命日か?と思ったそうです。 とにかく思考力も失せ、耳も音があったのだろうけど聞こえず、目も見えていたのだろうけど何も見ていない、頭のなかが真っ白だったようです。

三菱兵器茂里町工場の残骸
三菱兵器茂里町工場の残骸


 姉は、帰ってきて、被爆の体験は詳しく一度だけ話したきりで、その後40年ぐらいは何も話しませんでした。今は伝えて行かなければと、頼まれれば証言しています。

 被爆後、家族全員が急性症状の下痢に襲われました。もちろん姉が一番ひどく、その上白血球が1,300ぐらいに下がり、もうだめだと医者から言われるくらいの数値になってしまいました。その頃、新興善国民学校が救護所になっていました。

■新興善国民学校が救護所に

 もう命の火も消えかかっている姉ですが、当時は医者の往診もなく、自動車もなく、タクシーもないし、リヤカーもなく、歩くしか救護所に連れて行くすべがなかったのです。私が毎日付き添って通いました。2キロぐらいの道のりですから、姉はどんなにしんどかったかと今にして思います。

 救護所では沢山の被災した方々をみました。新興善国民学校も爆心地から3キロぐらいのところで窓も建具も吹っ飛び、中は全部が見渡せるほどでした。教室の板張りの上に布団を敷いたり、毛布だけ敷いて寝かされている人もいました。大やけどをした人、大けがをした人、意識のない人、気がおかしくなった人など、うめき声やなきごえや奇声を発する音など、阿鼻叫喚の状態でした。

 廊下の突き当たりに医者がいて診療して下さるのです。姉は、毎日、両腕に注射をうって糖衣錠の栄養剤を4・5錠いただいてくるだけでした。姉の同級生で背中いっぱいにガラス片が刺さった方があって、それを取るのに、丸椅子に座らされて、麻酔もかけず、メスでちょっと切って抜いて縫って、また切って抜いて縫って、と背中いっばいの治療を歯を食いしばって我慢していらっしゃる姿が忘れられません。

救護所となった新興善国民学校の病院室
救護所となった新興善国民学校の病院室


 またある日、姉の順番待ちの時間校内をぶらぶら歩いて一階の廊下の突き当たりの右の教室をみましたら、遺体が教室の半分ぐらいの高さまで積み上げてあるのを見て、驚いて急いでそこを立ち去りました。まだ息があると思って爆心地から連れてこられて、すぐ亡くなるという状態が日常的にあったのです。そして身元が分からない遺体はまた爆心地に送られて、山と積まれて、荼毘に付されるということで、人間の尊厳など戦争になると無視されてしまうのです。人間が人間らしく生きることも死ぬことも許されないのが戦争なのです。

 姉はその後何度も大病をしましたが、生かされて、今東京におります。

■学校の再開と大島史子(ちかこ)さんのこと

 3キロぐらいのところの西山にあった私たちの学校もガラスは割れ、鉄の窓枠も曲がり、教室のなかもめちゃくちゃでした。

 10月から学校が始まったのですが、まず片付けをして、慰霊祭が行われました。3、4年生の学徒動員で亡くなった方は長崎市の記録では191人となっていますが、その他1、2生で家に帰って亡くなった方を合わせると260余人だったと思います。講堂の前に皆の写真が飾られましたが、私たちの学年は総合写真がないので、誰も飾られなかったと思います。

 私たちが入学した時、入学式を終えて教室に入った時の隣の席は、大島史子(ちかこ)さんでした。その頃長崎には県立女学校が一つしかなく、市内全域と周りの郡部の国民学校から受験して生徒たちは進学してきていました。大島さんは、城山国民学校からで、爆心地から500メートルの所にあった学校の出身でした。

 入学以来隣同士ですごく仲良くしていました。けれども原爆後、史子さんの消息は何も分かりませんでした。入院しているのかもしれないし、親戚の所に行っているのかも知れない、と淡い期待を持っていたのですが、また、一方では、爆心地500メートルではだめかもしれない、との思いも持っていました。けれども、翌年はもう父の転任で長崎を離れましたので、史子さんの消息を知る手だてはなかったのです。

* * * * *

 被爆40年目の年、私は、夫の仕事の都合で小田原に居ました。神奈川県の原爆被災者の会で被爆40年の行事の一つとして、希望者を募って長崎の平和式典に行くことになり、私も10数人の方々と共に行くことにしました。被爆後初めて長崎を訪れることになったので、この機会を逃したらもう史子(ちかこ)さんの事は解らないだろうと思い、手紙を書きました。しかし、どこに出したらいいかわからず、学校の校長先生あてに出しました。でも、ご存じであるわけはないのです、40年もたっているのですから。

 手紙は校長先生が私と同期の同窓会の役員に渡してくださいました。その役員をしていらした方が私を憶えていてくださり、一生懸命消息を探してくださいましたが、結局わかりませんでした。もう、私の心の中も区切りをつけようと思いました。

 ところが、被爆43年の夏、長崎から一本の電話が入りました。「大島史子(ちかこ)さんの消息が分かったわよ」というものでした。松添博さんという方が描かれた、『悲しき別れー荼毘』という一枚の被爆絵から分ったのでした。私はすぐ長崎に飛びました。そして松添さんにお会いし、最期を看取ってくださった方にもお会いしてお話を聞きました。

 原爆が投下されて亡くなった多くの方々は、身元もわからず、山のように積まれて荼毘に付されるのが多かった時、きれいなふりそでを着せてもらい、薄化粧をしてもらい、荼毘に付されている光景をたまたま通りがかった当時の松添少年が見かけ、彼は何年たってもその光景を忘れる事が出来なくて、29年後に一枚の絵にしたのです。

 けれどもその荼毘に付されていた二人がどこの誰かわからず、定年前に仕事を辞めて、二人の身元を探し続けられました。そして、43年目にやっと身元を探し当てられたのです。今、この絵は原爆資料館に展示してあります。一人は福留美奈子ちゃん(当時9歳)、もう一人は大島史子(ちかこ)ちゃん(当時12歳)ということが解って、テレビでそれが放映され、それを見た友人が小田原まで電話をくださったのでした。

 史子ちゃんのお父さんは三菱製鋼所の優秀な技師さんだったそうですが、工場の事故で亡くなり、原爆投下の時はお祖母様とお母様の三人でした。家の下敷きになってお祖母様はまもなく亡くなり、お母様も顔に大火傷をされて、16日には史子さんに心を残しながら亡くなり、史子さんも17日、後を追うように亡くなったとのことでした。お父さんの実家が富山なので、お母さんは、実家を頼って史子さんだけでも生き延びるよう願ったのですが、それも果たせないまま逝ってしまわれました。

 史子さんの消息が43年目に分かって、その翌年史子さんの叔母様と従妹さんとで富山で初めての法要が営まれました。その時私も富山まで行かせてもらいました。さらにその翌年、一人で富山まで墓参に行きました。被爆60年の年は、「史子さんの死を無駄にしないように平和のために頑張ります。」と京都の友人とお墓参りをしてきました。

■福留美奈子さんのこと

 絵に描かれたもう一人の少女の福留美奈子さんのご両親は、美奈子ちゃんを日本で教育したいと思われ、原爆投下の時は長崎のご親戚に預けられていたのです。戦争が終わってご両親は中国から引き揚げて来られていたのですが、美奈子ちゃんの最後は解らないままでした。引き上げ後は京都府の綾部に住んでおられました。毎年、綾部中学の生徒たちが広島へ修学旅行に行くとき、折鶴を託して平和を祈っておられました。

 松添さんは、美奈子ちゃんのお母様が綾部にいらっしゃることを知って、さっそく『悲しき別れー荼毘』の絵をもって綾部へ向かわれ、お母様と対面されました。お母様は涙を流しながら喜ばれ、美奈子ちゃんが絵に残されたことに感謝されました。

 被爆50年の年、お母様は、「美奈子の供養のためにお地蔵さんを建てたい」との希望を綾部の中学生に話されました。中学生たちは早速協力を申し出て、街頭に立って募金を集めたり、お店に募金箱を置かせてもらったり、ずいぶん頑張りました。

 その様子をテレビが放映し、その時の中学生のコメント「この碑を作るのが終わりではなく、この碑の前で平和を考えたり、平和を発信する事が出来るような碑にしたい」とのことに全国から共感の募金が集まりました。1996年3月31日、新しく建てられた長崎の原爆資料館の屋上庭園に『未来を生きる子ら』と名付けられた碑が建立されました。

ブロンズ像『未来を生きる子ら』 長崎市原爆資料館
ブロンズ像『未来を生きる子ら』 長崎市原爆資料館


 松添さんは子供たちに平和を訴えていくために、『悲しき別れー荼毘』で描かれた二人の少女のことを『ふりそでの少女』という絵本にして出版され、世に問われました。ほんとうに良いことだったと思います。

「ふりそでの少女」という絵本の表紙
■被爆証言を語り始めて

 1989年から頼まれればよほどのことがない限り上記のようなことを語ってきました。戦争には聖戦など決してない、戦争は人の殺し合いで、命を粗末にする最たるものであること、戦争で、平和は来ないことを徹底的に語ってきました。

 高校生や小学生、生協のグループなどお呼びがかかればどこでも、生き残った被爆者として、下手な話でも、伝えていかなければとの思いで出かけています

 秘密保護法が通り、集団的自衛権が閣議決定された今、恐ろしい方向に日本は歩みを進めています。でもまだ、戦争反対と言えます。反対が言える間に声を出して反対を言い続けたいと思います。小学校の子どもたちもよく聞いてくれて、感想文に「戦争が起こるようなことがあったら、僕たちが反対します。」と書いてくれた子どももあります。

■被爆後の健康

 原爆の翌年1946年、1年生の3学期は微熱が続いて、ずーっと学校を休みました。あの頃は、わけのわからない微熱が続くと肺門浸潤などと結核系の病名が付けられました。原爆が起因しているかもしれませんし、そうでないとも言えません。

 また、頭痛薬も50年以上毎日飲まなくてはいられませんし、時々すごい眩暈(めまい)が起こります。なにが原因か全くわからないのですが、すぐ被爆のせいでは?と思うのも被爆者だからだと思います。

■孫たち孫の子どもたちに
   平和な社会を受け渡すために

 政府に都合が悪いことは秘密保護法で隠蔽し、「積極的平和主義」の名のもとに集団的自衛権を行使できるようにし、解釈改憲で強引に「戦争できる国」を作ろうとしている今の政治の体制に強い怒りを覚えます。先の戦争の誤った行為の反省と懺悔で出来た平和憲法をないがしろして、「戦後レジーム」からの脱却を叫んだ首相は戦前回帰を望んでいるのでしょう。それは、憲法の根幹をなす「主権在民」「基本的人権」「平和主義」をすべてひっくり反すことで、私たち平和を愛し、人の命を大切にしょうとする国民の意に反することです。

 私は、日本は自衛隊をも持たず、丸腰でいる方が良いと思います。「備えあれば憂いなし」と言った首相がありましたが、備えあるから、(攻められやすい)憂いが増すと思います。この69年間攻めることも、攻められることも、他国の人を殺すことも、自国の人が軍隊で殺されることもなかった年月は、偏(ひとえ)に憲法九条と非核三原則が歯止めになっていたからだと思います。

 憲法九条を守り、平和を構築するために力を出してゆき、孫たち、これから生きて行くすべての人々に核兵器も核の平和利用とされる原発も、戦争もない、平和で住み良い国を残してゆきたいとしみじみ思います。


『悲しき別れ―荼毘』 制作:松添博氏 長崎原爆資館所蔵
『悲しき別れ―荼毘』 制作:松添博氏 長崎原爆資館所蔵


爆心地と長崎市の地図

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