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●被爆体験の継承 25

被爆体験も戦争体験も語り継ぐ

折場六三さん

折場六三さんに手記「私の被爆体験」を寄せていただきました。
加えて、2014年11月21日(金)に折場さんのお話しを聞き、
京都「被爆2世・3世の会」で文章化しました。

折場さん

折場六三さんの手記  私の被爆体験  

 満13歳の時、旧国鉄の学徒動員に応じて、昭和20年(1945年)3月から、広島駅貨物操車掛に勤務していました。8月6日、午前8時15分に原子爆弾が投下され、被爆しました。爆心地から1.7kmの距離でした。

 その日は、食堂で食券を出して朝食を済ませ、大須賀町の宿舎(鉄道寮)に帰り、部屋の中央で、友だちと3人一緒に、「今日は何処で何をするんだろうなー」と話していました。その時突然、ピカッと光り、爆音と爆風が一度に起こり、一瞬にして宿舎全体が潰れてしまいました。潰れた宿舎の下敷きになりましたが、たまたま居た所が良く、屋根の合掌の下だったので助かりました。部屋の中は爆風のほこりで真っ暗で した。とにかく外に出ようと必死でした。

合掌造りの家の簡略図

 家屋の妻側から外の明かりが見えたので、壊れていた「がらり」から路地に這って出ました。

 外も薄暗い状態でした。そこから大通りに出ました。通りの両側の家屋は全部潰れていました。西の方向に向かって歩きました。橋の袂に倒壊していた家の瓦礫の下から「助けてー」と、かすかに声が聞こえましたが、助けることはできませんでした。友だちと3人で大通りから右に曲がり、鉄道の踏切を渡り、いつも空襲警報のたびに避難していた北方向の松林に逃げました。

 町が全部潰れた現状を目にしてから、とにかく田舎に帰ろうと話し合い、山陽本線の向洋駅方面に向かって歩きました。東練兵場にさしかかった時、広島駅方向から夫婦と思われる2人が、頭に蒲田綿のような物をかぶって避難してきました。男の方の顔を見たら、焼け爛れていました。おでこと鼻の間に焼け爛れた赤黒い皮膚が張っていました。そんな人を見ながら練兵場の中を東へ東へと歩きました。町中に出て少し行くと、突然、どどーっと大音と同時に家屋が倒れたので、私たちは二度びっくりしました。

 ずーっと鉄道沿いに歩きました。向洋駅を超えて、どこまで行けば汽車に乗れるのかと思いながら歩きました。途中、通りの左手に谷川のほとりにそって建っているお寺があって、そこで炊き出しをされていました。おにぎりと藁草履をもらいました。

 午後2時頃だったと思いますが、やっと安芸中野駅で折り返し運転していた汽車に乗ることができました。長い時間待たされましたが、その汽車は河内駅に向かって出発しました。

 私は故郷の河内町河戸へ、友だちもそれぞれの田舎に帰ることができました。家に着いたのは午後4時頃だったと思います。家に帰ると、母が、「ピカッと光ってあんな雲ができた」と言ったので、見上げると、西南の山の上にきのこ雲ができていました。原爆投下から時間が経っていたので、雲は少し右の方に崩れていました。

 これがピカドンが投下された日の私の体験した一日の出来事です。

 8月13日になって、友だちと話し合って、3人一緒にもう一度広島に行くことにしました。広島駅に降り立ってみた光景は、見渡す限り焼け野原で、宇品の方まで見えました。焼け跡からまだ所々煙が立ち昇っていました。そんな情景を見ながら、1週間前まで生活していた国鉄の宿舎に向かいました。宿舎跡には、スコップで焼け跡を掘っている教官がおられました。近寄って、「何を掘っておられるのですか」と尋ねると、ここに居た学徒の生死が分からないので掘っているのだと言われました。2階が焼け落ちた跡から骨が出たとも言われました。「君たちはよく来てくれた。生きていて良かった。今後のことは家で待つように」と言われました。

 8月15日終戦を迎えました。国鉄を正式に退職扱いとなったのは翌年3月でした。

東練兵場の北側にある広島東照宮門前の原爆碑
東練兵場の北側にある広島東照宮門前の原爆碑

手記・被爆体験に追加して お話し

 私は1931年(昭和6年)8月30日の生まれで、今年83歳になります。当時の広島県豊田郡河内町河戸という所で生まれました。上から男ばっかり4人、その下に女3人の7人兄弟の4男坊でした。

 河内国民学校高等科2年になって少しした頃、国鉄の学徒動員というのがあるが行かんか、と言われて応募したんです。国鉄では寮に住んでいました。そこで被爆したわけです。国鉄では貨物駅の操車掛で、貨車の入れ替え作業などをしていました。今から思うと、とても危険な作業で、13歳やそこらの子どもにさせる仕事ではありませんでした。この時広島県内あちこちから全部で25〜26人くらいの生徒が来ていたと思います。

 原爆が落とされて、寮で話していた3人一緒に途中まで歩いて帰ったんですが、身なりはズボンとアンダーシャツ1枚の格好で、履物もどうしていたのかはっきり覚えていません。

 原爆が落とされた日、3人は逃げるように勝手に帰ってしまったわけで、あらためてきちんと報告せんとあかんのでははないか、ということで、8月13日また広島に向かったわけです。教官が一生懸命宿舎跡を掘っていたのは手記の通りですが、あの時同じ寮にいた26人の動員学徒のその後の消息はまったく分からないままになりました。

■京都で生きる

 1957年(昭和22年)、私が15歳の時に叔母さん夫婦をたよって京都へ来ました。叔母さん夫婦の家が折場だったんです。折場には息子が2人いたんですが、2人とも戦死して、後を継ぐ者がいなくなっていたので、その内に私が養子に入ったわけです。

 戦争さえなければ、折場の息子の1人でも生きていたら、私も今頃どこで何をしていたか分かりません。折場の家は大工さんで、私はその大工の見習い、丁稚として京都へ来たようなもんなんです。食わしてもらうけど、給料はない、というような。でも、夜間やったけど3年間の建築学校にも行かせてもらえて、大工としてやっていけるようにしてもらいました。

 結婚は1959年(昭和34年)、28歳の時です。

 35歳の時に京建労(全京都建築労働組合)に入って、60歳までやりました。執行委員などもやって、建築の仕事の上に、京建労の活動もいっぱいあって、無茶苦茶忙しい暮らしでした。

 被爆者手帳はずーっと後になって京都でとりました。京都府からは、「なんでこんなに遅くなってから申請するんや」と文句を言われましたが、証人は広島県の田舎に居る兄が全部手配してくれたりして、とることができました。でも私は、手帳は持っているだけで、長い間、それをどんなふうに使うのかは知らないままでした。

 お陰さまで、体は今のところ元気です。神経痛が出るぐらいで、他はこれといって悪いところはありません。被爆者健康診断は、若いころはなかなか行かなかったんですが、妻に厳しく言われて、今はきっちりと年2回、吉祥院病院で受けるようにしています。

 子どもは2人います。長男が1960年(昭和35年)、長女が1963年(昭和38年)の生まれです。子どもたちは被爆者二世健診を受けに一度だけ一緒に行ったことがあります。今は会社の健康診断だけにしていますが、会社辞めたらまた二世健診を受けるつもりのようです。子どもたちも特に悪いところはなく、元気にやっているので安心しています。孫も2人できました。

■戦争被害を語り継ぐ

 年金者組合の下京支部にはいろんなサークルがあるんですが、その中の一つの食事会で、集まっている面々といろいろな話をしている時、下京区でも戦争展のようなものをやってはどうか、ということになったんです。戦争を経験した人や、銃後の暮らしを体験した人が年々少なくなっていて、今の内にやっておかないと、語れる人がいなくなってしまうということで。

 戦争中の教科書の復刻版や昔の新聞の切り抜きなど貴重な物が集まっていて、そういうものを展示して見てもらえたらいいんじゃないかということで。その中に、戦争中の、五条通りの建物強制疎開前のある町内の住宅地図が出て来たんです。これは戦争被害の証拠の最たるもんやないか、ということでそれも展示したんです。そしたら、見に来る人来る人が「私ここに住んでいた」とか言い出して、話が広がっていったんです。

 それがきっかけになって、毎年、建物強制疎開前の町並みを調べて、復元して、一軒一軒の家の名前や屋号まで分かる住宅地図を作っていったんです。下京区の「戦争と銃後のくらし展」に毎年展示するようにしてますが、もう7年になります。新聞記事にもなって、「新聞見て来た」という人も増えてきました。わざわざ神奈川県から知らせを聞いて見に来たという人もありました。

 会場に来るみなさんの反響見ていたら、五条通りの昔の家々のまだ分からん箇所も早よ探しに行かなあかんな、ということになって、早よ行かんと住んでた人みんな80以上になって、死んだり、記憶なくしていくから、ということにますますなっていっていきました。どこそこに、昔の五条通りを知ってる人がいると聞くと、地図持って行って、昔のこと思い出して教えて下さい、とやっているわけなんです。そうすると、出るわ出るわで。その上、それまで作っていた地図のどこそこは違うという箇所なんかも出てきましてね。展示してたら、ここはああやこうやと、展示している地図の上に勝手にいっぱい書きこまれたりして、真っ黒になってしまって。これまでに地図は3回も書き直しているんですわ。

 「昔ここに自分の家があった」と自分の家を見つけた人には本当に喜ばれていますね。昔のことを聞き取りに行くと、「兵隊から帰ってきたら、家も何も無くなっていてびっくりした」とか、「兵隊から帰ってみるとお寺の敷地が半分になっていた」とか、そんな話もたくさん聞いてきました。

 建物強制疎開になった地域の全体(西は山陰線から東は東大路まで)からすると、今80%以上くらいの完成になると思います。作った地図も6メートルを超える長さになっています。最初は下京区だけの範囲のとりくみだったはずなのに、いつの間にか東山区までやれといわれるようになってしまって。

 建物強制疎開も戦争被害ですからね。軍の命令一つで、二束三文で追い出されたり、一銭の補償もないまま叩き出されたり、たくさんの人たちが土地と家屋とくらしを奪われたわけですから。戦争被害を風化させないよう、語り継いでいくことが目的ですから、もう少し老体に鞭打って頑張りたいと思っています。


「戦争と銃後のくらし展−しもぎょう」に展示された『五条通り建物強制疎開前の住宅復元図』(2014年7月)
「戦争と銃後のくらし展−しもぎょう」に展示された『五条通り建物強制疎開前の住宅復元図』(2014年7月)

『五条通り建物強制疎開前の住宅復元図』の一部
『五条通り建物強制疎開前の住宅復元図』の一部


爆心地と広島市の地図

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