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●被爆体験の継承 38

黒い雨

惠藤(えとう)宰司さん

惠藤宰司さんに寄せていただいた手記

惠藤(えとう)さん

 私は、広烏県の小さな村で7人兄弟(姉妹)の3男として生れました。

 昭和20年8月6日は早朝から両親と私(5歳)妹(2歳)が田んぼに出かけ、両親が前屈みになって草取りを始めたので、私は妹の面倒を見ながら、道端で遊んでいました。そうしたら上空で突然「ピカッ」と稲妻のように光り、その直後「ドオーン」と耳を裂くような大爆音がしました。音の方向を眺めていましたら、小高い山向こうの広島市街付近からドス黒い煙りがモクモモクと舞い上がり、上空全体が段々と暗くなりました。

 地上も薄暗くなり始め段々と暗闇になった時、大粒の雨が降り全身が(びしょ濡れ)になりました。その雨は(墨汁)のような黒色でした。両親に連れられ急いで近くの農器具小屋へ、逃げ込みました。母親の顔が「ドロンコ」だらけになっていたので事情を聞くと、前屈みで仕事中、大爆音でびっくりして「ドロンコ」に顔を突っ込んだそうです。親子で顔を見合わせ大笑いをしました。

 雨宿りをしていたら、近所の人が小屋の前に集まり、興奮して大きな声でガヤガヤと話し始めました。あの大爆音は広島の街近くに大きな爆弾が落ちたのと違うか?あの爆弾にやられたら人や建物は「メチャクチャ」になり、焼け野原になっていると思う。わしらは、汚い雨に濡れただけで何も被害が無くて良かったのーと言っていました。また、他の人があの爆弾は(ピカドン)やでと得意そうに喋っておられたことを記憶しております。多くの人が原爆を(ピカドン)と感じたのでしょう。普段の言葉になりました。雨も止み、周辺も明るくなってきたので、農作業を中止して帰宅しましたら近所の人が集まり(ピカドン)の事で大騒ぎをしていました。

 我が家の生活用水は家から約500m離れた青天井の(共同水汲み場)からバケツで家まで運び、水瓶に保管し、何の不安も感じることなく、ドス黒い雨の混入した水を飲み、そして野菜・穀物等食べ続けたのです。その当時は黒い雨に恐ろしい放射能物質が含まれているとは誰も知らなかったのです。

 私は18歳で京都に就職しました。その後、私を頼ってきた(妹・弟)が京都に住むようになって所帯を持ち、元気で活動をしておりました。ところが平成20年の春、病気知らずの弟が歯痛を訴え、歯科医で治療をしましたが段々と口の開閉が困難になったので大きな病院で受診し、その結果、全身が癌細胞に犯され、手の施しようがないとの事でした。本人の希望で大手術を3度もしましたが甲斐もなく62歳で他界しました。医師の説明によりますと、このような症状は珍しく今回で2度目だそうです。弟は被爆時、母親の胎内にいたので多分胎内被爆症状と思われます。何故ならば広島の姉の話によりますと、弟の地元同級生が胎内被爆で何人か他界されたそうです。

 私は現在、幾つかの病気で通院しておりますが、黒い雨による弟のような被爆症状が出るのではないかと心配しております。また、子どもや孫に被爆障害が出ないことを祈っております。

 我が国は(広島、長崎の原爆)(ビキニの水爆実験)(福島原発)など世界に例のない被爆体験国なのです。今後、積極的に全世界に核兵器の廃絶を訴え続けなければならないと思います。

                    以上


「黒い雨」降雨地域図

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