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●被爆体験の継承 32

呉海軍病院への学徒動員、そして被爆者救護

太田利子さん

2015年7月30日(木)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

太田さん
■学徒動員と呉海軍病院

 私は昭和4年(1929年)8月20日が誕生日で、今85歳、もうすぐ86歳になります。戦争が終わった時は15歳でしたね。生まれたのは広島県の呉で、海に近い田舎でした。父親は海軍関係の工場に行っていて、母親が農業しながら家を守り、女5人、男1人の兄弟姉妹でした。私は上から2番目の子でした。私の家は田舎の貧乏な暮らしだったんですが、親がなんとか私を女学校まではと、苦労して、呉にあった県立高等女学校に行かせてくれていたんです。

 女学校は5年制でしたが、私たちが3年生になった時、生徒は学徒動員に行かされるようになったんです。行き先は軍需工場か、あるいは海軍病院かのどちらかでした。病院の看護婦が足りなかったんでしょうね。各学校の何百人という生徒が集められて、全員が健康診断を受けさせられて、健康な人と、ちょっと健康に問題のある人とに分けられて、まるでベルトコンベヤーみたいに選別されるんです。それから健康な人は試験があって、60点以上の人は海軍病院に行かされるんです。それ以外の人はみんな軍需工場行きでした。私は健康そのもので試験もまあまあだったので海軍病院行きとなりました。

 親が必死になって働きながら女学校に入れてくれて、いろんな夢もあったのに、強制的に海軍病院に行かされて、看護婦の手助けのような、見習いのようなことをさせられることになったんです。私たちの同級生は100人位が海軍病院行きでしたね。

■海軍病院での日々

 海軍病院は全寮制で、勝手に家に帰ることもできない。帰してくれなかったんです。「半年間は家に帰れないから覚悟しろ」とまで言われてね。15歳と言えばまだ子どもやのに、ある日突然軍属にさせられたようなもんですからね。ホームシックになる子もいたり、みんな「帰りたい、帰りたい」って抱き合って泣くんですよ。泣いてたら上官が来て「何やってるんや!こんな時代に泣いてる場合やないやろ!」と怒るんですね。

 学徒動員中も、女学校の先生が週に何回かは病院に来て、女学校の授業もされていました。それから海軍病院ですから、看護や医学の勉強もしなければならないことになったんですけど、それまでがまったくの素人ですから、なかなか覚えられない、身につくようにはなりませんでした。まだ15歳でしたし、突然看護の勉強するようになるなんて思ってもいなかったことでしたから。

 勉強してても、しょっちゅう空襲があって、その都度「早く逃げろ!」と追い立てられて、落ち着いて勉強できるようなことでもありませんでした。生理学とか解剖学とかいろいろあって、一応教科書のようなものももらっていましたけど、読んでる暇もない。何も身につかないまま、何がなんだかわからないままでしたね。

 暇があったら病院に行って看護婦の仕事を手伝え、とにかく手が足りないから、と言われて。教室で教えられることよりも、実地の方が先で、順序も何もなくて、体で覚えろと言われているようなもんでした。

 たくさんたくさんの膿盆(のうぼん)をひたすら磨かされるようなこともありました。昔あった石粉を使って磨くんですけど、少しでも汚れがあったりすると厳しく怒られてやり直しさせられたりして、そういうことでは根性は鍛えられたと思いますね。

 当時はもう本当に食べるものがなくてね。上級生はお粥さんのいいところだけ食べて、私らは残った上の水の綺麗なところだけ食べさせてもらって。それで働くんですからね、倒れて死んでしまう人もありましたよ。

■呉の空襲

 呉は何度も空襲がありました。空襲の時、病院は爆撃したらあかんという約束は守られていたみたいで、屋上に赤十字のマークがつけられていました。それでも動員学徒はまだ役に立たないから避難しろと言われて、一人では危ないので友だちと一緒になって手を繋いで逃げるんです。

 身を隠しながら走るんですけど、走って逃げる人間を見つけるとアメリカの飛行機から機銃掃射されるんです。アメリカ兵の顔が見えるぐらいの近さ、低さの時もありました。アメリカ軍の飛行機が飛び去った後、一緒に逃げたはずの友だちが来ないので振り返ってみると殺されてしまっていたこともよくありました。機銃掃射の後は死体の海でしたね。

 広島に原爆の投下される前、7月28日の夜にも、呉はアメリカ軍の大空襲を受けました。最初に照明弾が落とされて、昼より明るくなった中で爆弾が落とされるんですね。病院の大きな鉄筋の建物だけが残って、後の民家などは全部丸焼けになったんです。もう悲惨なものでした。 空襲の終わった後、病院に帰って点呼を受けたら、学徒動員の生徒で生きて帰って来れた人は三分の一ほど。三分の二のひとたちは死んでしまっていました。

 工場で働いていた私の父親が、空襲の翌日、病院に駆けつけてくれました。昔気質の父親でいつもは堅苦しい人なのに、この時だけはわんわん泣いて、よく生きてくれてたと抱きついてくれました。あの時の父親の温もりは一生忘れることはありません。

■8月6日の朝

 8月6日の朝は、私たちは食堂にいて、当番だったので食事の後片付けをしていたんですよ。突然廊下側の窓際がピカッピカッと光ったんです。「あれ、何?」って瞬間みんなが後ずさりしました。その後すぐに大きな雲がもくもくと上がっていきました。キノコ雲ですね。みんな空を見上げて「何だろ?何だろ?」と言い合いました。

 それから1時間か2時間経った後「何処そこの講堂に集まりなさい」って院内放送があって集合したんです。そこで軍曹から「これからは軍人・軍属だけじゃなくてどんな患者も受け入れることになった」と説明されたんです。それまでは海軍病院の患者は兵隊さんだけだったんですが、今からは一般の人も全部受け入れる、「みんな同じ日本人同士だから何でもちゃんと手当てしてやるように」という説明でした。

 慌てて班の編成がやり直されて、急にサイレンが鳴って、みんな緊張して迎え入れることになりました。広島で死者やけが人がたくさん出ている。広島には治療するところがないので呉まで向ってくるので、みんなしっかりと手当をするように、という指示でした。

 手当すると言っても私たちはまともには何も教えられていなくて、人間の身体のしくみを少し習ったばかりのところで、何も分らない。一体どうするの?って感じでした。とにかく私たちには何が何やら分りませんでした。てんやわんやの大騒ぎなんです。もう命令された通りに動くだけでした。

■運び込まれてきた人たちを受け入れて

 その後更に2時間か3時間経ってから、トラックが、4トントラックだったと思いますが、広島の人を運んで来始めたんですよ。どんどんどんどん、次から次へと来るんですよ。到着したトラックの上に兵隊が上がって、人間をどんどん降ろしていくんです。受け入れるこちら側は簡単には運べなくて途方にくれましたね。今やったらストレッチャーで問題なく運べるんだけど、そんなものはないし、どう手をつけていいか分らない。とにかく並べろと言われて、運ばれてきた人を順番に並べていきました。みんな意識はなくて、真っ黒に火傷しているひとばかりです。

 私たちの作業は手袋も何もなくてみんな素手でやるんですよ。手術場だけ辛うじて手袋があったような程度でしたね。「お前は足を持て、お前は手を持って」と言われて、「はいっ」てやるんですけど、持ったつもりの足が半分抜けていたり、運び込まれている人はみんな真っ黒焦げですから、手に持っているのが足なのか手なのかさえ分らないんですよ。「いつまで持っているんだ!」とか「早いこと運べ!」、「速やかに運べ!」と怒鳴られどおしでもう泣きながらでしたね。

 15歳と言えばまだ手もそう大きくはない。「ぐっと手に力を入れて」って言われるから力を入れるとずるずるっと怪我をした人たちの皮がむけてくる、骨も出てくるんですよね。臭いもものすごいものでした。普通の臭いとは全然違う、今から思えばガス爆発の時のような臭いを感じました。全員降ろしたらトラックはまた積み込みに広島へ帰っていくんですよ。

 並べられている人たちの中にはハアハアと息している人もあるので、そういう人をまず助けなあかんと思うでしょ、普通。看護の仕事してたら一人でもたくさん助けたいと思う。でも戦争はそんなどころではないですよ。そんな感情を持てる場所ではありません。とにかく早くしろ、急げと言われるばかりなんです。

 患者さんから「水ーっ」「水ーっ」って言われて、水がどこにあるのかすぐには分らない。やっとどふ池のようなところがあって、そこの水を手で汲んできてあげたら、「ああおいしい」ってそのまま亡くなっていく。みんな真っ黒焦げで、皮がぼろぼろやし、名前も分らんので名前を呼ぶこともできない。かろうじて生きている人を探して先に手当しようとすると、「そんなこと考えんでいい」って言われて。とにかくベルトコンベアーのように処理せえと。

 海軍病院はさすがに常備薬のようなものはしっかり用意されていて、赤チンになる粉のようなものがあって、それと何の水かわからないような水とを乳鉢で混ぜ合わせて、障子貼りの時に使うような刷毛で患者に塗っていくよう指示されるんです。並べられた患者全部の背中にすーっと塗っていって、背中が終わるとみんなひっくり返して今度はお腹の方にも塗っていく。私のクラスは全員がそれにかかりました。

 それが乾いたら「次はどうするんですか?」と聞くと、「今度はチンク油を塗るんや」という命令です。チンク油というのは、白いパウダーのシッカロールとひまし油を混ぜてどろどろにしたものなんです。それを二人一組になって塗っていくんです。作業してたら初めの方の人はもう亡くなっている。そしたら「死んでるもんはせんでよろしい!」って言われるんです。人間扱いじゃないんですよ。もの扱いなんですよ。並べられている人はどんどん亡くなっていくから、辛うじて生きている人の方が少なくなってきて、最後は用意したチンク油も残ってしまいました。

■人間扱いじゃない!

 そういうことをやってるとまた次の便のトラックが到着するんですよね。患者はもう廊下だろうが外の庭だろうがありとあらゆるところに並べられているんですよ。もう寝かせるところがないんですよ。

 トラックから患者を降ろす時初めの頃は素手でやってましたけどね、今度は違うんですよ。建築工事の時などに使う鳶(とび)口(ぐち)ってありますよね。それを人間に突き刺して、ポンと引き降ろすんですよ。

 このことだけはこれまでの語り部でもようしゃべらんことやったんですよ。だけどもう言っとかなきゃ、話しておくのが私の義務やないかと思うようになってね、だれかに言うんですけどね。

 人間扱いじゃないんですよ。カツオとかマグロとかの魚みたいに、兵隊が鳶口で降ろしていくんですよ。

 広島に置いとけないから、ちょっとでも息してる人やったらトラックに積み込んで運ばれてきた人たちなんですね。傷だらけやし、ずるずるやし、顔も分らへん、誰かも分らへん。ただ口が開いていて、眼が辛うじて開いているぐらい。鳶口で突き刺されても痛いとも、きゃーとも言わないんですよね。半分死んでますから。

 そうやって投げ降ろされた人を私たちは素手で拾いまわって運んでいたんです。お腹から腸が出てしまっているような人もいました。今やったら注射一本で腸が元に戻ることもありますけど当時はそんなものはない。もう人間扱いじゃない、そんな惨めな残酷なものでしたよ。今の人にはとても理解できないでしょうけどね。

 原爆も人間を使った実験だったんですよね。広島の実験だけでは足りなくて長崎でもやられたんでしょ。あんなに犠牲者を出して。それなのに今の大臣とか何を考えているんでしょうね?核兵器のことだって本気で無くそうとしていない、一つも考えていない。

■頑張ろう!頑張ろう!の掛け声だけで

 海軍病院で救護に当たっていた頃、動員学徒もほとんどみんな呼吸困難になったり、目眩や貧血を起こしたりして倒れた経験をしましたよ。今で言う急性症状だと思いますけど。悪いガスを吸っていることも知らない、放射能のことなどももちろん知らないままでしたからね。みんな「頑張ろう、頑張ろう」って掛け声だけを出し合いながらでしたね。

■戦争終わって本格的に看護の道へ

 戦争が終わって、海軍病院にいた学徒動員の女生徒たちはあちこちの病院に振り分けられることになったんです。元の女学校に戻るということはありませんでした。せっかく女学校の入学試験に合格して、月謝も払っていたのに、戦争終わってもそのまま看護婦の道を強制されることになったんです。父も母も、苦労してせっかく女学校に入れたのにと泣いていましたけど、「それどころじゃない、命が助かっただけでも良かったと思え」で済まされてしまいました。

 私らは呉の海軍共済病院(現在の呉共済病院)に行かされました。ここから本当のきちんとした看護婦の勉強をさせてもらえるようになったんです。共済病院の看護学校に入れてもらって、実地研修もさせてもらえるようになり、9年間勉強や実地や勤務をみっちりやることになりました。

 昭和29年(1954年)に戦後初めて看護婦の国家試験が行われたんです。その時の第一期の合格者に私たちはなることができたんです。国家試験に合格してそれから初めて自由に進路を選ぶことができるようになったんです。私は “京都は戦災で焼けていないから”といったような思いで京都に行くことにしました。25歳の時です。縁あって京都府立洛東病院に就職することになりました。以来定年の60歳まで勤め上げることになったんです。

 昭和64年(1989年)に洛東病院は定年になりましたけど、看護師という仕事には定年というものがなくて、その後民間の病院でも69歳まで勤め、さらにその後も宇治市の福祉関係のところや、地域のボランティアでもずーっといろんなことをしてきました。看護師の資格や経験があるので、それを請われてやってきたんですね。

■救護被爆による被爆者健康手帳

 被爆者健康手帳をとったのかは何時だったか忘れてしまいました。昭和29年からは京都に来ていたので、手帳のことなんかは全然知らなかったんですよ。ある時広島市内に住んでいる昔の同級生たちに教えてもらってね、彼女たちに証人にもなってもらって、それで京都府発行で手帳をとったんですね。私たちの場合は海軍病院で大勢の被爆者の人たちに接して救護していたので、救護被爆という扱いでしたね。

 私は被爆してから特に重い病気にかかってきたことなんかはないのですけど、若い頃から貧血はずーっと続いてきました。それから74歳の時からリウマチを発症してきました。

■出産の決意

 昭和30年(1955年)に結婚したんですけど、なかなか子どもには恵まれなかったんですよ。それでも結婚して14年目、私が40歳のときに初めて懐妊したんです。この時、舅、姑から、兄弟姉妹から親戚から、みんなから出産に反対されたんです。夫までも案じて反対でした。「あんたは原爆のガス吸ってるから」、「奇形児が生まれるかもしれん」、「変な子ができたらどうする」ってね。あの頃結婚差別もあったし、実際に奇形の子が生まれた例もありましたからね。夫とはそのことで毎日毎日喧嘩になりました。

 でもその時私は決意したんです。もしみんなの言うように変な子が生まれても、その時は私はこの子を(戦争被害の)証拠として育てていくって。奇形などあったら大きくしていくのが大変かもしれんけど、愛情さえあれば絶対に育てていけるって。そんな時には自分で施設を作ってでもやってやるって、夫に言い放ったこともありました。

 生まれてきた子は元気な男の子で3,850gもありました。小学校入学まではお医者さんにかかることもなく元気に育ち、今は孫にも恵まれています。

■今の内に語っておかなきゃ

 安倍さんは戦争の本当のこと知らないんじゃないですか。また戦争やろうとしてはるけど、国民をなめてはると思います。ですから、私の被爆体験は今の内にお話ししておかなきゃと思って、いろんな機会にしゃべらせてもらっているんです。

 大勢の前でお話しするよりも、座談会のような形がいいですね。いろんなお話しのついでに、戦争体験も被爆の体験もそっとお話しとしていけるような、そんな形が好ましいですね。

 今もお友達の人たちと一緒に広島や呉に行くことがあるんですよ。そんな時には原爆資料館などにも行って私が案内させてもらってるんですよ。


昭和10年(1935年)発行の地図
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