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●被爆体験の継承 27

父を探して十四歳の兄と

吉田廣子さん

2015年1月17日(土)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

■被爆の時

 原爆が投下された時、私たちの家族は広島市牛田町に住んでいました。父方の祖母と両親、それに私たち7人の兄弟姉妹という家族でした。兄弟姉妹は4人の兄と2人の姉とがいて、私は末っ子、生まれてまだ1歳に満たない生後11ヶ月でした。一番上の兄の澄男は千葉の航空隊に行っていて、三番目の兄の照雄(当時8歳)は学童疎開で広島県北部の三次に行っていました。幼い私に当時の記憶があるはずがなく、もちろん、この頃のことはみんな大きくなってから母や兄や姉たちから聞かされた話です。

 8月6日の朝、牛田町の自宅には、祖母と母、二番目の兄の陸夫(当時14歳)、二番目の姉の仁子(7歳)、四番目の兄の征四郎(5歳)、それに私の6人がいました。職業軍人で広島第一中学校の配属軍事教官をしていた父は、この時すでに出かけていました。一番上の姉正子もでかけていたようです。

 私はおむつをしただけの格好ではいはいをしていたそうですが、原爆の爆風で割れたガラスが飛び散るのを母がおいかぶさってくれて、ケガひとつせずに助かりました。その母はガラス等でケガをしました。祖母は玄関から裏口まで吹き飛ばされて、足を骨折するという重症を負いました。兄の陸夫は当時広島市造船工業学校の5年生でしたが、この日は夏休みでも登校しなければならない日で、家の玄関でゲートルを巻いている最中でした。ピカッと光って、吹き飛ばされ、気を失いました。母に助け出され、それから幼い妹や弟を助け出し、動けなくなった祖母を担ぎ、家に居た家族全員やっと家の前の堤防の下に逃げ込みました。

 7歳だった姉は原爆が落ちた時、急に庭が真っ赤なお腰(腰巻)を広げたように、木も空も赤くなってしまったと語っています。途端に家が崩れてきて、姉は誰かに引っ張り出してもらって助かりました。家は見る間に火が出て、丸焼けになってしまいました。その夜は近くの川の土手で寝ました。家が燃えていました。綺麗な着物が木にひっかかって燃えていました。近くの、夜には生きていた女の子が、あくる日には土手の下までころがって死んでいました。

■私を背負って父を探し歩いた14歳の兄

 この日の朝外出していた長姉もその日一人で歩いて帰ってきました。しかし爆心地近くにいたはずの父は何日経っても帰ってきませんでした。翌日から、次兄の陸夫が赤ん坊の私を背負って、地獄と化した広島の町を、父を探して歩き回りました。

 死体の山は性別も大人と子どもの区別も分らないほどでした。広島は川の多い街で、暑さと熱線で火傷した体で川へ逃れた人たちは、ほとんどが川辺で水を求めて死んでいきました。その殆どの火傷した人たちは、頭も顔も、男女の区別すらつかない状態になって川に浮いていました。

 父はかってドイツに行った時の記念のドイツ製腕時計をしていたので、兄はそのことを思い出し、見覚えのある黒革バンドの腕時計だけを目当てに探せば分るのではないかと、亡くなった人たちの腕を一生懸命調べて回りました。亡くなった人の手を引っ張るとズルズルと手の皮がむけたそうです。

 結局父は見つからず、父の形見となるものも何一つ見つけることはできませんでした。父が51歳の時でした。兄は自分が70歳になった時、私を背負って父を探しまわった時の様子を思い起こし、『黒革バンドの時計を目印に』と題した一枚の絵にしているんです。(最後のページで紹介)

 牛田町の家が焼失したため、たくさんの人たちと一緒に川の土手で寝起きしていましたが、しばらくして広島の郊外の安古市で開業医をされている親戚に助けられ、そこに引き取られてお世話になることになりました。数日経ってから、三次に学童疎開していた三番目の兄の照雄が帰ってきました。三兄は牛田町の焼け跡にまず足を運び、その後一人で安古市の親戚を訪ねて来たのです。一ヶ月後には千葉にいた長兄も帰ってきました。

 私たちの家族は結局、千葉の航空隊に行っていた長兄を除いて全員が被爆しました。祖母、母、次男、次女、四男、そして私の6人が自宅に居て、父は爆心地近くで亡くなり、長女も外出していての直接被爆です。そして三男の照雄が疎開先から帰ってきての入市被爆でした。

 私は赤ん坊でしたから、その時の悲しみも苦しみもないのですけど、兄たちは毎日河原で一緒に遊んでいた友だちを、何もかもを一瞬の内に失ってしまったのですから、それはすごく辛いことだったんだろうと思います。

 祖母は被爆した時の骨折が原因で2ヶ月後の10月、安古市の親戚宅で亡くなりました。亡くなる前に急にいちじくが食べたいと言い出して、次兄があちこち探し回ったのですが結局どこでも見つけることができませんでした。最後の願いを叶えてあげることができず、兄はそのことをとても悔やみました。

■山口県での暮らしの再出発と母の苦労

 いくら親戚といっても、私の家族は子どもも多い大家族ですし、母も気苦労が絶えなかっただろうと思います。親戚の家の人たちも親切に面倒見てくれていたとは思いますけど、広島郊外の開業医のため、原爆で傷ついた人たちが、怪我の人や病気の人が毎日たくさん治療に来ていて、すごく大変なようでした。そういうところにいつまでも厄介になっているわけにはいかなくなってきました。

 そんな時、山口県にいる父の教え子という人から、広島では生活もできないだろうし、山口県でまるまる一軒家を貸してもらえる所があるので思い切って来ないか、というお誘いを受けました。家族8人は着のみ着のままの状態で広島を去り、山口県の吉敷郡秋穂町というところに新しい生活を求めて落ち着くことになりました。空き家となっていた一軒の農家が住まいでした。

 山口県ではいろいろな事情から3回ほど転居していますが、私たちはそこで大きくなっていきました。私が自分の生い立ちをはっきりと記憶しているのはこの山口県での暮らしの頃からです。

* * * * *

 原爆投下によって父は亡くなり、家は失い、いきなり焼け跡におっぽり出されてしまったわけですから、それからの母の苦労は大変だったと思います。たくさんの子どもたちをとにかく食べさせていかなければならない、大きくしていかなければならなかったのですから。

 山口県で生活するようになった頃は母は近所の農作業を手伝ったり、いろんなことをして私たちを育ててくれました。女手一つでがんばってくれて、私たちを育ててくれたわけです。

 やがて兄たちが大きくなって働きに出るようになりました。姉たちも働くようになりました。それぞれがそれぞれの道を歩むようになっていきました。一番上の兄は私の家の経済的な事情も考えて養子に行きました。

 二番目の兄の陸夫は39歳の時、新しい仕事を求めて大阪に出て行き、後に奈良に居を構えました。私は山口県にある高校を卒業し、その後、母と一緒に山口県を離れてこの兄夫婦と共に奈良に住むことになりました。私が20歳の時です。

■結婚、辛(つら)い体調を乗り越えて

 奈良に来て少しの期間、就職して、3〜4年後に結婚しました。私は奈良から京都に嫁いだのです。結婚してもう45年になります。

 私が結婚する時、母が「被爆者手帳」を渡してくれました。「大事にしなさい、きっと役に立ってくれるからね。ありがたいものだからね」と言って。私にとって運命を一変させた被爆は本当に悲しいことですが、せめてもの「被爆者手帳」のおかげで、経済的な出費(医療)が少しでも押さえられることができたのは救いでした。その母ももう、父の住むあの世に旅立っています。母の最期は66歳、心不全で突然のことでした。

 結婚する時、私が被爆していることなど何もかも主人には話していました。父がいないのも原爆で亡くなっているからだと話していました。主人は全然そんなこと気にするような人ではありませんでした。主人のお母さんが「廣子さん、ピカドン受けてたの」と心配そうに言ってましたけど、それ以上のことは特にありませんでした。むしろ「大変でしたね」という労(いた)わりの感じでしたね。

 結婚して何年も経ってからのことですけど、昔の職場の同僚だった人からある日何気なく「あなた(被爆していて)よくご主人が結婚してくれはったね」と言われたことがありました。それまでそんなこと思ってもみなかったことなので、そんなふうに大変なことだと思っている人もいるんだ、と初めて感じたようなことでした。

* * * * *

 ただ、私は若い時には、結婚して子どもがまだ小さい頃ですけれど、白血球数がものすごく少なくて、夏はしんどくてしんどくて、夏場は本当に辛かったんです。当時白血球数が1800とか2000とか言われたこともあります。特に京都の夏は環境が全然違って、湿度も高くて蒸し暑いので本当にばてていました。

 他のちょっとした病気にかかった時でも、いつも白血球の数が少ないこととの関係を心配されました。今はもう気にしなくなりましたけど。お陰で大病というほどのものはこれまでなかったんですけど。人間ドッグに行っても最初の頃は、「用心しなさい」「必ず数ヶ月に一度は検査を受けなさい」と言われ続けていました。

 白血球が少ないといっても、それを増やす薬はないんですよね。だからもう諦めて、夏はしんどくても仕方ないと思ってやってきました。人間ドッグの受診はずーっと続けていて、年齢も重ねていく内に白血球数は徐々に増えてきました。でも夏は今でも辛くて、大嫌いなんです。

 被爆していることを恨んだこともありました。なんでこんなにしんどくなるのかと。しんどさがいつもついてまわっていて。それでも手術しなければならないほどのしんどさではなくて。何が原因かといっても漠然としていましたし、そういう時の不安な気持ちって、自分で自分が腹立たしくなりますね。このしんどさを誰に言ったらいいのかと思ってね。そうした気持ちも歳が行くと慣れてきて、仕方ないなと思い込むようになりました。元気な時には、その元気さをありがたいなと思いますし、しんどいしんどいといいながらも、子どもたちをどうにか育ててくることもできましたし。

 三番目の兄の照雄は入市被爆していたわけですけど、山口県にいる頃、19歳で亡くなったんです。私が小学校4年か5年生の時です。母が枕元で「照ちゃんが死んだ、照ちゃんが死んだ」と泣いていたのを覚えています。後年になって聞かされたことですけど、兄は原爆症によって肝臓を悪くしていたのでした。四番目の兄の征四郎は5歳の時の被爆ですが、小さい頃から体が丈夫でなくて母がいつも心配していました。結婚もし子どももできましたが40歳過ぎという若さで幼い子を残したまま世を去りました。

■子どもたち、孫たち、そして「被爆2世・3世の会」のこと

 私は3人の子どもに恵まれました。ぞれぞれに孫が2人づついてみんなで6人います。被爆二世健診の案内を送っていただいているんですけど、子どもたちに勧めたことはないんですよ。風邪をひいたりする程度のことはありますけど、子どもたちへの被爆の影響を考えたりするともうきりがないと思って、考えないようにしているんです。

 京都に「被爆2世・3世の会」ができた時も、息子たちに知らせてあげようと思ったんですけど、なんか言いだせなくてそのままになってしまいました。不安がないなんてことはないんです。不安だらけなんです。だけどその不安、あまりにも漠然とし過ぎていて。福島の原発事故でも放射能の影響がものすごく心配されていますよね。子どものために避難されたり、家族が離れ離れになって暮らしたりと。あの気持ち、ものすごくよく分ります。

* * * * *

 京都の「被爆2世・3世の会」を作っていただいた時、実はすごく嬉しかったんです。なんか、これから先の拠り所(よりどころ)ができたというか。私たちもだんだんと高齢になってきて、一番若い年齢の被爆者の私でも70歳、もっと上の人たちは年々少なくなっていきますよね。京都原水爆被災者懇談会の会自体だっていずれ無くなることになる。それを思うとすごく辛いんです。

 「2世の会」ができたので、そこにバトンタッチしていけると思うと、それは嬉しいことなんです。でもいざ自分の子どもたちにそういう「会」があるから勧めるかというと、そこはまだ躊躇しているんですけど。

 私の長男の子(私の孫)が中学生の時、修学旅行の行き先が広島でした。その時、旅行前に私の兄(陸夫)の被爆の体験を聞きたいと言うので、その子と私の長男とを連れて奈良にいる兄の所に行ったんです。兄は語り部のようにいろいろと話してくれました。子どもたちを連れて原爆ドームや平和記念資料館に行ったこともあります。孫たちからみると曽(ひい)お祖父ちゃんになる人が原爆で亡くなったことも知っていますし、私が被爆していることも理解しています。

 私は語り部とか、人の前で被爆体験を話したことはないんですが、折りに触れて文章には残すようにしてきました。文章を自由に書いて年2回の冊子にして発表する『自分表現』という名前の会があるんですが、その会にも入っていて、そこで私や私の家族の被爆体験を書いたこともあります。そういう自然な形で体験を綴って、誰かに目を止めてもらって、読みつがれていったらいいなあと思っています。

■父との対面

 広島へは2年に一度ぐらいの割合で里帰りしています。里帰りと言っても、広島市の三滝町という所にある両親のお墓へのお参りと平和公園を訪れるぐらいですけど。私のすぐ上の姉が今は広島に居てお墓の世話をしてくれているんです。

 昨年、平和公園に行った時、平和祈念館(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館)で亡くなった方の遺影コーナーというのがあることを知りました。父の名前を検索してみると、父の51歳頃と思われる軍服姿の写真が現れて、父と対面することができて、胸がいっぱいになりました。たぶん兄の陸夫が遺影の登録をしてくれたのだと思います。遺影が残されているとこういう形で父と対面することもできて、ああ良かったなーと思いました。親も子も亡くして誰も遺影の登録などしてもらえない人も多いのでしょうね。

 15年前、私の父への思いをある新聞に投稿して掲載されたことがあります。その記事を紹介してお話しを閉じることにします。

形見の油絵に亡き父をしのぶ              (伏見区・吉田廣子)

ゼラニウムの花の絵  8月6日は父の命日です。55年前の広島で消息を絶って、また暑い夏を迎えた。父との思い出はまったく記憶にないけれど、私にとって唯一、父をしのぶよすがとなるものは父の描いた油絵である。青い花びんにマーガレット、三色スミレ、そしてゼラニウムの花が挿してあるその絵は、今でも色あせることなく優しげに私を和ませてくれる。写真で見る父の口ひげに軍服姿のいかめしい風ぼうからは、およそ似つかわしくないタッチの花の絵に、よけいに父に対しての思慕がつのる。

 兄や姉の話によると、父は油絵を描くことが好きで、出かけた旅先からことあるごとに絵巻風の手紙を書いてよこしたそうだ。今で言う絵手紙なのだろう。残されていれば私も見たかったのに残念でならない。花の絵が一枚きりの形見となってしまった。

 今年は父の絵の前で手を合わしてこんな言葉をつけ加えたい。「お父さんの描いた花びんの青い色は、フェルメールっていう画家の描いた少女の青いターバンの色より、もっとすてきで神秘的です」と。

『黒皮バンドの時計を目印に』 「深町陸夫氏画/広島平和記念館所蔵」

『黒皮バンドの時計を目印に』 「深町陸夫氏画/広島平和記念館所蔵」
<絵の右側に書かれている文章>
 よく自慢していた見覚えのあるドイツ製の黒皮バンドの時計を目印に、恐らく爆心地近くで被爆したと思われる父を、熱さで川にのがれ死んでいった、川ぶちや橋げたの裾で浮いている多くの死骸の中などを、私は毎日探し回った。
 当時満一歳になったばかりの背中の妹は微かな息をしながら夏の炎天下をよく耐えてくれた。
 とうとう私は、父を見つけだすことができなかった。


爆心地と広島市の地図

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