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●被爆体験の継承 23

58年目に辿りついた“被爆者”として生きる意味

花垣ルミさん

2014年4月11日お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化
挿絵は紙芝居『おばあちゃんの人形』より

花垣さん
■横浜から広島へ

 私は昭和15年(1940年)3月25日、大阪の四ツ橋の近くで生まれました。大阪には3歳頃までいたんですが、銀行員だった父の仕事が東京本社に移りその関係で横浜の社宅に移り住みました。

 昭和19年(1944年)、父が今度は台湾の支店に赴任しました。母と私の二人だけの生活になってしまうことを心配した父は、私たちに母の実家のある広島で暮らすよう指示したんです。大きな都市への空襲もひどくなってきた頃で、広島へは避難、疎開するような気持でした。

 昭和19年の春、荷物をいっぱい持って母と4歳の私と二人で広島へ向かいました。途中、大阪に立ち寄りました。大阪の石切というところに家屋が購入してあって、母がその時一人で家の様子を見に行ったんです。私は一人で大阪駅に何時間も置いておかれて、とても寂しく、不安な時間を過ごしたことを今でも妙に印象深く覚えています。

 母の生まれた実家は広島の仁保町でしたけど、私たちが実際に避難して住んだのは母の一番下の妹(私の叔母)の家で、三篠本町(みささほんまち)にありました。そこに母の母(私の祖母)も一緒にいて女ばかりの4人家族の暮らしでした。その年の10月に私の弟が生まれました。

 私の家の隣には同じ年の子がいて、その子とよく一緒に遊んでました。家の向い側には幼稚園があって、私と隣の子と一緒にその幼稚園に通っていました。

 昭和20年(1945年)8月6日、私は5歳でしたけど、その朝は、初めに空襲警報が鳴ったんです。鳴ったので一度は避難して、でも警報は解除になったからまた家に帰りました。そこまでのことは私ハッキリ憶えてるんです。避難してた防空壕から出る時、入り口で誰かが転んで後から出ようとした人達がみんな重なり合うようになってつまずいて、一騒動あったんですね。あれは警報解除になってみんなが家に帰ろうとした時だったってことまで憶えているんです。

 実は記憶として残っていたのはここまでのこと。その後のこと、8月6日の原爆投下当日のこと、その後の2ヶ月ほどのことは全部記憶から消えていました。

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■慰霊の灯篭流しから

 はるか後年、平成15年(2003年)、私は63歳になっていました。原爆投下の日から58年後のことです。結婚もし、子どもも孫もできていて、家庭の主婦として京都に住んでいました。その夏、京都生協から「広島の被爆者慰霊式典に参加しませんか」という案内のチラシが届きました。京都生協では毎年生協組合員から募集して広島・長崎の原爆慰霊式典に参加する企画が行われていたんです。

 毎年のことだったので、「ああ今年ももうそんな時期か」と思いましたが、その時何気なくチラシを処分する気になれず残しておきました。近所に古川さんという板金屋さんがあって、どういうわけかその方から板金で作った折り鶴の置物をもらうようなことがあったんです。もらった折り鶴と慰霊式典のチラシのこととが何故か重なり合って、「今年は広島に行きなさい!」って背中を押されたような気がしたんです。生協に参加を申し込み、孫を連れて暑い広島に行くことにしました。

 広島に行く前に生協では事前学習として被爆された人の体験を聞くことになっていました。その時お話しされたのが元京都原水爆被災者懇談会世話人代表の永原誠先生でした。永原先生のお話しは、私が被爆者の方から直接聞く初めての被爆体験でした。

 広島の慰霊式典から帰ると、式典に参加した感想や様子など報告する会が予定されていて、夏の日の夜、報告会のための報告書を作成していました。広島では灯篭(とうろう)流しをしていただく企画もあったので、永原先生に連絡して「先生の分の灯篭流しもお願いしてきましょうか?」とお誘いしたんです。先生は両親と二人の妹さんを原爆でなくしておられたので、その4人のお名前と「あの日のことは忘れませんよ」というメッセージを預り、一緒に灯篭流しを託してきました。

 「あの灯篭きちんと流してもらえたかな」などと思いながら報告書を書いていたんですが、その時突然、戦後間もない頃の、子供の頃の灯篭流しの情景がありありと頭に浮かんできたんです。

 昔は川の護岸など整備されていなくてごちゃごちゃした土手のようなところから灯篭は流されていました。それぞれの川の岸には、写真とかひしゃげた一升瓶やら食器やら、亡くなった人の思い出のものとか、いろいろなものが、遺品のようにして、8月5日頃からお盆の頃までずらーっと並べられていました。それが最初の頃の原爆で亡くなった人を慰霊する姿だったんです。それらの遺品のようなものは、その後にできた広島平和記念資料館に収納されました。(広島平和記念資料館は昭和30年・1955年に完成)

 私の小学校1年生だった従兄弟の一人はあの日学校に行っていて原爆で亡くなったんです。家族が探しに探してやっと3日目にどこかの川の河原で遺体を見つけたんです。その場所で荼毘に付されたのですが、従兄弟の母親は老いて亡くなる年まで毎年その場所で我が子の供養を営み続けていました。広島の灯篭流しとはそういう場所だったのです。

 戦争が終わって間もなく、私は広島を離れることになるのですが、母の実家のある広島の夏には何度か墓参りに行っていて、その頃見た灯篭流しの情景が58年後のこの日、鮮明に思い出されてきたのです。

灯篭流し
■58年目の記憶回復の衝撃

 灯篭流しのことを思い起こしたのをきっかけに、被爆した時のこと、体験したことが、途切れ途切れに、断片断片に、一つまたひとつと、次々と記憶に蘇ってきました。58年もの歳月を一気に駆けのぼり、固く閉じられていた記憶の闇に光が差し込んできて、記憶の扉が開け始められたような感じでした。

 呼び覚まされる記憶を「これは何だろう、何だろう!」って思いながら、自分の頭の中を駆け巡る58年ぶりの情景が衝撃となって私を圧倒していきました。真夏なのにガタガタと体は震え、汗をいっぱいかいて、自分を保つことができませんでした。孫の2段ベットにしがみついて、辛うじて自分を支えていました。

 報告書は深夜に書いていたんですが、夏のことですから4時過ぎには明るくなるんですね。その明るみを見てやっと落ち着きを取り戻し、少しづつ気持ちは安らいでいきました。この時初めて「ああ、もしかして私の記憶は取り戻されているかもしれない」と思い、顔を洗いにいきました。

 衝撃で泣きながら書いているもんですから字は滅茶苦茶で、用紙も涙で滲んだりしててまともには読めない。もう一度書き直さなければと思いながら、でも読み直すのが怖くて上から新聞紙をかぶせて一日放っておきました。あらためて新しい用紙に書き直そうとして読み直している内に、実はああだった、こうだったと、さらに新しいことが次々と思い出されていきました。

 私の家の近くには竹藪があって風で笹がざわめいたりするんです。その笹の音を耳にした瞬間、原爆にあってみんなで竹藪に避難した時の情景がいきなり頭の中に蘇ったりもしました。そんな一つひとつがつながりあって、徐々に徐々に私の8月6日は思い出されていきました。

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 記憶を呼び戻した58年前にさかのぼり、思い出すことのできた体験をお話ししていきましょう。

■猛火に追われて避難

 防空壕を出て、それから1時間ぐらいしてからかな、今まで見たことも聞いたこともない、すごい光、音、震動に襲われました。

きのこ雲の絵

 それまでの広島は整然と街路の並んだ、街並みの並んだ、戦争やってる中でも静かな日常だったように記憶してます。その広島の上空にエノラ・ゲイは飛んできた。その真下に私達みんなの生活があったんです。

 高度は9,700メートルぐらいの高さだったと言われています。下を見ても街路と街並みしか見えなかったはずで、私たち人間のことは全然見えなかったはずです。そういう状況下で原爆は落とされました。非日常の瞬間であり、短い人生の長い一日の始まりです。

 原爆の落とされた瞬間は、ふわっと地面ごと浮き上がったような感じでした。そして衝撃波の力で家のブラインドや窓枠やタンスなどまでが窓際まで飛ばされました。家は倒れかけて、2階の部屋で遊んでいた私は窓際と家具との間にはさまれた状態になって、その時に箪笥の楔(くさび)が頭に刺さったのです。自分では気づかずに、避難して大分経ってから刺さったままだったのを教えられました。それから顔も体中も傷だらけでした。顔は右頬の皮がズルッとめくれてしまって、今でもそこだけは皮がすごく薄いままなんです。

 2階から下を見ると庭の松の木も歪んでいました。その松の木の根元に弟を背負った母が倒れ込んでいるのが目に入りました。母はお風呂場の横で洗濯してましたが庭の松の木の根元まで飛ばされたそうです。叔母は台所で片付けものしてて、飛ばされてどこかで足を打ったらしくてびっこをひいてました。

 お祖母ちゃんはその頃身体を悪くしていて2階の部屋のベッドに寝ていたのですが、そのベッドごと窓際まで飛ばされていました。一番無事だったのは母に背負われた弟でした。

 まわりの家々はみんな無茶苦茶に壊れてました。その内、近所ぐるみ騒然となってきて、小学校や中学校に子どもの行っていた家の親達は子どもを探しに出かけて行きました。でも、学校へ行くまでの途中でもう火の手が上がっていたり、家が崩れたりしているので、なかなか学校へは辿り着けなかったようでした。

 間もなく近所から火の手が上がりました。家は爆心地から1.7キロメートル離れてるところでしたけど、熱波に襲われて、家の中の蚊帳とか庭の笹とか、着火しやすいセルロイドの玩具(おもちゃ)類、そういうものにまず直接、火が移ったみたいです。そんなことを後から町内会の人に聞きました。

 やがて地域一帯が火の海になってきたんです。私たちの通っていた幼稚園も火に包まれていました。後年知ったことですが、私が通っていた幼稚園は全焼し、先生1人と園児24人全員が亡くなっています。

■三滝の竹藪

 私たちは2階にいて怪我したんですが、下からみんなが助けにきてくれました。叔母がどこからかリヤカーを探してきて、そのリヤカーにお祖母ちゃんを乗せてみんなで避難していきました。いろんな人に助けられて、三滝というところにあった川の土手の竹藪まで避難しました。その竹藪には、すでにたくさんの火傷した人達が、中にはもう亡くなった人もいたと思いますが、来ていました。

 私は当時5歳、人が亡くなった状況というのは、まだよく理解できていなくて、横になっている人を見ても寝てる人としか思っていなかったようです。後になってからあれは亡くなった人だったんだと分ったようなことでした。

 私のすぐ横にどこかのおじいさんが蓆(むしろ)の上に横たわっていました。焼けただれて、顔もズルズルになって、血が滲んだり、脂が滲んだり、皮膚も真っ黒になっていました。避難した竹藪の近くに養鶏場があって、その鶏舎も壊れて鶏もたくさん死んでいました。生き残った鶏がそこら中歩きまわってそのおじいさんを突っつくんですね。おじいさんはちょっとだけ指を動かすんですけど、それがとても可哀そうで。私の母が棒っきれで、「しっ!」と言って鶏をおったんですね。何故かその不思議な光景の瞬間だけが、記憶から消えることなくポッと残っていたんです。あの時の母の姿だけがとても印象深く、それだけは記憶から消え去ることなくずっと残ってました。

■音のない逃避行の記憶

 その内に竹藪にも火がつき始めました。竹藪に火がつくと、竹が破裂してパカーンパカーンとものすごい音がするんですよ。いたるところで乾いた高い音がして、火の粉も飛んでくるんです。だから竹藪も危ない、また避難しなくちゃならないということで、またお祖母ちゃんをリヤカーに乗せて安全なところを求めて逃げて行きました。竹藪から避難する時には、もう息絶えた人達もたくさんいて、みんな手を合わせて、それから避難していきました。

 その時、私は裸足で逃げてたもんですから、母が何か履物を探してくるといって、大人の下駄片方と子どもの下駄片方を拾ってきてくれたんです。それを履いて逃げるんですけど、下駄が焦げてて、片方の大人の下駄の鼻緒がすぐ切れて、母が自分の手ぬぐいで直してくれました。歩いて避難するんですけど、足も怪我してて、足の裏も火傷してて、もう歩きながら、我慢できないほど痛かったはずなんですね。

 逃げている時の記憶には不思議なことに音というものがまったくないんですね。というか、音の記憶がほとんど無いんです。みんな泣いたり喚いたりしてるんですが、大人の声も、子どもの泣き声も、まったく音として残っていないんです。とても静かな不思議な逃避行の記憶なんです。ただ竹藪の破裂する音だけが耳に異様に残っていて。

■5歳の子の目に映ったもの

 避難する道々、倒れてしまっている人もいっぱいいました。それから今から思うと、あれが5歳の子どもの目線、子どもの視野だったのかなと記憶を甦らしながら思います。鳥籠の中で死んでいる鳥、ゴロっと死んでる鶏、猫がバンザイの格好で死んでいたり。犬は3匹ぐらい見たけど、もう死んでる犬も、怪我しながら歩いている犬もいました。馬や牛なんかも死んだり、体を硬直させて焼けかかったりしていました。

 朝ごはんが終わった頃の時間だったので、ちゃぶ台が壊れていたり、ひっくりかえっていて、ついさっきまで使っていただろうなと思える金太郎の絵の入ったお茶碗、普通に朝ご飯食べてたんだろうなあと思えるようなお茶碗がいっぱい転がっていました。洗面器とか家庭用品がいっぱい、おもちや類、それと乳母車。昔の乳母車って随分丈夫なものでしたけど、そういうものが燃えたり、壊れたり、そこらへんに散らばっていたりしました。

■「たえちゃん」という名のお人形の恐怖

 私はいつも大好きな母が作ってくれた籾殻(もみがら)の入った大きなお人形と遊んでいて、「たえちゃん」という名前をつけていました。その「たえちゃん」を家に置いたまま逃げてきていたんです。避難の途中「たえちゃん」にそっくりのよく似た人形にも出遭いました。火も出ていない、煙も出ていない、でもジブジブジブジブと燃えていて小さくなっていっている。それがすごく怖い情景で恐怖に襲われました。

 私の記憶が無くなった原因の一つはあの人形の光景にあったんじゃないかと思います。それぐらい怖かったのです。「たえちゃん、どうしてるかなあ」と思いながら。

たえちゃんという名の人形の絵
■助けることのできない母子との出遭い

 逃げる途中の周りの家々は瓦礫になっていて燃えていたりするんですけど、お母さんが赤ちゃん抱っこしておっぱいあげている人に2組会いました。一組の方は赤ちゃんは明らかにもう死んでるようでした。亡骸となった我が子を抱きしめ、おっぱいをふくませる母親の心情はどんなものだったかと、今でもこの場面は子を持つ親として胸が痛みます。

 もう一組の方はお母さんの手がまだ動くようでしたので、私の母が「私たちと一緒に逃げましょう」と声をかけると、指さして「あの家の下に3歳の息子がいるから私は行けないんです」って言うんです。母たちは周りを探していたようですが、瓦礫ばかり目につき、「ごめんなさい、じゃ先に行きますよ」と言って別れたんです。

■水を求めて群がる人の山

 黒っぽい塊のようなものがあって、水がザァーザァーと出ている所があるので、水道管が破裂したのかなと思って近づいて見ると、黒い塊は水を求めて群がる人間の山だったところもありました。

 あの時はみんな「水を」「水を」と求めて歩いていたんですね。でも、ほとんどの人は水に辿りつくこともできなくて亡くなった。水の噴き出るところまで行けた人は、わずかでも飲めたかと思う。一滴も飲めなかった人のことを思えば、まだ良かったのかなあと思いました。この場面を話す時は、とても辛いのです。

■虫の息状態だった弟

 お祖母ちゃんは歩けないものだから、その後もずっーとリヤカーに乗せて避難したんですけど、リヤカーってのは道がないと通れないもので、もう無茶苦茶になった所を行くのは大変でした。母と叔母が担ぎあげたり、近くの人に手伝ってもらったり、邪魔になるものをどかしりたしながら、ちょっとづつちょっとづつ進むんですね。どうにか竹藪を逃れてやっとの思いで三滝の山にたどり着いたんです。そこはもう避難してきた人でいっぱいでした。

 私が「おばあちゃん」と声をかけるとお祖母ちゃんは私の顔を見るなりワァッと泣きました。頭も顔も血だらけになった姿がすごいことになっていたのを悲しんだのだと思います。

 その日10ヶ月の弟は朝から母の背中におんぶされていたのですが、原爆の落ちた時から母は弟を背負っていることを忘れるぐらい弟と一体になって動き回っていました。お乳もやってないし、オムツも変えていないままだった。

 山についてからおんぶしてることに気づいてやっと背中からおろしたんですけど、弟はもうぐったりして体中ぐちゃぐちゃになっていて、もう虫の息状態だった。真っ赤にただれて、オムツをとると皮膚がボロッととれるの。救援の人からもらったお茶でお尻を洗ってやって、おにぎりを噛み砕いてお乳代わりに食べさせました。弟が吸っても吸っても母のお乳は出なくなっていたんですね。

■記憶を喪(うしな)った時

 私は山に着いた途端眠ってしまったのか、意識を失ってしまったのかすっかり寝こんでしまいました。そして次の日、それが次の日だったのかどうかも私にはハッキリとは分らないのですが、ものすごーい臭いで目が覚めたんです。それはもうすごい、異様な、これまで嗅いだこともない、分けのわからない臭いなんです。

 目が覚めてふっと起き上った時、目の前に、距離にして10メートルぐらい先ですが、ゴムボートのように膨らんだ人とか、手足の無い人とか、真っ黒になった人とか、人間の体の一部だけもあって、たくさん積み上げられていたんです。木をいっぱい積み上げて、その上に人を乗せて燃やしているんです。

 私は、それが荼毘(だび)だってことを知りません。人間が死んでるってことはどういうものかも知らない。どうしてあんなことするのか、人を焼くことの意味もまったく知りませんでした。だからその強烈な臭いと眼の前の状況とに激しい衝撃を受け、母は「見ちゃダメ!」って抱きしめたけど、私はその瞬間、意識を無くしてしまいました。そして、しばらくして意識は回復したんですけど、記憶は戻りませんでした。8月6日の記憶が戻るまでに58年かかるんですね。

荼毘にふした人を見せまいと母の両手が目の前にくるという絵
■お祖母ちゃんの耐え難い思い出

 思い出した体験を語っていて、いつも一番つらい話になるのはお祖母ちゃんのことを話す時です。病気だったお祖母ちゃんは体力も弱ってて、食べるものもなくて、あの頃はみんな食べるものなくて栄養失調でしたけどね、お祖母ちゃんも随分栄養が欠けたままになってました。ずーっと寝てるもんだから、お尻のくぼんだところが少し腐ってきてね、そこへウジが湧きだしたんです。生きてる人間にウジが湧いたりすること見たことないでしょう。動物だって多分見れないと思います。ところがウジが湧いてきて、そのウジが広がっていって、どんどんどんどん中に喰い込んでいくんですね。

 母と叔母が一生懸命それをピンセットでとるんですけど、「痛いからやめてぇや、やめてぇや」ってお祖母ちゃんが言うんです。「でもね、とらないとね、増えていくからね」って言いながら母と叔母が押さえつけて、ピンセットでとるんですね。それを横で見ていた私は一緒になって泣いていました。

 これはお祖母ちゃんの人としての尊厳に関わることなので、あまり話したことはないんです。これからもしゃべることはないと思います。だけど今日は、原爆というものが、戦争というものが、人間にどんなこともたらしたかってことを知って欲しいから、我慢して話してるんです。お祖母ちゃんには「ご免なさいね、今日は話させてね」って断って来てるんです。

 ウジは放っておくと当然ハエになります。だからちょっとでもおいとけないんで、きれいさっぱりなくなるようにとるんです。その後で消毒する薬もなくて、わずかにあったクレゾール、本当はそんなもの傷口につけちゃいけないんですけど、それを薄めて薄めてきれいな手ぬぐいに浸して消毒するんです。それを朝から2回するんですけど夜の間に必ずまた小さいのが出てくるんですね。とりきれていなかったのか、卵がいたのか分らないんですけど。

 それから随分経ってから、ウジもいなくなって、やっと傷口がふさがって皮もはってきました。皮がはって治ってはきたんですけど小さな穴が形になって残ってしまいました。

■療養のため奈良へ、そして横浜、京都へと

 私は原爆の時の体験で心身ともに相当病んでいたらしくて、その後、奈良の生駒にあった親戚のお寺で療養することになったんです。体中傷だらけで、口も満足にしゃべれなくなっていたようです。

 奈良に行ったのは昭和20年(1945年)の秋でした。それまでの約2ヶ月間、広島に居たわけですが、どこでどのように暮らしていたのか今でも記憶は戻らず思い出せないままなんです。仁保町の母の実家(生家)で暮らしていたはずですが、今でも思いだせないのです。

 お祖母ちゃんのウジのことは、この2ヶ月の間のことのはずで、それだけが唯一記憶に残っていることです。奈良に行く時になって以降のことから、やっと記憶はしっかりと残っているようになりました。

 奈良に行ってしまうと母と別れて暮らすことになるので、最初は行きたくないと喚(わめ)いて抵抗したらしいんです。でも結局、奈良で2年間、穏(おだ)やかな日々を過ごすことができ、そのお陰で体も心も健康を回復することができました。

作文を読んでいる絵

 小学校に上がるのを機会に元の横浜の社宅に帰り、横浜の小学校に入学しました。父は昭和19年に台湾に赴任したままで消息不明でした。実は、父は終戦を迎える前に既に病気で亡くなっていて、そのことを私たちが知ったのは私が小学校6年生になってからでした。

 私が中学2年生の秋、横浜の社宅が立ち退きになったのを機会に、今度は京都にいた叔父を頼って京都で暮らすことになり、母と私と弟の3人で京都に移り住みました。

 母は調理師免許も栄養士の資格もとって、警察病院の仕事をしながら私たち姉弟を育ててくれました。その母は84歳まで生きてくれましたけど、最後は肺線維症で亡くなりました。

■被爆者であることの「惨めさ」を知る

 私は昭和39年(1964年)、24歳で結婚し、決して安産だったとは言えない状態だったけれども2人の女の子と1人の男の子に恵まれました。

 頭に楔(くさび)の刺さったところと右足の甲に火傷したところは大人になってもなかなか治らず時間がかかりました。30歳の時、椎間板ヘルニアをやって、その時、いつものかかりつけのお医者さんに「頭の楔(くさび)のささったところの傷と足の甲の火傷、やっと治ってきて、皮がはってきました」って言ったんですね。そしたら先生から「ああそうか、よかったね。じゃ、子どもたちに悪い血全部やっちゃったんだね」って言われたんですね。

 そんなこと言われたことがとてもショックで、その時初めて放射能を浴びた原爆被爆者ってどういうものなのか、その情けなさというものを知ったんです。だから今でも子どもたちには後ろめたいなあという気持ちはあります。子どもたちは「お母さんがそんな原因、作ったわけじゃないし、お母さんに罪があるわけじゃないし、気にしなくていいよ」って言いますけど。でも、やっぱり少し体の弱い子もいて、自分では「そうじゃないかな」と思ったりもしてました。

 長女は結婚した先で「被爆者は忌避される」って言われ続けていたんですね。割と気の強い子だったんですけど、そう言われ続けて、もう半分ぐらいまで痩せこけて、ある日「お母さん離婚してもいい?」って言ってきたんです。「被爆者は忌避される」ってずっと言われていたらしくて、孫が何か病気するとすぐにそれは原爆のせいではないかと言われてたんです。ゴキブリやネズミじゃあるまいし、忌避されるなんてね。娘はとても辛い思いをしたと思います。それで離婚しました。

 京都は戦争でそれほどひどいことは起きなかったところだから、理解も薄いだろうから、被爆者だってこと言わない方がいいよって私の母からは言われてましたし、私自身もごくわずかしか記憶として持っていなかったもんですから、自分が被爆者だってこと言う必要もなかったんですね。ずーっと誰にも言ってなかったんです。

 ただ、子どもが出来て、頭の傷と足の火傷が治った時のお医者さんから言われたあの言葉で、自分が被爆者だってことの惨めさを感じてしまいました。

■あの時の自分を取り戻す日々

 平成15年(2003年)に突然記憶が戻ったのですが、何もかもすべてが一度にスッキリと記憶回復したわけではないんです。8月6日のことで思い出したことも断片的なことが多く、そのため頭の中は整理がつかなくて混乱した状態でした。そんなことが2年は続きました。

 被爆の後のほぼ2ヶ月間の出来事も断片的な記憶しかなく、今も分らないままのことは多いんです。まだ失ったままの記憶をどうやって取り戻すか、自分探しの葛藤は今でも続いているんです。

 私の孫が大きなお人形持って遊んでいるのを見て、それをきっかけに、私のお人形の「たえちゃん」を家に置いたままにしてきたこと、逃げる途中「たえちゃん」によく似たお人形が燃えるのを見て恐怖に襲われたことを思い出したこともありました。

 私は自分が被爆者であることは小さい頃から知っていたし分っていました。でも被爆した時の様子や、逃げまわった時の経験などは母も親戚も誰も話してくれなくて、私は何もしらないまま大きくなっていました。ですから“被爆者”と言ってもまったく他人事のような感じだったんです。

 昭和35年(1960年)、20歳の時に被爆者手帳をとることになり、そのためには証明してくれる証人が必要で、広島に居た人にお願いしました。その時初めて、少しは状況を説明してもらったようなことでした。

 証明していただいたその方は、私たちが被爆した時に住んでいた町内の組長さんで、私と同い年の女の子のいた家で、当時幼稚園が一緒、原爆の落ちた日は二人とも園をさぼって助かったのでした。

■武田靖彦さんの証言に衝撃を受け“被爆者として生きる”ように

 58年前の被爆体験を思い出した翌々年の2005年、京都生協の本部からの要請があってNPT(核拡散防止条約再検討会議)のためにニューヨークに行く機会をいただきました。

 その時、ニューヨークに一緒に行った広島の被爆者の武田靖彦さんの被爆体験を語り訴える姿に衝撃を受けたんです。武田さんは、あの辛い悲惨な体験を泣きながらでも語られるんです。それは核兵器を必ず無くさなければならないという強い思いがあるからこその訴えであり、証言なんです。

 武田さんの態度から、私もいつまでも逃げてばかりいてはダメだ、自分も行動していかなければ、と少しづつ思うようになっていきました。その頃からですかね、本当に自分を“被爆者”として自覚し、被爆者にしかできないことを、しっかりとやっていこうと思うようになっていったのは。少し大袈裟な言い方になるかもしれませんが、“被爆者として生きる”ように、生活の軸が定まっていったように思います。

 ニューヨークから帰った頃から京都生協や、いろいろなところで私の被爆体験を語る、語り部の活動を行なうようになりました。縁あって仏教大学の授業でもお話しする機会をいただくようになりました。それでも最初からすべてが話せたのではないのです。自分の体験を話しだすと恐怖の思い出がよみがえってきて、途中で話せなくなることもしばしばでした。「ごめんなさい」といって打ち切るようなこともありました。その都度、語り部をされてる私よりもっと高齢の先輩のみなさんがしっかりと話されているのに励まされて、ちょっとづつ、ちょっとづつ乗り越えて行きました。

 私は5歳の時の被爆ですから、見たもの、経験したことも5歳なりのものなんですね。見たのは木々や植物であったり、犬や猫や蝉(せみ)たち、地面の下の蛹(さなぎ)や生き物たちです。そんな生き物たちの様子を幼稚園や小学校などで話すと、みんな前のめりになって聞いてくれました。そして「おばちゃん大丈夫だったんだね」と言ってくれるんです。

■紙芝居『おばあちゃんの人形』の誕生

 仏教大学の黒岩先生の授業で被爆体験を語っていく中で、子供たちにもっと分りやすく被爆体験を伝えていけるようにしようということで、仏教大学の学生の人たちによって紙芝居『おばあちゃんの人形』が製作されました。平成20年(2008年)のことです。

 これは私の被爆体験と、「たえちゃん」というお人形のことをモデルに13枚の紙芝居にまとめられた物語です。

おばあちゃんの人形という紙芝居の絵
■2010年NPT再検討会議にて

 NPT再検討会議は次の2010年にもアメリカ・オハイオ州・デートンのNGOの方々に招かれて行かせていただきました。その時、紙芝居『おばあちゃんの人形』の英語版を作って持って行ったんです。ニューヨークの本会議が始まる一週間前にオハイオ州で、小学校、高校、大学、一般家庭含めて10ヵ所ぐらいまわって『おばあちゃんの人形』を見せてプレゼンテーションしました。

オハイオ州での被爆証言
オハイオ州での被爆証言

 5月2日、ニューヨークでは世界各国から集まった人々のパレードがあり、長い長い列の途中で縁石に座り込んでいるNYの高校生5人がいて、その人たちに谷川佳子さんがしゃがみ込んで『おばあちゃんの人形』を演じてくれたんです。(谷川さんはツアーのコ―ディネイトと通訳を担当していただいた方です。)

 それを食い入るように見ていた一人の高校生が「僕の学校でもやってよ!」と言ってくれて、その子の学校でもプレゼンテーションするとことになったこともありました。その学校からは後日たくさんの生徒からお礼と感想文を送ってくれて、とても感動することになりました。私は英語がまったくできないのですが、でも通訳の力を借りてでも何とかすれば、世界に、思いは伝わる!ってことを実感しました。

紙芝居のプレゼンを依頼してくれた高校生と
紙芝居のプレゼンを依頼してくれた高校生と
■21世紀は人類の平和への激化

 平成26年(2014年)1月、「被爆者証言の他言語化ネットワーク(NET−GTAS)」が創立され、私も参加させていただいています。被爆体験が世界に広がることに微力でも尽くしたいと思っています。

 京都原水爆被災者懇談会との関係は2005年頃からです。それまでは被爆者を激励する立場にあって、京都生協の一員として被爆者へのプレゼントグッズを一生懸命作っていたりしていましたが、この頃から激励を受ける立場になってしまいました。その分、いやそれ以上に、“被爆者”として生き、被爆体験を語り続けて、お返しをしていきたいと思うようになりました。

 冥土の土産に是非、核兵器廃絶を、もうどこにも原爆は落ちないから安心して下さいって、持っていきたいのです。「20世紀は戦争への激化」だったが「21世紀は人類の平和への激化」でありたいものだと。

 証言活動も一人ではなかなか難しいものです。ごく身近な人々からの応援、幅広い人たち、NGOも含めての支えがあってこそできていることで、心から感謝しています。「核兵器って何?」と、何も知り得ない小さな子どもたちが無事に成長することをひたすら願いつつ、歩んでいきたいと思っています。

了     

2005年5月2日 ニューヨーク国連本部内にて
 長崎市長・伊藤一長さんと

 伊藤一長長崎市長は2007年4月17日選挙運動の最中、JR長崎駅前で後から近づいてきた右翼の暴漢に拳銃で撃たれ、翌18日未明、胸部大動脈損傷による大量出血が原因でショック死。
 この時身につけていた背広や時計等が立命館大学国際平和ミュージアムに展示されている。

長崎市長伊藤一長さんと花垣ルミさん

爆心地と広島市の地図

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