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●被爆体験の継承 24

私の戦争体験、夫の被爆体験

大坪郁子さん

2014年10月17日(金)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

大坪さん
■私の戦争体験

 私は昭和6年(1931年)9月21日の生まれで今年83歳になります。昭和6年といえば満州事変勃発の年ですね。東京荒川区の、上野の近くになる日暮里というところで、3人兄弟の真ん中(兄と弟にはさまれて)に生まれました。

 小学校の頃の思い出といえば、まず教科書。すべてがサイタサイタサクラガサイタ、ススメススメヘイタイススメ調でした。毎朝朝礼があって必ず教育勅語を言わされていました。遊ぶ時も戦争の歌を歌いながら、「欲しがりません勝つまでは」、「贅沢は敵だ」などと。私はみんなに率先して言ってまわる方でした。

 そんな時代を過ごしながら私たちは大きくなっていきましたが、戦局はひどくなり、子どもでも戦争の怖さを身近に感じるようなことが増えていきました。私が女学生になった頃、米軍の戦闘機に機銃掃射されそうになったことがあります。警戒警報の鳴る中を自宅に向かっていた時、戦闘機が近づいて来たんです。あの時は、近所の人が「早く入りなさい!」と言って家の中に引き入れてくれて辛うじて助かりました。

 防空壕に入っていて、なかなか空襲警報解除にならないため半日以上ずっと入っていたこともありました。そいう時、一番困るのはトイレなんです。男も女も一緒にぎっしりと入っている状態ですから、みんな我慢していましたね。

 昭和20年(1945年)3月10日の夜、私が13歳で女学校1年生の時、東京大空襲がありました。上野方面の山が異様に真っ赤に燃えていた光景は今でも脳裏から消えません。最初、いつでも逃げられるよう準備だけして縁側から外を見ていたのですが、突然私の頭上に親子焼夷弾が落ちてきました。その焼夷弾が破裂して大きく広がる直前、偶然突風が吹いて、爆弾は私のいた3丁目方向から2丁目方向に外れていきました。私は一命を留めることができましたが、反対に2丁目方向一帯は全焼という被害にあいました。焼け死んだ人もたくさんあったようでした。

 当時の子どもたちは、小学校低学年は縁故疎開へ、高学年は学童集団疎開するようになっていましたが、大空襲をきっかけに、母と私と小学校1年生の弟と3人は、父の実家のある滋賀県の農家、蒲生町(現在は東近江市)に疎開することになりました。兄も後から疎開してきました。

 父の実家と言っても、疎開した先では「疎開者」と言われたり、「よそ者」扱いされたりして、疎開生活というのは苦労の絶えないものでした。村の中で何か悪いことが起こればすべて疎開者のせいにされたりしました。母に黄疸が出た時、お医者さんを呼んだら、「こんなことぐらいで医者をよぶな」と言われたり、疎開先の従姉妹が私の大切にしていた洋服を勝手に持ち出して着たりして、そんなことが重なっていって、せっかくの親類なのに関係は悪くなっていきました。大人になってから従姉妹も「ひどいことをした」と言って謝ってくれ、私も「戦争のせいだから」と言ったものの、心の傷は消えません。

 あの頃のことを話していると高木敏子の『ガラスのうさぎ』っていう本を思い出すんですよね。あの本は高木さんの体験に基づいたお話ですが、東京大空襲や戦争中の辛いできごとなど、私ともよく似た体験だと思いました。

 私は疎開と同時に滋賀県の地元にあった日野高等女学校に2年生から編入となりました。しかし学校といってもほとんど授業はなく、出征のため男手のなくなった農家の農作業に勤労奉仕に行く毎日でした。私たちより一級上の人たちは軍需工場に動員されていました。たまに授業のある時は、全クラスを一つにまとめて学年ぐるみの授業が広い場所に集められて行われました。学校でも男の先生は兵隊にとられていて、先生の数が足りなかったからです。英語の授業は敵国の言葉だということで廃止されていました。

 終戦となった8月15日は夏休み中でした。重大放送だということでみんなで集まってラジオを聞きましたが、ガーガーといって何を言っているのか聞き取ることはできませんでした。でもその内に「戦争に負けた」ということを聞き伝えに知ることになりました。

 世の中はひっくりかえったような感じになりました。うれしいとか、悲しいという感じではなく、「今まで我慢していたのは何だったんだ!」とか、「日本は絶対に負けるはずがない」と洗脳されて培っていたものが崩れてしまい、心の中は不安でいっぱいになっていきました。母からは、「あんたは丸坊主になって男にならんとあかんよ」とか、「アメリカ兵が来たら横穴の防空壕に逃げなさい」などとも言われていました。今の時代、「心のケア」とかよく言われますが、あの当時こそ本当にそういうものが必要だったのではないかと思います。それほど心の中は波打っていました。

 9月に入って、同じ滋賀県の八日市にあった母親の方の親元に引っ越すことになりました。こちらでは周囲の環境もすっかり異なり、戦災者ということで大切にされ、ほっとしたいい環境で落ち着いて過ごすことができました。今でも私の心の故郷はこの八日市になっています。

 その後学校制度も変わって、女学校4年生の時新制高校の2年に編入となりました。編入された高校は当時の神愛高校(今は八日市高校)で、この高校を卒業しました。

■京大医学部付属高看で学ぶ

 高校を卒業して、昭和25年(1950年)、18歳の時、当時の京都大学医学部付属厚生女学部専攻科に第3期生として入学しました。翌年校名は京都大学医学部付属高等看護学校に変わりました。

 高校卒業後の進路について親は「洋裁学校にでも行って」ぐらいに考えていたようですが、私は高校2年生の頃から反抗期だったのか、「親から離れて一人で暮らしてみたい」という気持ちを強く持っていました。高校に届いていたいろいろな看護学校からの進学案内冊子などを見て、全寮制で、当時、授業料も要らなかった京大医学部付属看護学校を選択し、親には内緒で受験し、受かってしまいました。

 あの頃、まだ教科書もちゃんと整っていなくて、先生たちの講義を一生懸命ノートに聞き取らねばなりませんでした。内科学と外科学、解剖生理学等々、教授や講師陣は一級の先生方が多くて、講義は大変質の高いものでした。

 一方で、毎日朝礼があって、ナイチンゲール誓詞の斉唱とか、寮生心得の斉唱とかが強制させられていました。学生たちには強制的な斉唱に対する反感が生まれていて、自治会を作って話し合い、「ナイチンゲールは尊敬すべき人だが、誓詞斉唱は強制されるものではない」、また寮生心得にある「寮母を母として」などというのもおかしい、といって斉唱はもうやめよう、と決議したことなどもありました。

 学生時代は勉強のかたわらいろんなサークルも歩き回り、その中から医学部平和サークルにすごく惹かれるものがあり、はまってしまいました。平和サークルではいろんな活動をしましたが、当時、農村は遅れているから啓蒙活動が必要だと言って、南山城の農村を訪問してまわったりしたこともありました。

■民医連に

 高等看護学校の卒業は1953年(昭和28年)、21歳の時です。卒業前に平和サークルで知り合った先生に紹介されて吉祥院診療所を見学していました。あの頃、京都といっても四条通から南は京都駅しか知らない、南区の辺鄙なところにあった吉祥院診療所を初めて見て、京都にもこんなところがあるのか、と驚いたものです。でも、その家庭的な雰囲気には、とても親しみを感じ魅かれるものがありました。

 私たちの卒業の年は京大病院への就職枠がかなり狭められていて、多くの人は京大病院以外に就職先を見つけなければならない事情がありました。そういうこともあって、私は当時、上京区の白峰診療所の2階にあった民診連(現在の民医連)を尋ね、そして、そこから偶然にも吉祥院診療所を紹介され就職することになりました。

 吉祥院診療所は昭和26年(1951年)の秋に開業しており、私は開業の1年半年後に就職したことになります。場所は西国街道に面した所で、2代目所長となられる岡本先生の自宅が使われていました。私が行くまで看護婦は一人もいない状態でした。諸事情から岡本先生の診察はなく、京大や府立医大から医師が交代で診察の応援に駆け付けている状態でした。

 患者さんは日雇い労働者とか、韓国の人とかが多く、今のような医療保険に加入している人は数えるほどしかありませんでした。日雇い労働者の保険や、医療券を持ってくる生活保護の人も多くありました。自殺未遂で担ぎ込まれる人、栄養失調で倒れた人と、肺結核の人とか、そんな患者さんが後を絶たない診療所でした。

 あの頃の吉祥院は、まだ、そこら中畑だらけという光景でした。舗装道路なんかありません。西高瀬川は自然な流れの川で暗渠もありませんでした。日本新薬の工場から異様な臭いの水が流れ出て問題となったこともありました。その昔、西国街道は大名行列の通った道だったと言われていましたが、私が就職した頃は「アサクサ街道」などとも言われていました。毎朝、牛が下肥を引いて歩く道だったからです。

 当時の国鉄の西大路駅は、あの頃から今と同じですが、西大路九条から今の171号線に向かって西高瀬川にかかる橋は、まだ木造でした。畑の中に小さな工場がたくさんあるのも吉祥院の風景でした。特に石原産業関係の工場が手広くやられていました。

■結婚・出産・子育て・共働き人生

 吉祥院病院に就職した翌年、1954年(昭和29年)、22歳の時、3歳年上の大坪昭と結婚しました。診療所の近くの同じ地域にお互い下宿していて、地域の青年団の活動やいろんな機会に知り合うようになっていたのがきっかけでした。夫の収入がとても少なかったことなどから私の親は猛反対でしたけど、私は家を飛び出すようにして強引に結婚しました。当時、四条寺町を下った所にあった労働会館で会費制の結婚式を挙げました。父は来てくれましたが、母は最後まで反対で参加してくれませんでした。

結婚式の日
結婚式の日

 夫・昭は勤めていた電気会社をレッドパージで辞めさせられて、当時、日ソ親善協会(今の日本ユーラシア協会)の専従職員をしていました。給料などほとんど無いに等しく、収入の多くは私のお給料のみ。経済的には大変厳しい中での新婚生活のスタートでした。

 結婚した次の年、1955年(昭和30年)、私が24歳の時、長男が誕生しました。さらに3年後、私が27歳の時、次男が誕生しました。二人目の子どもができ、まだ社会の保育制度も十分でなかった時代、勤めながら子育てするのはとても大変だったため吉祥院診療所を退職することにしました。夫には日ソ親善協会を辞めてもらい、きちんとした収入のある仕事を探してもらうことにしました。

 1963年(昭和38年)、私が32歳になった時、子育ても一息つける頃、吉祥院病院に二度目の就職をしました。最初はパート職員として、3年後には正職員になって。正職員になってすぐに主任になって、新婦人の南支部の支部長もやって、選挙運動なども一生懸命で、子育てもしながらの、連日連夜、大忙しの毎日でした。子どもたちが「お母さん、どこへも行かんといてー」と言って、泣きながら出かける私を追いかけてきたこともよくありました。

 吉祥院病院の看護師の仕事は1980年(昭和55年)、49歳の時に正職員を辞めてパート職員に変わりました。京都に引き取った父親の面倒を見たり、いろいろあって正職員(婦長)としての勤めが難しくなっていたからです。パート職員としては65歳の最後まで勤め、1996年(平成8年)定年退職を迎えました。正職員だったりパート職員になったりといろいろありましたが、それでも最初の就職の時から数えると40年間も吉祥院病院にはお世話になり、私の人生を支えていただいた職場でもありました。

■夫の被爆を知る

 私たちが結婚する時、夫が被爆者であることを私は知りませんでした。結婚前、二人で河原町など歩いてる途中、夫が急にすっと座り込むようなことが何度かあったんです。今思うと立ちくらみではなかったと思うんですが、そんな時も夫は何も語りませんでした。言えなかったんでしょうね、被爆者であることを。夫は私に被爆していることを打ち明けずに結婚したことについて、ずっと罪悪感を抱いていたようです。周りの人たちにはそう話していたようです。

 その頃、私は原子爆弾というものについて何も知りませんでした。原爆がどんなものかという知識も何もほとんどなかったんです。原爆の本当のことは世の中全体にも隠されていたのですから、多くの人も同じように知らなかったんだと思います。

 長男が生まれる頃、「被爆者と接触しただけで放射能が飛んでくる」、「握手すると手が腐ってしまう」、「お化けの子が生まれる」などというとんでもない噂もあったそうです。夫は長男が生まれる時、そんな噂に惑わされたわけではありませんが、とても心配だったんです。夫は子どもが産まれるまで、ずっと私にくっつくようにしていて、心配の仕方が尋常ではありませんでした。私はその頃、「どうしてこの人(夫)はこんなに私の傍にくっついているんだろう」と思っていました。夫は後で、「五体満足で、まともに産まれるのだろうか」と思って心配で心配でしようがなかったんだそうです。普通だったら父親になるというのはすごく喜ばしいことですよね。それが拷問のように苦しく、苦悩の毎日だったと言っていました。

 被爆者は言われなき差別をされて、そのために語ることをできなくされていたんです。夫は「僕らは差別されてきたんだ」とよく言っていました。そのことと、原爆投下による悲惨な情景を思い出したくない思いとが重なって、被爆のことを語りたくなかったんだと思います。子どもが生まれた後も、この子が差別されはしないかとずっと心配していました。

 夫が被爆のことを語り、私もそのことをはっきりと理解していったのは1965年(昭和40年)、原水爆禁止世界大会が大阪と京都で開かれた年の頃からです。夫は世界大会に要員として参加していて、被爆者でもない人たちが一生懸命原水禁運動にとりくんでいる姿を目の当たりにして、衝撃を受けるように感動したようでした。

 自分は広島で被爆しているのに、これまで何もしてこなかった。もう二度と自分のような辛い思いを誰にもさせてはならない。だから、これからは語っていこう。そのために原爆で亡くなった人たちが僕たちを生かしてきたんだろう。原爆で亡くなっていった人たちのために、それを伝えていかなければ、と強く感じたようでした。

 その年を機会に、語り部として小学校や中学校、高校、大学などあちこちで自分の被爆体験を語るようになっていきました。

 8月6日は毎年京都の壇王法林寺というお寺で被爆者の法要が行われます。夫は朝早く起きてそこへ参加していました。私もたまに一緒に参加したことがありました。その帰りにはいつも、「8月6日には広島では灯篭流しがあるんだよ」という話をしてくれました。「その灯篭流し、僕は見ることができないんだ」と言いました。灯篭が、あの日、川の中で死んでいた多くの人たちの頭に見えるから、見たくないんだ、ということを何度も言っていました。

 被爆者健康手帳の交付申請は、最初は証人なしでやっていたけど認めてもらうことはできませんでした。夫の従兄弟が広島県世羅郡の役場にいて、その人を頼りに探していくと、夫が配属されていた軍隊の名簿が出てきて、それを辿っていく中で二人の証人を見つけることができました。1971年(昭和46年)になってやっと手帳交付を得ることができました。

 子どもは産んで本当に良かったと思っています。夫が語り部をするようになってから、小学生くらいの息子に「あなたたちも被爆者の子どもって言われるよ、いいか?」と聞くと、息子たちは「他所の子やったら知らんけど、お父さんの息子やから被爆者の息子って言われても当たり前やん」と言ってくれて、夫も「ほっと」として語り部に出かけて行っていました。そういう子どもたちでした。後年原爆症認定訴訟をする時、息子たち二人も原告に名を連ねてくれました。

■夫・昭の被爆体験

 夫は京都生まれの京都育ちだったんですが、夫の父親が広島から出てきて京都に住んでいたので本籍地は広島でした。生まれたのは1928年(昭和3年)1月5日です。戦局がいよいよ厳しくなっている頃からは、国民学校の学童は田舎に疎開、それより上は学徒動員、さらに上はほぼ強制的に志願兵にさせられていました。

 終戦の年1945年(昭和20年)、夫もその志願兵となり、教育召集という形で入隊しました。17歳という年齢でした。本籍地で入隊するという決まりだったので、両親の実家のある広島県世羅郡三川村に帰り、そこから世羅部隊に所属していました。

 8月6日原爆投下の当日は、山の中で訓練をしていたので直接被爆を被るということはありませんでした。そして、その翌日、8月7日に被災者救援のために230人の部隊員とともに広島市に入り、爆心地から600メートルの距離の西練兵場という所に設置された仮救護所に配置されました。日赤から派遣された医師の指示の下で被爆した人々の看護をしました。

 仮救護所に集まってくる人々は熱線や火事による火傷、建物破壊による怪我など痛々しく、また凄まじいものでした。衣服は破れ、両腕を前にだらりと下げたまま歩く姿は、まるで幽霊そのものでした。ウジ虫が湧いてくるのでそれをピンセットで採ったり、赤チンで皮膚がめくれないように垂らしながら消毒などをしていました。近所の人たちが、昔から火傷に効くと言われていた「メリケン粉にお酢を混ぜたもの」を、単なる火傷だと思って持ってきてくれました。それを被爆者の火傷の箇所に塗ると「気持ちがいい」と被爆者の人たちは言いました。しかし、熱射を浴びている肌ですからすぐに乾いてしまい、それを剥がす時には、骨が見えるほど身がえぐれてしまいました。とても痛々しかったと言っていました。

 亡くなった人を集めて荼毘に付すこともしました。行く道々に、動かなくなって死んだ人が折り重なっている光景や、馬や牛などが死んでいるのを見ながら作業を毎日続けていました。夫の所属する「世羅部隊」は8月25日現地で解散しています。それまで19日間、広島市内のほぼ爆心地に近い所で、寝泊まりや食事しながら救護活動を行いました。

 夫が語り部などを行なうようになってからは私も被爆体験をよく聞かされました。断片的な話しが多かったですが、大会や集会に行ったりした後に、帰って来てからさらに追加で説明するように話してくれることが多かったです。

 「広島市内に救護に入って、子どもにお乳を飲ませているお母さんがいて、『兵隊さん、水下さい』って言われたけど、水をあげたらすぐに死んでしまうと聞かされていたからあげなかった。でも次の日、同じところに行ったら、その子を守るようにしてお母さんも死んでいた。水をあげればよかった。」

 「道行く人、道行く人から『兵隊さん、水下さい』とせがまれた。その人たちを振り切って行ってしまった。悔やまれて悔やまれてしようがない。」

爆心地から450m、西練兵場跡のシダレヤナギ。戦前たくさん植えられていて、原爆でたった1本生き残った。(被爆樹木)

爆心地から450m、西練兵場跡のシダレヤナギ。
戦前たくさん植えられていて、原爆でたった1本生き残った。(被爆樹木)

 夫は世羅部隊の解散後、三川村の実家に帰宅しました。帰宅して2ヶ月経った頃でも、微熱・下痢状態があり、それも長い間続きました。痛みもないのに歯茎からよく出血もしました。全身がだるく倦怠感もありました。立ちくらみも数年続きました。

 19歳の時に京都に帰ってきました。それからも39度位の突然の発熱や、たびたびの立ちくらみに悩まされました。髪の毛を伸ばし始めた頃、激しく髪の毛が抜けおちるのに気付きました。生えては抜け、生えては抜けするのでびっくりしました。それ以前から脱毛はあったのに、坊主頭だったのでそれまで分らなかったのです。

■夫の闘病人生

 夫は「病気の問屋」というほど多くの病気に見舞われました。1958年(昭和33年)、30歳の時から変形性脊椎症という病気が出て、しょっちゅう腰に痛みがはしり、ぎっくり腰を起こしたりしていました。

 1969年(昭和44年)、42歳の時にがんの疑いがあって胃の手術をしました。がんではなく胃潰瘍でしたが三分の二を摘出しました。この頃から腎臓が悪かったり、肝臓が悪かったりで入退院をしょっちゅう繰り返していました。「今年は一度も入院しなかったね」という年がたまにあるくらいの状態でした。貧血もよく起こしました。貧血は薬が効く限りはずっと鉄剤を飲んでいました。鉄剤は長く飲むものではないので、正常値にもどったら止めるということを繰り返していました。

 最もひどかったのは1984年(昭和59年)、56歳の時、心臓が悪くなって金沢大学病院まで手術をしに行った時でした。WPW症候群といって、発作性の心拍数によって脈が150〜200も打つ病気でした。心臓の中に弁が一つ余分についていて、それが原因で激しく心拍数があがります。当時それを切除する手術は国内では金沢大学でしかできませんでした。(今はカテーテルで対処できるようになっています。)

 下痢もよくしました。入院しても原因が分らないんです。抗生物質でも止まらない、検査しても分らない、不明熱も出ていました。本当に訳のわからない症状で、それが原爆による影響の病気かもしれませんでした。

 原爆症認定集団訴訟で東神戸診療所の郷地秀夫先生が、「原爆によって核物質が体内に入ったら体内で被ばくが続く。体内に残って弱い部分に攻撃していく。そういう恐ろしさが核兵器だ」ということを証言されました。それを聞いた時、「そうだったんだ。あの症状はそういうことだったんだ」と、後年になって納得しました。

 夫は特に白血球が減るのを心配していました。実際、白血球が減少して抵抗力が弱くなり、肺炎を頻繁に起こしてよく入院しました。2001年(平成13年)には両眼白内障のために手術もしています。

 自分の体がしんどい時、すごくだるかったと思われる時、「これが原爆ブラブラ病というのかなあ」と、一人でポツンと言っていたりしました。

 だけど、普段はシャンとしているんですよ。姿勢正しくしてね、しっかり話していました。私が言うのも変だけど、被爆者の人は皆さんそうでしたね。なんでそこまでシャンとできるのかな、と思うくらい。私たちなら、しんどかったら「クター」っとなってしまいますけど、被爆者の人たちは一旦病気が落ち着けば本当にシャンとしています。夫は本当に冗談が好きでね。どんなにしんどい時でも冗談を言って笑わせてくれました。そういう点でもしっかりした人でした。

 こんなに多くの病気をしていましたので、休むことが多く、仕事は何回も変わらざるを得ませんでした。仕事を変わる時に面接に行きますと、本籍地が広島県なので、やっぱり被爆のことを聞かれます。うそはつけないので被爆者であることを言うと、そうすると採用されなかったこともありました。最後は、やむなく自営の仕事を起こし、電気機械組み立ての下請け事業でしたけど、本当に零細企業でしたが、それでなんとか生活を続けてきました。

■原爆症認定申請の決意、そして夫の死

 夫は京都原水爆被災者懇談会の世話人もしていましたから、それまでも他の被爆者のみなさんの原爆症認定申請や認定訴訟を一生懸命応援していました。裁判の傍聴にも熱心にでかけていました。でも、まさか自分が認定申請したりすることはないと思っていました。「ただでさえ認定は難しいのに、まだ自分は元気だから申請しても、認定されないだろう」ということで。

 ところが2004年(平成16年)3月に骨髄異形成症候群と診断されて、今度は自分も絶対に認定申請するぞ、と言い出したんです。3月28日に呼吸困難に陥って京都第一日赤病院に入院しました。その時に骨髄液を採って調べてもらったら骨髄異形成症候群という病気だと分りました。そして「この病気はやはり原爆によるものなんだ、今までの病気もそうなんだ」ということを再認識して、「僕、やっぱり認定申請の手続きするわ。認定申請しないと僕が原爆でこういう苦しみを味わっているということを皆に知ってもらえない。その苦しみを国が認めるということは、原爆の恐ろしさを認めることなんだから僕は申請する」と言って、自分で申請書類を書き、第一日赤の先生に診断書を書いてもらうようお願いしました。

 担当の先生は「原爆によるものとも言えないがそうでないとも言えない」という内容の診断書を書いていただき、それで申請書提出することができました。病院も人体実験をして証明するわけにもいかないので、なかなか原爆によるものとはっきり書けないんですね。認定申請日は2004年(平成16年)5月10日です。

 骨髄異形成症候群という病気は白血病によく似た病気で、骨髄移植しかなおす方法はないんです。だけど年齢的にもう移植は無理でした。貧血が起きるたびに輸血をして、白血球が減れば白血球が増える薬を注射するという対症療法しかありません。抵抗力が少なくなりますから肺炎を起こして機能不全に陥り入退院を繰り返すことになるだろうと言われました。

 診断が下された日、病名を聞いて余命いくばくもないことを知り、私は夫の前では泣きませんでしたが、家に帰ってから、息子や孫たちの前で、机を叩いて号泣しました。夫の60年間は何だったんだろう、これ以上自分たちのような悲惨な思いはさせたくないという思いで語り部活動をずっとやってきた、それなのに夫が原爆のせいで死んでしまうのだと思うと、堪(こら)えることができなかったのです。

 その時、夫は3日間ほど意識不明となり、救急救命センターで集中的な治療を受け、その後、意識は戻りました。それから6ヶ月間入退院を繰り返しました。9月15日、3回目の入院をした後、2004年9月28日未明、呼吸不全、心不全に陥り、家族に見守られて息を引き取りました。原爆症認定申請の結果を気にかけて、「返事はまだ来てないか?」と言いつつ死んでいったんです。76歳でした。

 厚生労働省から夫の認定申請に対して却下処分が届いたのはその翌年、2005年(平成17年)の2月28日です。

■夫の遺志を引き継いで

 2003年に始められた原爆症認定集団訴訟は、近畿の第一陣の原告の裁判が進行中で、夫も入院するまでは原告の小高美代子さんたちの意見陳述や証人尋問などの傍聴に毎回、大阪地方裁判所まで行っていました。入院してからは「よくなったら一緒に裁判の傍聴に行こうね」と夫と約束もしていたんです。

 夫が亡くなってから初めて私も裁判の傍聴にでかけるようになりました。その時、京都原水爆被災者懇談会事務局の田渕啓子さんから「大坪さん、一緒に裁判やりませんか」と声をかけられました。弁護士の久米弘子先生も紹介されて、先生からも「最後まで頑張りましょう。却下処分に対する異議申し立てもしましょう」と言って下さいました。

 認定申請した後、夫は5ヶ月も生きることはできなかったので「もう仕方ないなあ」と思っていたんですが、励まされて、まず異議申し立てすることにしました。でも、厚生労働省からはなかなか返答は来ません。それで、私と二人の息子と3人連名で裁判に訴えることを決めたんです。原爆症認定集団訴訟の近畿の第二陣原告7人の一人として、2006年(平成18年)7月28日提訴しました。

 裁判に踏み切った時、思えば、被爆に立ち向かってきた夫に対して、私は何もしてこなかったなあと思いました。今からでは遅いかもしれないけど、でも、やるだけのことはやろう、いや、しなければならないという思いを込めていました。

 被爆者本人は亡くなって、遺族がその遺志を継承して裁判に訴えるのは近畿では私が初めてでした。そういうこともあって大阪の裁判所での記者会見は、私ひとりがたくさんの記者に囲まれて行われました。

 訴訟を始めて、それまでこの訴訟に関わっていた人たちとも交流を深めるようになりました。そして、訴訟に関わっている人たちが、私よりもっとよく夫のことを知っているのに驚きました。「みんなのところでは気を許して何でも喋っていたんやな、私にはそこまでは喋っていなかったんやな」という複雑な思いを持ったのも事実です。

 私のように被爆者であった夫を裁判中や裁判の終わった後に亡くした人は他にもありました。そういう人たちとは他の人とは違う何か通じ合うものを感じていました。夫が被爆者であったために辛かった思いもありますが、夫に十分には協力してこれなかったのではないかという、悔いのようなものが心の奥深くに残っているんです。

 2007年(平成19年)3月、法廷で原告としての意見陳述をしました。初めての証言台でした。7月には原告に対する証人尋問もありました。この時には京都原水爆被災者懇談会が作成したDVDも上映され、在りし日の夫・昭の被爆者運動に携わる姿も紹介されました。2008年(平成20年)に入り1月30日には私たち近畿の第二次原告の裁判も結審を迎えました。

■認定を勝ち取る!

 全国の原爆症認定集団訴訟が進む中で、被爆者の勝利判決が続いていました。2003年(平成15年)に始まった集団訴訟は2007年(平成19年)中までに、近畿(大阪)第一陣だけでなく、広島、名古屋、仙台、東京、熊本と全国6つの裁判所で判決が出ていて、すべてで国の認定行政は謝りであり、原告の被爆者を原爆症と認定するよう言い渡されていました。マスコミも国の認定行政はあらためるべきだと主張し、世論は大きく盛り上がっていきました。

 そうした状況に押されて2008年(平成20年)3月、厚生労働省は新しい審査の方針を決めました。それまでは厳しく厳しくしていた審査基準を少しあらため、爆心地から3.5km以内の直爆被爆者は認めるとか、入市被爆者も原爆投下から100時間以内に2km以内に入った者は認めるとかになりました。被爆者が求めていた被爆の実態に基づく認定制度にはまだまだ足りないものでしたが、とりあえずこの新しい審査方針に基づいて、裁判を争っていた原告の被爆者全員の審査の見直しも行われることになりました。夫は翌日入市でしかも爆心地近くに19日間もいたので、認定されることになりました。

 厚生労働省の原爆症認定審査部会での夫の認定は5月13日付に決まっており、認定証書は15日には京都府に届いていました。しかしそのことが私たち遺族に伝わったのは5月20日になってからで、弁護士を通じての連絡でした。京都府の職員の人は認定証書を郵送で送ろうかと言いましたが、弁護士はそのようなぞんざいな取り扱いに強く抗議し、遅れたことのお詫びとあわせてきちんと遺族に手渡すよう求められました。その日中に、京都弁護士会館において、弁護士とたくさんのマスコミ記者の見守る中で、認定証書は手渡されました。

原爆症認定された時の記者会見2008年5月20日
原爆症認定された時の記者会見
2008年5月20日

 判決が出される前に先に認定された原告に対して、国は提訴を取り下げるよう求めてきました。しかし、国は原告に対して一言の謝罪の言葉も述べていません。また、原爆症認定と合わせて求めていた国家賠償は引き続き争っていたので、提訴取り下げには応じず、最後まで国の誤りを正す裁判を続けました。2008年(平成20年)7月11日、判決の1週間前という異例の形で最終弁論の日が設けられ、私が原告を代表して意見陳述をしました。

 「夫は60年余りも苦しんで亡くなりました。夫が原爆症と認められたのは申請して丸4年になります。こんなに長い間放置されたのに、前の処分の間違いも認めず、ただ『見直して、認定したから、これ以上裁判は必要ない』と言われて、黙って引き下がることはできません。裁判所には国の違法をきちんと認めて欲しいと思います」

と訴えました。
 この時第二陣の原告はすでに半数以上が亡くなっていたのです。

■私の戦争体験・夫の被爆体験を語り続ける

 夫の遺志を継いで、原爆症認定裁判に提訴し、みなさんと一緒に闘ってきました。そして、京都原水爆被災者懇談会の世話人会の一員にも加えていただき、被爆者の救済と世界から戦争と核兵器を無くす運動にも、小さな力ながら、とりくんできました。原爆症に苦しむ被爆者は今も増え、原爆症認定訴訟(ノーモア・ヒバクシャ訴訟)は今も続いています。可能な限り裁判の傍聴に駆け付け、公正な判決を求める署名運動なども行っています。

 私たちにできること、しなければならないことは、実際に経験した戦争のこと、家族の体験した被爆のことを語り継ぎ、多くの人たちに広めていくことだと思います。そのためのとりくみを2007年(平成20年)以来、様々な機会に行ってきました。

 主なところだけ紹介すると、仏教大学でのゼミ、生活協同組合の学習会、下京区の戦争展、学生のみなさんの平和サークル、新婦人の様々な機会、立命館大学国際平和ミュージアムでの「京都の戦争展」等々です。そして近畿高等看護専門学校では昨年、今年と2年連続、「平和といのち」の学習講演会に招いていただき、お話しさせていただきました。これからの生涯を看護に携わろうとしている若い人たちに、私の平和への思いを語らさせていただくのは、とても幸せなことです。

 これからも力の続く限り語り続けていきたいと思っています。

爆心地と広島市の地図

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