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●被爆体験の継承 31

父と母の被爆体験、私の追体験

平 信行さん(被爆二世)

2015年7月25日

 私の両親は共に被爆者です。父は22歳の時、母は18歳の時、同じ広島で被爆しました。私たちの世代は幼い頃、家族の団欒は夕食後の親から子への語らいが中心だったのではないかと思います。まだテレビも家庭には普及していない時代でした。私の父・母はこの団欒の機会に戦争体験、被爆体験をよく聞かせてくれたものです。親から子への語り、これが私にとっての最初の被爆追体験です。

 しかし残念なことに、幼い頃に語られたことの多くは忘れてしまい、断片的なことしか記憶に残っていません。私が成人した後、はっきりとした目的を持ってあらためて父母から聞き取りをしておけばよかったと今にして悔んでいます。父はすでに14年前に他界し、その機会を逸しました。幸い母は健在で、あらためて聞き取りをしたのが下記の一文です。しかしその母も詳細については忘れていることが多く、経験したであろう多くのことからすれば限られた体験談になってしまいました。

 以下、母の被爆体験から綴ることにします。

母・平貞子(さだこ)の被爆体験

(この項は母が一人称の語りです)

■江波山から見た広島の火の海

 私は大正15年(1926年)の生まれで、昨年88歳の米寿を迎えました。広島県山県郡壬生村(現在の広島県北広島町)惣森という地に、農家の6人姉妹・弟の5番目として生まれました。父親が早くに亡くなり、母親も体が弱く、姉たちもみんな家を出ていたので、一家の支えとなって農作業も家事も中心となって切り盛りしていました。

 私のすぐ上の姉が広島市内の江波(えば)というところに嫁いでいて、その姉が出産し、手助けのため一週間ほど姉の嫁ぎ先に滞在していました。昭和20年8月6日の一週間前、私が18歳の時でした。

広島地図

 手助けもほぼ終わり、8月6日の朝には姉の嫁ぎ先から田舎の実家に帰る予定になっていました。帰路は広島市内中心部のバス停留所から出発する郊外路線バスを利用します。爆心地の近くです。ところが姉の姑さんから何かの事情で帰る時間を午後に変更するよう勧められ、その通りにしたことが私の運命を分けることになりました。予定通り朝から帰宅の途についておれば、原子爆弾投下の瞬間はほぼその直下にいたことになります。

 その日の朝、家の中を掃除し、ゴミを屋外のゴミ箱に入れようとした瞬間、突然ピカッと強烈な光を浴び、同時に「熱い!」と物凄い熱さを全身に感じました。自分のすぐ目の前に爆弾が落ちたと思いました。瞬間、目をやられたとも思いました。

 急いで家の中に入ると、家の中は濛々たる塵、ゴミなどが湧きかえっており、視界も効かず何が何だか分からないことになっていました。壁土も落ちていました。箪笥が道路に飛び出したりもしていました。近所の人たちの呼びかけで布団をかぶって急いで近くの防空壕に避難しました。涙がボロボロと出てしかたなかったことを覚えています。

 江波(えば)の街は爆心地から南方向へ4kmです。私が居た姉の嫁ぎ先は小高い江波(えば)山のすぐ南麓にあり、その山が影となって幸いにも火傷などの直接の怪我は負わなくて済みました。

 やがて、多くの人たちが江波(えば)方面に逃げてくるようになりました。背中がひどい水ぶくれとなって、タップンタップンゆらしながら逃げてくる兵隊さんが大勢いました。多くの人が衣服が焼け落ちて裸のままのようになっています。ほとんどの人が大火傷をしていて、水ぶくれで、「熱いよう、熱いよう」、「水くれー、水くれー」、「助けてー、助けてー」と呻(うめ)きながら逃げてきました。「お母さーん、お母さーん」と泣き叫ぶ子どもも大勢いました。火傷で足と足とがくっついてしまっているような人もいました。

 江波(えば)山にはあの頃広島地方気象台がありました。それを守るためか高射砲陣地もありました。知人の縁で夜は江波(えば)山頂上付近の軍隊の防空壕に避難させてもらい、夜、山の上から火の海となって燃え盛る広島の街を見ました。

現在の江波山山頂から爆心地を臨む
現在の江波山山頂から爆心地を臨む
■被災者に追われるようにして街を縦断

 食糧も欠いていたため、3日後の8月9日には田舎に帰ることにしました。自転車の荷台に乗せてもらって帰る予定でしたが、すぐにバンクしたため、結局終始歩き通すことになりました。

 江波(えば)の街から舟入(ふないり)各町へ、そして北方向へ真っすぐ横川駅までの路面電車通りを、広島の街を縦断するような道筋で歩きました。途中爆心地の西側一帯をかすめるように通過することになります。

 路上には亡くなった人も、まだ生きていて呻(うめ)いている人もいっぱい並べられていました。蛆(うじ)がいっぱいに湧いていました。「助けてー、助けてー」と言われてもどうすることもできず、目を背けるようにして足を急がせました。水槽の中に顔を突っ込んだまま死んでいる人もたくさんいました。電車が止まったまま放置されていました。

江波から横川駅に向かう現在の電車通り
江波から横川駅に向かう現在の電車通り

 やっと郊外に出てひたすら歩いて田舎の実家をめざしました。広島市から実家のある田舎までは直線で40kmはある距離です。標高差もあり、峠を超え、山間部に向かって登っていく昼夜行でした。途中、怪我人をいっぱい乗せて広島から田舎に避難していくトラックに何台も遭遇しました。同乗を頼んでもいろんな理由をつけられて結局一台も乗せてもらうことはできませんでした。

 恐怖に包まれながら一晩中歩き通し、夜が明ける頃故郷の村の親戚にたどり着きました。親戚からすぐに実家に私の無事を連絡してもらいました。

 私の母親は既に「広島全滅」の知らせを聞いていて、私も私の姉も亡くなったものと思い込み、「久子(私の姉)も死んだ、貞子も死んだ」と毎日仏壇にむかって泣き通していました。

■急性症状をチフスと疑われ

 実家に帰ってから約1ヶ月間、毎日ひどい下痢と発熱が続きました。今から思うと被爆による急性症状というものではないかと思います。もちろん当時はそんなことは分からないため、私の母は、「チフスではないか?絶対人には言うな!」と厳しく口止めしました。

 実家の近くに、田舎にしては比較的大きい規模の藤井病院という病院がありました。ここにもたくさんの原爆患者が収容されたり、通院したりしていました。治療といっても特別なことができるわけではなく、ほとんどが赤ちんを塗りまくられるだけのことでした。遠隔地から通院してくる患者さんのため周辺の家々で仮の宿も提供されていました。私の実家でも1ヶ月ほど、親戚の患者さんのために宿の提供がされていました。

 終戦から5年後、昭和25年(1950年)に結婚。翌年の昭和26年(1951年)長男(平信行)を出産しました。さらに4年後次男を出産しました。

 被爆者手帳の交付年月日は昭和40年(1965年)10月1日となっています。何故この年の交付だったのかは覚えていません。手帳交付のための申請をためらったことなどはなかったのですが、近くに住む同じ被爆者の奥さんに教えられて初めて交付申請したようなことを覚えています。

 いつだったかははっきり覚えていないのですが、広島市内に新しく被爆者を専門に検査したり診てくれる病院ができたので、2泊かけて検査を受けに行ったこともあります。

 原爆が原因で健康を損なったと特に意識したことはありませんが、50代になってから狭心症を発症し、その後、高血圧、白内障にもなって、今不整脈で苦しみ続けています。

■戦争だけは絶対にやってはいけない

 被爆から70年、もう忘れてしまったことの方がたくさんになりました。なんとか思い出せるのが以上のようなことです。中でも特に、原爆投下の瞬間「熱い!」と感じた強烈な熱さ、人間に蛆(うじ)がいっぱい湧いていたこと、水槽の中に顔を突っ込んでたくさんの人が死んでいたこと、この3つだけはあまりに印象が強くて、生涯頭から消えることはないと思います。

 戦争は本当に悲惨で残酷です。戦争だけは絶対にやってはいけないと強く思っています。

父・平晴雪(はるゆき)の被爆体験

(この項からは私・平信行が一人称で父の被爆体験を語る文章です)

 父(平晴雪)は大正12年(1923年)に、母と同じ広島県山県郡八重町(現在の広島県北広島町)の有間というところで、5人兄弟姉妹の末っ子として生まれています。原爆投下の時は22歳です。父は2001年(平成13年)に他界していて、あらためてきちんとした戦争体験、被爆体験を聞くことはできませんでした。私の記憶に残っている父親の体験は極めて僅かで断片的ですが、それだけでも拾い集めるようにして以下に綴ってみることにしました。

■太平洋での二度の撃沈船から生還

 父は戦争中、南方油槽船の乗組員でした。軍隊の徴兵検査も受けているのですが、何かの事情で体調不良があって検査に合格しませんでした。しかし、徴兵検査不合格だったからといって若い青年が安穏(あんのん)と実家に止まっていることなど許される時代ではありませんでした。自ら志願する形で軍属となり、油槽船の乗組員になったようです。

 油槽船ですからタンカーだと思うのですが、当時インドネシアまたはマレーシアあたりから日本へ石油を運ぶ船だったのだと思います。しかし父の乗り組んだ油槽船は米軍の攻撃にあってあえなく撃沈されました。太平洋のどこらあたりなのか分りませんが、一昼夜海を漂って幸運にも別の船に救助されました。深夜の真っ暗の大海原を浮遊物につかまってたった一人で当てもなく漂うのは大変な恐怖だったと言っていました。

 ところが救助された船もまた米軍の攻撃によって撃沈され、再び太平洋を漂うことになりました。2度までも同じ目に遭って、それでも生還できたというのはこの上ない幸運に恵まれていたわけです。2度目に救助されたのが赤十字マークのついた病院船だったおかげで日本へ帰りつくことができたのだそうです。

■宇品港停泊中の船上で被爆

 父の乗り組んでいた油槽船の根拠地は広島の宇品港でした。戦争末期、日本にはすでに船を動かす石油が枯渇していて、宇品から呉の軍港にかけての広島湾一帯にはたくさんの軍艦、軍に関係する船舶が、動かせないまま錆びついたように係留されていたそうです。どの船も米軍航空機からの攻撃を避けるため、カムフラージュ用の樹木を甲板の上いっぱい積み上げて、見た目にも惨めな姿だったと言っていました。

 原爆投下の時父は宇品港に停泊していた船上にいて被爆しました。原爆の落ちた朝は船の甲板にいて、強烈な光と熱線に驚き、大慌てで船倉に転がり込みました。最初は、広島市内の都市ガスタンクが爆発したのではないかと思ったそうです。

宇品港六管桟橋(軍用桟橋)跡

宇品港六管桟橋(軍用桟橋)跡

油槽船乗り組みの頃・右端が父

油槽船乗り組みの頃・右端が父
■4日間焦土の街で死体整理作業

 父の具体的な被爆体験を少しでも知る方法はないかと考えていた時、被爆者が被爆者手帳の交付申請した時の申請書を閲覧する方法があることを知りました。申請書には「被爆した時の状況」を書く覧があります。早速、父の手帳発行元である広島県に問い合わせました。

 閲覧はできませんでしたが、申請書に書かれている被爆状況の写しを行政サービスで入手することができました。以下が父の被爆者手帳交付申請書に記載されていた内容です。

〈入市の概要〉
 昭和20年8月7日、8日、9日、10日の4日間被爆地整理に入市した時、私は軍属として南方油槽船に船員として居ました。船名は第31南進丸でした。船は宇品港第17描地に停泊していました。原爆投下の際には同船甲板にて作業中でしたが幸いにして身体に何の異常もありませんでした。

 8月7日、8日、9日、10日と4日間猛火の下で死体整理作業に従事しました。船員40名が2班に別れて作業しました。時刻は8月7日午前7時出発、宇品上陸7時30分。宇品1丁目より17丁目〜皆実町〜比治山町に入った時刻8時10分でした。そして、鶴見町〜平塚町〜流川町〜山口町と作業して午後4時作業を終わり4時半頃出発して我が船に帰船したのが午後5時40分でした。8月8日、9日、10日と毎日4日間同じ作業を同じ町内でしました。

 〈手帳交付年月日〉は昭和40年(1965年)10月1日、母の交付日と同じです。ちなみに母の手帳申請書記載内容も一緒に入手してみましたがこちらの方はごく簡単なもので、父のような具体的な状況が書かれたものはありませんでした。

 父が死体整理に入市した流川町は爆心地から東へ1kmほどの辺りで、広島市内全焼地域の東部一帯にまで入りこんでいたことになります。そこで原爆投下の翌日から4日間も死体整理の作業にあたったというのは、凄まじい体験だったのではないかと思います。普通の感覚ではとても耐えられない、正常な精神は保てないほどの。

 もともと父の被爆体験は私には断片的にしか記憶に残っていなかったのですが、それでもこの4日間のことについてはまったく覚えがなく、手帳交付申請書の内容を見て初めて触れたような気持になりました。ひょっとするとこの4日間については、私たちが幼い頃から聞かされてきた話の中にも含まれていなかった(しゃべることができなかった)のではないかとさえ思いました。

■父の背中を見て育つ

 父と母は末っ子と5女同士のお見合い結婚でしたから、相続する財産など何もなく、すべてがゼロから始まる分家農家でした。農家といっても食べていくのに十分な田畑があったわけでもなく専業農家というわけにはいきませんでした。そのため父は土木工事など色々な仕事を兼業しながら、苦労して生活を支え、私たち兄弟を育ててくれました。

 私の故郷は中国山地の山懐に抱かれた緑豊かな田舎です。当時どこにでもある保守性の強い日本村落の典型的なところでした。そんな田舎でも父は周囲に遠慮することなく、政治に対しても、行政に対しても革新的な意見を持ち、農業委員に立候補、当選するなど様々な活動をしていました。

 平和な世を望むのは当然ですが、戦争をもたらしたもの、原爆による無差別殺戮を行ったものを告発し、その責任を追及し続ける姿勢が基本にありました。生死の境を漂流した戦争体験、22歳の時の凄惨な被爆体験が、戦後の父の生き方の原点となり、信念になっていたのではないかと思います。

 そういう父に触れながら、後ろ姿を見ながら私も成長していきました。私が小学校高学年の頃、田舎の町でベトナム戦争を告発する映画(北ベトナム制作だったと思いますが)の自主上映会が小学校の講堂であり、父は私を連れて観に行きました。幼いながらもベトナム戦争の真実を鮮烈に胸に刻むことのできた思い出を今もはっきりと記憶に止めています。

 父は2001年(平成13年)、78歳で亡くなりました。事故による大怪我を何度もして、肝臓を患ったり、様々な病気もして、最後は誤嚥性肺炎発症が直接の原因でした。

父と母(1990年頃)

父と母(1990年頃)

被爆二世・私の被爆追体験

■核実験競争の頃

 私たちが物心つく頃、50年代から60年代にかけては、米ソを中心にした核兵器開発競争の只中でした。核実験は地下核実験にまで広がり、大陸間弾道弾実験のニュースも世界中を駆けめぐりました。ソ連の核実験によってまき散らされた放射能を含む雨が偏西風に乗って日本上空に押し寄せるぞと、雨対策が真剣に訴えられていたことも記憶にあります。アメリカによる太平洋での核実験の影響も心配されていました。

 異常な核開発競争の結果、ボタン一つで人類が滅亡するという警告的な物語、漫画なども登場していました。新藤兼人監督の映画『第五福竜丸』(1959年公開)のことなども記憶に残っています。そうしたことの影響で、戦争や紛争のニュースに対して、それがたとえ遠い国のことであっても、強烈な恐怖感を抱く時期がありました。

 小学生の頃です。夜間、空を飛ぶ飛行機の爆音を耳にすると、米軍機か自衛隊機が朝鮮半島やソ連に向かって飛んでいるのではないかと想像し、恐怖のあまりその夜一睡もできないようなことがしばしばありました。過敏で少し異常な時期だったのかもしれません。でも本当はそうした感覚を持つ方が、当時の状況下では人間として正常だったのではないかと今も思います。

■被爆と世代を超えた影響について

 私の両親は被爆者であることを周囲にはばかるようなところは何もなかったため、私たちも被爆2世であることを自然に受け入れて育ちました。

 はるか後年になって、京都大学の生活協同組合に勤務していた頃のことです。生協の学生委員会がピースナウHIROSHIMAという平和企画に参加してのレポートを京大生協の組合員向け広報誌に掲載しました。レポートの一部に、被爆障害は次世代への影響=遺伝的影響があり得るという趣旨のことが書かれていました。これを読んだ一人の生協組合員(学生)が、自らを被爆2世と名乗って、強烈な反論と激しい抗議を寄せてきました。遺伝的影響などはどこでも証明されてない、誤った情報によって被爆者、被爆2世に対する深刻な差別が助長されるではないか、というものでした。

 被爆をめぐる差別の存在は漠然とは知っていましたが、自分も関係しているこうした具体的場面で激しい抗議を受けるのは初めての経験でした。この時は、私も2世だと名乗って、当時「遺伝的影響は証明されていない」という一般論に頼って事を収めました。その時以来、被爆者本人はもちろん、2世、3世の人達と接する場合でも、その人たちが被爆の事実を自らの中にどう受け止めているのかを慎重に推し量りながら対応するようになりました。

■南京大虐殺とノーモア・ヒバクシャ

 京大生協に在籍している頃、90年代の半ば頃から京都大学に留学している学生達と深く交流し合う関係にありました。日本の大学でも留学生が年々急速に増加し、京都大学も例外でなく、大学生協の活動として留学生支援が重要な課題となっていった頃です。

 日本の留学生の圧倒的多数はアジアの国々からの留学生で、その内中国が最も多くを占めます。ある時、一人の中国人留学生と個人的な生い立ち、プライベートなことも含めて語り合う機会がありました。私は広島県出身であり、両親は広島で被爆していることなども話しました。

 その時、相手の彼は激しく反応して、「物事には原因があって結果がある、ヒロシマ・ナガサキは南京大虐殺があったことによる結果ではないか」と厳しく問い詰めてきました。彼は日本による過去の清算をきちんとしないままヒロシマ・ナガサキなど軽々しく口にするな!と言いたかったのです。

 彼は南京出身の留学生でした。私達が被爆2世・3世として自らの親や祖父母のことを語るのと同じように、彼らにも身近な縁者の中に南京大虐殺の犠牲者が具体的な存在としてあることをその時知り、気付くことになりました。別の南京出身の留学生は、日本への留学を機会に、大虐殺に関わったとされる日本人を訪ねて真実を確かめに行くという勇気ある行動をした人もありました。

 ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャを語る時、日本帝国主義と軍隊が、中国で朝鮮でアジアの国々で数々行った虐殺、残虐行為、戦争犯罪の数々の事実を同時に想起しなければならない。そのことをあらためて銘記する、私にとって重要な出来事でした。

■京都大学花谷会館

 京大生協に勤務していた時代、原爆に関わるもう一つの追体験をしました。私が京大生協で毎日仕事をしていた事務所は京都大学の花谷会館という建物にありました。花谷会館とは京都大学原爆災害総合研究調査団の一員であった花谷(はなたに)暉一(てるいち)さんの非業の死を悼み、ご遺族が京大に寄贈された建物です。

 原子爆弾投下直後、政府・軍部からの要請で京都大学では医学部・理学部による原爆災害総合研究調査団が編成され、広島に派遣されました。研究調査団と言っても救援医療行為も伴う活動です。調査団の宿舎は広島市西方の宮島の対岸・大野町(現在は廿日市市)にあった陸軍病院があてられていました。

 9月17日深夜、後に戦後最大規模であることが明らかになった枕崎台風が広島県地方を直撃、陸軍病院は背後からの山津波で海まで押し流され壊滅しました。その時、京大調査団の11名が犠牲となり、花谷暉一さんもその一人でした。

 枕崎台風の被害は原子爆弾によって壊滅していた広島市を中心に県下で2,600名もの犠牲者を出しました。広島の人たちは原子爆弾による災禍を被り、2ヶ月も経ない内に再び枕崎台風の直撃も受けるという二重の被害に遭遇したのです。

 終戦間もないこの時期、日本の気象観測体制と機能はまだ十分には回復しておらず、特に広島地方気象台の破壊は言うまでもない状態でした。台風の強さも進路も正確な情報収集は何もできず、その情報を市民に伝える手段も喪失状態でした。人々は何も知らず、無防備なままで戦後最大規模の台風に襲われたのです。台風の被害は自然災害です。しかし、台風襲来を予知できない状態に陥れていたは、愚かな人間による行為であり、人災でした。

 広島県大野町陸軍病院跡には京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑が建立されています。5年に一度医学部主催による慰霊の集いが催されています。(通常年は自由参拝の日を設定)京大生協にも毎回案内があり、私も2度参列したことがあります。

 花谷会館の一室には花谷暉一さんの遺影が掲げてあり、日々訪れる人々を迎えています。私はこんな所縁(ゆかり)のある建物で17年間仕事をしていました。

 京都大学には戦争に対する負の遺産も、反戦平和に尽くされた歴史も数多くあります。将来花谷会館が建て直されるときには、是非“京都大学平和記念館”として生まれ変わるように、と長く祈念されています。

 母の被爆した街は江波であり、その江波には広島地方気象台があって、広島地方気象台と枕崎台風とは深い関わりがありました。京大原爆災害総合研究調査班の遭難を悼み、平和を祈念して建てられた花谷会館での毎日、と不思議なつながりを感じていました。

京大生協本部のある京都大学花谷会館

京大生協本部のある京都大学花谷会館(2007年頃)
■京都「被爆2世・3世の会」の結成

 2011年(平成23年)6月、37年間勤めた京都の大学生協を定年退職しました。近くに住まわれているお知り合いの方に紹介いただいて京都原水爆被災者懇談会の活動に参加することにしました。定年退職後の人生の中心が被爆者のみなさんを応援していくことになる、そのことにいささかの躊躇もありませんでした。

 そして被爆者のみなさんの願いと期待も受けて、翌年、2012年(平成24年)10月20日、京都「被爆2世・3世の会」を結成、スタートすることになりました。



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