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●被爆体験の継承 3

大村海軍病院(長崎県)でたくさんの被爆者を救護し
被曝した私の体験

森 美子さん

2013年3月27日(水)聞き取り
京都「被爆2世・3世の会」で聞き取り、文章化

森さん 『大村海軍病院写真集』より
                       『大村海軍病院写真集』より
■大村海軍病院への赴任

 私は京都市内壬生寺付近で生まれ京都で育ちました。大津市にあった日赤救護看護婦養成所で2年間勉強し、昭和20年(1945年)3月に卒業しました。20歳でした。(現在88歳です。)

 卒業して1週間ほどした頃、赤紙=召集令状が来て、長崎県にあった大村海軍病院に応召することになりました。私にとって養成所を卒業して初めての医療現場が遠い長崎県にある海軍病院になったわけです。

 赤紙とは、兵隊に徴兵されるあれと同じ召集令状です。日赤はそれに応じることが義務付けられており、そのことはあらかじめ知っていましたので、驚くことはありませんでした。看護婦20人、婦長1人、書記局1人の合計22人で一つの班を編成し派遣されます。

 あの時大村病院には大津から二つの班が派遣されました。その他の地域にも多数派遣されたと思います。

 大村海軍病院は長崎県大村市にあり、長崎市から東北方向、大村湾を挟んで直線にして19kmほどの距離のところです。現在は長崎国立病院になっています。海軍病院時代の記念に門柱一本が残されています。私の印象では海軍軍人の肺結核患者が多かったように思います。海軍の潜水のことなどが関係していると聞いたような気がします。

 海軍病院では、本来の看護業務だけでなく、非番の日の「甲板掃除」と言われた廊下の徹底した清掃や、田んぼの草取り、防空壕を掘った後の残土運搬作業などの勤労奉仕作業もありました。一日も休ませてもらえず、特にもっこ担ぎはとても辛い作業でした。とにかく食べるものがない頃です。病院の中でも、病舎と病舎の間に畑を作り、ナスなどを作っていました。

■長崎原爆投下と大勢の被爆者の救護

 8月9日の朝、私は宿直明けで遅い食事の後、食器を洗っている時でした。ピカッと閃光を感じました。その時は患者さんが鏡で陽の光りを反射させるいたずらでもしているのかと思いました。その後すだれが弓なりのようになる強い風を感じ、ドカンという音が響きました。空襲警報が鳴り、急いで避難の準備にとりかかり、患者を防空壕に運びました。廊下を走りながら、長崎方向の上空にキノコ雲を見たのを覚えています。

 長崎にどてらい爆弾が落とされた、ということは間もなく伝わってきました。

 大村海軍病院は軍人のための病院だったのですが、院長の決断で一般の被災者も収容することになりました。

 その日、暗くなる時間から、病院に負傷者がどんどん搬送されてくるようになりました。負傷者はトラックに積まれて次々と運び込まれてきました。搬送されてきた負傷者は、とりあえず病院1階の廊下、貴賓室、応接室などあらゆるところに寝かせられました。

 負傷者は火傷の人が多数でした。中には皮膚が全部焼けてバーベキューのようになった人も、黒こげになっていた人もありました。みんな「お水、お水、お水」と言って水を求めました。私達はピストンのように駆け回って水を持ち運び、患者さんを抱きかえるようにしてちょっとだけ横に向かせて口元に水を持っていって飲ませました。何人もの人に飲ませました。

 灯火管制の暗い中でのことですから、患者がどんな様子かよく分からないまま、徹夜で必死の看護をしました。夜が明ける頃には、患者の皮膚が焼け爛れ、ズルっとむけていることが判りました。一晩で数え切れないほどの人を処置しました。

 1階の部屋に収容し、水を飲ませても、翌朝には亡くなっている人も大勢でした。亡くなった人は病院の裏山に穴を掘って埋められました。「何も悪いことしていないのに、何で死なんならんのやろ」と言いながら亡くなった人のことを、一緒に救護にあたっていた衛生兵から聞いたことを覚えています。

 血便を発症する患者も多数いました。最初は赤痢かと思っていましたが、後になって被爆による急性症状だったことを知りました。消毒液で洗いながらではありましたがすべて素手で便を処理し、治療にあたりました。

 火傷の患者が多いのに、それに対するまともな薬もありませんでした。クレゾール液を薄めてガーゼに浸し、リバノールガーゼ代わりに皮膚に張り、それを取りかえるだけでした。医師の指示がある場合には痛め止め注射、化膿止め注射をする程度でした。患者さんの患部には蛆が湧いて、それを摘みだすのも大変で、大量の蛆との戦いでした。このような看護活動を9月の中頃まで約1ヶ月間、来る日も来る日も続けました。

* * * * *

 後の原爆症認定裁判において、証人の医師から当時の大村病院や、森さん等病院で働いていた人々の状況について以下のように証言されている。

 大村病院には原爆投下の約9時間後から続々と被爆者が担ぎ込まれ、当日だけでも758人が運ばれてきた。重傷者が多く、その日に100人以上が亡くなっている。(最終的な収容人数は1,700にもなる。)

 こうした多数の被爆者の身体や衣服などからの残留放射線により、大村病院の救護施設そのものが汚染された状態だったと考えられる。今日なら病室も完璧にしなければならないし、防護服、マスク等、被曝を防ぐ万全の措置をするのが当然だが、当時は救護する人を守るそうした手立てはまるでなされていなかった。森さん等はそんな状況下、被爆者からの残留放射線を直接浴び、また施設内の放射性物質を吸い込んで被曝した。

 
■私の急性症状など

 髪の毛がバサッと抜けるようなことはありませんでしたが、8月10日頃から時々下痢をしました。発熱もあったかと思いますが、当時は看護婦というものはみんなある程度は下痢、発熱はあり得るものと思い込み、あの時は特に気にはしないようにしていました。

■終戦

 終戦となり、進駐軍の乗り込みが伝わり、いざという時は死ぬための覚悟が求められ、そのための薬を持たされたことも記憶しています。青酸カリのようなものだったと思います。

 大村海軍病院に遠方から派遣されていた滋賀県、岐阜県の班は比較的早目に出身地に帰される措置がとられ、9月中旬京都に帰ることになりました。

 3月に大村に向かった時の列車は窓が目隠しされていて外は何も見えなかったのですが、京都に帰る時の列車はもう開放されていました。広島を通過する時、街の惨状、草一本内無い焼け野原を列車の車窓から目の当たりにしました。その時まで広島の原爆のことすら詳しくは知らされていませんでした。

 終戦直後、大村海軍病院での忘れられないことが二つあります。

 一つは進駐してきたアメリカ兵が病院の患者の資料(収容していた被爆者の関係資料だと思います)をすべて持ち帰ったことです。

 もう一つは、日本人医師とアメリカ軍の医師とが一緒になって亡くなった被爆者の解剖手術をしていたことです。決して治療ではありませんでした。解剖にあたっていた長崎出身の看護婦さんから聞かされました。彼女もその後甲状腺肥大を患い亡くなりました。

 資料の没収も、解剖手術も原爆を投下した側のアメリカの研究のためのものです。すべてを持ち去られた日本は、被爆者を助けるための研究も、治療もできなくなり、被爆者対策、救護が立ち遅れる大きな原因になったのだと思います。

■戦後

 京都に帰ってから、紹介する人があって11月頃から大丸の診療所に勤めることになりました。以来定年まで勤め上げました。生きることで一生懸命でした。

 戦後、大村海軍病院に配属されていた看護婦と衛生兵によって「大村会」という戦友会のような組織が作られました。350人ほどの会員で長く交流と親睦を続けてきました。75歳位までは毎年会の催しに参加していました。現在は会員の高齢化のため会はなくなっています。

 この大村会での話から、私達も被爆者健康手帳を取得できることを知り、申請、取得しました。被爆者援護法で「多数の死体処理・被爆者の救護等に従事し、身体に放射能の影響を受けた被爆者」と定められている第3号被爆者(救護被爆者)です。

 大村会ができた後の2〜3年後から大村会の友人が次々とガンで亡くなりました。私が特に親しくしていた人も5人は亡くなっています。とても寂しく思っています。

 私は昭和23年(1948年)頃から毎年のようにかなりの高熱(38度近く)を出すようになりました。あの頃は「風邪だろう」で済まされていましたが、本当の原因は分からないままでした。その後も次々と病気をするようになりました。湿性肋膜、腎臓炎、肝炎、自然気胸、低色素貧血、タンパク尿と。長期間仕事を休まざるを得ない時期もありました。

■肝機能障害と原爆症認定集団訴訟

 昭和60年(1985年)頃、脂っこい物がまったく食べられなくなる自覚症状が出、尿検査の反応もあって肝機能障害の診断が下されました。これは被爆が原因となっている可能性があると思い、京都原水爆被災者懇談会の田渕さんとも相談して、平成14年(2002年)原爆症の認定申請をしました。

 結果は却下処分でした。

 平成15年(2003年)から原爆症認定申請却下処分を受けていた被爆者のみなさんの原爆症認定集団訴訟が取り組まれており、私もこれに加わり提訴することにしました。

 裁判をするかどうかは随分悩みましたが、私自身だけでなく、被爆患者の看護に当たり被曝した仲間のためにもと決心しました。生まれて初めて裁判の傍聴にもでかけました。裁判は一審、二審とも敗訴し、原爆症と認定されることにはなりませんでした。

 2009年の「8・6合意」で確認された基金によって敗訴の場合でも救済措置はとられることになりました。

 敗訴にはなりましたが、判決は「(私が)内部被曝、外部被曝していても決して不自然、不合理なことではない」「下痢は急性症状と説明することも不可能ではない」と述べて、私の放射線被曝の事実を認めました。それまで3号(救護)被爆者は頭から原爆症認定は認められず、切り捨てられていたのですが、初めて3号被爆者にも認定の道が切り開かれたと評価されました。

 原爆症認定集団訴訟での原告は全国で306人にもなりました。この内、第3号(救護)被爆者は唯一私だけでした。私の訴えが認められていれば、原爆症認定のその後の事情も随分変わっていたのではないかと思います。

 二審敗訴の後の集団訴訟支援集会で「(裁判に)敗者復活があればいいなあと思ったりして。これからもよろしくお願いします」とあいさつし、みなさんから大きな励ましをもらったことを今でもよく覚えています。

 救護によって被曝した人は広島でも、長崎でも本当はもっともっと多いのではないかと思います。救護活動によって本当は被曝しているにも関わらず、自分を被爆者と思っていない人も全国にはたくさんいるのではないでしょうか。

■家族の健康と被爆「2世・3世の会」

 私は二人の子ども(一男一女)に恵まれましたが、子どもたちが病気になることもあります。そういう時はとても気がかりで京都原水爆被災者懇談会の田渕さんに相談しました。その時、京都にも「被爆2世・3世の会」ができ、2世の健康問題にも取り組もうとしていることを知りました。

 本当は2世にも健康手帳が発行されることを望んでいるのですが、なかなか難しいようです。政府の姿勢も固いようですね。

 子や孫たち、さらにはひ孫たちの健康についても、私の被爆が関係しないかと思うこともあります。

 私自身は最近4ヶ月ほど入院しました。今はなんとか週2回の訪問看護を受けながらやっています。

以上     

『大村海軍病院
写真集』より 防空壕造成作業
『大村海軍病院写真集』より防空壕造成作業

大村海軍病院
大村海軍病院

大村海軍病院・検査室
大村海軍病院・検査室

被爆した少女。8月10日〜11日、大村海軍病院にて。『広島・長崎 原子爆弾の記録より』
被爆した少女。8月10日〜11日、大村海軍病院にて。
『広島・長崎 原子爆弾の記録より』




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