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●被爆体験の継承 42

生きてる人間に虫がわく

中西 博(ひろむ)さん

2016年4月16日(土)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

中西さん
■陸軍特別幹部候補生に志願

 勝つとも負けるとも、何時終わるのかも分らない混沌とした情勢の中で、周りは戦時色一色、重苦しく、厳しい、不安な気持ちがいっぱいに渦巻いてました。学徒総出陣が始まり、学生は学徒動員に勤労奉仕に駆り出されていきました。年老いた人々にさえ召集令状が出され、軍隊に動員されていったのです。私の家の前でも、京都市内から学童疎開してきた子どもたちが林松寺に起居して、川辺国民学校へ毎日通学する姿が見られました。先生と一緒とはいえ、親と離れた暮らしはどんなに不安だったろうかと思います。

 先が見えず、希望の持てないこの時代、どうせ軍隊に行くのならと、私には一つの考えがありました。この時折よく陸軍特別幹部候補生の募集がされていたのです。陸軍特別幹部候補生に志願して合格すれば、1年6ヶ月で下級下士官で伍長に任官でき、以後は努力次第で上級になれるのでした。てくてく歩くことや馬の取り扱いが苦手だった私は、船舶兵を希望しました。狭い山村育ちの私には広い海に憧れがあり、その海と関係のあるのが船舶兵だったからです。

 少しでも早く、楽をして、兵隊よりも下士官にと、自ら志願して入隊しました。天皇陛下のためとか、愛国精神とかはまったく考えませんでした。いずれは兵隊に行くのであれば、早く楽したい、そればかりの一心でした。ただただ単純な意思だったのです。

■陸軍船舶兵・無線通信教育隊

 私が志願して兵隊に行ったのは昭和19年、17歳の時でした。陸軍船舶特別幹部候補生として、まず小豆島に行きます。そこに教育隊がありましたから。そこから学科試験と適性検査を受けて、選抜され、広島にあった無線通信の教育隊に行ったのです。

 原爆が落とされたあの時、私らは千田町の国民学校にいました。私が18歳の時です。陸軍船舶兵の、あかつき部隊の、無線通信教育隊に配属されて、無線通信の教育を受けていました。正確には船舶通信補充大隊のコ部隊と言っていました。その部隊が千田町国民学校の半分を接収して使っていたんです。千田町の国民学校は爆心地から1.8`ぐらいの距離のところです。

 8月の6日になる夜間に空襲警報がありましたけど解除になって、そのため就寝延長になって、起床時間が遅くなったんです。8時から朝礼が始まって校庭に整列してました。無線教育隊と言うのは服装がマチマチで、四列縦隊に並んで週番士官から一日の教育課程の話を聞いていたのです。

■閃光と熱戦と爆風

 ちょうどその時、B29が一機飛んできて、何気なくそれを見ていたら、ラジオがジィーッと鳴ったんです。空襲警報が出る時は最初に先にラジオの音が鳴るのです。そのジィーッが鳴ったところで、バァーッと上空が、真昼の明るさの何十倍もの明るさになって一面が光ったのです。目を開けておられなくて、立っていることもできなくて、それに爆風も来たのでしょうね、パッといつも教えられてる通りに目と耳を塞いで、バァーッとその場に伏さったんです。

 1〜2分は気を失っていたと思いますが、しばらくして目を開けてみたら、今まであったものが全部吹き飛んでしまってて、起き上がってみたら、もう見渡す限りパァーッと海まで見渡せたんです。物凄い粉じんもあがっていました。一体何がどうなっているのかと思いましたけれど、爆弾が一発だけ落とされて終わるとは思えないので、私らのところが直撃を食らったみたいだけど、この後も次々と落とされてくると思いますから、どっか遮蔽物に入らないとあかんと思って、あちこち見渡しました。横にあった小さい防空壕はもう潰れてるし、どこにも隠れるところがないんです。ひどい者はもうその場で倒れたままになっているし、気を失ったままの者もいました。校庭には毛布などいろいろなものが干してありましたが、それらにはもう一面に火がついていました。

 あの時私らは外にいたので助かったなーと思いましたけど、たまたま屋内に居た者は、校舎が潰れてその下敷きになって「助けてくれー」「助けてくれー」と言ってました。完全に校舎の下敷きになった者はもうどうしようもなかったんですけど、中には足だけ下敷きになって外に逃げられない者もいるんです。みんなで助けよう思っても潰れた建物は動かせません。その内に火が回ってくるし、みんな大混乱で、誰かが「将校に言って軍刀持ってきて、足だけ斬って助けたれー」って言ってました。ところが人の足を斬れるような度胸のある将校はいないんです。将校の方も「足だけ斬っても助からん者は助からん」などと言ってる始末で。私らも初めはなんとかしようと思ってましたけど、周りがどんどん燃えてくるので逃げなくてはならないようになってきて。

現在の千田小学校内にある原爆碑
現在の千田小学校内にある原爆碑

 熱線を浴びた時、私も体の左側半分が大火傷してました。背中の左半分、顔の左側から左耳にかけて、左の肩から腕、指先まで。足は夏用のズボン下を履いていたので上の方は助かったのですが、膝から下の方は指先までひどい火傷でした。腕なんか肉が垂れ下がるようになっていて。このままじゃあかん、どこかで治療できんかと必死に思っていました。

今も左半身全身に残る火傷跡
今も左半身全身に残る火傷跡
■燃え盛る炎を突き抜けて

 とりあえず動ける者は固まって部隊本部のある比治山に行こういうことになったのです。道中はもう道路が燃えるようになってました。その時、私はこれが運命の分かれ目やなーと思ったのは、火が道路を這うように迫ってきたのです。このまま行って果たして助かるもんかなーと思って躊躇しましたけど、それを無理して煙に巻かれないようにして、思い切って突っ込んで行ったのです。突き抜けてみたら向こう側はなんともなかった。後から来た者はそれができなくて、引き返した者は結局逃げられなかったのです。火に巻かれてね。

 千田町小学校から比治山まで行くのに3kmはありますかね。私は裸足でした。途中は「兵隊さん、助けてくれー、助けてくれー」という人でいっぱいでした。

 ようやく比治山に辿りついて、比治山には物資を入れておく防空壕があって、とりあえずそこに入りました。そこで、私らの教育隊の人数の掌握がありましたけど、170人ほどいた部隊の半数ぐらいしか集まっていませんでした。あとの半数はどこに行ったのか、どうなったのか一切分らなくなってしまってね。

 比治山にいる時、そこは物資の貯蔵庫だったのですけど、急に空が真っ暗になりました。大粒の夕立みたいなのがパワーッと飛んで来ましてね。後から思うと、あれが黒い雨やったんです。

■生きてる人間に虫がわく

 そこからまた歩ける者は歩けということになって、仁保(にほ)というところにある小学校か中学校かに作られた臨時野戦病院に行かされることになりました。真昼から、乾パン二つもらって、暑い日中の中を歩いていったのです。何であんな物くれたのか分りませんが、その時に雑のう1個と無線通信を発信するのに使う電鍵(デンキン)という機械を持たされたのです。通信兵には銃もなにも武器はなくて、電鍵が命ですから、それを持たされたのかしれません。ところが歩くたびにその電鍵が体に当たって邪魔になるし、痛くてしようがない。こんな物持ってたら体が参ってしまう、命の方が大事やと思って、軍法会議にかけられるかもしれないとは思いましたが、思い切って捨ててしまいました。戦争が続いてたらえらいことになってたかもしれませんけど、あれは私一生忘れられないことです。

 とにかく暑いし、ほとんど着るものは何も着てないのと同じような状態で、靴もなくて裸足のままで歩き通して、やっと臨時野戦病院に着きました。その晩、また空襲警報があって、みんな屋外退避になって、芋畑にペタンとうつ伏せになってました。喉が渇くのでね、芋の葉ねぶって(舐めて)いました。警報が解除になってももう動けないので、班長に背負ってもらって野戦病院へ連れて帰ってもらったようなことでした。後になって新聞を見たら、「船舶無線通信隊被害甚大」って載ってました。

現在の仁保小学校(広島市南区)
現在の仁保小学校(広島市南区)

 病院と言っても、一人に畳一枚ほどの広さ、みんな床や廊下に寝かされて、何の治療もしてもらえなくて、食事もろくにないし、水は飲みたいけど飲ませてもらえないしでした。背中いっぱいに火傷をしてるから仰向けに寝られないので、ずーっとうつ伏せになったままでした。上半身の左側の手の先まで火傷してましたけど、腕時計していた所だけが火傷のないまま綺麗に残っていました。

 足をやられていましたから勝手に階段降りて水を飲みに行くこともできなかったのです。何も治療しないのに、絶対水はやったらあかんと言われてました。看護に来る人らも水はくれない。辛抱しなければしようがなかったんです。辛抱できなくて水を飲んだら死んでしまう。飲んでしまってあくる日、ウーンウーンと唸りながら死んでいった人はたくさんいました。

 後になって、初めて水を飲むことができるようになった時、水ちゅうもんはなんとうまいものかとつくづく思いましたね。あれも一生忘れられないことです。

 丁度1週間は飲まず食わず、一滴も水も飲まないままでした。もう自分の身を削って生きていたようなもので、そりゃ、痩せて痩せて、これ以上は痩せられないところまで。体力が落ちてしまいました。それに火傷はちっともよくならない。

 生きた人間に蛆虫(うじむし)がわくというのはほんまです。火傷のところに油塗りますから表面は乾くんです。その下に蛆虫がわくんです。その蛆虫が動くと痛くて痛くて。それから風呂に入られないからシラミも湧くんです。生きた人間に虫がわくんだということをつくづく思い知らされました。

■帰郷療養

 8月の末に、宇品の陸軍病院に転送されました。そこから今度は帰郷療養せえということになって。帰郷療養とは家に帰って療養しろということです。私もここにいたらちっともよくならないと思ってて、家に帰りたい、家に帰りたいと思ってましたから、帰郷療養を申し出ていました。9月の初旬に故郷に帰ることになったのです。宇品を出る時、「お前は死んでも帰り着く。絶対に途中で倒れたりはせん。もう帰りたい一心やからな。帰りついてから倒れるかもしれんけどな」と言われました。「帰りたい者は帰れ!」なんです。私よりもっとひどい火傷の人でも、治療の方法がないものですから、帰りたい者は帰すんですよ。厄介払いみたいなもんです。病院は帰してしまえば後の責任はないですからね。

 私は一時でも早く帰りたい一心で故郷に向かいました。宇品の陸軍病院を出てから国鉄の広島駅までどうして行き着いたか今でも思い出せないのです。距離にして約4kmはあったと思いますが不思議でなりません。どこかの車に同乗させてもらったのかもしれません。

 広島駅から無蓋貨車に乗って吹田の操車場まで帰りました。それから京都駅まで行って、京都から山陰線で園部まで帰りました。園部の駅から迎えに来てくれと連絡して、自転車に乗せられて我が家に辿りついたんです。全身カーキ色の包帯姿でした。私のことはみんなもう死んだと思ってましたから、我が家に着いた時、お祖母ちゃんが泣いて泣いて、大声あげて泣きました。

 広島から帰る前の頃から毛が抜けてきて、丸坊主になってしまいました。それ以来頭の毛はあまり生えなくなってしまって。発熱も、下痢もありました。

 昔はここ(園部町船岡)に診療所がありましてね。台湾から来たお医者さんがいたんです。川辺村診療所と言いまして、川辺村立の診療所でした。その医者が家まで診に来てくれて火傷の治療をしてくれましてね。家に帰ったらやっぱり回復も早くて、比較的火傷も早く治っていったんです。

 台湾のお医者さんやったから、戦争が終わって、そのうちに台湾に帰らはったんやと思います。あの診療所も今はなくなってますし、あの頃の診療記録は何も残ってないでしょうな。

■健康を取り戻した戦後の暮らし

 広島での被災証明書とか、教育隊に所属していた証明書とか、復員証明書とか、いろいろ残してあったんやけど、結婚する時障害になると思って、全部大川(大堰川)の流れに流してしもうたんです。手帳もね、自分は健康やし、こんなもんいらんゆうとったんです。もう生涯もらわんつもりやったんです。ところが助役になった人が同級生で、その人がこんな制度があるさかい「手帳とれ、手帳とれ」言うてくれたんです。自分では何もせんかったけど、その同級生がいろいろとやってくれて手帳とることになったんです。手帳取るのに証人が二人いりますけど、それは兵隊の時の戦友会があったんで、その戦友会が証人になってくれたんです。千田町にあった通信兵の会ということで『千通会』と言うてましたけど。その戦友会も3年前に解散したんです。比治山の陸軍墓地に供養碑を建ててね。

  通信兵の碑比治山の旧陸軍墓地内
通信兵の碑。比治山の旧陸軍墓地内

 戦後は農業やって米作りながら、設備会社にも勤めてずっとやってきました。私は原爆に遭うて、あれだけの火傷しましたけど、戦後は病気らしい病気したことがなかったんです。4〜5年前に両目の白内障の手術をしたことぐらいで。風邪引いても寝込んだことがない。自分ではずっと健康やと思ってきましたけど、思いこみが過ぎていたんかもしれませんな。

■3つのガンと手術

 京都市内で昔から被爆者の診察や治療を熱心にされていたお医者さんに、もう20年も前になりますか、たまたま知り合うことがあって、「うちで被爆者診とるよ」言われて、それが縁でその先生のところに行くようになったんです。特別どこか悪いところがあったわけではないんやけど、首の牽引やら24時間心電図なんかもしてもらったことがありました。その先生も5〜6年前に亡くなられて、後を息子さんのお医者さんが継がれて、私もその先生に引き続いて診てもろうてたんです。私の住んどる所の一番近い病院は公立南丹病院なんやけど、そこでもいっぺん診てもらおう思うて行ったこともあります。CTやら血液検査なんかもしてもらって、異常ないいうことで、その時はそれっきりになってました。

 ところが7〜8年前、それまで55`あった体重が急に50`まで減ったんです。これはおかしい思うて、京都市内の先生のところに行ったんですけど、「いやーそんなん大丈夫や、反対に体重減った方が足腰に負担かからんでええんやないか」言われて、その時もそれっきりになったんです。その時の検便検査で血便の鮮血がプラスやったんですけど、「そういうこともある」言われて、もう一度やったら今度はマイナスになっとったりしたんです。

 そうこうする内に去年のことですけど、体重が47`まで減ってきて、こりゃあやっぱりおかしい、どこか異常があるんやないか思いましたけど、それでも先生からは「涼しゅうなったらようなるから」と言われてました。ところが秋になっても体重が戻らんなあと思うてましたら、今年の2月4日に突然血便が出たんです。こりゃ大変や思うて京都市内の病院に行ったんです。そしたら先生もびっくりして、「こりゃアカン」ということで、南丹病院への紹介状書いてもろうて、翌日の2月5日に南丹病院に行ったんです。その日は6時間の点滴でした。あくる日に大腸の検査してもろうて、そしたら直腸がんや言われて。それも2ヶ所ある。1ヶ所の方は放っといてもええけど、もう1ヶ所の方は放っといたら便が詰まってしまう、切って手術せなあかん、いうことになったんです。家族や身内のもんみんなに集まってもろうて承諾してもろうたんです。

 そうこうしていると今度は血尿が出たんです。今度は泌尿器科で診てもろうたら膀胱がんや言われて、こら取らなあかんと。そやけど年齢的に取るのが難しいので、かき落としみたいな措置をする言われて、即入院になったんです。2月21日の措置で取ってもろうて、1週間入院しました。全治はしない、再発の可能性は50%言われました。

 膀胱がんの方は割と簡単なことやったらしくて、それが回復してから直腸がんの手術することになったんです。手術の前に、他に転移してへんかとMRIやらCTやら全身の検査をいろいろしてもろうたんですけど、そしたら胃もおかしいということになって、胃カメラも飲んだんです。そしたら胃にも転移してて、胃も取らなあかんいうことになって。ほんまは胃も直腸も同時に手術するいうのは難しいんやけど、私の歳考えたら2回に分けてやるより1回で済ませた方が体の負担にならんから、ということで同時手術しようということになったんです。手術は3月16の日でしたけど10時間かかりました。体に穴開けてやる腹腔鏡手術でした。

 今思うと、それまで医者にいろいろ診てもろうとったんやから分らんかったんかな思います。もう少し対処の仕方があったんと違うかと思うて。そしたら胃がんだけで済んでたんかもしれん。膀胱がんとか直腸がんとか、こんなにいっぺんにたくさんのがんになることはなかったんと違うか思うて。

 今は順調に回復して、後は食事療法だけになったから、家で療養せえいうことで退院したんです。1年間は食事に絶対注意するよう言われてます。今の家ではなかなか療養いうても難していので、近くにある倉庫を活用して修理して、そこで療養できるよう準備してるところなんです。(了)


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