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●被爆体験の継承 37

親父(おやじ)の原爆体験と私の思い

石角(いしずみ) 敏明さん(被爆2世)

2015年12月25日

―ある日記から―

○八時頃であった。突如異様な光と共に大音響を発したと思った瞬間、広島市は火焔に包まれていた。敵の新戦法兵器に依る攻撃だ。草津町にて避難民救護に従事せるも悲惨なる避難民の姿を見て敵愾心弥が上にも上れり。これが戦争の実相だ。この仇は我々の手で必ず撃ちとらねばならない。只憤慨しても駄目だ。大いに励むことだ。(昭和20年8月6日 晴天)

○昨夜も避難民の救護。今日もまた同じ作業に従事せり。吾々軍人が倒れるは本懐なるも戦争に直接関係のない一般国民に対し斯かる爆撃を加えたる敵を一日も早く地球上より抹殺せねばならない。斬る事は本土決戦に於いては必ず起こり得る事だ。指揮官となりたる者は斬る場合目先の事ばかりに気をとられず大高を見ることが必要なり。(昭和20年8月7日 晴天)

○広島に於ける原爆爆弾投下一周年だ。昨年の今日の事を思えば、身の毛がたつ。……  (昭和21年8月6日)

―親父について―

 私の父は、京都府の北部に位置する「綾部市」の出身です。(福留しなさんと同郷)大正13年生まれ、3人兄弟の長男で、小学3年生の時、父親を亡くし、弟2人の父親役をやらされた、とよく口にしておりました。

 軍隊に「何年に、入隊したのか?」等は、全く話してくれませんでしたが、所属部隊は、広島に本部があった「陸軍船舶司令部」です。そして、船舶砲兵教導隊を卒業する直前に終戦となった。

 昭和19年6月に一度、フィリピンに派遣されおり、その時の思い出として「ヤシの実の汁がおいしかった。現地の人は、上手にヤシの実を割って、その汁を飲ませてくれた」という話をしてくれましたが、その他戦争の話は一切しませんでした。

陸軍船舶司令部旧蹟(広島市南区宇品中央公園)
陸軍船舶司令部旧蹟(広島市南区宇品中央公園)

 父の軍人像は、田舎の人の話、あるいは父から断片的に聞いた話を総合すると、以下のようでしょうか?周囲からみると、「大変、怖そうに見えた。腰に短刀を下げて、シャキッとして歩いておられた」と言われ、8月15日の終戦の日には、夕方、綾部警察署まで押しかけ(家から12kmくらいある)、署長さんに「日本が負けたという噂が飛んでいるようだが、これは全くのデタラメ・嘘である。敵の謀略であり、厳重に取り締まるように」と談判をしたらしい。まだ22歳の青年が、警察署長のところまで、押し掛けたのである。軍国主義青年そのままである。

 8月15日、綾部にいたのは、「特攻隊員として出撃するので、最後のお別れを」ということで帰省をしていたらしい。その後、広島の部隊に帰るのに大変、苦労をした。戦争中は、広島から帰ってくるときは優遇されたのに、と話をしていたのを思い出します。

―親父の被爆―

 私が父から聞いた話を書く前に、父親自身が残した文章をまずここに紹介させて頂きます。

書き尽くせぬ被爆者の救護の日々

 「小休止」本日の演習、爆雷実験演習地の草津海岸に到着、武装を解いて、松林で休息していた時である。朝から警戒警報、空襲警報が発令され、それぞれ解除された後だけに皆のんびりと腰を下ろして休んでいた。

 その時である。広島市内の方で“ピカッツ”と光ったのか、“ドーン”と大きな爆発音のような音がして光ったのか、皆、思わず地に伏せていた。今、光ったのは何だったのか、大きな爆発音がしたがあれは何だったのか。石油タンクでも爆発したのでは等ささやいている。私はその時、“ブーン”と蚊の鳴くような音を耳にする。海上を見れば、かもめがバタバタとして飛んでいる。

 隊長が近くの丘の上へ上り、双眼鏡で広島の方を見ると一面火の海とのこと。「理由は何かわからないが異常事態である。本日の演習は中止する。各個でそれぞれ部隊に帰れ」とのこと。

 早速、電車で帰るべく駅まで行ったが「停電で電車は動いていません」という。仕方がない、広島方面に行く自動車を止めて乗り込もうとしたが、どの自動車も救援に行く人が一杯乗り込んでいて、如何に軍人といえども、その人を降ろして乗りこむことも出来ない。仕方なく歩いて部隊へ向かう。草津付近まで行くと、道路は倒壊して飛び散った瓦、硝子、家屋の破片等で通行不可である。部隊へ帰るまで道路の清掃に当たれとのこと。

 取りあえず、道路の邪魔物の除去作業に従事する。それが終わると救護隊本部が国民学校にあるので被災者の救助作業に従事せよとのこと。救助作業といっても、身体中「ずるむけ」の人、火傷で身体の前後もわからないような人、どのようにすればよいのか。軍医は一人、薬はない。「取り敢えず、火傷の手当てをせよ」種油ではないかと思われる油をびんに入れて、筆一本貰い、これで火傷のところに塗れということ。「早くしてくれ」という長い行列の患者さん。しかし、こちらも人数に制限がある。「わしは一里行けば親類があるのでそこへ行く」と言って、とぼとぼ歩き出す人。

 治療の終った人も終らない人も、暑い日中での火傷、「水をくれ、水をくれ」と叫ぶ。軍医は「水は飲ますな、傷が治るのが遅くなる」「この人は息が絶えるだろうという人は素人でもわかる。その人には末期の水を与えよ」と言う。薬を塗り終わった人は、学校の廊下や教室に連れて行って寝かせる。しかし身体中、火傷でずるむけの人が、梱包用の荒むしろの上に横たわれと寝かせるのであるが、果たして寝られるのか、今思えば言葉もない。

 夜になっても電気は勿論つかない。ローソクを頼りに教室、廊下を見廻るが、「水を水をくれ」「兵隊さん、何でこのような目にあうのか」「この仇を討って下さい」思い思いの言葉を叫んでいるがどうしようもない。食事といえば軍隊の非常食の乾パン、のどがカラカラの上に水もない。そんなものが食べられるか。一晩、不寝番で学校内を見廻る。

 朝になってみると多くの人が息絶えていた。校庭の防空用水槽にも何人かが頭を突っ込んで息絶えていた。水欲しさに頭を突っ込んで息絶えたのだろう。ご冥福を祈る間もなく、死体の収容作業、着衣等何か特徴のある物、その他何でも気のついたことは記帳せよとのこと。急ごしらえの担架を作り、校庭に並べていく。心当たりの方が次々と引き取りや問い合わせにみえる。
 引き取り手がなく、腐敗のはげしい人から順次、露天で火葬に附す。でも燃えるはずがない。三日間、火葬作業に明け暮れる。

 「原子爆弾」という新型爆弾の名を聞いたのは後のこと、いくらでも当時のことが思い出されてくるが、到底書き尽くすことは出来ない。
 今後、七十年には草も木も生えないと聞かされた。今の広島の発展は本当に、夢のようである。(被爆50周年祈念誌)

 投下がもう三十分早ければ、爆心地あたりにいたかもしれない。被爆後、道路の障害物の除去や被災者の救助に携わった。防火水槽に顔を突っ込んで死んでいる人の姿を目のあたりにした。死臭が鼻につき、三日間くらい食事がのどを通らなかった。終戦の半年ほど後に原因不明の熱で一週間寝込んだが、その後は被爆に影響と思われる病気はしていない。当時は兵隊に行って死ぬのが当然のような状態だった。でも、よくあれだけの徹底した教育をしたなと思う。(被爆50年朝日新聞)

 文章は字数制限があったのか、わりとうまくまとめられている感じがするが、以下に私が父から聞いたことを箇条書きしてみたい。ただ、父親は、殆ど「原爆の被災状況」は話をしませんでした。母親・兄弟に聞いても、「話を聞いた覚えがほとんどない」と言います。

 私も「断片的」に聞いただけで、順序だてて聞いたことはない。
(上記の手記と重複する部分があると思いますが、お読み下さい)


■あの朝、訓練のために海岸まで走って行き休息していた時、突然、大きな振動と共に砂が巻き上げられ降ってきた。すぐに市内に入ろうと車を止めて、乗せてくれるように頼んだが、誰もが「申し訳ありません、如何に兵隊さんの頼みでも、今日は乗せられません」と断られ、走って市内まで帰った。しかしその後、どんな惨状を目にしたかは、断片的しか話をしてくれませんでした。

■被爆者が収容されている学校の中を、腰に「水筒」をさげ手にお猪口をもって軍医と一緒に廻った。被爆者が、ズボンの裾を掴んで「兵隊さん、水をください」「一口、水を飲ませてほしい」と言われるのだが、軍医が、首を横に振られたときは、「申し訳ない、水はあげられない」と言って、強引に手を払いのけたが、本当につらいことをした。しかし軍医が、首を縦に振られた時は、水をお猪口に入れて、飲ませてあげるのだが、一口飲むか飲まないうちに亡くなられてしまった。水を飲ませてもらえなかった被爆者からみれば、我々は鬼に見えたかもしれないが、水を飲ませてあげると、死んでしまうことがわかっているから、水をあげられなかったが、そのことを説明することもできず、手を払いのける事しかできなかった。水を飲ませてあげることが出来ないことも辛かったが、水を少し飲ませてあげるだけで、直ぐに亡くなられるのを見るのはもっと辛かった。

■市内の川の堤防で、亡くなられた人の亡骸を積み上げて火葬をした。食事をとろうとしても匂いがしみついて、全くできなった。部下の人たちにも「体が大事だから、きちんと食事をとるように」と指示をだし、自分も無理やり口に放り込んだが、全く体が受け付けてくれず、殆ど吐いてしまった。

■遠い空を眺めるような顔をして「ある一人の被爆者を避難所からその人の家があったであろうと思われる場所まで送って行ったが、その人がどうされただろう、大変気になる。そして、あの場所はどうなったのかな?一度訪ねてみたい」と話をしていました。その後、私は家を離れたため、それが実現できたどうかはわかりませんが、父の死後、原爆慰霊碑に参拝したとき母親から「京都原爆被災者の会」の人たちと一緒に広島を訪問したと聞きました。 少しは希望がかなったのかな、と思います。

父が被爆者救護にあたった草津小学校(現在)
父が被爆者救護にあたった草津小学校(現在)
―父への想い・思い―

■田舎の家に「父の日記」がある。1934年(昭和9年)から2006年迄の記録である。ただし「昭和20年」の日記だけ無い。入院中も病室に「日記」だけは持ち込み書いていた父自慢の記録である。よく近所の人が「昨年の今日の天気は?」とか、「この行事、何してました」と聞きに来られるくらい有名な日記である。軍隊にいるときも「訓練の後、便所の中で書き続けた」と話をしていました。

 そして最初に紹介させて頂きました、あの日・次の日のことも書いておりましたが、その後は(昭和20年度は)「何も書いておりません」空白のページが存在するだけです。(映画『アオギリにたくして』でも、主人公がその後半年間、何も書かなかった、というシーンをみて、ビックリしました。父親と全く同じであったので)

 そして昭和21年1月1日から、また日記を書き始めており、8月6日には上記のようなことを一行だけ書いて、あとは農作業の事をかいています。

 この20年の日記は、広島の「原爆資料館」に寄贈させて頂きました。「昨年一年間、資料館に寄せられた資料展示会」で、展示していただき、皆さんに少しでも「見て・読んで」頂いて、よかったかな、と思っております。家には「その年の日記」だけが有りませんが、親父も納得してくれていると、思っています。

■私の家は、当時としては珍しい「兼業農家」でした。そのため、日曜日になると、手伝いをさせられました。その時、水筒にお茶を入れてもって行き、休憩時に飲んでおりました。その時、いつも不思議に感じていたのが、父親が「殆ど、そのお茶を飲みませんでした」。体は大きいのに、そんなに喉が渇いていないのかな?と理解をしておりましたが、今思えば「お茶を飲みたくなかった、のではなく飲めなかったのでは」と思います。その水筒は父が軍隊で使用していたもので、救護所でも使用していたものであったのでは、と思っています。

■大学生の頃、あるいは社会人になってからも、色々な「被爆者」が体験談をお話しになっている記事や本を読むうちに、「何故、うちの親父は話をしないの?」と不思議にというか少し物足りなさを感じるようになりました。帰省時に、読んだ本を父に見せ、話を聞き出そうとするのですが、殆ど応えてくれませんでした。また、日記をあれほどキチンと書き、他にも「手紙・はがき」は丁寧に出し、返送する親父が、「被爆体験」については、殆ど何も書いていないことに、すこし不満をもっておりました。(被災50年の手記だけです)

 最近、発行された『原爆体験と戦後日本』を読んで、少しは親父の気持ちが理解というか、そのような気持ちを持ち続けていたのか、とわかったような気持ちでおりますが。

 父は、自分は直接、原爆の被害にあっていない(この表現が適切かどうかわかりませんが)。

 しかし、大変な目にあった人たちを何とかしてあげたい・何とかしないといけない、という思いで救助活動等に取り組んだと思います。しかし、何も出来ない無力感。そして、それこそ「地獄」のような惨状を目にしたのではないでしょうか。それだけに「思い出したくない、しかし、誰かに言わなくてはいけない・伝えなくてはいけない」という思いは強く持っていたと思います。書くのがいやで書かなかったのではなく、書けなかった、と理解をしています。

■親父が亡くなって、7年がたちます。この間、福島原発事故が起こりました。あの事故を見ることなく「亡くなった」のは、よかったのかな、と思ったりもしています(被災者の方・親父には申し訳ないですが)。あのがれきの山・そして放射能の話、どれをとっても「広島原爆」と同じことが起こっています。辛い思い出を甦ることがなかっただけ、息子としては幸い?だったかも知れません。

 家では厳しい父親で、よく叱られました。「何でこんなことで怒られるんや」と反発したこともあります。また「お酒」が大好きで、田舎では「博さん(父の名前)のお礼は酒一本、持って行っとけばよい」と言われるくらい有名でした。原爆の話は、そのお酒が少し入った時に、ぽつりぽつりと話してくれるくらいで、戦争体験も含めて殆ど話をしませんでした。

■新聞には「被爆の影響と思われる病気はしていない」と書いていますが、この後、色々病気を多発しました。ただ入院中も「しんどい・痛い」という事は、全く言いませんでした。看護婦さんも「石角さんは、一度もしんどい、という事を言われませんね。しんどいはずなんですが」と言われておりましたが、その時、口に出して言った言葉が「あの原爆にあわれた人たちのことを思えば、痛いこと・辛いことは何でもありません」でした。

―最後に―

■残念というか、親父には、申し訳なかった事は、「あの広島がどこまで復興したか、見に行きたい」と言っており、原爆被災者の会の方々とは、訪問したようですが、一緒に行けなかったことです。亡くなって、母親・兄弟・私の子ども、そして孫と4世代で「原爆慰霊碑」にお参りしたことで、少しは許してもらえるかな、と思っております。

■2015年7月発行『原爆と戦った特攻兵』(角川書店)が「陸軍船舶隊の特攻兵」の事を扱っている。広島での救助活動・原爆の惨状・隊員回想記等が書かれているが、親父もこのような状況下に置かれ、こんな気持ちで救助活動をしていたのだ、と少し親父の気持ちを理解した気になった。ただ、親父にこの本を読んだ感想・気持ちを聞きたかった、という思いは残りますが。

広島平和記念館資料館 所蔵・提供、修養日誌
広島平和記念館資料館 所蔵・提供/修養日誌
展示説明文

寄贈/石角 敏明氏 (いしずみ としあき)

寄贈者の父・石角博(いしずみ ひろし)さん(当時22歳)が記した1945年(昭和20年)2月24日から被爆翌日の8月7日までの日記です。陸軍船舶司令部に所属していた博さんは、広島市郊外で演習中に被爆しました。その後、草津の国民学校で被爆者の救援活動に従事し、多くの遺体を火葬しました。8月8日以降、日記は途絶えています。

八月六日 月曜日 晴天
八時頃であった 突如異様な光と共に大音響を発したと思った瞬間 広島市は火焔に包まれていた。敵の新戦法新兵器に依る攻撃だ 草津町に於て避難民救護に従事せるも悲惨なる避難民の姿を見て敵愾心弥が上にも上れり これが戦争の実相だ この仇は吾々の手で必ず撃ちとらねばならない 而し只憤慨しても駄目だ 大いに励むことだ

八月七日 火曜日 晴天
昨夜も避難民の救護 今日も又同じ作業に従事せり 吾々軍人が倒れるは本懐なるも戦争に直接関係のない一般国民に対し斯る爆撃を加えたる敵を一日も早く地球上より抹殺せねばならない
斯る事は本土決戦に於いては必ず起こり得る事だ 指揮官となりたる者は斯る場合目先の事ばかりに気をとられず大高を見ることが必要なり

息子・石角敏明さんの手紙より(要約):
 父は家族にも「原爆体験」についてほとんど話をしませんでした。病院で意識が不鮮明になるまで1日も欠かさず日記を書くことにこだわっていた父が、昭和20年8月8日以降全く何も書いていない、というのは大変な体験をしたのだと想像できます。
 日記を再開したのは昭和21年1月1日でした。昭和21年8月6日の日記には、「1年前のことを思い出すと、身の毛もよだつ」としか書いておりません。私が父から聞いた話も、「被爆者の遺体を何度も荼毘にふした。被爆者の救援の際「水筒」と「さかずき」をもって、医者の指示に従って水をあげた。水をあげなかった人が足首にすがりつくようにしながら『兵隊さん、私にも水を下さい』と言われ、それを断るのが非常に辛かった」というものでした。

爆心地と広島市の地図

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