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●被爆体験の継承 34

路面電車の車中で浴びた閃光

小川 隆 さん

 小川隆さん(京都市右京区在住・現在78歳)が、2002年に書かれたご自身の被爆体験です。ご了解を得て、京都「被爆2世・3世の会」会報で紹介させていただくことにいたしました。

■一番楽しかったつかの間の頃

 私は、昭和12年4月3日、広島市富士見町七ノー番地で誕生しました。現在は、家族の要望で、京都市右京区に転籍しております。

 昭和20年8月6日、広島への原爆投下日は、私は、満8才でした。父は当時広島県庁に勤務し、母は現在で言う専業主婦でした。私は兄弟三人の末っ子でした。大正15年生まれの長男は京都の大学の学生でした。次兄は昭和5年生まれで広島の陸軍幼年学校の生徒でした。8月の2日だったと思いますが、次兄が夏休みの休暇で帰ってきました。京都にいた長兄にも、母が帰省するよう要請して帰ってきました。

 私は一時母と祖父三人で広島県山県郡の方へ縁故疎開をしていました。父が県庁の職員であった関係で、家族全員一緒には疎開できなかったのでしょう。母は忍びなかったのでしょう、私を連れて富士見町の家にかえってきました。一旦縁故疎開したものは小学校に復帰できないとのことで、私は毎日家の周辺で遊び回っていました。

 兄達が帰ってきたので家中賑やかで私も嬉しかったです。父や母の愛情を受け、学校にも行かなかったので、私の人生で一番楽しい時期だったように思い出します。

 アメリカの爆撃機B29が、蝿が群れて飛んでいるように上空を飛行して、毎日のように一度や二度警戒警報、空襲警報の発令がありましたが、毎度のことで慢性になっていたのか、恐怖感はありませんでした。後でわかったことですが、その頃、大阪のような大都市は無論のこと小さな都市までも焼夷弾や爆弾で家々は焼かれ、罪のない非戦闘員である老若男女が防空壕の中で蒸し焼きにあい非業な死に方をしました。

 父は戦地にいて、家を守る母が幼い妹をおんぶして5才6才の男の子は母の手にひかれて、焼夷弾の火の手から逃れ、安全な地と思うところに避難する途中でいき別れ、その男の子は父母妹と永久の別離となってしまった、そんな話もありました。

■路面電車の車中で浴びた閃光

 昭和20年8月5日、兄二人と近所に住む同級生の井上君(お父さんは陸軍軍人で南方の島の守備隊長で、戦後無事復員されたそうです)と四人で歩いて15分ぐらいの鶴見橋のある川に泳ぎに行きました。

現在の鶴見橋
現在の鶴見橋

 そこで、兄たちに明日宮島の近くの海水浴場に泳ぎに連れていってほしいと、懇願しました。厳しい戦争中のおり、海水浴などと呑気な話です。「これからは戦争も激しくなって兄弟ももう会えないだろうから、せっかくだから行ってきたらいいではないか」と言う母の言葉を思い出します。井上君のお母さんも夕刻母のところへ来られて「是非連れていってやって下さい」と言っていました。

 さて、8月6日早朝、母のつくってくれた竹の皮で包んだ大きな握り飯弁当をもって7時20分頃富士見町の家を出ました。白神社電停から己斐行きの市電に乗りました。丁度出勤時だったので満員でした。私たちは混雑のなか車内の中央部に立っておりました。相生橋の橋上を電車が通過するころ、車窓から勤労動員の生徒や学生、女学生、兵隊さんが強制立退疎開の後片づけなどの作業をしているのを兄たちは見たそうです。私は吊り皮にも触れられない子供でしたので、人陰になり、車外を見ることはできませんでした。

 強制立退疎開の作業をしていた彼らはそれからおよそ15分後には、秋刀魚(さんま)の丸焼きのように焼けこげて死んでいきました。辛うじて生きている人達は川に入りそこで死にました。潮の満ち引きで、干潮時には、水膨れの皮膚の爛れた男女の無残な死体が河口に流され又満潮時には上流へ上って来ました。そのような情景は、一週間は続いたと記憶しております。

 さて、話が脱線してしまいました。相生橋を過ぎ土橋(どばし)を過ぎたころ、車内はかなり空いてきました。私も、今までの窮屈から解放されてほっとした感じでした。木造の家屋が両側に立ち並ぶなかに電車の軌道はありゴロゴロと調子よく走っていました。

 天満町の電停近くに来たとき(爆心地から1.1kmのところ)、突然目の前に白色赤色紫色黒い色、そのような閃光が走り、同時に強烈な衝撃がありました。一瞬、私は気絶したようです。気がつくと電車の床の上に腹ばいで倒れていました。電車の後方に白っぽい薄明かりが見えましたので、その方向に這っていきました。後方の出入り口から外へ出ました。

現在の天満町電停
現在の天満町電停

 次兄の右頬が拓榴(ざくろ)の割れ目のように裂けて血液が噴水のように噴き出していました。私が指さすまで彼は知りませんでした。次兄の負傷を除いて、皆その時点では怪我はありませんでした。次兄の出血が激しいので次兄と長兄のシャツで包帯代わりにして傷口を塞いでいましたが、出血は止まりませんでした。長兄が次兄を背負い医者を捜しました。

 道路側に倒壊した家屋や、電柱が折れ、架線が垂れ下がり、びっくりしたこうもりが飛びかい、天空は真夏の薄暮を過ぎた暗さで、人はまるで蟻の行列に水をぶっかけたように何が何だかわからず、右往左往し、茫然自失の態。前後左右からめらめらと火の手があがり、電柱の先端部分が松明のように勢いよく燃え、高圧電線が他線と接触して不気味に放電していました。

 若い女性が、勢いよく燃え出した家屋の下敷きになっているわが子を助け出したいけれど一人の力ではどうしようもなく、道行く人々に土下座して助けをもとめていました。だれも彼女の子供の救出を手伝う人はいませんでした。彼女の心情を思うといかばかりか想像に絶します。今も涙なしには語れません。

■己斐(こい)の方向に避難

 アメリカが1トン爆弾を落とした、と叫んでいる人もいました。己斐の方向に逃げていくうちに、黒い雨が降ってきました。白いシャツが真っ黒になりました。アメリカが石油を撒いている、と口々に人々が叫んでいました。こうして、息絶え絶えの次兄を長兄が背負って、やっと己斐の駅にきました。しかし、医院や診療所などあろうはずはありません。周辺の家屋は場所によっては全壊または半壊程度ですんでいる建屋もありました。

 人は無残でした。全身を火傷しても気丈にも全身に白い軟膏を塗ってもらい歩いている人もいましたが、ほとんどの人は路上に横たわり、呻いていました。私たちは、畑がありやがて急勾配の登り坂のある農具収納用の小屋のなかに避難しました。土砂降りの雨が降り、雷がなり生きた心地がしませんでした。

現在のJR西広島駅(当時の国鉄己斐駅)
現在のJR西広島駅(当時の国鉄己斐駅)

 荒れ狂う天気も午後3時頃になると、空はすっきり晴れ上り、蝉のなく声も聞こえてきました。私たちは、また長兄が次兄を背負い己斐の駅に出ていきました。以前よりも沢山の負傷した人が横たわり、火傷した人は白い軟膏を塗られて、寒いのか毛布のようなものを被りうめいていました。

 後で聞いたことですが、そのように負傷した人は二三日のうちに皆亡くなったようです。

■地上は地獄の庭、上空は西方浄土のような茜色

 陸軍の仮の収容所があり、次兄はそこに収容され、私達三人は富士見町の家に帰るため歩きだしました。市の中心から来る二人の青年にあいました。顔面は勿論、上半身から両腕、そして指先まで火傷して爛れていました。膨らんだ腕の腕時計を取ることができないのです。彼らは、礼儀正しく、丁重に長兄にお辞儀をして時計をはずしてくれるよう依頼しました。快くはずしてあげた後、ありがとうございます。頑張りましょう。と元気よくいいました。いまもその青年たちが何故か思い出されます。

 爆心地近くに近づくと富士見町あたりの被害の情報は、誰に聞いても絶望的でした。みんな焼け落ちて、高い鉄筋コンクリートの建物がぽつんと赤ちゃけてたっています。いままで見ることのできなかった情景が展開していました。道のアスファルトは熱く裸足で歩いていた私は大変でした。

 幅3メートル奥行き1.5メートル深さ1.5メートル位の防火用水槽に男女の火傷した人が七人八人と入って死んでいました。水槽に火傷した人が群がり入って死んでいる無残な光景は、爆心地から1kmの範囲ではいたるところで見受けられました。

 相生橋の橋上では往復の電車が鉄の部分を残して床の部分も焼け落ち、首のない胴体のない焼けこげた人間が重なっていました。倒れた電柱を跨ぐと死後硬直して仰向けに横たわった死体を踏みました。

 瀬戸内海の空は茜色の夕焼け雲が輝いていました。地上は地獄の底、上空はまるで西方浄土のように美しかった。富士見町にやっと帰ってきました。防火用水の外壁に知人肉親の安否を尋ねる文字が忙しく書きなぐられていました。私たちへ父母からの伝言はありませんでした。父は8月6日の深夜家の下敷きになり出血多量のため死亡していました。

富士見町にある広島歯科医師職員慰霊碑
富士見町にある広島歯科医師職員慰霊碑
■両親を探し求めて

 住宅はまだ完全には燃えつきずあちこちで大きな炎が立ち上っていました。富士見町の住民の避難先が三篠でしたのでそこへいってみることしました。日も暮れて暗くなり垂れ下がった電線や瓦牒の散乱した舗装道路を横川の方へと進みました。

 相生橋の東詰に何の目的で建ててあったのかわかりませんが、小さな小屋があり、その中から『兵隊さん、水をください、助けて下さい』と何度も何度も泣いて、水を乞い求めてきました。きっと勤労動員で作業をしていて原爆の直撃にあい、火傷して辛うじてその時点まで生きていた女学生だったのでしょう。そのときその小屋の片隅からばりばりぱちぱちと火が燃え上がりました。兵隊さん、水をください。助けて下さい。の声は聞こえておりました。私たちはなにもしてあげませんでした。長兄は何かぶつぶつ言いながら私たちを急かして通り過ぎました。

 前が明瞭に見えないとはいえ、何人かの死体を踏みつけてしまいました。三篠に着いたのはもう10時をすぎていたと思います。その夜は、農家の馬小屋にお願いして泊めてもらいました。

 8月7日の朝、兄は役場にでもいったのでしょう、井上君と私が二人でいて、一緒に待っていたはずなのに、何故か私一人がたくさんの人達が行き交う田舎道の路傍にたっていました。前からおばさんが来て、あんたこれあげようといって、鶏卵を2個くれました。ありがとう、ともいわず受け取りました。裸足でシャツもズボンもぼろぼろできっと哀れな格好だったのでしょう。

 昨日の朝から何も食べていませんでした。飲みたいとも食べたいとも思っていませんでした。ただお父ちゃんお母ちゃんはどうなったのだろう、いきているのだろうか、そればかりが心配で、不安で食欲などありませんでした。でも鶏卵だけはしっかり握っていました。鶏卵のことは兄に報告しました。親切な人もいるものだなあ、と歓心していました。いつ食べたのか覚えておりません。三篠には両親はいないことがわかったその日、爆心地を通って富士見町に帰ってきました。

■8月14日、やっと母と再会

 8月8日からは足手まといになる井上君と私を残して、長兄は父母を捜しに出かけました。夕刻になると、無花果の葉っぱで包んだ炊き出しの白米の握り飯をもって帰ってきました。井上君と私は、焼け跡の防空壕に日中は潜んでいました。因に、富士見町は爆心地から直線距離で約1kmの地点です。

 また、井上君のお母さんは乳飲み子を抱いて寝たままの白骨死体が発見され、彼も親戚のおばさんにどこかへ連れていかれました。彼と再会したのは32年後でした。

 井上君がいなくなってから私は、一人で防空壕から出たり入ったりしていました。空腹になると、薩摩芋の植えてあるところでまだ根のような細い芋をかじっていました。時々どうしようもなく寂しくなって防空壕の中でしくしく泣いていました。

 あちこちと、父母の消息を尋ねて夕刻に防空壕に炊き出しの握り飯を持って帰って来る長兄との生活は8月12日頃まで続いたと思います。12日の夕刻、連絡版として使われていた防火水槽に『小川正久母無事』と書いてありました。兄は、私たちは無事で、これから田舎へ行くから、と書いてすぐに出発しました。母は、私たちが、発った後、すぐに、私たちの書き置きを見たそうです。交通機関も完全には復旧していなかったので歩きに歩きました。14日の朝母に会いました。母の腰に抱きついて泣きました。

 すぐに、そこを出て、次兄が収容されている大野村(現大野町)へ出発しました。次兄は、村の小学校の講堂に多数火傷したり負傷したりして収容されている兵隊さんの中にかなり元気でいました。何針か縫った跡が痛々しかったけれど、傷も塞がって乾いていました。

 8月15日、大野村の海岸で玉音放送を聞きました。雑音でしっかり聞き取れませんでした。もっとも雑音がなくても小学二年生の自分には、難解な声の意味など分かるはずはなかったのですが。

 また、富士見町に帰りました。父が死んだと聞いたとき、少し悲しい気持ちでしたが、お母ちゃんさえいれば、それで満足でした。母は家の下敷きになり、両太腿と両肩を負傷したので、治療のため仮診療所へ通っていました。罹災者のための乾パンや握りめしもありましたし、茄や胡瓜があってひもじい思いはありませんでした。時々、戦闘機が低空飛行していました。空襲警報警戒警報がなくなり、大人の人達が何故か朗らかでした。私も、父が死んだとはいえ、家族がそろったので幸せでした。

■父の最期、母も送る

 父は、8月6日の深夜、宇品のどこかで死に、船で似島(にのしま)へ運ばれ沢山の死体と共に埋められたとのことです。母は、誰かに大八車を借り負傷した父を乗せて宇品まで運んだのです。一人ぼっちになった母は、負傷しながらも父の死後、息子たちを捜し求めて爆心地あたりをなんどもなんども彷徨い歩いたに違いありません。当時45才でした。

 富士見町での生活は、夜は防空壕の中で寝ました。そこで10日間位過ごして、8月末に疎開していた祖父と共に家族は呉(呉市)の母方の親戚へ身を寄せることにしました。

似島馬匹検疫所焼却炉跡。この焼却炉で多数の被爆者が焼却された。
似島馬匹検疫所焼却炉跡。この焼却炉で多数の被爆者が焼却された。

 母は非常に元気でしたが、傷のあとが化膿し始め身体も衰弱して紫色の斑点が身体全体に現れて、とうとう呉の海軍病院に戸板で運ばれ入院しました。

 私も、身体がだるく、赤みを帯びた紫色の斑点が出て頭髪が抜けました。9月13日頃だったと思います、何の用事であったか記憶にありませんが、兄弟三人で広島へ行きました。ついでに、私達の身体の調子が悪いので日赤で診てもらったところ、白血球が1500に減少して緊急入院だといわれました。呉に帰りましたが、もう母は死んでいました。

 私と長兄は母の死んだ同じ病院に入院しました。当時、放射能にたいしては適当な治療法はなかったのでしょう。ぶどう糖の注射をなんどかされた記憶があります。

■兄弟三人だけとなった戦後の始まり

 大きな台風の後、上陸用船艇に米兵が鈴なりに乗って呉市内へ上陸してきました。丁度、病院の横の道路でしたので、進駐してくる米軍のものものしくも、軍備の圧倒的な装備に日本人は唯呆然として見ていました。米兵は、おはよう、こんにちは、と見物人に口笛を吹いて挨拶していました。ごうごうと、地響きをたて砂煙をあげて去っていきました。

 兄と私は昭和20年12月30日頃退院しました。

 両親の死後、私は食べ物に窮して、米軍やインド軍のキャンプに侵入してドラム缶に捨てられた残飯を漁って飢えを凌ぎました。インド兵は毎日カレーを食べていました。不思議に、そのカレーはおいしかったです。赤い顔をした鬼のようなMPに追いかけられました。必至で逃げました。お陰で走りが速くなりました。

 呉には約1年間おりました。それから、広島に行きました。孤児院のようなところでは生活していませんが知人や遠い親戚等に預けられました。被爆以来二年以内の、私の人生の一部でありました。

■追記

 被爆直後の私の回想として、正確な記憶ではないながら書き記しました。書いているうちに、自分はいったいなんなのか、何であったのか、今日までいったいなにをしてきたのか、自己嫌悪に陥ります。哀れな存在の自分をいとおしく、可愛くも思います。

 私の心の健康を五十七年前に返してください。この憎しみをどこへ向かって叫べばいいのか。国家という権力機構が、この国民を戦争に駆り立て、人が人を殺し合うような馬鹿げた行為は、いい加減にやめようでありませんか。宗教の違いで殺しあい、イデオロギーで殺しあい、なんと人類はばかな存在であることよ。人間の未来への希望はあるのでしょうか。

被爆電車 1945年8月6日原爆投下の瞬間広島市内では63両の電車が運転中だった。その内の3両が今も現役で運転されている。(広島電鉄千田車庫)
被爆電車
1945年8月6日原爆投下の瞬間広島市内では63両の電車が運転中だった。その内の3両が今も現役で運転されている。(広島電鉄千田車庫)



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