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●被爆体験の継承 28

70年前のあの日を生き抜き、今日あることに感謝

幸田幸典さん

幸田さん

 幸田幸典さんは2014年、NHK広島放送局からの依頼で、テレビ番組『ヒバクシャからの手紙・2014年』のための被爆体験を寄稿されました。その全文を紹介します。尚、原稿の一部が2014年8月6日に朗読放映されています。

 寄稿文に追加して2015年2月7日、京都「被爆2世・3世の会」がお話しを聞きました。その内容もあわせて紹介します。

NHK番組『ヒバクシャからの手紙・2014年』への寄稿

■はじめに

 被爆当時の住所は、広島市研屋町(とぎやちょう)で、両親は屋号が「研屋(とぎや)旅館」という宿屋を経営しておりました。家族構成は、両親と兄弟六人。うち、被爆当時この旅館に住んでいたのは、両親、姉二人(23歳〜家業手伝い、21歳〜爆心地近くの保険会社勤務)、妹(13歳〜比治山高等女学校に通学)と私(崇徳中学5年生)の六人でした。残り二人の兄(27歳と25歳)はすでに兵役について戦線に派遣されていましたので被爆は免れました。

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 私自身も当然被爆者として、国の行う原爆被爆者の健康診断を受けていましたし、自分なりの健康管理を行っていましたので、5年前(平成21年2月)に早期の胃がんが見つかり、胃の三分の二の摘出手術を受けまして、現在も療養中ですが、今は、この歳まで生きてこられた幸運に感謝しております。

 広島にしても長崎にしても、原爆の放射能の影響はその地域だけの局地的で済んだようですが、福島原発のように放射能の影響がもっと広範囲に及ぶことになれば、その影響は広島や長崎の比では無いと思います。人間は災難が我が身に降りかからないと往々にして、その苦しみがわからないようです。それを経験した我々こそが伝えるべきだと思っておりますが、他人の災難を我が事として感じていただけるか、誠に心もとない感じです。

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 なおこの文章は、十数年前から「自分史」のようなものを書き始めた時に、中学時代の生活の中での体験として、原爆被爆時から数日間の模様を綴ったものです。お役にたつかどうかわかりませんが、少しでも参考になればと思います。

■8月6日の朝

 昭和20年8月の原爆被爆当時は、広島市研屋町で旅館を経営していました父母と姉の計6人住まいで、私は中学5年生(16歳)、学徒動員で動員先(広島市兵器補給廠(ほきゅうしょう)に通う毎日でした。

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 そして昭和20年(西暦1945年)8月6日朝、私は何時ものように部屋の前の道路から母親の「坊や!」の呼び声で目覚めました。当時の旅館は、前述のとおりいつも満員状態で宿泊をお断りするのに困る位で、姉達も私の部屋もすべてが客室に変わってしまいましたので、私は旅館の前の道路を隔てた民家の2階の空き部屋(8畳)を借り、姉達は旅館の裏手の土蔵の1階を整理してそこを居室にしていました。

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 当時、日本の主要都市はアメリカ空軍のB29(爆撃機の名前)の焼夷弾による無差別爆撃により焦土と化し、大都市で無傷だったのは「京都市」と「広島市」位だったと思います。隣の呉市でさえも原爆が投下される1カ月前に爆撃を受けて焼き尽くされていました。

 そんな状態ですから、次は広島市だという事は誰もが予測していたことで、私が借りていた部屋の持ち主の方も、ご家族はご主人を残して全部疎開されていましたので、借りる事が出来た訳です。

 当時の広島市は「軍都」といわれる程、軍の施設がいっぱいありました。第一に「師団司令部」が広島城 (市の中心部) の近くにありましたし、付属の部隊や施設がその周りに散在していました。それに日本が南方面に兵を出すようになりましてからは、広島の「宇品港」がその出発地となり、全国から広島に集結するようになったようです。

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 昭和20年8月6日朝、私は何時ものように旅館の表通りに出て、「いってらっしゃい」という母の見送りの声を背に、動員先の「陸軍兵器補給廠」に行きました。母は私がその6ヶ月くらい前でしたか、動員先の作業場で足の甲を骨折(ひび)する怪我をしたのが原因で、2ヶ月程治療のために休んでいましたが、それが回復して歩けるようになった頃でしたので、私が動員先に出ていくことが心配でたまらなかったのだと思います。

■閃光の瞬間

 兵器補給廠では、始業前でしたので休憩所(といってもバラック建てで、地面に杭を立てその上に板を張って机と腰掛け代わりにしたいたってお粗末なところでした)で雑誌を見ていました。

 その何分か前に警戒警報が出され、外に出て見上げますとB29が飛行機雲をなびかせ飛んでいるのが目視出来ました(あの時はきれいな青空で、良いお天気でした)。

 「なんだ、1機か、いつもの事・・」と思い、何の緊張感もなく、休憩所に戻って雑誌を手にした瞬間でした。

 突然、目の前が「真っ赤」になり、ピカッと光ったその閃光は濃いオレンジ色と深紅色を混ぜ合わせたようなかなり高温の光でした。全身が何か炎にでも包まれたような猛烈な熱さを感じ、思わず両手で顔を覆いました。と同時に、目前のガラス窓(夏でしたので引き戸の窓の半分が開いていました)を飛び越して、そのバラック小屋の傍にあった防空壕の中に飛び込み、上半身が未だ入りきらない時に「ドーン」と言う物凄い音と共に猛烈な爆風が来ました。

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 なぜ、そんな行動をとったのか・・無意識で、たぶん本能的なものでしょうか。その瞬間は、「間近の場所に1トン爆弾が落ちた!!」と思いました。爆風は生半可なものではありませんでした!!感じとしては丸太ん棒で思いっきり頭を横殴りに叩かれたようなものでした。(その後、状況が落ち着いて探しましたら、被っていた戦闘帽の顎(あご)紐(ひも)が千切れて100メートル以上も飛んでいました)

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 当時、全国の主要都市が空襲に遭い、1トン爆弾の被害の模様が報じられていましたので、防空壕の中でも私は間近に1トン爆弾が落ちた・・・と思っていました。あたりは爆風で舞い上がった粉じんのため、長い時間(防空壕の中ではそう感じました)真っ暗で外に出る事はできませんでした。

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 周囲の状況が見えるようになり、壕の外に出ますと・・、何と今までの見慣れた様子とはまったく違った景色!!直近までいた休憩所はつぶれ、赤い瓦で頑丈そうに作られた二階建て(と思いますが)の兵器庫の壁には大きな亀裂、そして大勢の男女の方が全身を真っ赤にして泣き叫んでいるじゃないですか・・。爆発時の光線を直接浴びたり、爆風で割れ、粉々になった窓ガラスの破片等が顔、体の至るところに刺さっている方達なんです。

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 阿鼻叫喚という言葉はこんな状況を指していうんだ!!と思いました。本当にむごたらしい光景でした。あの時の光景そしてその後の数日間に市内で目にした光景は一生忘れる事は無いでしょうね。(原爆がいかに非人道的なものか、あれこそ無差別殺人の極みです。)

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 それから間もなく、全員集合が掛かり「本日は一応これで解散・・」という事になりました。そう言われて空を見上げますと真っ黒なキノコ雲が晴れた空にムクムク・・・。「しめた、早く帰ってあの雲の写真を撮ろう」、その時にはそんなのんきな事を考えていました。(そのころの私は父に無理をいってカメラを買ってもらい、間借りした部屋の押し入れの下段を暗室代わりにして写真の現像、焼き付け等を自分で楽しんでおりましたから・・・)

 私は同級生で親友だった近所のお寺(誓立寺)の息子さんと一緒に帰途につきました。あの原爆が投下された日、私は「広島兵器補給廠」に行っていたと言いましたが、そこは爆心地から約2km程離れたところにありました。

 そうなんです、私があの光線によるやけどや建物の下敷きにならなかったのは、「ピカッ」と光った時には屋内にいて直接原爆の光線を浴びなかった事、そして爆心地から離れていたため、「ド〜ン」という爆発音とともに爆風が到達するまで、つまりその爆風によって家屋が倒壊するまでに数秒の間があったからなんです。(この様子に因んでか、広島では日常会話では、当時は原爆と言わずに「ピカドン」と言っていました。)

 それでも、後で気づいた事ですが、首筋の左側に小さなガラス片が刺さって、血が出ていましたが、その傷もごく浅かったのかその後は傷を負った事を忘れる程でした。

陸軍兵器補給廠建物群の跡に建つ現広島大学医学部資料館。一部のレンガとほとんどの石材は兵器補給廠の頃のものが使用されている。

 陸軍兵器補給廠建物群の跡に建つ現広島大学医学部資料館。一部のレンガとほとんどの石材は兵器補給廠の頃のものが使用されている。

■なぎ倒され猛火に包まれる街、黒い雨

 解散を命ぜられて私は友人と帰途につきました。いつも通いなれた街並みの姿はありません!!木造家屋は全部が倒壊、それも同じ方向に向いて倒れていました。普通、1トン爆弾でしたら被害はせいぜい半径100メートル前後の範囲内ですが、でも、行けども行けどもまったく同じ光景・・・。ここで私は初めてこれはおかしい!!と気付きました。

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 そうです、その年の4月頃でしたか、当時、有名な仁科博士(仁科理化学研究所の)がマッチ箱位の大きさの爆弾で軍艦を撃沈できる「原子爆弾」というものを近い将来作る事が出来る・・といった発言が新聞に載っていたのを思い出したんです。これはひょっとして、いわゆる「原子爆弾」かもしれないと思うようになりました。

 普通、爆弾でしたら、落下した所に大きなくぼみが出来ますが、今回はその痕跡がまったくありませんでしたし、100メートルや200メートルどころか行く先々で家屋が倒壊し、一部では火災が発生していました。

 しかも、通行人だったのでしょう、倒壊した家屋の梁に片腕を挟まれて身動きのできない男性がいました。助けてくれ・・という悲痛な叫び声!!街は火傷をした人、傷を負った人で他人を助ける余裕などなかった状況でした。

 私達は通りかかった人たちと5、6人だったでしょうか力を合わせて男性を倒壊家屋の梁から引き出す事に成功しましたが、すでに近くまで火災が迫ってきていましたので、とりあえず安全なところへ移しました。でも、安全な場所に移したとは言いながら後の処置は何もせずに、そこに置いて逃げたのですからね。

 でも残念ながらそれだけの事しかできませんでした。市内の中心部ほど火の海ですし、消防車どころか救急も病院もすべての機能が破壊されていましたから・・。私と友人の自宅は広島の中心地で「八丁堀」という繁華街の近くでしたが、これ以上市内に入る事は不可能と判断して郊外を迂回して市の反対側(西)へ行く事にしました。

 この迂回がまた大変でした。9時か9時半ごろに「兵器廠」を出てから目的地である反対側の古江(宮島と広島市己斐駅の間の街)という駅に着いたのは確か夕方の5時か6時頃だったと思います。途中、峠を越えたり、国鉄の支線(可部線)の線路上を歩いたりしました。その峠を越えていた時だったでしょうか、良いお天気なのに突然夕立ちに遭いましたが、その雨がまた薄墨色をしているのです。

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 その時は変だな・・と思いつつも、炎天下を歩いていましたから、ある意味涼しさをもたらしてくれた慈雨と思い、爆風で舞い上がったホコリの影響?程度の感想でしたが、それがあの有名な「黒い雨」だったのです!!

 私達がなぜ広島駅から市の郊外を迂回して市の西側に向かったかといいますと、偶然にも友人(武田君)の親戚がその「古江」という駅の近くで「料理店」を経営していた事、そして私の場合は、その近くに広島が空爆された万一の場合の家族の避難先(落ち合う場所)として(借りていた部屋の)家があったのです。

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 前にも書きましたが、昭和20年になりますと米軍の焦土作戦(各都市を焼き尽くす)が激しくなり、大都市から中小の都市にまで及んでいましたが、大都市の中で無傷は広島市と京都市位。この次は広島・・が、広島市民の心配といいますか懸念でした。

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 我が家も、万一の時にはと、郊外のある場所の一室を借りて当面の避難生活に必要な寝具、炊事道具や食糧等一式を備えて、空襲に遭ってみんなが散り散りになっても、そこに集まるように申し合わせていました。その場所で私は午後8時頃まで家族(両親、姉2人と妹)を待ちましたでしょうか、でも誰も・・・。

■死者で埋め尽くされる川面

 不安になり、私と友人は市内に向かいました。原爆投下からすでに12時間程経過していましたが、市内は未だ至るところで燃えており、熱気で目的地の自宅までは行けませんでした。市内に行く途中、いくつかの橋を渡りますが、その橋の上では火傷状態等で動けなくなった子供や大人の男女で埋め尽くされていました。

 街の中は火災が完全に鎮火していませんし、燃え尽きた所でも余熱でとても近寄れる状態ではありませんから、それを避ける一番の避難場所は橋の上だけだったのです。

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 その人たち、その橋の所まで避難したものの、動く力もなく、ただ座りこんでいるか、あるいは声もなく横たわっているだけです。声を出せる人は「助けてください!」とか「お水をください!」と絞り出すような声で傍を通りすぎる人たちに懇願されますが、私達も水筒などを持っているわけでもありませんから、残念ながらなす術もありませんでした。

 原爆が爆発した瞬間、一定の距離の範囲内にいて、あの閃光を直接浴びた人は爆心地近くにいた人はもちろん即死ですが、死を免れた人でも確実に火傷を負っていました。肌が露出した部分だけでなく(夏ですからほとんどが軽装ですので)、色の濃い柄のシャツなどを着ていた人はその柄と同じように火傷しているのです。黒などの色の濃い物は熱を吸収しやすいからというのと同じ理屈なんでしょうね。黒い部分が火傷して、白い部分は火傷を免れているのです。上半身が裸で、衣類は無く、焼けただれた上半身がその前まで着ていた、シャツの模様そのままに写し出されていました。

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 中学低学年の半ズボン姿の子どもが、両手を前に出して、そうですね・・ちょうど「おばけ!!」のようなポーズで。しかも顔や手、そして足などの露出した部分の皮膚が火傷で焼けただれてボロ布のように垂れ下がっていて、その男の子はたぶん執念で我が家にたどり着いたのであろうと思われますが、(その時はそう感じるほど壮絶というか直視できない位悲惨極まりない姿でした)、「お母さん!!」って呼びかけていましたが、呼びかけられた母とおぼしきその女性は、その子が我が子とは見分けがつかないんです。

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 そのような惨たらしい光景をどれほど目撃した事でしょう・・。その夜は、友人の親戚の家でご馳走になり、そこで過ごしました。翌朝、私は落ち合う場所には誰もいない事を確認して、友人と再び市内へと向かいました。前夜とは違って、火の手はほとんど収まっていました。しかし、昨夜通った時、橋の上にいた人たちのほとんどは息絶えていました。そして一夜明け明るくなって分ったことですが、川の中にも死体がごろごろ・・・、なぜか分かりませんが極端に言えば、橋周辺の川面が死体で敷き詰められた感じでした。

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 市内の中心部でも残っているのは鉄筋の建物だけ・・、一面見渡す限り焼けおちた瓦礫の跡だけでかなり遠方まで見渡せました。我が家(旅館)と思しき所(目印は玄関前の2メートル近くの黒い石、道路に面した8畳居室の下に作っていた防空壕と土蔵)まで行きましたが、火災後の余熱で焼け跡の上にあがる事は出来ず、道路側から眺めるだけでした。火災につよい土蔵もあの爆風で完全に崩壊して、土壁の土の山が出来ていましたし。横倒しになった黒い金庫が半分ほどその姿を現していました。友人の家(お寺)も全く同じような状態でした。

■父も母も姉たちも遂に帰らず・・・

 翌日から、その友人と市周辺部や消失を免れた公共施設等の負傷者の収容施設めぐりが始まりました。両親や姉達そして妹は何かの事情で動けない状態でどこかの収容所で・・と信じていましたから・・。

 被爆の三日目も市内に入り、旅館の焼け跡を掘り返して何かの手掛かりを探しましたが、何しろ掘り返す道具がありませんからその作業も知れたものでした。

 そして、どこだったか場所は覚えていませんが、ある橋の袂(たもと)で外国人(たぶん米兵の捕虜だったでしょう)が死んでいる姿も・・。私は、その時には両親たちは未だどこかで生きていると信じていましたから、その外国人を見てもそれほどの憎悪は感じませんでしたが、敵国人ですから、殺されて当然・・位の感じでした。死体の傍には、市内の真ん中に、こんな石ころ、どこにあったのだろうと思うほど多数転がっていました。

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 両親たちを訪ねる施設とは言いましても、どこにあるのかも分かりませんし、そんな掲示があるわけでもありませんので、けが人を収容している場所を探し出すのに一苦労でしたし、周辺部ですから移動も徒歩に頼るほかありませんし、訪ねられるのは日に2、3ヶ所程度でした。

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 そんな施設でも、傷ついた人たちが横になっているだけで、本格的な医療が施されているのはほんの一部だけでした。そんな時には、その人たちが気の毒なんて感ずる前に父母や姉達の姿を探し出すのに懸命!! それから5日間程(何日間かのはっきりした記憶はありませんが)、友人の親戚のお世話になりながら虚しく施設巡りをしました。

 その時点でも私は未だ両親たちの生存を確信していました。あるいは、もう島の方に帰っているのかもしれないと思い、島(郷里の江田島という、昔、海軍兵学校があった島です)へ帰りました。

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 そこには、父が長男でしたので、相続した祖父の家がありましたし、昔の事ですから近所に親戚縁者がおりましたので、叔父や伯母の家で寄宿させていただきました。当時、父と同じように広島市内で旅館業をしていた叔父が無傷で、独りで既に避難して帰ってきていましたので、私が帰った時には、まだ父母たちの姿はありませんでしたが、そのうち帰ってくると待っていました。

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 その叔父は爆心地から2キロ以上離れていましたので、旅館は全壊して叔父さんや奥さんと娘さんは倒壊家屋の下敷きになりましたが、叔父はその下敷きの瓦礫から何とか抜け出せたようですが、奥さんや娘さんも瓦礫の下で生存を確認しながらも、迫りくる火災のために助け出す事が出来なかったと悔やんで悔やんでおられました。その叔父も結局1ヶ月後位に原爆症で亡くなりました。私はその叔父さんの死に際にも立ち会いました。

 父母や、姉さんたちは何日待っても、結局誰一人帰って来ませんでした!!

 広島の原爆で経験したものは悲惨さだけではありませんでした。人間の醜さもです。被爆後、私は毎日市内に入りました。我が家の焼け跡を素手で掘り返したりしましたが、本格的な道具もないのに結果は知れたものでした。

 爆心地近くでは電車が横倒しになり、その中には乗客が折り重なるように横たわって・・。もちろん、道端にも死体累々と言えば大袈裟と思われるでしょうが、至る所に横たわっていましたが、その死体の左手首のあたりが不思議に普通の皮膚の色をしているんです。

 爆心地近くの死体は全てが全裸の状態でしたし、もちろんあの強烈な熱線で着ていた衣類は瞬時に焼け焦げたのだと思いますが、一部の死体の左手首が何故か白っぽいと言いますか無傷の状態なんです!!そうです、誰かが死体に残っていた腕時計を外して持って行ったのです。

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 中でも一番印象に残っているのは、爆心地近くの電車通りで、中学や女学校の3年生(?)達が二列横隊に整列したまま事切れている状態でした。たぶん作業開始直前の状態だったのでしょう。規則正しく並んで、しかも同じ方向に倒れているんです!!

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 当時広島市では、空爆にあった時の火災の延焼を防ぐために、道路幅を広げる作業をしていたようでした。そこに該当する家は当然強制的に取り壊されますが、その取り壊された家の廃材等の後片付けに中学校や女学校の低学年(3年生?)が駆り出されたようでした。

 我が家の焼け跡にも、金庫が横倒しで半分ほど姿を出していましたが、2、3日後にはその金庫の裏側が「たがね」(鉄板等を切断する道具です)等で切り裂かれて中身が散乱していました。火事泥棒とはこの事なんでしょうが、金庫の中の桐の板が炭化していましたので、中の紙類は当然無傷のまま残ってはいなかったと思われますが・・。

 その光景は我が家だけではなく、目についた金庫のほとんどが裏側をあけられているんです。(あの黒い独特の形の金庫は全面や側面は頑丈そうに見えますが、裏側はわりと薄い鉄板なんですね。)

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 人間って不思議なものです・・、最初にそのような悲惨な状態で亡くなった方達の死体を目のあたりにしますと無残さに目をそむけて通りましたが、1日、2日と見慣れますと何の感傷も湧かなくなってしまいます。

 原爆投下から3日位からでしょうか。兵隊さん4、5人が近くの死体、それも炎天下に放置されていたものですから2、3日しますと腐敗が進み、傷口からウジがわいていたり・・したものを何体か集めては、近くの焼け残った木片を集めてその場で焼いているんです。

 当時、市内はそんな死臭と死体を焼く臭いで充満していたようでした。その真っ只中におりますと、どんな形の遺体も、その独特の異臭にまで慣れてしまいました。

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 こうした被爆の体験、思い出すのは何年ぶりでしょうか・・。思い出すだけで胸が痛く、そしてこんな非業な戦争を仕掛け、しかものうのうと生き延びた人間を恨みましたが、今はすべてが霧散したような感じ・・。歳月の経過が悲しみや恨みのすべてを和らげてくれるのでしょうね。

■平坦ではなかった被爆後の生活

 被爆後の私の家族の事ですが、女学校1年生だった妹は倒れた家屋の下敷きになったものの何とか助け出され、足を引きずりながらも僕より一足先に郷里の江田島に帰っていましたが、両親と姉二人の姿はついに見る事はありませんでした。

 原爆の威力というものを徐々に知るにつれて、我が家は爆心地の近くですし、すぐ上の姉は更に近い場所の生保会社勤めでしたから、亡くなった家族全員は、きっと即死だったのでしょう。

 苦しむことなく亡くなったと思う事で、自分の気持ちが少しでも安らぐと思いつつも、被爆後、数年は、両親たちがヒョッコリ帰ってきた夢を見ては、夜中に起きることがたびたびありましたが、それが時の経過とともにやっぱり亡くなったんだと言うあきらめに転じていきました。

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 しかし、被爆後の生活も決して平坦なものではありませんでした。広島市は原爆の放射能の影響で今後何十年間は草木も生えないとか、原爆で被爆した人に近付いたら感染(うつ)るとか・・。事実、広島で被爆しながら助かった人の中でも、放射能の影響でしょうか髪の毛が抜け落ち、血を吐いて亡くなられたという事例はあちこちでありましたからね。

 広島市内の原爆の中心地から2キロ余りの場所で被爆し、直後から約1週間程、毎日市内を歩きまわった事で、その間、放射能を受け続けていたことになりますから、何時その影響が出てくるのか、結婚してからは子どもへの影響も言われ、精神的には不安の連続でした。

戦争、被爆の傷痕を乗り越えて生きる
     京都「被爆2世・3世の会」へのお話しから

2014年2月4日(水)

■過酷だった少年時代からの勤労動員

 私の生年月日は昭和3年(1928年)11月6日です。本籍地は江田島になっているのですが、父は家族を連れてずーっと朝鮮に行っていた人です。私の二人の姉は釜山と大邱(てぐ)の女学校を卒業しています。兄は京城医専という医者の学校卒業です。

 昭和15年(1940年)、私が小学校5年生の時、一家は朝鮮を引き上げ、広島に帰ってきました。父は三篠というところで鉄工所をやっていました。宇品や呉は当時軍港でしたが、そういうところの船舶の機械の関係鉄工所でした。戦況が厳しくなりだんだんと徴兵される人が増えていき、鉄工所の働き手も足りなくなったので閉鎖し、研屋町で旅館をやるようになったわけです。

 はっきりした記憶はありませんが、戦争にかり出された男手不足を補うために、中学3年生の頃から生徒を動員した勤労奉仕と言うのがありました。農家の稲刈りを手伝ったり、田圃の中の暗渠(あんきょ)排水などという作業もありました。もう少し大きくなってからは陸軍の糧秣支廠(りょうまつししょう)、被服支廠(ひふくししょう)などに転々と行かされました。最後は兵器補給廠(ほきゅうしょう)にずーっと行きづめの毎日でした。

 あの有名な厳島神社もその頃は観光どころではありませんでした。厳島神社の裏側には弾薬庫があったんです。厳島の裏側の海岸に迫った山の中腹にトンネルが掘ってあって、そこから弾薬を出し入れするのも学徒動員の作業でした。

 随分辛い目に遭わされたものです。真冬の一月という一番寒い頃でも一週間泊まり込みで作業をさせられるのです。あの頃は厳島でも雪が降って積もっていました。軍靴という靴を履いているのですが、雪の中を歩いていると水が染みてきて、足が痛くなって、しまいにはしびれてきて、最後は裸足になって作業していました。作業態度が悪いといって、ビンタや鉄拳で殴られたりもしました。中学4年生、まだ15歳〜16歳の頃のことです。

■戦争に奪われた学ぶ機会

 被爆後郷里の江田島に帰った私は、しばらくの間、叔父さん、伯母さんたちのところに身を寄せていました。とてもよく面倒見ていただいたと思っています。しかしいつまでもお世話になっているわけにはいきません。叔父さん達も私の将来についていろいろ心配され、相談もされていたようです。

 その内に「東京に行って勉強したらどうか」と言うことになり、言われる通り昭和20年(1945年)の9月に上京することになりました。翌年春からの医師養成学校入学をめざす、そのために半年間受験に備えた勉強をするというのが目的でした。

 私の父は広島市内研屋町で旅館を経営していたのは上述した通りです。南方方面への軍隊出撃基地となっていた広島は、いつも出兵前の兵隊でいっぱいでした。その兵隊の最後の見送りをする家族もたくさん広島に来ていて、市内の旅館はいつも泊まり客に溢れていました。

 そうした中でも私の父はあかつき部隊の衛生兵のある部隊長の方と懇意にしていて、その部隊長のために特別に一部屋を確保し続け提供していました。そうした縁から、その部隊長の方から「東京に出て勉強しては」とのアドバイスをいただいたわけです。その方は東京田無市で病院を経営していて、受験勉強中の私は住まいや食事でお世話になりました。

 東京では石神井にあった旧制中学の補修科に通って受験のための勉強をしました。当時の旧制中学には通常の5年生までの科と、受験勉強のための補修科というのがあったのです。ところが補修科で習う授業が私にとってはあまりにも高度過ぎてついていくことができませんでした。

 広島では中学4年生の頃から毎日毎日の勤労動員でほとんど学校には行っていない、まともな勉強はしていない。そのことの弊害、ギャップはあまりにも大きかったと思います。医科志望ですから理科とか数学を主に習うのですけど、微分積分なんて出てくるとまったく分らない状態でした。昭和21年(1946年)の3月に慈恵医科大学と東邦医専の二校を受験しましたが両方とも駄目でした。

 翌月4月に広島に帰りましたが、それまでに二人の兄も除隊となって帰郷していました。兄たちは既にそう若くもない年齢でしたから早々に所帯も持ち、父からの財産も長兄が継いでいきました。私も早く次の進路を決めなければならない事情がありました。私の父は子どもたちの大学進学を強く願っている人でした。その影響から私も当時からなんとなく大学へは行かなければならないものという意識がありました。

■龍谷大学予科に入学し京都へ

 叔父さんの奥さんという人がたまたま浄土真宗のお寺の役僧をされていた人で、僧侶になることを薦められ、そのような関係から、今度は龍谷大学へ入学することになりました。本当は僧侶になることは本意ではありませんでしたが、中学の頃の同級生(誓立寺の武田君)も同じ龍谷大学に入るというので、それではと一緒に入学することにしました。但し、同級生の彼は最初から仏教のことを専門に学ぶ専門部へ、私は龍谷大学の予科を選びました。予科とは旧制高校と同じで、現在の新制大学の一般教養課程に相当する3年間のコースです。

 龍谷大学への入学は昭和22年(1947年)ですが、これが初めて京都に住むことになった時でした。入学はしたものの、それでもどうしても僧侶にはなる気になれず、結局は龍谷大学は予科の3年で終了することになります。

 龍谷大学予科の3年間、生活費は兄のお世話になりましたが、授業料はすべて自分でまかなうというのが兄との約束でした。あの頃は学生アルバイトなどまったくない時代でした。そのために予科3年間の内の1年間を思い切って休み(休学ではなく、授業に出席せず)、江田島に進駐していた駐留軍の中で働いて授業料を稼ぐことにしました。

 当時の駐留軍は、近畿地方から東はアメリカ軍が、西はイギリス連邦軍(現在のイギリス、インド、オーストラリア、二ュージーランド軍で構成)が担当していて、広島方面の駐留軍は江田島に駐屯していました。私は縁を頼って駐留軍本部に職を見つけ1年間学資稼ぎにはげみました。大学は各期末試験だけ受験するという際どいことをして乗り切ることができました。

■学徒動員から復員してきた人たちと学ぶ

 龍谷大学予科終了後1年間はまた進駐軍で働くなどして過ごしましたが、戦後の新制大学制度のスタートを機会にもう一度4年生大学への就学と卒業に挑戦することにしました。その頃は銀行員となって働きたいという意思が強くなっていたこと、そして住み慣れた京都で勉強したいという思いもあって同志社大学の商学部をめざしました。私は龍谷大学予科で一般教養課程は終了していましたので同志社大学では3学年の編入試験を受けることになりました。

 戦争中、特に終戦間際、学徒動員で多くの若者が大学の勉強半ばのまま兵隊に、戦地に引っ張られていきました。辛うじて命を永らえ、復員してきた人たちの中にはもっと勉強したいという思いの人が多かったようです。そういう人たちが編入試験に殺到し、この年(昭和26年/1951年)同志社大学商学部だけで編入試験を受ける人は1,000人を超えていたと思います。受験生の年齢も高く、入学後の私の同級生にも私より10歳も年上の人などはざらにいました。

■70年前のあの日を生き抜き今日あることに感謝

 同志社大学の卒業は昭和28年(1953年)ですが、当時も今と同じ超就職氷河期でした。さらに銀行志望の私にとって両親がいないということは大きなハンディキャップとなっていました。あの頃の就職活動はまず身上調書の提出から始まるのですが、親のいないことは保証能力に欠けるということで頭から撥ねつけられる始末でした。しかし食っていかなければならないわけで、意に添わなくても室町筋の繊維問屋、京都・大津の進駐軍キャンプ、クリーニング店などを転職しながら生きていきました。その間に結婚し、長女も生まれました。

 昭和33年(1958年)、相互銀行支店の集金担当として入社しました。集金担当の仕事は西陣から嵐山一帯までの広い範囲を毎日自前の自転車で回らなければならないという大変厳しいものでした。しかも今でいう契約社員のような身分ですから明日が保障されているわけではない、明日の見えない仕事でした。それでも5年間働き続け、昭和38年(1963年)にやっと内務行員になることができました。

 相互銀行には定年退職まで勤め上げ(勤続25年)、再就職した信用組合も10年と8ヶ月勤めて、平成6年(1994年)、66歳の時に現役生活を退きました。

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 あれだけの被爆をしていますので体調管理には気を付けていて、被爆者のための人間ドッグも毎年受診してきました。昔の頃は第二日赤で一泊二日の泊まり込みで受診したものです。

 NHKへの「ヒバクシャからの手紙」冒頭でもふれていますが、平成21年(2009年)、81歳の時、胃がんが見つかって一部切除手術しました。それから副腎に腫瘍があるとも診断されています。良性か悪性か切除して調べなければ分らないと言われているのですが、切除すること自体危険を伴うので、今は静観している状態です。

 妻は3年前平成24年(2012年)に亡くなりました。私たちの子は長女の一人っ子で、孫は2人います。長女が生まれる時は、原爆の子どもへの影響もいろいろと言われていましたので、生まれてくるまでは本当に不安でいっぱいでした。

 一家全員が被爆した中でも私とともに生き延びた4歳下の妹は、その後小学校の校長まで勤め、今も元気に過ごしています。

 被爆から70年、今年87歳になりますが、70年前のあの日を生き抜き、よくぞここまで頑張ってこれたものと、感謝しています。



爆心地と広島市の地図

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