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●被爆体験の継承 29

“こぎゃんことがあってよかとか”

寺山忠好さんの被爆体験と妻・妙子さんの思い出

 寺山忠好さんは2007年(平成19年)5月26日亡くなられました。原爆症認定集団訴訟の原告として闘われている最中のことで、享年77歳でした。寺山さんが裁判のために準備され、また使用された証言資料などに基づいて、寺山さんの被爆体験と戦後の苦闘人生を紹介いたします。奥さんの寺山妙子さんには、忠好さんと一緒に歩まれた日々を話していただきました。そのことも合わせて紹介いたします。
 寺山妙子さんには2015年3月12日(木)にお話しをお聞きしました。


“こぎゃんことがあってよかとか”寺山忠好さんの被爆体験

■長崎方向に見た光線

 私、寺山忠好は1930年(昭和5年)5月10日生まれで、被爆当時は15歳。長崎から17km離れた大村第21海軍航空廠にいて、当日は廠内の杭出津寮で製図の実習をしていました。

 実習の最中に、突然、長崎市内の方向に光線を見ました。それはいなづまを集めたような、ピカピカと目をつらぬくような光線で、一秒か二秒か、ちょっとの間のものでした。雲が黄色く見えました。

 しばらくして、ゴォー、ガラガラと物凄い爆風があり、ガチャーンガチャーン、グラグラという凄まじい音に襲われて、私たちは机の下にもぐりこみました。1、2分の後に「総員退避!」の指令があり、防空壕に走り込みました。

 やがて長崎方向に赤くどす黒く天に向かう雲を見ました。その雲はどんどん変化しながら昇っていき、横にももくもくと広がっていきました。原子雲というのか、爆発雲というのか、その中で赤黒い炎が飛び出すように、モクモク、ムクムクと燃えていました。黒煙は大村一帯も覆い尽くすように湾の方へ流れていきました。黒いススのようなものも降ってきました。

 夕方7時頃にはすべての視界が煙のようなもので覆われて薄暗くなりました。長崎方向は空を真っ赤にして、えんえんと燃えていました。次の日10日になっても燃え続けていました。10日の昼頃になって、どこからともなく「長崎にアメリカが新型爆弾を落とした」との話が耳に入りました。でも、損害は軽微だというものでした。

爆心地と長崎市広域の地図
■焦熱の中を自宅に向かう

 命令によって長崎市内に自宅のあるものは帰宅することになりました。とにかく自宅に帰って家族の安否を確かめなければならない。私はその一心で、8月11日、長崎市内の山里町にある自宅に向かうことにしました。山里町の私の自宅は、後年分ったことですが、爆心地からの距離が100m以内という近さです。

 国鉄で朝早く5時頃には道の尾駅に着きました。しかし、線路が破壊されていてそれ以上は進めません。しかたなくそこからは歩いて山里町の自宅に向かうことにしました。道の尾駅のプラットホームは人でいっぱいで、ほとんどの人が動いていませんでした。みんな寝ているのか、死んでいるのか分らない。近づいてみると乳飲み子がうじうじしていました。焦げくさく、全体が、なんとも言いようのない異様な臭気が漂っていました。私は、「早う、家に帰らんば。家はどがんなっとるやろ」「みんなどこへ逃げたのかな」と必死の思いでした。

 道の尾駅には各地から軍需工場に徴用されていたらしい男女、若者もたくさんいました。その人たちも、とても普通の姿ではなく、みんな服はボロボロ、肌が見えて、髪の毛はちぢれ、やっとここまで辿りつくことができたといった風でした。

 生きているのか、死んでいるのか、動かない人、人、人がいっぱいで、あちこちで苦痛にうめく声がしていました。「助けてくれ、助けてくれ」「水を、水を」「水を飲ませてくれんね」「水が欲しか」・・・・かぼそくうめき声がしていました。

* * * * *

 やっと六地蔵まで歩いてきました。道ばたにはたくさんの人が倒れていて、着ているものはチリチリ、手から皮がたれさがり、体からも皮がたれさがっていました。赤いような、ずず黒い皮膚、熟したトマトをふみつぶしたような顔。「水ば欲しか、水ば欲しか」とたくさんの人から声をかけられ、私は持っていた水筒の水を分けました。それでも2、3人の人にしか与えられません。たくさんの人が倒れている中を、「かんにん、かんにん、かんにん」と心の中で叫びながら自宅へ急ぎました。

* * * * *

 途中、三菱兵器大橋工場を通りました。正門の前には何十人か倒れていましたが、生きているのか、死んでいるのか、救援を待っているのかも分りませんでした。

 明け方6時頃だったと思いますが、爆心地から400〜500bの所の、電車の終点大橋駅と松山停留所の間、岡町あたりに着きました。大橋行きの電車はほとんど破壊されており、電車の中には夥しい死体の山が折り重なっていました。あまりの恐ろしさに体が震えました。身の毛もよだつとはこうしたことを言うのでしょうか。人が通っている本通りに出ましたが、木炭バスが吹き飛ばされ、バスの中は半焼けの人間がいっぱいでした。全員即死だったと思います。

■瓦礫の中に半焦げの母、弟、二人の妹が

 私は我が家に向かってひたすら走りました。「おかあちゃん、おかあちゃん」と叫びながら家に向かって走りました。到着した我が家は燃え尽きていて、まだ瓦礫の中から煙が上がっていました。瓦礫の中に、半焦げになった母、弟の満吉、妹のレイ子とミサ子を見つけました。弟や妹たちは母にすがりつくような格好のままでした。我が家の上にいたおばさんの亡骸も一緒でした。

 亡くなっていた5人の体は全部は焼けてなかったのですが、手や足、細かいところは骨になっていました。周りには生きている人の姿は一人もありません。私は頭の中が真っ白になり、思考が止まり、防空壕の上にへたり込んでしまいました。

■義兄も姉もその子も

 自宅前の防空壕を覗くと、全身焼けただれた義兄が寝ていました。義兄は「忠好ね。水ばくれんね。おれが皆を早う助けんば、と思って、川づたいに来たばってん、まだこの辺は燃えとったと。みんな、どがんなっとるね。みんな死んどるばい。水が飲みたか。水はなかね」と言いました。私は水道の蛇口からわずかに出ている水を飲ませました。自分も飲みました。義兄の手の先からは皮が垂れ下がっていました。辺りを探して焼けたハサミを拾ってきて、義兄の手の皮を切り取りました。そして、腕をぼろ布で包んでやりました。

 義兄は妻の千津子(私の姉)と息子の直志(私の甥)の安否を気遣いました。「朝、仕事に行く時、“はよう、帰って来んね”と手を振っとったばい。捜してくれんね」と私に求めました。私は、周辺や大浦天主堂の側の川にも入って姉とその子を探しましたが、すぐには見つかりませんでした。橋のたもとには5、6人の死体がありました。子どもたちを水遊びに連れて来ていたのでしょうか。空襲警報の時には橋の下で遊んでいたのでしょうか。幼子の髪の毛だけが水面に揺らいでいました。

 大浦天主堂の側の川の中に、従弟のヨシロウ(小学校5年生)が亡くなっているのを見つけました。引き寄せて岸に上げました。それからもう一度瓦礫を掘ってみると、そこに乳飲み子を添い寝するような格好で亡くなっている姉を発見しました。爆心地から100mも離れていないところでした。

* * * * *

 その後、私は、焼けただれて、ぐちゅぐちゅ、よれよれの義兄を何としても病院に連れて行こうと思いました。川の縁でやっと見つけた戸板に義兄を乗せて、どこをどううろついたのか、救護所らしい所に運び、赤チンらしい液体をハケで体中に塗ってもらいました。周りの人が見かねて、血で汚れた担架を貸してくれました。それからは、その担架に義兄を乗せて、周りの人の助けをもらいながら、何度も何度も休み休みしながら、やっと岡町から浦上駅まで歩いて運んでいきました。

 そこから汽車に乗って、諫早駅を経て湯江駅まで行きました。湯江駅からすぐに病院に担ぎ込まれ、義兄の母も連絡を受けて病院へ駆けつけてきました。ここまで来て、義兄を義兄の母に引き渡すことができて、私は、体の力が抜け、頭も空っぽになり、記憶も空白になってしまいました。やっと母親に会えた義兄でしたが彼も間もなく亡くなりました。

■15歳の私が一人で母たち6人を荼毘に

 山里町の自宅跡に戻った私は、もう何をする気力もありませんでした。防空壕の上にポカンと座っているだけでした。「死体を焼かんば」と誰かに耳元で囁かれて、母の死体と、そのそばに他のみんなも集めて焼くことにしました。木片をほうぼうから拾い集めてきて、母と姉とその子と、弟と二人の妹の6人を焼きました。拾ったバケツに6人の焼いた骨を入れようとしましたが、1つのバケツには入りきらず、他のへこんだバケツもたたいて広げて2つのバケツに入れ、いっぱいになりました。お骨は焼ける前の家の仏壇があった場所に置きました。

 その後、佐世保の造船所に出張していた父が帰ってきました。父は2つのバケツを抱きかかえるようにして、「むごかね、むごかね」「むごすぎる」と言いながら狂ったように叫びました。「こぎゃんことがあってよかとか」

* * * * *

 被爆した後、私は自宅近くの防空壕で生活し、付近の畑の芋、とうもろこし、カボチャなどを食べて飢えをしのいでいました。しかし、全身倦怠が続き、10日〜14日くらいの間に、下痢(血便)、歯茎からの出血、鼻血が出るなどの症状に見舞われました。それからの後もずーっと体調不良が続きました。

■闘病の日々

 戦争の終わった後10月頃、父の実家のあった長崎県西彼杵郡村松村(現在の琴海町村松郷)に移住しました。そして1948年(昭和23年)になって、叔母の勧めもあって歯科技工士になることを希望し、佐世保市内の歯科医院で住み込みで働くようになりました。さらに、1949年(昭和24年)10月には京都に出てきて、歯科医院で住み込み、定時制高校を出て、歯科技工士となり、懸命に働いてきました。

 その間も体調はずーっと悪く、たくさんの病院、診療所で診療を受け続けましたが完治はしませんでした。発熱が続いたり、体調不良も続いていたのですが、「原因が分からない」とどの医者からも言われていました。

 1969年(昭和44年)39歳の時には、39度の熱が月に3回も出て、扁桃腺、甲状腺の精密検査を受けて、京都済生会病院で手術をしました。その時、「血が止まりにくい、白血球の数が少ない」と医師に言われました。手術はしても、その後も体調不良は続きました。

* * * * *

 1978年(昭和53年)3月、多忙を極めた京都での仕事と活動の疲れを少し癒そうと思い、家族全員で妻の実家のあった愛媛県松山市に移り住むことにしました。当初は、しばらくの間の休息のようなつもりでしたが、松山での暮らしはその後長く続きました。

 この松山での暮らしの途中から重い心臓の病気に見舞われることになりました。1993年(平成5年)63歳の時、最初の急性心筋梗塞が発症し、愛媛生協病院で治療を受けました。

 1999年(平成11年)69歳の時には、1月28日心臓機能障害のためペースメーカー手術を、3月13日には心臓カテーテル手術2本を受けました。その直後の3月30日にペースメーカーが全部飛び出してしまい、驚いた医師が「こんなことがあるのか?原爆のせいか?」と言われるような事態が起きました。続く4月5日にはペースメーカー植込部感染のため入れ替え手術を行い、6月10日〜12日には狭心症で入院。その後も入退院を繰り返し、12月3日〜31日には、手術時間6時間以上に及ぶバイパス4本の大手術を受けることになりました。翌年も1月4日〜31日入院しています。

 さらに2001年(平成13年)になってからは脳梗塞も発症し、3月31日〜4月23日右手足のしびれで治療、10月2日〜25日は今度は左手足のしびれのため入院しました。この年には腰痛もあって8月2日〜8日の間入院しています。

* * * * *

 2002年(平成14年)10月、松山から再び京都に移り住むことになりました。私の病気もそのまま京都に持ち帰り、京都で引き継いで治療を続けることになりました。

■原爆の絵

 1993年(平成5年)の最初に急性心筋梗塞で倒れて入院した時から、病院では原爆の夢ばかり見るようになりました。上空がピカッと光った時からの情景が繰り返し現れて来て、毎晩苦しみました。瞼の中に浮かび、また消える。遠く近くただよう一時も忘れない母の姿、義兄も姉も、妹も弟も今にも何かを語るように、じっとじっと私を見ていました。この幻が私を苦しめ苛(さいな)みました。母、兄弟姉妹たちの目が落ち、くぼんでいく。顔がくちゃくちゃとなっていく。この後には、白い骨だけの顔が目も、耳も、鼻もない、ただ歯だけ残った顔が浮かぶ。

 重なり合った白い骨が、焼けただれた肉体が目の前にちらつく。カサッカサッと音がする。母、兄弟姉妹の重なり合った骨を、焼けて黒ずんだバケツに入れる音、手づかみで入れる音。ああーこの幻が、私の魂をゆすぶり苦しめるのです。

 私は、自分がこの苦しみから解放され楽になる方法はこの情景を絵に描く以外にないのではないかと思うようになりました。絵に描いてみれば少しは自分の気持ちが落ち着くのではないかと。また、自分だけが苦しい思いを抱えて死ぬわけにはいかない。あの情景をできるだけ忠実に描いて後世の人たちに伝えていかなければならないとも。8月11日、大村の航空廠から家にたどり着くまで見たことを一つひとつ描き残そう、と思い立ちました。

 退院してから、脳裏に焼き付いた被爆の体験を水彩絵具とクレヨンで描き始めました。強烈な何かが頭の中に焼き付いていて、それを絵に表現したいのですが、しかし、描き始めてみるとなんと難しいことかと痛感しました、百分の一でも表現できたらいいのに・・・・と思いながら描きました。一つの絵を仕上げるのに10枚近く描き直し描き直しして描いていきました。それでも記憶に残る見たままの色は出せません。2年をかけてやっと48枚のB4版画用紙の原爆の絵を完成させることができました。一つ一つの絵には説明文もつけました。

* * * * *

 私の絵は、1995年(平成7年)、京都原水協などの開催した「京都府民平和フェスティバル」において展示していただき大きな反響を呼びました。絵の題は『こぎゃんことがあってよかとか』とつけられました。この時は、京都にいた頃から交流のあった京都原水爆被災者懇談会の田渕啓子さんに大変ご尽力いただき、お世話になりました。

■絵に託した原爆症認定訴訟での意見陳述

 京都に帰ってきた翌年、2003年(平成15年)から心筋梗塞はさらに悪化していきました。そこでその年の4月に原爆症認定申請をしました。しかし、12月になって却下通知が来たため、それで原爆症認定集団訴訟に加わって裁判に訴えることにしました。

 2004年(平成16年)9月3日に提訴、原爆症認定近畿訴訟第二陣の原告でした。その第1回口頭弁論が11月7日に行われたのですが、私は病気が重くなっていて自らは出廷できませんでした。そこで、私の描いた絵の41枚をパワーポイントにして法廷内の大型スクリーンに映し出し、絵に付けられた説明文を弁護士の尾藤廣喜先生が代読するという異例の方法で、意見陳述させていただくことになりました。

『【原爆絵本】こぎゃんことがあってよかとか』1

『【原爆絵本】こぎゃんことがあってよかとか』2

『【原爆絵本】こぎゃんことがあってよかとか』3

 私たち被爆者があの一発の原爆によってどのような悲惨な被害を受けたのか、また。それがいかに広がりをもつものかについて、さらに、これが私たちの現在の身体状況にどうつながっているかについて、どうしても訴えたかったのです。それを絵に託すことにしました。

 陳述は25分ほどのようでしたが、裁判官も、原告も、原告・被告双方の代理人も、傍聴者も、みんなスクリーンに釘付けとなり、あまりにもの衝撃で法廷内は静まり返ったと聞きました。

 私はこの日、裁判官に対して以下のような文章での訴えをして、意見陳述の締めくくりとしました。

 原爆投下から59年。苦しみながら生きてきた59年。仕事もまともにできなかったこの体、この人生を国にきちんと認めてもらいたいのです。

 今なお地球上には核兵器が存在しています。また、「イラクではたくさんの家族が殺されている、それはまさに59年前の長崎を思い出させる。あんなむごか戦争をしたのは誰か」「今も核兵器を持つアメリカについていく小泉首相は許せない。戦争の生き証人として訴えたい」と思い、核兵器の即時廃絶のために、この裁判をたたかいたいと決意しています。

* * * * *

 第1回口頭弁論のあった翌年、2005年(平成17年)、田渕さんの熱心な勧めで41枚の絵を絵本にして出版することになりました。『【原爆絵本】こぎゃんことがあってよかとか』です。

『【原爆絵本】こぎゃんことがあってよかとか』表紙

妻・寺山妙子さんの思い出

■松山で生まれ夫と出会うまで

 私は1933年(昭和8年)5月3日、松山市生まれで、夫より3歳年下でした。終戦の年が12歳、今は82歳になります。

 私の兄弟姉妹は7人なんですが、私が一番上で、長女で、一番下とその上の二人は出征していた父が復員してきてから生まれた子たちです。私の家は農家でしたが3世代が一緒に暮らす11人ぐらいの大家族でした。農家ですから食べるにはまあまあ食べられましたけど、生活は大変で、苦労もしました。父が出征した後は、祖父が中心になって農業をしていました。

 松山も空襲の焼夷弾で焼けました。昭和20年(1945年)7月のことです。私の住んでいた地域は松山市の中心地からは少し離れていましたけれどそれでも空襲被害はありました。私は妹をおぶって川に入り、焼夷弾から逃れるように避難しました。通っていた小学校は松山の中心地だったのでまったく焼けてしまいました。

 広島に原爆が落とされた日、松山から見た広島方向の空が尋常ではない雲に覆われました。母と二人で、曇る空を見て、もの凄い爆弾が落ちたようだと言いながら眺めていた記憶があります。

 終戦の年、私は小学校6年生でした。当時は高等小学校という制度があって、その高等小学校2年生になった時に新制中学ができました。あの頃は学校制度もコロコロ変わっていた過渡期で、みんな落ち着いて勉強できる状況ではなかったように思います。

 ずーっと松山で大きくなったんですが、19歳の時に親戚を頼って東京に出て行きました。東京には3年ほどいましたが、京都にいた叔父さんが「東京のような所に若い娘が一人でいたら危ない」といって誘ってくれて、それで22歳の時に京都に来て住むようになりました。

 京都に来てから叔父さんの紹介で大平歯科という医院にお世話になり、そこのお手伝いとして住み込みで働くようになりました。住み込みですから最初は女中みたいなものでした。6年前から京都に来ていた夫もそこで歯科技工士の見習いをしていたのです。そうした縁で私たちは知りあうことになり、間もなく一緒に住むことになりました。昭和30年(1955年)12月のことで、夫が25歳、私が22歳でした。経済的に余裕がなかったので結婚式もあげることはできませんでした。

 それから夫は開業(自営業)もし、歯科技工士のお弟子さんが4〜5人はいるようになりました。夫が歯科技工士の仕事をして、私が出来上がったものを歯医者さんに配達し、そして注文も受けてくるというようにして、仕事を担いました。そのために私が車の免許を取りました。子どもがまだ小さい頃は子どもを車の中に乗せておいて走り回っていましたね。お化粧などもしたことないほどで、夫の仕事を支えるのと、生活を成り立たせていくのとで精一杯でした。

■夫の被爆体験と私たち家族

 夫・寺山忠好の被爆体験は裁判の証言などで語られている通りなんですが、被爆した後は、家族も失い、15歳の少年が闇市をウロウロしたりしていて、生活は相当荒れていたようです。親戚の叔母さんから「忠好はこのままではアカンから、手が器用やから、何か手に職をつけたらどうかな」と言ってくれて、それから歯医者さんの歯科技工士になったらどうかということになって、それがきっかけで佐世保の歯医者に行ったんです。昔は歯科技工士に資格はいらなかったんですね。

 夫は本当は高校にも進学したかった、医者にもなりたかったんですよ。でもお金がなかった。歯医者になりたいといって神戸にいた叔母さんのところへも相談に行って援助のお願いもしたらしいんですが、断られて、それで医者になることは諦めたんです。歯科技工士でも田舎では駄目だと思って、それでつてを頼って19歳の時に京都に来たわけです。京都に来て、歯医者に勤めている時に、中学卒業の証明書を自分でもらって、それから京都府立鴨沂高校の夜間定時制にも入学したんです。

* * * * *

 私は原爆のことについては何も知らずに育ちました。結婚する時も、夫は被爆してることなど一言も話してくれていませんでした。ある日、夫がお酒飲んで酔っ払っている時に、急に「お母さーん」って叫んだんですよ。本人は全然覚えていないんですが、私がそのことを聞き糺(ただ)していくと、それからやっと被爆のことを少しづつ話すようになっていったんです。夫の家族が6人も原爆で亡くなったことなどをぼつぼつと聞かされていくようになり、私も少しづつ関心を持ち始めていきました。1964年(昭和39年)の年に京都で原水禁世界大会がありましたが、その前頃から被爆の様子は詳しく話してくれるようになりました。

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 私たちは3人の子どもに恵まれました。一番上が女の子で1957年(昭和32年)生まれ、次も女の子で1959年(昭和34年)生まれ、一番下が男で1965年(昭和40年)生まれです。

 でも子どもが生まれる時、もう陣痛が来ているという時なのに、夫はお医者さんに向かって「変な子やったら殺して下さい!」って言ったんです。私の目の前でね。あの時は悲しかったですね。

 それから子どもたちが大きくなってから、鼻血が出たり、何かあったりした時は、すぐに「原爆のせいじゃないか?自分の被爆のせいじゃないか?」っていつも心配していました。

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 子どもたちや孫たちにも原爆の話はよくしていましたよ。孫の一人が中学生の時、お祖父ちゃんの被爆体験から平和が絶対大切だというような作文を書いてくれたんです。夫はそれを宝物のようにしてとても大切にしていました。

 家族にはとても優しい人でしたよ。

* * * * *

 結婚した最初の頃から夫はよく疲れる、熱が出ると言っていました。毎月のように一度は大変な高熱を出していました。まだ原爆の影響とかなんとか何にも分らない頃で、とにかく扁桃腺が腫れて、熱がとても高い。これは扁桃腺だろうということで京都済生会病院で手術をしました。手術してもその後も高熱は続きました。熱を出すとね、布団の下の畳までがかびていくほどだったんです。

■京都原水爆被災者懇談会立ち上げの頃

 夫は仕事だけでなく、「とにかく世の中変えなアカン」と言って何に対しても本当に力いっぱい、一生懸命の人でした。民主商工会、原水協、共産党、町内会の役員も、学校関係までいろいろやっていました。自宅が上賀茂にあった頃は、選挙があると私たちの家が選挙事務所にもなっていたほどなんですよ。

 そんなに一生懸命やったら、地域の代表として無所属で市会議員に立候補したらどうや、と言われたこともあったみたいです。夫は共産党公認でなきゃ駄目やと言って笑って断っていましたけどね。

 広島や長崎で行われる原水禁世界大会にも毎年のように行ってました。仕事が自営業だったので、自分で仕事の融通がつけられるということもあったんですね。京都で世界大会があった頃から特に熱心になっていましたね。

 京都原水爆被災者懇談会は昭和40年(1965年)に立ち上げなんですが、夫は立ち上げの時の中心メンバーの一人でした。被爆者のみなさんを一軒一軒訪問して、「懇談会に入って下さい」って、一生懸命訴えていました。被爆者の方の家を訪ねると、玄関先で追い払われるようなこともあったし、家の中でいろいろと話を聞いてくれる人もあったし、本当にいろいろあったようで、苦労しました。立命館大学の教授だった永原誠先生も懇談会のメンバーで、永原先生などと一緒に活動できることをとても喜んでいました。

 できた当時の懇談会はいろいろな企画や行事もあって、みんな子ども連れ、家族ぐるみで集まって参加していました。あの頃は被爆者と言ってもみんな若いから、子どもも小さかったんですね。そのために、「たけのこ会」とかいう会の人に子どもの面倒見てもらいながらやっていたことを思い出します。

1977年(昭和52年)比叡山にて。寺山夫妻
1977年(昭和52年)比叡山にて
■松山へ、原爆の絵、そしたまた京都へ

 昭和53年(1978年)、家族みんなで私の故郷だった松山に移り住むことになりました。夫が48歳で、私が45歳の時です。京都での生活があまりにも忙し過ぎたんですね。本当に忙しすぎて、そういうことが重なってとうとうしんどいと思ったんですね。よほど疲れていたんでしょう。「松山に行って、3年はのんびりして、休むぞ!」って宣言みたいなことを言って松山に行ったんです。

 松山に住むようになってから、夫は何度も入院するようになりました。そんな時、「俺はこのままでは死ねへん」、「やっぱり原爆のことは訴えなアカン」と言って、そこで思いついて絵を描き始めたんです。退院してから自宅でボツボツと描き始めました。そうは言っても絵はまったくの素人、小学校の4年生頃から絵なんて一度も描いたことないんです。自分に納得がいくまで、何度も何度も描き直して、一枚一枚にとても時間をかけて描いていました。

* * * * *

 松山には3年なんて言ってましたけど、結局22年もいることになりました。子どもたちがやがて成長し、独立して、一番上の子と末っ子が京都に住むことになったので、それでは私たちもということで平成14年(2002年)、再び京都に住むことになったのです。

■夫の遺志を引き継いで原爆症認定訴訟を勝訴

 京都に帰ってからも病気の方は重くなるばかりで、心筋梗塞だけでなく、他にもいろいろ病気が出て来て、入退院を繰り返しました。2004年(平成16年)からは原爆症認定訴訟の原告にもなりましたけど、本人は出廷することもできず、裁判の進行が気掛かりな毎日でした。

 夫は2007年(平成19年)5月26日、堀川病院で亡くなりました。京都に帰って来てから5年目、裁判に訴えてから3年目の初夏でした。

 夫は体の大きい人でしたから、私はいつも夫の後ろからついて歩いていたような感じだったんですね。その夫が亡くなった時、突然、私の目の前に何も無くなってしまったような感じになって、これから一人でどうしようかと思ってしまいました。戸惑いながらも周りのみなさんに励まされて、夫の亡くなった後は私が裁判を引き継ぐことにしました。

 夫の家族たちは、原爆が投下され、人間として死ぬことも、人間らしく生きることもできずに亡くなりました。夫はその家族と、多くの被爆者に成り代わって、声が出せるまではと裁判に起ちあがっていました。でも判決を聞くことなく亡くなりました。どんなに悔しかったことかと思いました。その遺志を引き継いで私が裁判を引き継がないでは夫の無念は晴れないと思ったのです。私が原告となって裁判の証言台にも立ち、夫の被爆の体験と闘病の様子、訴えたかったことを精一杯に証言しました。私ももう70歳を超えていましたからね、裁判所ではいつもドキドキドキドキしていましたけど。

 判決は2008年(平成20年)7月18日に言い渡され、勝訴することができました。夫の亡くなった翌年でした。

* * * * *

 夫が亡くなって、裁判にも勝って、子どもたちに松山と長崎へ連れて行ってもらいました。夫のお墓は京都ですけど、夫の家族、8月9日に一緒に命を奪われた人たちが眠っている長崎のお墓参りに行こう、ということでね。墓標には命日がみんな同じ昭和20年8月9日と記された6人の名前が並んで刻まれていました。

 その足で長崎の原爆資料館なども見て回りました。


『【原爆絵本】こぎゃんことがあってよかとか』より地図
『【原爆絵本】こぎゃんことがあってよかとか』より



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