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●被爆体験の継承 40

澄み切った7つの川が死者で覆い尽された日

今津 功 さん

2016年1月19日(火)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

今津さん
■澄み渡っていた広島の川

 私は昭和6年(1931年)の12月13日に富山県の高岡市で生まれたんですよ。満州事変発生の年ですね。親父(おやじ)が最初内務省に勤めていて全国を転勤で回ってたんですが、その後民間会社に変わって、私が生まれた時は高岡電灯という、今でいう電力会社にいたんですね。今の電力会社は終戦の頃は配電会社といってましたが、さらにその前は電灯会社と言った時代もあったんですよ。そんなことで私の兄弟はみんな生まれた所が違うんですよ。広島生まれ、神戸生まれ、高岡生まれ、というようにね。

昭和10年・4歳の頃
昭和10年・4歳の頃

 私が10歳の時、昭和17年(1942年)に家族で広島に引っ越してきたんです。高岡はすごい豪雪地帯で寒い所でしたからね、暖かいところへということだったのか、親父の勤め先が中国配電(今の中国電力)に変ったんですよ。中国配電の場所は今も変わらずにある広島市の市役所の近くでしたね。

 戦前の、原爆にやられる前の広島の街の様子、今も頭の中にはっきりと残ってるんですよ。広島に引っ越して初めて来た日、鷹野橋から自宅のある舟入川口町までタクシーに乗って行ったんですけど、車から見たあの時の街の情景、今でも鮮明に覚えてますよ。今は全然様変わりしましたけどね。

 当時の広島は要塞地帯だから海では泳げなかったんですよ。禁止されてたんです。だから川でみんな泳いでました。川のあちこちに飛び込み台作って。あの頃の川はゴミは浮いてても、水はきれいで透き通って見えるんですよ。今はゴミはないけど水は汚れてますよね。それから川が綺麗だから、みんな橋の欄干から釣りしてたんです。サユリを釣ってましたね。あの光景は忘れられませんね。もうみんなが竿を川の上に出してね。今は川が汚れてしまって、ボラぐらいですかねいるのは。

 私たち家族が住んでたのは舟入川口町ですが、爆心地から直線距離で丁度2kmになる位の所ですよ。広島の街が原爆で全焼したのは爆心地からだいたい2km範囲と言われてますけど、丁度私の家が全部焼けて、ところが少し離れた、数十メートル先の家は焼けてないんですよ。

水のみやこ広島 現在の京橋川
水のみやこ広島 現在の京橋川

 私の家族は両親と、長兄、次兄、姉、私、妹の7人家族やったんです。この内長兄は特攻隊で、昭和19年10月12日〜16日の台湾沖航空戦に出撃して、13日にアメリカ軍に撃墜されて戦死してました。

 原爆が落とされた日、親父はたまたま北陸方面に出張中で、原爆に遭ってないんですよ。次兄はこの頃学徒動員で三菱造船所に通ってたんですけど、この日は休んで病気の母親の薬を取りに、翠(みどり)町にある県病院に行ってたんですね。爆心地からは3kmほどの距離ですからこちらも助かったんです。姉はもう結婚してて、山口県の大島郡の方へ嫁いでました。3歳下の妹は小学校高学年で田舎に疎開してたんです。私はこの時13歳ですけど、学徒動員で東洋製罐(せいかん)という会社の西天満町にあった工場に行ってたんです。人間魚雷を作る工場ですよ。

 ですから原爆が落ちた時家にいたのは母親だけだったんです。この頃母は持病の胆石で苦しんでて、その時は2階で寝てたんですよ。原爆が落ちた時は箪笥の横で寝てて、家がつぶれたけど、その箪笥が屋根を突き破るような格好になって、その破れた屋根から外へ脱出することができて、奇跡的に助かってるんですわ。ですけど母は原爆で背骨をやられて痛めてましてね、腰の骨が異常になってたんですよ。後になってですが原爆症認定被爆者にもなってました。

■爆発!死を覚悟、そして気を失って

 私が学徒動員で行かされてた東洋製罐の工場はその頃、己斐の方に防空用の穴を掘ってて、最初私らはそこへ工作機械を運び込む作業やらされてたんですわ。己斐の山に大きな洞窟のようなものを作ってね、そこへ工場を移転すべく準備してて、私らは工作機械を運搬する準備してました。それが終わって8月の初め頃から西天満町の工場に戻って、人間魚雷の溶接部にやすりをかける訓練をしてたんですよ。

 8月6日の朝は、工場の2階の休憩室で休んでて、8時になって始業のベルが鳴ったんで工場の建物の外に付けてあった階段を降りようとして、上から2段目位のところに足をかけた時、(原爆に)バンッ!っとやられたんですよ。あの時は、瞬間工場が爆発したと思ったんです。

 よく広島の人はピカドンって言うじゃないですか。ところがね、ピカもドンもないんですわ。もう一瞬、工場が爆発した、(自分は)あっ死んだと思った、そして気を失ったんです。ただ、工場が爆発したと思った瞬間のイメージの中に、なんか鉄粉のようなものがパァーっと降りかかってきた、そんな記憶はあるんですけどね。

 いまだにどの位の時間意識を失っていたのか分からんのですよ。原爆の爆風に吹き飛ばされて、工場と前の道路との間に空き地があって、その空き地の中に井戸があって、その井戸の縁に挟まれてたんです。私が気付いた時には足元からもうボッボッと火が出てたんですよ。普通建物が倒れた時には埃が立つじゃないですか。そんな埃はまったくなかったんです。だからどれ位の時間気を失っていたのかまったく分からんのです。

 とにかく気付いた時には、額から唇にかけてスゥーッと一本切り傷があった程度で他の外傷はほとんどありませんでした。ただ歯はやられてました。グラグラになってね。何にぶつかったのか分からないんですけどね。奇跡的に自分は助かったんですけど、その時同級生の一人が全身火傷で工場の方でポカーンとして突っ立ってたのを覚えてますわ。それから山中高等女学校の生徒も同じ工場に学徒動員で来てたんですけど、そこの女学生が一人だけ工場の中にポツーンと立ってたのも覚えてますわ。可哀そうに、額が完全に割れてましてね。あの同級生も、あの女学校の生徒もあのまま助かることはなかったんだと思いますね。

■猛火に追われて

 とにかく一旦家に帰ろうと思って西天満町にあった工場から東の方、土橋(どばし)方面へ向かったんです。ところが100mも行かないうちに火柱がすごいことになってて、道路なんかとても行けたもんじゃない。あの光景は火山の噴火と同じような、火の海なんですよ。しようがないから火柱とは反対の方向、西へ、己斐(こい)の方へ逃げたんですわ。

 逃げる途中橋を渡るんですが、橋の下の川はもうその頃から遺体だらけでしたわ。物凄かったですよ。それから逃げる途中でも、家が燃えてバターン、バターンと倒れてくるんですよ。その辺りは朝鮮の人もたくさん住んでる所で、「アイゴー、アイゴー」って泣き声が聞こえてくるんですわ。そんな中を抜けて己斐まで必死に逃げたんですわ。

 逃げたのはいいんですが、これもまた運が良かったんですけど、己斐の山に逃げて、疲れたので小屋に入って休んでる時に黒い雨が降ってきたんですよ。そんな長くは降らなかった、記憶としては30分位だったと思いますけど。小屋に居たので黒い雨にあたらずに済んだんです。まさに黒い雨でしたよ。

 逃げている内に腹が減ってくるじゃないですか。己斐の山には無花果(いちじく)がいっぱいあったんですけど、まだ熟した時期じゃないので食べれなかったんですね。お陰で黒い雨の放射能を浴びた無花果も口にしなくて済んだんですけどね。

 しばらくして己斐の山から舟入川口町の方を見ると、目の錯覚で焼けていないように見えたんですよ。それで観音から三菱の工場の方を回って江波の方から帰ろうと思って行ったんですけど、とんでもない。舟入はもう火の玉になっているわけですわ。それでまた山の方へ引き返したんです。昔あった福島川とか山手川は今は河川改修されて太田川放水路になってますが、昔はあの川は干潮の時には歩いて渡れたんですよ。

 逃げてる途中に、知らないおばさんから「舟入川口町の人の避難先は五日市だよ」と教えられて、五日市に向かったんです。途中、井ノ口・宮島線の電停で警察官の人から救護所で治療して行けと言われて、治療と言っても赤チンだけ塗ってもらって、それからバスに乗って五日市の役場に辿り着いたんです。もう夕方でしたわ。罹災証明書を発行してもらって、鈴峰(すずがみね)の電停近くの農家が割り当てられて、そこで3日間お世話になったんです。

■生きてる人も死んでる人も電車道に並べられ

 3日ほど経ってからやっと自宅のある舟入川口町に帰り着いたんです。家はもう完全な丸焼けでした。あの焼け方というのは普通の火災では見られないんですよ。というのは、驚いたのは何一つ残らない、灰も残らないほどの焼け方なんです。見事なもんです。ただ台所にあったお釜だけが助かってましたが、それだけでした。

 とにかくあの光景は普通の火災では見られない。普通の火災だったら消防車が来て、消火して沈火させますね。でも原爆の時は誰も消火活動しないわけですから、ただ燃えるにまかせて。それでかなと思います。とにかくひどかったです。完全にもう何もない。我が家には日本刀も何本かあったんですけど、探してみたけどまったくなかった。それぐらいきれいに燃えてたんですよ。

 私の家は2軒長屋だったんですけど、隣の人は陸軍の学校の先生されてて、その奥さんが1階にいて焼け死んでました。それを近所の人たちが葬ってたんです。

 広島の路面電車の江波線は戦争中にできた新しい路線だったんですね。線路の周りの道路はまだ舗装されてなかった。私が広島に引っ越してきた当時、江波から土橋まで舟入の各町をずっと抜ける道路は“十二間道路”といってアカシヤ並木のとても綺麗な舗装された道路だったんですよ。それが電車を走らせるためにアスファルトを削って、そのまま舗装されないままになってたんですね。その舗装されてない道路の上にね、原爆でやられた人たちを、まだ生きてる人も、死んでる人も、全部そこに並べたんですよ。ずらーっとね。少なくとも舟入川口町から本町あたりまでは続いてたと思いますわ。生きてるかも死んでるかも分からない人たちをね。

 しかも原爆落ちてまだ3日しか経ってないのに、人間の水膨れのところに蛆虫がいっぱい湧いてるんですよ。蛆虫ってすごいなあと思いましたね。

現在の路面電車江波線と舟入川口町電停
現在の路面電車江波線と舟入川口町電停

 舟入川口町まで帰ってみたけど家族は誰一人いませんでした。近所の人から、姉の嫁ぎ先の山口県に疎開したらしいと聞いて、そこへ向かうことにしたんですよ。あの時は近所の人たちからお金の援助もしてもらったりして助けられましたね。

 姉は山口県の周防大島町外入(とのにゅう)という所に嫁いでたんですわ。夫が周東病院の診療所の医師だったんですよ。そこに辿りついてみると、実は両親も、兄貴も、妹もみんな揃ってるんですよ。私だけがもう死んだもんとばかり思われててね、行ってみると、ビックリされたんですよ。私たち家族はこの姉の嫁ぎ先でそれから半年はお世話になりました。

 地元の安下庄(あげのしょう)中学に転校することになって半年間は通いました。原爆にあった直後のこの頃、私の体調はひどかったんですよ。歩行するのも困難なぐらい体が参ってましてね。学校まで結構距離もあって、通学は大変だったんです。下痢もきつかったです。それからこの田舎にも被爆した人が結構いて、紫斑の出てる人や、髪の毛の抜ける人たちが、何人も診療所にも来てましたわ。

■終戦直後の広島

 戦争が終わった翌年の昭和21年3月に広島に帰って来たんです。最初は近所の焼け残った家に間借りさせてもらって何ヶ月か過ごさせてもらいました。そんなところから広島での私たちの生活は始まったんです。私はまた広島の中学に転校になって、広島二中(現在の観音小学校の前身)に通いました。

 ところが学校に通いながら自分で運動具店の店もやり始めたんですよ。終戦直後、福屋百貨店が建ってた辺りに闇市があって、そこでバラックの店をやってたんです。私の叔父が上海から引き揚げてきて松山市で運動具店やってたんで、そういう関係もありました。

 当時言われましたよ、「あんた、広島で一番若い商売人や」と。あの頃私がお世話になったスポーツ用品の卸屋さんは今では日本でもトップクラスの運動具店になってますわ。広島運動具用品株式会社って言いましたけど、今は大阪で、ヒロウンと言って大きな会社になってますね。

 廃墟になった広島の街も、戦後の広島の復興過程もね、この目でずーっと見てきたんですよ。原爆の後廃墟の中に立ち残ってたビルもはっきりと覚えてますよ。中国新聞社のビルとか、芸備銀行とか、市役所とか、中国電力とか。市内を見渡しても残ってた建物って10棟もなかったですね。福屋百貨店が進駐軍の宿舎になってた時代もあるんですよ。

 占領下、広島にはどこの国の人たちが進駐してたか、意外と知られてないんじゃないですかね。英連邦軍といって、インド兵とか、スコットランド兵とか、オーストラリア、ニュージーランドとかでしたよ。服装もマチマチでね、インド兵はターバン巻いてね。オーストラリアとかニュージーランドとかは英語の発音がものすごく癖があって、アメリカ兵とは全然違いましたね。アメリカ兵もいたんですけどあんまり目立たなかったですね。

 そんなこと覚えてる人、もう少なくなってるんでしょうね。

被爆建物「福屋」の説明板と現在の福屋
被爆建物「福屋」の説明板と現在の福屋
■広島、京都で私立校教職員のために力を尽くす

 私は高校は舟入高校を卒業して、その後は親からの仕送りなしで進学するため、京都の立命館大学の短大に入ったんです。夜間部です。短大ですから2年で卒業して、当時、短大卒は高校教師の仮免許がとれましたから、同大学の経済学部3年に編入学して試験の時だけ京都まで行って、卒業するまで3年かかりました。

 それをもって広島女子商業高等学校という私学の高校に就職したんです。昭和28年(1953年)、21歳で、商業科の先生になったんです。広島女子商業高等学校は南段原町にあった学校ですが、今は校名も変わって、広島翔陽高校という名前になって、安芸郡の坂町に移転してると思います。この高校で昭和39年(1964年)まで11年間勤めたんです。

 あの頃広島女子商業高校では毎年10人もの先生が退職して、また新しい人が入れ替わるという、とても普通ではない状況が続いてたんですよ。何故かというと待遇があまりにひどくてね、理事者の態度もひどかったんですわ。私らの給料の手取りが4000円、あの頃背広一着12000円の時代で、トヨタの車が80万円。車買おうと思ったら4000円の給料では飲まず食わずで20年間働かなあかん。教師しながら生徒にもの売ったりしてる先生もいましたわ。それ位賃金が低い、待遇が悪かったんですね。広島女子商業だけじゃなかったと思いますが、特に広島女子商業はひどかったんですわ。

 これはみんなを組織せなあかん、団結せなあかんと思ったんですわ。ところがみんな弱いんですね。労働組合といってもなかなか入らない。しかしね、広島女子商業高校で9年かけて全員加入の労働組合作ったんですよ。100%加入ですよ。そのためには、どうすればできるか一生懸命勉強もしましたよ。例えば、忠臣蔵の討ち入りがこそこそと秘密に組織されていったこととか、エジプトのナセルの革命の本とか。どうすれば組織するために人材を集められるかと。一歩一歩ね。9年かかりました。

昭和28年 広島女子商業高校3年生を教えている授業風景
昭和28年 広島女子商業高校3年生を教えている授業風景

 それからとてもえげつなかった男女の賃金格差、差別をなくすために2〜3年はかかりましたね。自分でも一生懸命あるべき賃金体系表を勉強して考えましたよ。一人ひとりの賃金がもうバラバラで無茶苦茶だったんですから。遅れた職場と言うのは。それを要求して、それを通すのに時間がかかりましたけど。

* * * * *

 広島女子商業高校を昭和39年で辞めて、昭和40年(1965年)からは京都の高校に勤めることになったんですわ。最初は花園高校とか山城高校の非常勤教師だったんですけど、その内に花園高校の正規教師になりました。

 京都に来てからは、幼稚園から大学まで全部の学校に労働組合を作ることを目標にしたんですよ。実際に、京都商業、洛星、ノートルダム、光華女子、洛陽女子、成安等々というふうに出来ていったんですよ。企業別の労働組合じゃなくて、個人々々で入れる私学関係全体の単一の労働組合なんですね。そこの委員長やったんですよ。あちこちの学校に労働組合のオルグにも行きましたよ。一人でもそこの学校に組合員がいたら団交もできますからね。

 京都に来て、花園に来た時も私学の待遇はひどかったんですよ。個人々々の賃金が全部違うんですから。経営者のさじ加減一つなんです。待遇差別をなくす裁判では、高裁まで闘った事件含めて全部勝ちましたよ。そういう運動を頑張ったおかげで、京都の私学の待遇改善は全国でもトップクラスの水準になっていったんですよ。

 花園高校の定年は65歳でしたが、その後も非常勤で勤めて73歳まで続けました。

■これからの人生、たくさんの友達を作りながら

 今からもう30年程も前になるんですが、高槻市に住んでいる頃、定期健診を受けたんですよ。その時精密検査も受けなさいって言われて。その結果、白血球異常、色素が薄い、それから血圧など4ヶ所ほど指摘されて、「あんた、これはもう治りません」と言われたんです。あの時のショックは大きかったですね。本当にがっかりしましたよ。

 その後私は脳梗塞を発症したこともあるんですが、幸い手当が早かったので治すことができました。6年前には前立腺がんが見つかって、朝から夕方までかかつた大手術したんですよ。出血量5リットルにもなりました。今でも3ヶ月に1回は検査を続けてるんです。これが原爆が影響してるのかどうかは、分かりませんけどね。

 私は立命館大学の山岳部に在籍してましてね、たくさんの山にも登ってきました。ところがその友だちの8割方はもう亡くなってしまったんですよ。それでね、これからの人生は、これまでは知らなかった人たちとのおつきあいをどんどん広げていかなあかんなと思うようになりましてね。隣の喫茶店に集まっている人とか、居酒屋で知り合った人とか、いろんな人とのおつきあいを広げているところなんですよ。孤独になったらあかんな、と。

 パソコン、インターネットのおかげで、毎日いろんな情報も手に入るので、とても助かってますよ。

(了)     


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爆心地と広島市の地図

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