梅原康さん(綾部市在住・91歳)は2015年8月『蒼白い閃光』と題した被爆体験記冊子を自費発行されました。梅原さんのお許しをいただいて全文を京都「被爆2世・3世の会」の「被爆体験の継承」で紹介させていただくことにしました。
サルスベリの花が咲く頃になると、私には毎年必ず思い出すことがある。それは心の底に深く焼き付けているものが、激しく蘇って来るからである。
広島で、あの原子爆弾に、爆心より僅か2kmにも足らない所で被爆したのだ。
負傷はしたものの偶然九死に一生を得て、命からがら、緑の山々に囲まれた丹波の父母の待つ郷里の上を踏むことが出来たのは、それから5目後のことであった。
草深い故郷のわが家が見えるところまでたどりついたとき、最初に目に入ったのは、サルスベリの白い花で、それは『蒼白く』咲き乱れていた。
サルスベリは、「百日紅」の文字の通り、花の色は「紅」が主流で、あちらこちらで咲いていたに違いない。
また艶やかな薄紅色のネムの花も咲いていたのかもしれないが、それは記憶の何処にも残ってはいない。
深緑に繁る葉の上に咲いた、深い碧を秘めたような蒼白いサルスベリの花だけが、私の心の奥底にいつまでも焼き付いて離れないのである。火焔は、低温では赤黒く、温度が高くなるに従って次第に赤から橙、黄を経て白くなり、超高温になると、青みを帯びてくるのが、科学の法則である。
原子核反応のように、想像もつかないような、大きく高いエネルギーの放射線は、物質に当たると、超高温になって青白く輝き、その青はすべての生命を一瞬にして消滅させる不気味な、冥界の蒼さである。
来る夏も来る夏も、サルスベリの白い花が夏の陽射しに曝される頃になると、それと重なり会って思い出は蘇ってくるのである。
当局の虚しい勝利宣伝にもかかわらず、現実の戦況は日一日と敗色が濃くなっていた。無敵を誇っていた日本海軍の連合艦隊には、既に軍艦らしいものは殆ど無く、制空権も完全に米軍に握られていた。彼らは欲しいままに攻撃を加え、連日の爆撃で、わが国土は都市を中心に焦土と化しつつあった。
それでも「必勝の信念」が説かれ、事実を正確に見たり話したりすることは『敗戦思想』としてかたく禁じられており、人々は厳しい監視と取り締まりの下に置かれていた。
戦況を挽回するためにと、文科系の学徒は既に戦地に赴き、理科系も兵器工場等へ動員されていった。
私も昭和20年の5月より、呉海軍工廠造兵実験部という「兵器を開発する部門」に配属された。海軍工廠というのは、その名の通り軍艦及びこれに搭載する兵器等を製造する海軍省直営の軍需工場であった。
当時の呉は、横須賀・佐世保等と共に、わが国最大の海軍基地の一つであった。呉海軍工廠は、初め呉市に在ったが、生産拡張の必要からその周辺にまで拡大配置されていた。戦艦「大和」がここで建造されたことは、後世余りにも有名になったが、勿論当時は最高の軍事機密とされていた。それでも、既にわが国屈指の、最新兵器の生産拠点であったことには変わりない。
そのため攻撃を受けるのは当然だが、昭和20年の春には米軍の大空襲によって、建物を始め主要な施設は殆ど破壊され、私が動員された部門は、急遽広島の中心部へ移転したばかりであった。
その当時、東京、大阪を始め殆どの主要都市が次々と空襲を受け、多くは焦土となっていた。
広島市には、陸軍の西部軍総司令部以下、軍事上重要な機関の多くが置かれており、攻撃目標になることは当然であり、これまでここが襲撃されなかったこと自身がむしろ不可解であった。
普通は辺地に避難のための『疎開』をする時期に、海車の重要部門が、何れ遠からず空襲を受けると予想される所へ、わざわざ移転したのも理解出来ないことであった。
それは、殆どの軍艦と航空機を失い勝利の展望を失っていた海軍当局が「広島が壊滅することは陸軍にとっても致命的であり」一蓮托生と考えたのか、それとも工廠のような兵器工場は、相当な工業施設が無くては直ちには役立たないと考え、この地を選んだのか。
何れにしても理解し難いことであった。
私達の当座の業務は、力学の運動理論を使って、新兵器(ロケット砲)の弾道を計算することであった。
来る日も来る日も、運動の微分方程式を解くために、莫大な数値を使う計算作業が続いた。それは、今日では小型電卓でも一日も必要としない、スーパーコンピューターでも使えば瞬時にしてできるような計算であった。
工廠内には特別の計算室があって、大勢の人達が算盤を使うか、性能が極めて優秀だと自称していた国産の手回し式計算機によるかが主流であって、国産の電動式計算機は、見当たらなかった。「電動式」というのは、今日のような電子回路を利用したものではなく、人間が手で回すところをモーターが作動するだけのもので、計算速度も算盤や手回し式の方が早いという熟達者が少なく無かった。
しかし、私達の作業は、秘密保持が至上命令であり、その上特殊な計算で、普通の計算に乗せるまでの準備も大変で、計算作業の全過程の管理も必要であったので、直接計算することになっていた。
私たちの作業室には、電動式計算機が一台置かれていた。それは『戦利品』であろうか、ローマ字で MONROE made in U.S.A.と書かれていた。
速さだけなら、熟練者の手回し式や算盤に劣るこの「電動」計算機も、機械が計算をしている間に、次の作業の準備をしたり、出て来た結果をチェックすることが出来る等のメリットもあった。
歴史上では、内戦時代の中国人民解放事のように、敵から奪った兵器を使って勝利したという例もあるが、当時はそれ以前で、私達はそんなことは知るよしもなく、またそんなことを口にすれば直ちに憲兵拘引されるという状況下であったが、「米英と戦うための兵器を造るための基礎計算に、アメリカ製の機械に頼る方が能率的だと云うようで、戦争に勝てる筈は無い」と内心密かに批判し、ごく親しい学友達とだけ囁き合いながら作業を続ける毎日であった。
1945年8月6日、月曜日。
連日晴天が続き、8月に入ってからは、瀬戸内地方には一度も雨が降ってはいなかった。
その日も朝から晴れ上がり、真っ青に澄みきった大空には、夏の太陽がじりじりと照りつけていた。
毎朝、8時から10分間程度、晴天なれば造兵実験部の全員が運動場に集合して朝礼が行われていた。運動場では、高等官(士官・技師)、判任官(下士官・技手)、工員、女子挺身隊員そして動員学徒という「階級序列」の順に整列させられる。動員学徒は多分に生意気で、最下位に置かれたことや、運動場の一番遠い所に行かなくてはならないことに不満を持ち、反抗的であったから当局からはいつも目の仇(かたき)にされていると思い込んでいた。
海軍では「5分前」ということが徹底的に求められており、朝礼も同じであった。ところが、動員学徒の中に遅刻の常習者がいて、その日も午前8時には問に合ってはいたが、「5分前」には少々遅刻した。そこをすかさず、私たちよりも若い工業高等専門学校出身の技術少尉に叱責される羽目になった。
暑い上に腹立たしいので、朝礼が終わるとブツブツ言いながら急いで作業兼研究室になっていた広島文理科大学付属の理論物理学研究所の建物に引き上げて行った。
そこは元大学の図書館の書庫で、これを急遽転用したものであった。建物は土蔵風の木造二階建てで、普通の教室程度の広さであった。もちろん冷房施設などあろうはずもないが、猛暑の中でも比較的涼しかった。
一階には重要資料が置かれており、二階の大部屋が、作業兼研究室になっていた。部屋の半分には10脚ばかりの事務机が二列に並べてあって、動員学徒と、軍の嘱託として指導を担当される大学の教官とが使用していた。残りの半分には大机が置かれ、共同研究の討議や会議その他の雑用にも使われていた。
アメリカ製の電動計算機もその大机の片隅に置かれており、電源は天井の電灯線から蛸足配線で取ってあった。
私は、この日はたまたま自席を離れ、この電動計算機を使って、数値計算の作業に入った。
突然、屋外に鋭い閃光が走った。
一瞬、「写真のフラッシュかな、それとも…。アッ空襲だ。」と思い返し、反射的に床に伏せるのと天井が床に叩きつけられたのが同時であった。
次の瞬間周囲は真っ暗になり何が何だか皆目分らず、自分は果たしてどうなっているのかも判断がつかなかった。同じ場所に居た学友が、後刻「天地開闢の時の思いがした」と語ったが、そんな形容が当たっていたのかもしれない。
家屋が瓦解して行く轟音が耳をつんざくばかりで、それが次第に遠ざかって行く気配がわかる。
それから、どれほどの時が流れたのか。
そのうちに、恐ろしいような静寂が訪れて来た。少しづつ判断力も戻って来る。どうやら置いてあった机や椅子のお陰で天井と床との間に少しの隙間が残って、運よくそこに入ったので、一応命だけは助かっているように思える。
しかし右手は打撲傷を受けて自由が利かず、しかもひどく痛む。爆弾破裂の衝撃波による建物や施設の崩壊の轟音と思えるが、それが次第に遠く薄れていくと、辺りは異常で不気味な静寂に包まれた。
しかし体はどうにもならない。そして「果たして助かるのだろうか」とか、「こんな所で死んでしまったら、遠い郷里の親たちは、どんな思いをするだろうか」等々、とりとめもないことが脳裏をかすめる。
こんな時こそ冷静にしなくてはとは思うが、それでも何とかしなくてはならないという気持ちになってますます焦る。
昨夜から出ていた警報は、今朝は解除になっていたと思う。大規模の空襲なら必ず警報が出る筈だ。だから空襲があったとしても、多分これは一機か二機が紛れ込んで来たのに違いない。そして多分この建物に直撃弾が命中したものと思える。被害を受けたのはこの建物だけだとすれば、あまり心配はしなくても、ほどなく救援して貰えるだろう。この広島には、市の北部には陸軍部隊が居り、南の宇品港には船舶隊の基地もある。陸海軍部隊の将兵が多数居るからだ。そう考えると気持ちも少しは落ち着いてくる。
しかし、1時間経っても1時間半経っても、期待した救援部隊が来てくれる気配は全くない。
始めは多寡を括って居たが、次第に不安もつのって来る。
先刻まで、足先の方で、途切れながらも聞こえていた誰かの呻き声も遂に途絶えてしまう。とうとう助からなかったのであろうか。
身動きが全く出来ない自分のことを考えると、いったいどうなるというのだろうか。云い知れない不安と恐怖が襲って来る。
すると、突然頭の上の方で、何だか人の動くような気配がして、何処からかは判らないが、
「誰か生きてるかぁ。」
という声が聞こえた。
思わず渾身の力を込めて、
「おーい。助けてくれー。」
と叫ぶ。すると、
「大丈夫かぁ」
という声が続いた。
「何とか生きてはいるが、身動きが出来ない」
と答えて愁眉を開く。
「もう少しだ、頑張れ。」
と、心丈夫な学友の声が返って来た。
そして、運良く助かった学友と大学院生の先輩の二人で、覆いかぶさっていた屋根と天井とを破って、外へ引き出して呉れた。
「地獄で仏」とはこのことだろうか。被爆以来2時間程度が過ぎただけだったが、もっともっと長い時間閉じ込められていたように思えた。
こうして、ようやくの思いで壊滅した部室の中から助け出された時、そこに展開されていた光景は、それまで考えていたものとは全く異なり、想像も出来ない全く異常なものであった。
広島は中国地方最大の都市で、人口は50万人と言われていた。しかし、多くの市民は空襲を避けて農山村に疎開していた。これと反対に、軍の機密で正確なことは分らないが膨大な数の動員軍人や軍関係者が送り込まれて来ていたので、40万人という人もあれば、70万人80万人という人も居た。
学友達に、助け出された時、市街の中心部は一面に、赤黒い煙と炎につつまれていた。そして、その火炎の上には巨大な黒煙の柱が、天を冲してどこまでも、高く高く巻き上がっていた。
目の届く限り木造家屋はすべて押し潰され、電柱や鉄塔のような構造物もすべて地面に叩きつけられていた。
猛烈な火炎は、ますます拡がり、先端はもう其処まで迫って来ていた。
救出されるのが、もう30分も遅れていたらと思うと、背筋に冷たいものが走る。
幸い足は大丈夫だったが、右肘をかなり負傷していたので、素早く手当てをして、常時携帯していた三角巾で肩から吊るす。そして残りの人々の救出の手伝いに加わった。
呻き声の主は細川藤右衛門先生であったが、既にこと切れておられた。先生は岩波数学講座に「射影幾何学」を執筆しておられるほどの優れた数学者で、理論物理学研究の所員(大学教授)でもあられた。まだお若く、惜しい人を失った。御遺体を安全な場所にお移しして、御冥福をお祈りする。
作業が一段落したとき、学友たちの勧めで、私自身も近くの日赤病院で応急手当を受けることにした。
この病院は鉄筋コンクリート造りのしっかりした建物ではあったが、窓という窓は総て破壊されガラスの破片が辺りに構わず散乱していた。
廊下にも診察室にも火傷や怪我に会った負傷者があふれ、足の踏み場も無い有り様であった。殺気立った雰囲気の中で、医師や看護婦たちは、乏しい機材と少ない人手にも関わらず、甲斐甲斐しく立ち働いていた。
私は多少気恥ずかしい思いで、脱臼して痛む右肘関節の処理と、打撲裂傷の右手の縫合および皮膚内に刺さっていたガラス破片の一部を摘出して貰った。
間もなく火の手が迫って来たので、それ以上はどうすることも出来ず、生き延びた者だけで、日頃指示されていた避難場所へ向かうことになった。
火災や空襲に会えば、風上に避難するのが常道である。市街の中心部は、一般の民家を強制的に取り壊して東西と南北の十文字に、相当幅広い緊急避難道路がつくられつつあった。
私達の南方への第一次避難場所は、翠町の旧制「広島高等学校」が指定されていたので、そちらを目指してその避難用大通りへ出る。
そこで見た情景は、一体どういうことなのか。
体も衣服も黒く焼け爛れて血まみれになり、男とも女とも見分けのつかない人々が、何百何千と、訳のわからない異様な声を出しながら、半ば無意識にゾロゾロと火炎を避けるように歩いていた。
怪我人を背負い今まで一見元気そうに見えた人が、突然道端に座り込むと、あっというまに全身が火膨れになってしまう。苦悶していたかと思うと、そのまま息が絶えてしまう。それもほんの一瞬の出来事であった。
そんなことが、あちらでもこちらでも起こった。
後から後へ、血だらけの怪我人や、火傷を負って黒く爛れた人達が、あえぎあえぎ、次から次へと逃げ出して来る。道端には、何処も彼処も折り重なるようにして人々が鋸っている。その中には、息も絶え絶えの者もいれば、既に息の絶えてしまった者も数限り無くいる。時間はそんなにも経過していないのだが、夏の猛烈な日射に曝された死体は、腐敗し始め死臭を放つ。
酷暑のため、激しく渇きを訴えるが飲料水は全く無い。水を求めて何人かが川岸に下りて行く。
すると、ゾロゾロとそれに多くの人々が続く。広島の川は海水が逆流して来るので、到底飲むことが出来ない。それでも何人も何人も川辺へと続く。判断力の衰えた人々が、夢遊病者のように誰かが何かをすると無意識にそれに続くのである。そして、人々は水辺で次々と息が絶えていく。そのうちに潮が満ちて来で、折り重なった死体は水に浮かぶものや、沈むものが、ゆらゆらと漂って行く。
避難の途上で目に入る光景は、余りにも激しく悲惨な破壊状態が、行けども行けども続いていた。それは、到底この世のものではない。生き地獄とはこれをいうのであろうか。これは米空軍の攻撃によるものとは思うが、どんな兵器によってなされたのか、全く見当もつかない。
過去にも相当大きな空襲を受けた経験もあった。それから推測しても、これ程激しい被害は考えることも出来ない。
ある学友が「これは『空中魚雷』ではないか」と言い出したが、当の本入もそれがどんなものか知らずに言ったに過ぎなかった。
その当時、潜水艦や超大型爆撃機から艦艇を攻撃する「魚雷」には数トンのものもあったが、普通の爆撃機に搭載出来る爆弾は、最大でも、せいぜい1トン程度までとされていたので、それから類推したのかもしれなかった。
しかし魚雷を上空で爆発させたという話は、聞いたこともなく、ただ想像もつかない巨大な爆発力・破壊力を持った新兵器で襲われたことだけは確かであった。
そんな中を、あえぎあえぎ辛うじて第一次避難所に当てられていた広島高等学校(旧制)にたどりついた。既にその時には、その周辺も、猛烈な火炎が迫っていた。避難の場所は体育館があてられていたが、そこには僅かではあったが、非常食や湯茶も用意されていた。それは宇品方面からの救援の手が、早くもここまで及んでいたのであったろう。
ここで一息ついて、初めて「とりあえず生き延びはしたな」という実感も湧いて来た。
ここで聞かされた海軍当局の最初の公式発表は「これは『高性能爆弾』であるが、特に心配する必要は無い」というものであった。
これを全面的に信用する者は誰も居ない。あちらこちらで様々な憶測も飛び交い、ひそひそと小声で話合う者もいたが、常に憲兵の眼が光っているので絶対に不用意なことは言えない。
暫くして、体育館の一隅に、次のような私達に対する指示命令の掲示が貼り出された。それは、
『本造兵実験部に動員中の学徒に告ぐ!
今明日は休養し、明後日の正午、現在地に集合せよ。
昭和20年8月6日
呉海軍工廠造兵実験部部長』
というものであった。
それにしても、中枢部も相当な被害を受けたに違いないのに、どうしてこんなに素早く対応出来たのだろうか。まだ何処かに「軍部組織の機能」は残っていたのであろうか。迅速適切な対応には「流石」と、驚いた。
そして、当面の非常食として少しばかりの軍用乾パンが支給された。
日頃食料は甚しく不足しており、厳しく統制されていたので、こんな時でなければ、配給切符も無しで食べ物にありつけることはなかった。
差し当たっての問題は、これからの行動をどうするのか、今夜はどこで過ごすのか、である。2人の学友と先輩の大学院生は、住んでいた自宅や親威か近いので、急いで帰宅した。
私は、一月ほど前まで、近郊呉線沿線の矢野駅近くで2人の中学生の居る半農半商のお家で住み込みの家庭教師をしていた。
ところが、その中学生たちも学徒動員に引っ張り出されて勉強が無くなり、その上食料事情も悪化したため断られ、動員先に近い市街中心部の昭和町の下宿に引っ越したばかりであった。
ところが、その近辺は爆心地にも近く、燃え盛る猛火の真っ最中にあったので、とてもそこへ帰ることは思いもよらなかった。
幸か不幸か、矢野の前の宿舎には、未だ荷物や図書の大半を置かせて頂いたままになっていたので、取りあえず其処に泊めて頂くことにした。
矢野への途は、火炎に包まれた市街地の中心部を避けて、東に向かい、途中から北へと、道無き道を迂回するより仕方が無い。
辿る道端は、行けども行けども建物も樹木や構造物も無残なまでに破壊されており、所々から真っ黒い煙さえも立ち昇っているのが見える。その上を、灼熱の立夏の太陽が容赦なく照りつける。
怪我人や火傷を負った人々が、得体の知れない身なりと形相をし、異様な呻き声を立てながら、当ても無く右往左往している。この人たちは、何処へ行こうとし、そして何処へ行くのであろうか。第三者がみれば、私白身も或いはそれと同じ部類の一人であったかも知れないが。
しばらくして、突然上空から爆音が聞こえて来たので、その方向に眼をやると、米軍機B29であった。
市街地の中心部には、巨大な火炎とその上部に黒煙が、延々九天を冲して立ち昇り、真昼の太陽を覆って辺りはあたかも黄昏のように薄暗くなっていた。
米軍機は、その巨大な黒煙の柱の周りを悠々と一周し、何処へともなく飛び去っていった。
それまでは、米軍のB29爆撃機の数百数千という大空襲や、グラマン戦闘機の機銃掃射に曝されたこともあったが、何とか逃げおおせて来た。
そのこともあってか、ただ米軍機の機影を見ただけでは、それほど恐怖感を持ったことは無かった。
ところが今回は、ただの1機だけだったというのに、何故かこれまでに体験したこともない深刻な戦慄と恐怖心が全身を被った。そして、その米軍機が視界から消えるまでは、何の遮蔽物も無い路上で、足が竦み、全く身動きが取れなくなってしまった。
そのうちに気力を取り戻して、比治山の南側山麓を辻回し、東に向かって北上する。この辺りは爆心地から山の真後ろになるため、被害も比較的少ないが、それでも雨戸といわずガラス戸といわず、窓はすべて木っ端微塵に破壊されており、屋根もほとんど吹き飛ばされていた。
こんなに物凄い破壊力を持つ兵器は、一体どんなものだろうか。疑問は深まるばかりであった。
どこをどう歩いたかは定かでないが、やっとの思いで山陽本線の線路につき向洋駅の前まできた。
ここは、山陽道を広島から東にでるためには、鉄道も道路もすべて通らなければならない、唯一の関門「向洋(かかいなだ)」であった。
そこでは、憲兵隊が道路を遮断して、すべての通行人の検問をしていた。そして、市外へ脱出・避難しようとする市民達に、メガホンで、
「これ位のことを驚いてどうするか。何も心配することは無い。
皆な此処から、ただちに引き返して、町の復興に従事せよ。」
とがなり立てて、追い返していた。
そのため原爆の攻撃から辛くも九死に一生を得た人々が、再び市街地へ追い返されて行った。
しかし、そこは直接肉眼でこそ見えないが、致死量をはるかに越える猛烈な「放射線」が渦巻く「死の世界」であったのだ。
幸いにも助かるべきであった人々の多くが、軍部の強制によって、元へ戻され、第二次放射線の被爆によって、全く治療方法の無い不治の難病「原爆症」に罹ることになったのである。
こうして、彼等は苦しみに苦しんだあげくに、死んで行ったのである。
いつの時代も、支配者と被支配者との関係は基本的には変わらないが、特に『忠節と誠実』を本文とした筈の軍隊ほど、狡猾で『要領』の良さが幅をきかせ、本音と建前との乖離したところは、他には無かった。
私は、これは困ったことになったと思ったが、咄嵯に「海軍工廠動員学徒」の身分証明書を見せて、「呉の本部へ連絡に行きます。」
と弁明すると
「ご苦労さん。呉までは遠いから、食料を貰って行け。」
と言って、非常食の「軍用乾パン」と「牛肉の缶詰」とが支給された。
列車は向洋駅の次の海田市(かいたいち)駅から向こうは、山陽本線も呉線も、不定時ながら運転しているということであった。
道路は山陽道(国道二号線)が通じているのだが、人々は少しでも近道をしようと、列車の来ない鉄道線路の上を歩いていた。
道行く人々は、ただ黙々と歩くだけ。途中で旧知の人に会っても、お互いの生存を確認し合うように、一言二言交わすだけで、それ以上は何も話さない。
誰もが、あの得体の知れない『新兵器』については、たいそう話し合いたいのだが、あたりを気遣って話せない。それが「戦時下の軍都」で生活してきた人々には半ば習性になっていた。
迂闊に喋ったことが誰かの耳に入りでもすれば、後で途方もないことになることを、痛いほど知っていたからである。
向洋駅から海田市駅までは、鉄道線路づたいでおよそ2km余りの道のりであった。
道すがら振り返ると、広島市街地に立ち昇る黒煙が、比治山越しに空一面に広がっていた。火勢は衰えるどころか、どんどん周辺にまで拡大して行く気配であった。
海田市駅から列車は運転されるということであったが、実際に運行されるのは何時のことか全く予想も付かなかった。海田市駅から矢野駅までも2km半程度で、40分位。列車を待つまでもなく歩くことにする。
この辺りまで来ると、被害も多少少なくなるが、それでも西の広島の方を向いた側は、煉瓦が飛び、ガラス窓もかなり壊れていた。
晴天にもかかわらず、瀬戸の島山は黒い煙に覆われ、いつもならその島影に沈んでいく太陽も、この日は晴天にもかかわらず、全く姿を見せなかった。
夕暮れ時には、まだ少々の時間が残されていた頃、ようやく前の下宿まで辿りつくことが出来た。
そこでは、居合わせたお家の方々から、異口同音に、
「よー助かりんさったのー。」
と、広島地方の方言で、いたわりながら快く迎え入れて下さった。
その翌日は、指示されたとおり終日休養した。
軍部政府を中心に、徹底した情報管理・統制と取締りが行なわれていたが、このような田舎の下宿までも、色々な噂話やそれらしい情報も伝わって来る。
広島市内の中心部には、緊急用避難道路を急造するために、一般民家の取り壊し撤去作業が続けられていた。
その作業には多くの低学年の中学生や女学生達が駆り出されていたが、殆どが爆心地近くの路上で痛ましくも被爆し、即死した。
矢野の下宿にも二人の中学生が居たが、二人とも呉近辺の海軍施設へ動員されていたので、幸いにも原爆からの被爆を免れたが、引き続き職場へ出勤していた。
この中学生たちは、通勤途上や職場でいろいろなことを聞いて来る。
また、どうして手に入れたのか、米空軍機が空から配布したビラを隠し持って帰ってきた。それには、
「広島に投下したのは『原子爆弾』であったこと。この凄まじい爆弾を投下しだのはこの戦争を一日も早く終わらせるためである。
ツルーマン米大統領は、日本の一部の軍国主義者と超国家主義者だけに反対しているので、一般の市民は決して敵視してはいない。
善良な一般市民の皆さんは、戦争を一日も早く止め、平和に暮らせるように、日本政府に要求しなさい。」
と言った内容であった。
(わが国では一般に、米大統領を「トルーマン」と訳していたが、このビラには「ツルーマン」と書いてあった)
このビラは読み終わるとすぐに焼却した。もしもそんな物を持っていることが、当局にでも知られると大変酷い目に合うからである。
海軍では極く上層部だけではなく、特に海軍工廠のような技術部門の士官達も、飛行機も軍艦も殆ど無く、制空権も制海権も無い戦いが、どんな結果を招くかは痛いほど知っていたであろうし、「戦争には勝でない」という「敗戦気分」が強くなっていたようであった。意外な『秘密情報』も何処からともなく私達のところまで洩れて来るようになった。
多分、当局者の間では、この「新型高性能爆弾」については、ある程度の真実も知っており、種々の議論もされたに違いなかった。
広島は二日二夜の開燃え続けた。
8月8日の朝には、火災も漸くおさまった模様なので、「命令」に従って早朝から広島へ出掛けた。
国鉄は向洋駅までは呉線が開通していたので、これが利用できたが、向洋駅から先は歩くより他に交通手段は無かった。
向洋の駅舎は残っていたが、駅を出ると2日前には残っていた筈のこの辺りの民家は殆ど跡形もなく焼失していた。また、送電用の大きな鉄柱は中途から折れ曲がり、電線も融けたのか、全く姿が無くなっていた。
焼け爛れた地面以外には何も無く、遥かに宇品港から瀬戸内海に浮ぶ似島(にのしま)までが、直接のぞまれる。
一昨日とは逆の道をとって、比治山の東山麓を南に進む。その南端から右に折れると比治山橋のたもとに出る。
僅かに二三の黒く焼け焦げた鉄筋コンクリートの建物の不気味な残骸が、疎らに見えるだけであった。一昨日は破壊されてはいたが、まだまだ沢山残っていた建物も何一つ無くなり、あの「広島」は跡形もなく無くなっていた。
指示されていた集合地点に着いたのは、指定されていた正午よりも少々以前であった。
私達の動員先の直接担当者の責任者は、金子という東京大学工学部の造船工学科出身の海軍技術中佐であった。
私が集合地点に着いた時、既に金子中佐は来ておられて私達の集るのを待っておられた。
そこには広島文理科大学物理学科(理論物理学、原子物理学担当)の佐久間澄助教授も同席しておられた。佐久間先生は、後に広島大学の教授になられたが、日本原水協の代表世話人としても、核兵器の禁止運動にも、おおいに献身された方である。
金子中佐と佐久間先生は、二人で何かを話し合っておられたが、その会話が聞くともなく耳に入ってきた。
金子中佐
「アメリカは、国際放送で『原子爆弾』と言っていますが、実際にそんなものが出来るのですかねェ。」
佐久間助教授
「理論的には可能です。原子量の極めて大きい(原子番号の大きい)元素が崩壊すると、莫大なエネルギーを放出します。
これは『質量欠損』と言って、物質が消滅してエネルギーに変わるのです。ただ実際にこれを技術的にどう実現・制御するかが課題なんです。
そんなことも、何れ、やれば出来るのではないでしょうか。」
お二人の会話はなおも続く。
そう云えば、京大物理学教室の荒勝研究室では「原子核物理学」の実験用装置としての「サイクロトロン」を建設中であるとも聞いていた。
アメリカでは逸早く、これを兵器として実用化に成功したのだろうか。自分も物理学専攻の学生であるから、そんな話に興味もあり理解も出来る。それが事実だとすれば大変なことだ。
少なくとも、原子核の崩壊によるものであれば、そこから放出される「放射線」の人体への影響は重大な問題になる。
一般市民に対して「直ちに元の住居に帰って復旧に従事せよ」などと云う指示・命令などは、とんでもないことである。第二次被爆をしたらどうするのだろうか。
他にも「玉砕」命令など、類似の残酷な事例は珍しくなかったが、そのため多くの国民が重大な被害を被った。これもその一例であった。
それは「戦争だから」とか「戦争とはそんなものだから」などと言って済まされることでも、許されることではない筈だ。
交通機関は殆ど全滅していて、歩く以外に方法は無かったが、指示されていた時刻「8月8日正午」に集合場所へ来ていたのは、私ともう一人の学友の2人に過ぎなかった。
そこの壁面には、
「動員学徒に告ぐ、
直に今般の爆撃による、広島市街の被害の概況を調査せよ。
以上の通り命令する。
昭和20年8月6日 帝国海軍担当官」
という「指令書」が貼り出されていた。
当時は、学生や生徒は未成年を含めて軍隊や軍需産業に徴集され、これを「動員学徒」と呼ばれていたので、それは私たちに宛てたものだった。
命令書は、単に
「被害の概況を調査せよ。」
という漠然としたもので、具体的なことは自分達で考えてやれ。ということのようであった。
しかし、広島市街の被害状況を調査すると云っても、目安や調査の手掛かりになりそうなものは殆ど残ってはおらず、僅かに焼け残った鉄筋コンクリートの建物の残骸や石造建築の一部分に過ぎなかった。
陸海軍の軍人が溢れ、おおいに賑わっていた広島の繁華街は言うに及ばず、中国地方最大の大都市といわれた、あの広大な大市街地は、見渡す限りの焼け野が原になっていた。
爆心地は何処なのか?投下された爆弾は何発だったのか?
そんなことは皆目判らないことばかりであった。
私たち二人は相談して、とにかく周辺部から見て廻ることにする。
たまたま、アメリカ空軍が撒いたチラシを見付けたが、そんなものを持っていたり、読んでいるところを、憲兵にでも見付かろうものなら、直ちに検挙されるという代物であった。しかし、一般市民の多くは、取り締まりが厳しくなればなるほど、かえってその内容を知っていた。
私たちも、それをひそかに読んでみると、
「悪いのは、軍国主義者と軍の指導者であって、一般の市民に罪は無い。
心配せずに戦争には反対しなさい。」
と云った主旨のことが書かれてあったように思う。
二人は共に「物理学」が専攻だったが、調査と言っても必要器具は何ひとつ無く、何があるかは予知出来ない条件での調査であった。しかもその余りの惨状から「原子爆弾」ではなかったのか等とも囁かれもしていた。そのため、なるべく未知の危険性を避けるために、またそこは「焼け野が原」で目ぼしいものは何ひとつ残ってはいなかったので、とりあえず中心部は後回しにすることにして、周辺部から見て回ることにした。
集合場所(皆実町)から、先ず北に向って御幸橋(みゆきばし)へと。この橋は、かっての日露戦争で、広島に大本営が置かれたとき、明治天皇が渡ったことから、この名が付いたとか。また戦後には、皮肉にもイサム・ノグチが設計したというモダンな橋に替わったが。
この橋の欄干は、元は石造であったにもかかわらず、跡形も無く吹き飛ばされていて爆風のすさまじい威力が、並はずれた猛烈なものであったかを如実に物語っていた。
遠望すれば、市の中心部は荒寥たる焼け野原で、殆んど何も見えない。
そのまま、比治山の西山麓を北に向かって視で廻る。
わずかに焼け残った所の状況を手掛かりにして推測すると、爆心地は相生橋の辺りらしい。しかも地面から相当高い場所で爆発しているようだった。
広島駅前の広場に出た。其処には赤黒く焼け爛れた市電の残骸の窓枠に、真っ黒に焦げた「人」の死骸がぶら下がっていた。
老若男女を問わず、無数の人間や家畜の死骸が到る所に放置されていたので、死骸には次第に無神経になりつつあったが、これは何と酷たらしいことか。この光景には改めて息を呑んだ。
駅前から、かつては繁華街の中心地だった八丁堀に出たが、ここでまた、言葉を失う程の惨状に出合うことになった。
黒焦げなった銀行の玄関の石畳に、うずくまった人影がくっきりと残されており、何かを訴えて居るようにさえも見えた。
石材がこれ程焼け焦げているのは、どれほど強烈な放射線の照射を受けたのだろうか。普通では到底考えられないと思わざるを得なかった。
此処から南へ向かい、名刹国泰寺まで行く。この寺は中国地方の大大名浅井家の菩提寺で、樹齢数百年を経た楠の巨木が何本も繁っていたのが、すべて根こそぎ引き抜き倒されて焼かれ、直径数mもあった巨木の幹の、中心部分であったと思われる、極めてほんの一部だけが燃え残っていたのを見た。
この爆発の衝撃波の威力や放射線のすさまじさは、軍部が、「この爆弾は『高性能爆弾』ではあるが、決して恐れるような物ではない」
と強弁するようなものでは有り得ず、これまでの常識では測り知れない、桁外れの巨大な威力を持つものであったに違いなかった。
私たちが被爆した東千田町の近辺も、二昼夜の間に余すところ無く焼き尽くされ、石の門柱の瓦傑やコンクリートの残骸だけが散らばっていた。
調査は一応これで終ったことにして、出発地へ戻った。
動員学徒の担当の指揮官、金子海軍技術中佐に、私たちが見たありのままの事実を報告した。
金子中佐は私達の労をねぎらわれた上で、改めて威儀を正し、
「事実は諸子(当時は校長や上官は、生徒や部下に対する呼び掛けの言葉として『諸君』を用いず、『諸子』と呼んだ)が見た通りである。
この上は、業務の継続は不可能につき、別途指示があるまで待機せよ。
遠方の者は帰郷してもよろしい。」
と云う公式的な指示をされた。
そしてここで態度を改め、
「以下は私の全く個人見解であり、軍の機密にも属するので、絶対に口外を禁ずるが、」
と前置きして、これまで見せたことも無い峻厳な口調で、
「小官はこの戦争は勝利出来ないと思う。
我が国土が米軍に占頷されれば、多分高等教育は認められないことになるであろう。
しかし、如何に困難であろうとも、諸子は祖国と民族の復興の為に身を挺して学術研究に専念されることを切望する。」
と訓示され、再び日頃の温顔に戻られた。
自らも、学問の道を志しながら、戦争のために果たさず、やむなく軍籍に身を置き、その志の果たせなかった先輩の、心の底までしみ通るような励ましの言葉であり、私には深い感銘を与えられた。そしてその後の私の人生に末長く大きく影響することになった。
いよいよ帰省することになって、若干の食料と「戦争被災者証明書」の交付を受け、広島を後にすることになった。
普通は、列車に乗るためには、駅で何日も徹夜をしなければ、切符が手に入らなかったが「被災者証明書」があれば、罹災日を含めて一週間以内は、切符無しで、全国の国鉄も私鉄も何処の路線も無料で自由に利用することが出来ることになっていた。たまたま山陽本線は、広島以東が8月9日から開通するという情報が入ったので、早速9日に帰郷することに決めた。
泊めて頂いた元の下宿の方々に、心から感謝を述べ、夜明けとともに呉線の一番列車に乗り、広島駅まで出た。
広島駅で乗り込んだ列車の窓からは、二、三の黒く焼け焦げた鉄筋コンクリートの建物の残骸以外に、一切視線を遮るものは無く、何と海まで見えるではないか。これが50万都市の姿かと思うと、その無惨さに感無量である。
列車には「東京行」の看板が掛けられ、かなり混み合っていた。
ようやく発車したのは、出発予定の午前7時もかなり過ぎてからであった。当時は、軍用の貨物列車が最優先で、特急や急行は全く運転されて居らず客席はすべて各駅停車。しかも運行時刻は全く不定であった。
途中、駅のあるところでも、駅の無いところでもしばしば長時間停車した。
お昼頃、ようやく福山駅に着いたが、たまたま空襲の直後で、駅の近辺ではまだ建物が燃えており、車窓からは熱風が吹き込んで来た。このため福山駅には接近出来ず、手前で退避していたのであろうか。
既に相当遅れていた上に、ここでさらにかなりの時間停車し、発車したのは午後も相当の遅くなってからであった。
列中は瀬戸内海の海岸沿いに岡山市に入るが、ここからは山間でおる。兵庫県との県境をあえぎあえぎ進むが、空襲に遇ったのであろうか、貨車の残骸が線路の脇に幾つも幾つも無惨な姿を曝していた。
こうして、さしもの長い夏の日もすっかり暮れてしまって、ようやく姫路駅に着いた。
列車はここで「運転打切り」となり、乗客は全員降ろされた。
私は、京都へ回って山陰線に出るか、大阪から福知山線にするか、それともこの姫路から播但線に乗って和田山経由で山陰線に出るかの、三つの経路が考えられる。しかし何れも明朝まで列車は運転されない。
仕方無く待合室に出る。
姫路も数日前に大空襲に見舞われ、駅舎や白鷺城を残しただけで、荒涼たる焼け野が原になっていた。
駅の近辺には、被災者や浮浪者がうろつき、野宿している者も少なくなかった。
近くでは『ヤミイチ(食料品等は販売が厳しく統制されていたが、非合法に相当高価で販売され、これをヤミイチと呼んでいた)の握り飯』を売っているという話しを聞いて、これを買いに行き、夕食にする。
姫路駅の待合室でしばらく仮眠をとるうちに、夜も明け8月10目の朝を迎えた。
この日も早くから太陽が照りつけ、暑い一日の始まりであった。
播但線は一番早く運転されるというので、これに乗った。この線は普通に行けば終着駅の和田山へは、2時間もあれば充分である。ところが、運行の時刻は誰にも分からず、全くの行き当たりばったりで、いたるところで不時停車をするので、なかなか進まない。
昼食に何を食ったか、何も食わなかったのか、記憶にはないが、ようやく昼過ぎには山陰線と交わる和田山駅に着いた。
ここで乗り換えるのであるが、次に乗るべき列車は何時来るか分からない。相当の時間を待たされたが、それでも故郷の訛りやアクセントを耳にすると、何となく気持ちも安らぎ、待つことがそれほど苦痛ではない。
そのうちに山陰線の列車がやって来たが、超満員のスシ詰めで乗客はデッキまであふれていた。少しでも隙間のありそうな所を目指して窓からも多くの人が出人りする。
無理やり、この列車に乗り込ませて貰う。
列車は福知山駅でも綾部駅でも乗り換えなけらればならず、その上待ち時問は不定で、長いことは何処も同じであった。また超満員なのも変わりはないが、やはり表日本と裏日本の違いであろうか、山陰線は山陽線ほどの混雑ではなかった。
しかも和田山駅とは異なり、福知山駅も綾部駅も、下車する人も多いので、乗り換えはそれはど苦労しなくても済んだ。
綾部駅から舞鶴線に乗り換え、ようやく梅迫駅で下車。
梅迫駅から我が家までは、山の麓に通じる草深い田圃道を5km余り歩くことになる。
通称「菜っ葉服」で通用する工員用の作業服を纏っていたが、それは「国防色」と称する緑色の、質の悪いペラペラの合成繊維で出来ていた。
国立大学(当時は『官立』大学と呼んでいた)の学生の誇りであり、象徴でもあった『角帽』も、被爆の際に失ったままで、無帽であった。
その上、右手は血痕で汚れた三角巾で吊るし、肩からは軍用払い下げの雑嚢を下げるという、まさに『敗残兵』のスタイルである。
それまでは『危険地帯からの脱出』のことだけを考えていたが、ここで初めて自分の『異様な姿』に気付き、思わず苦笑する。
道々で出会う人は殆んどが旧知の方ばかりで、挨拶を交わすと、必ず温かい言葉をかけて見舞って下さった。
瀬戸内の干からびた風景に反して、瑞々しい丹波の自然のたたずまい。何もかも懐かしく心に惨みる。中学生時代に毎日通学した道でもある。少年時代を育んでくれた山や川。稲田を渡る緑の風にも懐かしい匂いがする。
暑く長かった夏の日も、ようやく太陽が西に傾き始め、ヒグラシの蝉しぐれがしきりに聞こえてくる。それは少しも変わらぬ「故郷の風情」であった。
山ふところに抱かれた中に、遥に我が家の茅葺の屋根だけが見えた。
その周りには背も高く伸びた夏草が茂っている。深緑の木々の葉が波打つ。その上に抜け出たようにサルスベリの真っ白な花が咲いていた。
辛くも一命を取り留めて我が家を前にした時には、言い知れない感動が、知らず知らずこみ上げて来るのを如何ともすることができなかった。
それからの田舎道は1kmは充分にあり、我が家の屋根が見え隠れする。その途上で様々な感慨が湧き出してくる。
ようやく我が家に辿り着く。
夏は風を迎え入れるために玄関の表戸を開け放しにしてあるので、入口から土間に入る。
「只今、帰りました。」
と、奥の居間の方へ向かって声を掛けると、突然父が出てきて、
「足はあるか。」
と言った。
それが私を迎えてくれた父の第一声であったが、はじめは何んのことか訳の判らないまま、無我夢中で
「ありますが?」
と答えると、どうやら安堵したように、懐かしい温顔の表情に戻って、
「そうか。よう帰ったな。良かった、良かった。」
と言って、他の家族達にも、私が帰宅したことを知らせてくれた。
父は後日、思い出話として
「新聞でも、広島は『相当の被害あり』と書いてあった。『損害軽微なり』と発表してあっても、実際には殆んど全滅に近いのが普通だし、大変なことになったものだと思っていた。
お母さんからは『捜しに行って下さい』と、しつこくせがまれていたが、切符を買うこともできず、役場の勤め(当時父は村長をしていた)もあるので、どうすることも出来なかった。
待っていたが、2日過ぎても3日過ぎても、何んの音沙汰もなく、これはてっきり死んでしまったものと思って半ば諦めていた。ところが突然しかもお盆前の夕暮れ時に、異様な姿をして現れたので、一瞬「これは幽霊になって帰って来だのではないか」と本気になって、疑ってしまった。
『足はあるか』と言ったのは、咄嵯に出た私の気持ちだったのだ。」
と言って笑った。そして
「こんなに笑って話せることは本当に有り難いことだ。」
とも付け足した。「子を持って知る親の恩」と言うが、自分が年をとって、当時の父くらいの年になって、はじめてその言葉の一つ一つに溢れていた親心の有り難さが、実感としてわかる。
帰宅してから新聞を見てはじめて、私か広島を発った8月9日にはソ連が参戦したことと、福山の近辺を通過していた頃には、長崎にも広島以上に強力な『高性能爆弾(原子爆弾)』による空襲を受けたということも知った。
父と私が戦争の見通しについては、喧嘩をしているのではないかと、母が心配するほど、激論を交わした。「必勝の信念」に凝り固まっていた父は「戦争には負けたことのない目本は必ず勝つ」とあくまで言い張った。
帰宅5日後、隣組の連絡を通じて、8月15日「正午から重大放送があるので聴くように」という連絡があった。
ラジオ放送は雑音が激しく、聞き取り難いものであったが、昭和天皇が「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、云々」
と、国民に敗戦を告げるものであった。
金子中佐の言葉通りに、日本が連合国に降伏して、長い長い戦争が終わったのである。
数日を経て、ようやく新聞に、一面の焼け野原になった広島の写真が掲載され、徐々に真相が明らかにされていった。
また、広島と長崎に投下されたのは『原子爆弾』であるとも発表された。そして「放射線による汚染は相当長い間続くのであろう」というのである。
また、中には50年以上、一切の生物は生存できないであろう。そして一本の草も木も育たないであろう。」等というものもあった。
それは、人類が未だ経験したことのないものであるから、充分な警戒は必要であっただろう。
原子爆弾が爆発時に直接発する強烈な衝撃波や放射線は言うに及ばず、本来放射線を出さないものでも、強烈な放射線の照射を受けると放射線を出すようになる。こうして発生する第二次放射線といえども、これを多量に浴びると生命体細胞が破壊されて、外面では火傷、深部では骨髄が破壊される。これは血液の癌とも言われる「白血病」を引き起こし、死を招くのである。
多くの被災者・被爆者たちの症状が、次々に報道され始める。始めは頭髪が抜ける。それから皮膚が、そして次々と症状が重くなって行くと言う。
幸い私は、土蔵のような部屋で被爆したので、原爆からの直接の放射線は余り大量には受けていなかったと思われるが、その後に受けた第二次放射線の量は決して少ないとは言えない。
毎朝、頭の髪を引っ張ってみては、状況を確認し、ホッとする。
他人が見れば滑稽なことでもあり、70年も経過した今となれば笑い話で済むことかもしれないが、当人にとっては「生きられるか、生きられないか」の瀬戸際の深刻な問題であった。下痢や頭痛そして微熱が続き憂鬱な毎日であった。しかも、それが半年近くも続いた。
その間に世情は激変して行った。
人々はその日を生きるためだけに、食料の確保に血眼になり、それに死力を尽くしていた。それでも餓死する人さえ現れた。
そして巷には、職を失った人々が氾濫し、主要都市中心駅周辺では、食物も住居もない孤児たちが放浪していた。
占領軍からは『戦争犯罪』を裁かれ、この国の行く方は定かではなかった。
世界の数え切れない人々が、この大戦の被害を被り、或いは命を失い、住家を迫われ、家族が離散した。この戦争という悲惨な犠牲の上に立って、広く「恒久平和」が切望されるようになったが、第二次世界大戦が終結してからも、長い間地球上では「戦争」は止まなかった。
人間が武器をとって人間を殺し合うという、この忌まわしい「戦争」という事柄を。心から「戦争反対」を叫び訴えることは大切だが、ただ単にそれを叫んでいるだけでは、戦争は無くならないのではないだろうか。
戦争を無くするためには、その本質を社会的科学的に見極め、多くの人々が協力と共同してつとめなければならない。しかもそれは、長い長い年月にわたる忍耐強い営みを必要とするものであろう。
半世紀以上もの長い間、「戦争の無い世界」のために「若者を教え育てる」という仕事にたずさわってきたが、その「未来に生きる若者達の力」にこそ期待している。
そして、毎年夏が来る度に、必ず思い出すのはあの原爆を浴びた時の情景であり、願うのは「核兵器の廃絶」と「世界の恒久平和」とである。
今は、戦禍によって若い命を奪われた人々のご冥福を祈りながら、この稿を終わる。
(1995年8月)
この「被爆体験記」は、「文末」にもありますように、たまたま広島で原子爆弾に会ってから50年目に当る「1995年」に執筆し、西舞鶴高等学校通信制卒業生有志者の同好誌「新彩雲」に投稿、その「第21号」から「第23号」までに掲載されたものです。
それから、さらに19年の歳月が流れ去った今、直接被爆を体験された人たちも高齢化して、その記憶も薄れ、急速に失われつつあります。自らの体験を基に「世界平和」と「核兵器の廃絶」を訴え続ける「語り部(かたりべ)」と呼ばれる方たちも、例外無く次々とこの世を去っていかれます。
筆者も「語り部」の一人として、多数回その「体験談」を人前で述べて参りましたが、齢も90歳を過ぎて病気も抱え、残念ながらそれもかなわず、せめて、このような「小冊子」にさせて頂いたものです。
世界の平和と、地球上の全生物の繁栄を願いつつ。
(2015年年8月)