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●被爆体験の継承 41

犠牲となった級友達に代わって語り続ける

木之下登さん

 木之下登さんは平成28年(2016年)3月5日お亡くなりになりました。享年86歳でした。京都「被爆2世・3世の会」が木之下さんの被爆体験を詳しくお聞きしたいとお願いにあがる直前のことでした。木之下さんは過去いくつかの機会にご自身の体験を文章で著されています。その一つをここにあらためて掲載させていただき、木之下さんの被爆体験を紹介せていただくことにいたしました。木之下登さんのご冥福をお祈りいたします。

■学徒勤労動員

 私は昭和17年(1942年)4月に、旧制の長崎県立瓊浦中学校へ入学しました。1学年は50人編成の7組で350人でした。これらの中には特別学級として、大陸、主として上海方面で活躍していた日本人父兄の子弟50人が一組含まれていました。勉学した期間は通算して2年ほどだったと思いますが、本当に勉強できたのは最初の1年間だけでした。

 勤労動員は昭和18年(1943年)から文部省の指令によって始まりました。1年間の内1週間は勤労奉仕に従事しなければならないということで、農村に駆り出されたのでした。浦上天主堂の北西にある本原町や山里方面の段々畑、農家の甘藷の採り入れや、高射砲陣地の構築に2〜3日従事しました。

 そして本格的に国家総動員態勢で学業を放棄して工場に駆り出されたのは昭和19年(1944年)6月からでした。私はB29の投下目標になった三菱長崎兵器製作所に配属されました。ここでは魚雷が作られており、私たちはその外板固定用のビス作りに従事しました。全学としてはこの工場の他に、三菱製鋼所及び香焼の川南造船所に動員されていました。

■蒼白い閃光と天地の裂ける轟音

 そしてあの運命の日「8月9日」は、たまたま前日に班の組み替えが行われたため、昼夜二交代制の夜勤に変わり、爆心地から約3.5`離れた自宅で待機しており、一命を取り留めることになったのです。もちろん空襲警報が発令されると居住地区の警護や防護団に編入され、工場には行かなくてよいことになっていました。

 その日はこよなく晴れた、本当に暑い一日でしたが、確か午前8時頃だったでしょうか、敵機飛来の警戒警報が発令されていました。母は福田村という田舎に食糧を求めて出かけており、姉は三菱長崎造船所の病院へ勤務、妹は市立高女へ登校していましたので、私一人が家で留守番をしていました。当時の我が家は、兄3人が兵役に服し、家庭にいたのは4人でした。

 午前11時頃だったと思いますが、空襲警報を告げるサイレンと飛行機の爆音が耳に入り、上衣を着けようと立ち上がって間もなくでした.....。「ピーカッ」と青白い光が走り抜け、「ドーン」と天地が裂けるような音がしました。しまったと思い、身を伏せようとした時には吹き抜けた爆風で玄関の土間に吹き倒され、暫く意識を失っていました。

 約10分〜20分位してからかと思いますが、表をバタバタ走り去る人の足音で自分が建具の下敷きになっているのに気が付きました。半壊の家から外へ飛び出すと、あたりは一面物凄い砂塵が立ち込め、10〜20m位前がやっと見えるほどでした。出征した兄の形見の軍刀を右手につかむや近くの神社の防空壕へ素足のまま走り込みました。午後4時頃でしょうか、母がよれよれになったモンペ姿で防空壕に入ってきました。

 夕暮になった頃、妹が学校で負傷をし、憲兵隊の処で保護されているという知らせが届けられました。幸い病院に勤務していた姉が救急薬品を持って伯父と共に約6km離れた学校へ救出に向かい、翌朝遅く妹は帰ってきました。爆風で破壊された2階の校舎から飛び降りた際、顎の下側と右脚を硝子の破片で負傷したのでした。しかも、爆風で体内に入った硝子の破片は容易に摘出できず、傷痕はケロイド症状に似て、相当期間が経ってもなかなか癒えませんでした。

■母校の生徒400有余人が犠牲者となる

 原爆が落とされた日の夜は、浦上の方はもちろん、対岸の丘陵地にあった県庁の庁舎や民家の建物は火の海に包まれ、火炎は天まで焦がすほど赤々と燃え盛りました。

 私の自宅は稲佐岳の陰で幸い半壊でしたが、やっと雨露が凌げる状態でした。母校は爆心地から南西に約800m離れた竹の久保町の丘の上に建っていましたが、校舎は爆風で跡形もなくペチャンコに崩れ落ちてしまいました。その日学校にいた教職員や学校防衛隊の生徒ら61人の内生き残った者はわずか数人でした。全校では約400有余人が原爆の犠牲者となりました。

 また生き残った者も、青春時代を原爆の後遺症に怯え、元気な若者が次々と脱毛し、口から出血しながら死んでゆく毎日は、本当に何とも言えない、むなしい日の連続でした。ある者は焼けただれた皮膚にのたうちまわり、水を求めながら死んでいきました。長崎医大の講義室では、教授は演壇にもたれるようにして、また学生は椅子に座ったままで死んでいました。まさに生き地獄そのものの惨状でした。

 市内のどこかの空き地で荼毘の煙が絶える日はなく、言葉にならない空しい日の明け暮れでした。

 学校が鳴滝町の長崎中学の仮校舎で再開されたのは、原爆投下後約2ヶ月余り過ぎた10月の半ばでした。廃墟と化した母校から机と椅子を各人が運び、それで授業を受けたのでしたが、精神的肉体的に受けた傷は何人をも癒すことはできませんでした。

* * * * *

灰色の雨にさいなまれ、あの忌まわしい日から60年が過ぎた今日でも、一体誰が、深い心の傷と一生背負わされた死への不安を取り除けるでしょうか。

右が木之下さん
右が木之下さん
■犠牲者達に代わって語り続ける

 今私はあの忌まわしい時から60年、生ぬるい平和な日々にひたって、ともすれば過去にも鈍くなっている身に嫌悪を覚えます。被爆者も高齢化し、語り伝える人も年々少なくなっています。1954年の第五福竜丸事件に端を発した反核軍縮の平和運動は今や世界の核兵器廃絶運動の大きな流れになっています。

 しかし、国内でも遂に東海村の原子力発電事故で尊い犠牲者が出ました。二度と事故を起こさないためにも抜本的な安全対策と防災対策が講じられねばなりません。

 一方、世界では軍事はバランス維持のために核大国をはじめとするその危険な技術を持とうとする国が未臨界実験を強行しています。核廃絶を実現させるためには世界中の人がもっと関心を持ち、政治を動かしていくことが不可欠です。

 私も生き残った被爆者の一人として、尊い犠牲者達に代わって、二度と悲劇を繰り返さないために、命ある限りあの実相を伝え、核廃絶を訴えてまいります。あの地獄絵図をひしひしと訴え、戦争は、核は、人間をただの「影」に焼き付けるのみだということを語り継いでいきます。

平成17年(2005年)7月6日  



木之下さんのこと

京都「被爆2世・3世の会」
吉田妙子

 遺稿となった木之下さんの文章を読ませていただき、びっくりしました。あの木之下さんがこんな体験と、こんな思いをもって生きておられたなんて。これは2005年に書かれたものですが、2011年の福島原発事故のあと、どんな思いでおられたか、お聞きできなかったことが悔やまれます。

 木之下さんは、私の最初の職場の上司でした。とても厳しい方で、新採2年目の私は、正直、ちょっと苦手な上司でした。何かの折りに私が広島生まれであることをお話すると、「自分は長崎で被爆し、京都府の被爆者手帳の第1号を持っている」とおっしゃったのを覚えていますが、職場も変わり、それ以上のことをお話することはありませんでした。

 退職されてからでしょうか、京都原水爆被災者懇談会で初めてお目にかかったとき、木之下さんの方から声をかけて下さいました。それから年に1回、懇談会でお会いするようになり、そのたびになつかしそうに職場の話をされましたが、最近はお姿を見かけなくなっていました。

 私は、「2世・3世の会」の被爆体験を聞く活動に参加していて、元上司であるなら一度木之下さんの被爆体験も聞いてもらえないかと言われていたのですが、忙しさにかまけて、後回しにしていました。

 3月上旬、やっと時間ができ、ご自宅にお電話したら、奥様が出られ、「木之下は、5日前に亡くなりました」と。すぐにお参りさせていただいてこの話をすると、「お願いされても『あの文章でもうよかろう』と言ったと思いますよ」と優しくおっしゃいました。それでも悔やまれてなりません。木之下さんの思い、特に被爆の実相を伝えたいという思いを、反省をこめて、しっかり受けとめたいと思います。

平成28年(2016年)3月31日  

爆心地と長崎市の地図

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