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●被爆体験の継承 43

紙一重の差で生かされてきたことに感謝

松浦悦枝さん

2016年5月17日(火)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

松浦さん
■島で育った子どもの頃

 私が生まれたのは九州の、今は北九州市になりますけど戸畑という所でした。昭和2年(1927年)の9月30日が誕生日です。ところが私が生まれて100日ほどで父親が亡くなりましてね。それで母親と私とは一緒に籍を母親の里にとりまして、ずっーと大きくなったんです。

 私が小学校一年生の時に、私の祖母が母を神戸に住んでいる人と再縁させたんですね。母は神戸に行って、それを機会に私は祖母と伯母との二人に育てられるようになったんです。育ったのは瀬戸内海に浮かぶ、尾道からほど近い生口島(いくちじま)という小さな島です。祖父は41〜42歳の時にもう亡くなっていました。船持ちの船頭をしていて、たくさんの人も雇っていたらしいんですけど。伯母さんの主人も亡くなっていて、母子家庭ならぬ、祖母・伯母・子の家庭になったんです。親はいませんでしたけど、そんなことはあまり苦にならず、のんびりと大きくなっていったように思います。

広島市から福山市までの地図

 小学校6年生の時は健康優良児だったんですよ。大きな賞状とメダルをもらったの覚えています。もう戦争中でしたからね、子どもを健康に育てるのも目標になっていて、表彰もされたんだと思います。私を育ててくれた伯母の息子(私の従兄)が小学校5年生の時に亡くなっていましてね。そんなこともあったから何事も早目早目に医者にかからせるような家でした。私は一人っ子でもありましたから、大切に大切に育てられたように思います。祖母と伯母の家庭で育ちましたので、食べものにしても何にしてもうるさかったです。

■神戸の女学校、そして生口島で先生に

 小学校を卒業の頃女学校に進学しようかということになって、祖母が地元の学校の先生に相談したんです。すると先生から「女学校に行く学資はあるのか?」と言われまして祖母は大変憤慨しました。「それじや、どうせ女学校に行っても寄宿舎に入って苦労するのなら、再縁して神戸に居る母親の下から女学校に行くのがいいだろう」ということになりまして、それで急遽母親の居る神戸に行くことになったのです。小学校6年生の3学期になっての急な転校でした。神戸の公立の女学校(当時5年制でした)の入学試験に何とか通りまして、神戸で女学校時代を送ることになったのです。

 神戸で女学生時代を過ごし、女学校の卒業式まであと一週間という時に、3月17日でしたけど、神戸が大空襲を受けました。私の住む家も全部焼けてしまいました。卒業証書も印刷所ごと全部焼けていまして、卒業式もできるかどうか分からない。その時の校長先生の指示で「とにかく帰るところのある人は帰りなさい」ということになったんです。それでまた祖母と伯母のいる生口島に帰ることになりました。卒業証書は後から6月か7月頃になって届けられました。母の方は義父を神戸に残して、義父の本籍のある佐木島(さぎじま)に帰りました。生口島のすぐ隣の島です。

 生口島に帰ってすぐのことなんですが、たまたま地元の小学校の校長先生とお会いする機会がありまして、「女学校を卒業しとってんだったら、学校の先生になってもらえんやろうか?」と声をかけていただいたんです。私はまだ卒業証書も手にしていない時だったのですが、学校は先生も召集なんかでとられていて、先生が足りなくてなんとか新しい先生を確保しなければならないところだったんですね。

 あの頃は広島県豊田郡の教育事務所が忠海(ただのうみ)にありまして、そこへ連れてってもらって採用試験や面接を受けました。「あんたとこ、土地はなんぼほどある?」などという質問もされましたけど、私小学校6年生までしかいなかったから知らないんですね。そしたら面接されてたお偉いさんが、「じゃあ5反百姓じゃろう、5反ぐらいじゃと覚えときんさい」と言われて。そんなような面接や試験で、なんとか採用になりました。そして地元の小学校教員になってしまったわけなんです。

 小学校の先生になったばかりの当時の思い出の一つですが、あの頃尋常高等小学校の2年生は造船所へ動員で行かされていました。1年生は塩田作りに使われていたんですよ。塩がたくさん要るからといってね。生口島には浜が十いくつもあるのに、それなのに流化式の塩田を作れというのが命令でしてね。1年生たちは毎日毎日塩田を作らされていたんです。そんな時代でした。

■86枚の紙と2合のアルコールのために広島へ

 私が小学校の先生になったその年に入学してきた子たち、86人ほどでしたけど、その子たちの学籍簿を作る用紙が物不足でないんです。その用紙を誰かが広島まで受け取りに行かなければならないことになったんです。それと、理科の実験用のアルコールも、たったの2合ですけど配給になるのでそれも受け取りに行かなければならない。先輩の先生方は誰も行かれない、行けないので、それで私が一番新米の先生だったんですけど、「私でもよかったら行ってきましょうか?」と言って、私が広島に向かうことになったのです。たった86枚の紙と2合のアルコールのために。

 私の従妹が広島の保健婦や助産婦を養成する専門学校に行ってましたので、泊る所があるからというのも私が広島に行こうとした理由の一つです。それに私は尾道から西へはまだ行ったことがない、当然広島にも行ったことがなくて、県庁の所在地すら知りませんでした。一度広島の街を自分の目で確かめておきたいという気持ちもありました。

 広島に向かったのは8月5日です。生口島から三原までは郵便船がありましてそれに乗って、三原から広島行きの列車に乗りました。ところが乗ったのが呉線周りの列車でして随分時間がかかってしまいました。途中の呉では列車の鎧戸(よろいど)を全部降ろして、暑い最中でも真っ暗にして走っていましたね。やっと広島駅についたのはその日の夕方でした。その夜は従妹のところに泊めてもらって一泊しました。

■広島教育会館で迎えた8月6日

 次の日の朝、8月6日ですけど、まだ警戒警報が出たままでしたけど、私は広島の街の様子をよく知らないので余裕をもって行こう思い、早めに出かけました。用紙とアルコールを受け取るのは広島教育会館という建物で、雑魚場町(ざこばちょう)という所にありました。教育会館への行き方を教えてもらい、ぎゅうぎゅう詰めの市内電車に乗って行き、雑魚場町の最寄りの電停で降りました。降りてみてびっくりしたのですけど、周りの建物が全部建物疎開されていて無くなっているんですよ。街がない。雑魚場町という町が無くなっていたんです。一帯がずーっと建物疎開されていて、教育会館だけがポツンと残されて建っていたんですね。後年になって聞いた話ですけど、その教育会館さえ壊すかどうかという頃だったんだそうです。もう一日か二日違っていたら倒されていたかもしれないということだったそうです。

 かなり朝早い時間に教育会館に着きました。教育会館には宿直されていたような職員の方が一人だけおられて、用務を告げると、その方が「分りました。警戒警報の中を来られたのですね。ご苦労様です。警報は解除されましたよ」と教えていただき、部屋に案内されました。「暑いから窓を開けましょう」と言って窓を開けて下さり、「少々待っていて下さい」と言い残して部屋を出ていかれました。それで私が汗を拭き終えて一息入れた時のことです。

 窓の外を強烈な白い光がバァーっと光って、サァーっと通り過ぎました。「何だろう?」と思って窓に近づいた瞬間、私は爆風で吹き飛ばされ、壁の下敷きになって、動けなくなってしまったんです。

 私は最初、あの光を見た瞬間には、空襲警報が解除になって、広島は軍都ですからね、「実戦的な防空演習始めたんかな」って思ったんですよ。さすが広島だと。

 ところがそれから私には重い物がのしかかり、真っ暗で、苦しくて、身動きがまったくできない状態になってしまったんです。息ができなくなってきて、苦しくて我慢ができない程になって、誰にも知られずにこのまま死ぬのかと思ったりし始めていました。私も戦時教育を受けていましたから、やはり変な死に方はしたくないなあ、無様な最期は嫌だなあ、なんてことも頭をよぎっていました。

 その内に「うーん、うーん、苦しい」と言う呻き声が聞こえてきたんです。その声を聞いて、私は一人ではないと勇気づけられました。教育会館の職員の方も壁の下敷きになられたようで、その人の声でした。でも、どうにもなりませんから「しようがないですね、どうにもなりませんね」と口に出したんです。たまたまその声を、教育会館の建物に一歩入った辺りにいた兵隊さんが耳にされましてね、「この建物の中には人が何人いますか?」と叫ばれたんです。そして、その兵隊さんが、「助けてあげますから、頑張ってください!」と言われて、ご自分も怪我してる身でありながら私たちを助けに来て下さったんです。

 私のその日の服装は、モンペをしっかりと着ていて、足には白足袋を履いていたんです。初出張だからというので母親が着物をモンペに仕立て替えてくれた旅装でした。倒れた壁の下から私の足首から下だけが出ていまして、足先を動かしますと、「この白いのが足ですね?」と聞かれました。私は「あっちの人(教育会館の職員の方)の方を先に助けてあげて下さい」と言ったんですが、兵隊さんは「僕は中支で戦線を経験しているから、こういう時は近くから近くから助けていくんだ!」と言われて、私の方から助けようとするんです。

 私は仰向けに倒れていましたので助け出されるのが大変でした。でも兵隊さんの力で倒れた壁を引き上げて下さって、わずかにできた壁の隙間から這い出ることができました。私が這い出すとすぐに兵隊さんは、「この建物は倒壊する恐れがあるからとにかく一歩でも半歩でも早く遠のけ!」とおっしゃる。でももう一人の方のことを気にしていますと、「いや、もう一人の人も絶対に助けるから」と言われて、それで私は一人で薄暗い中、外からのわずかな光をたよりに外へ出て行きました。

 原爆に遭ってから20年位後になりますけど、あの日もう一人教育会館におられた職員の方も無事生きておられることが分かったんです。後に広島県の奥の郡部の方の教育長をされていました。私がある小学校に勤めていた頃同僚だった先生が郷里にお帰りになられて、私の体験をお話されて、それで分かったんです。

 ただ、私が今でも一番気になりますのは、私を助けていただいた一番の恩人の兵隊さんの消息が分からないことなんです。とにかく感謝はしていますけど。

旧広島文理大学の建物(被爆建物)。広島教育会館はこの近くにあった。
旧広島文理大学の建物(被爆建物)。広島教育会館はこの近くにあった。
■惨状の街を彷徨(さまよ)う

 教育会館の建物を出て敷地の入り口まで来ましたら、一人の兵隊さんが高い塀に跨(またが)ったままじっとしていらっしゃる。その傍には直立不動の兵隊さんが、こちら側には塀から飛び降りてしゃがんだままの兵隊さんと、3人がいつまで経っても動かないんです。とても怖かったです。周辺の建物疎開した建物の柱だけが集められて教育会館の塀の内側に立てかけてあったんですけど、その下にもうつ伏せになったままの兵隊さんが3〜4人いて、それを見て、この兵隊さんたちはみんな死んでらっしゃるんだなと思いました。

 後から気付いたんですけど、左足は痛くはないのに足袋が真っ赤になっていたので小鉤(こはぜ)をはずすとかかとが切れて裂傷していました。右足は踵(きびす)から脹脛(ふくらはぎ)にかけて3つほどの傷がついていました。それが痛くて痛くて、つま先でしか歩けないんですよ。私は足袋を履いてましたから足袋裸足でなんとか歩きましたけど、あの暑い最中ですから、足袋履いてなかったら歩けなかったと思いますね。

 周りは、防空壕の中にいる人やら、防空壕の外のあたりで倒れている人やらありまして、みんな兵隊さんだったように見えました。一体何があったのか分からないんですよ。おかしいなあと思いながら、門の所まで来ましたら、右側に真っ黒い煙が天まで届いているんですよ。それが風でファー、ファーと動いていて、おかしいなあ、なんでやろなあと思いました。私はしばらくの間、これは広島の都市ガスのタンクが爆発したんだろうと思っていたんですよ。

 教育会館から外に出て、でも、広島駅に帰ろうとしてもどう行けばいいのか分らない、従妹の住まいに行こうと思ってもわけがわからない。しばらくその場にボーっと立っていたんです。立っていて、ハッと気付いたんですけど、建物疎開された範囲で家が無くなっているだけでなく、もっとはるか遠くまで建物が無くなっていたんです。それで初めて、これは大変なことがあったんだと思いました。

 神戸の大空襲は夜でしたし、広島のこの日の朝は警戒警報が解除になったばかりでしたから、そういう頭がありましたから、爆弾でこんなことになったという感覚はありませんでした。だけど自分は爆風で飛ばされた。教育会館の建物は残っているし、入口の門の塀はあるのに、外の景色が全然違う。茫然としましたね。私は今一体どこにいるんだろうか?という感じなんですね。

* * * * *

 そうして見ていると、たくさんの人たちが集団でよろりよろり、よろりよろりととても変な格好で歩いているんです。両手を前に伸ばし、海草のようなボロ布をそこかしこに付けて。それでも最初から中学生だとは思いませんでした。捕虜ではないかと思ったんです。私は神戸の女学校の頃学徒動員で三菱造船に行ってたんですけど、そこでは捕虜も動員されてたんですね。その捕虜たちが電車を降りて工場までふらーりふらーりと歩いていくのを見ていましたから、それを連想したんですね。

 その人たちはみんなふわーふわーとしていて、靴なんか履いていませんでした。帽子は被っているように見えましたけど、つばの無い中国帽子のように見えました。後で気付いたのですけど、帽子が焼けて帽子のあったところの頭髪だけが残っていたのでした。夏だからみんな半袖ですが、下に着ているランニングはところどころ残っているだけ、ズボンもパンツもところどころ残っているだけの凄まじい格好でした。それでも中学生だからなのかみんな集団で歩いていて、50人位だったと思います。後で知りましたけど、あの人たちは建物疎開の作業に動員されていて原爆に遭った中学生たちだったんですね。

 中学生たちが歩いて行った後には誰もいなくなって、しばらくしても道歩いている人がいなくなったんです。私はどっちに行ったらいいんだろうかと迷ってしまいましたが、とにかく大通りまで出まして、中学生たちが歩いて行った方がきっと安全なんだろうと思いまして、同じ方向に向かいました。歩いていきましたら、きっと(広島)文理大学のグランドだろうと思いましたけど、松の木がたくさんありまして、そこへ20人位の人たちが集まっていました。人がいるのだからここら辺りは大丈夫なんだろうと思って、松の木にしばらくもたれかかっていたら、疲れていたんでしょうね、そのまま寝てしまいました。

* * * * *

 しばらくしたら将校の方から「娘さん、娘さん」って起こされましてね。「みんなは御幸橋まで行かれましたから、あなたも御幸橋まで行きなさい」って言われたんです。それで御幸橋まで行くことにしました。

 その頃になるもう本当に歩けないんです。たまたま良かったのは、当時大学のグランドは全部芋畑になっていまして、その畝(うね)に片足を乗せて、つま先立ちでなんとか歩いてグランドをやっと横切ることができたのです。

 そうこうしながら、やっと御幸橋まで辿り着くことができました。御幸橋では、怪我した人や、チンク油塗られたりして顔にお面を被っているような格好になった人でいっぱいでした。御幸橋ではトラックの後左側に一人だけ乗れる場所がありまして、それに乗せられて宇品まで運ばれ、宇品にあった病院に連れていかれたのです。宇品に着くまでの周りの家々、建物は、瓦が飛んだり、建具が吹き飛ばされたり、大変な状態でしたね。専売公社あたりまで来るとやっと建物も普通になっていたように思います。

現在の御幸橋西詰
現在の御幸橋西詰

 宇品の病院にはたくさんの人が来ていました。私が一番最後ぐらいになって順番を待ちました。どれくらい待たされたかのよく分りませんが、治療といっても赤チンをつけていただいただけでした。治療が終わった頃、50歳代くらいのおじさんが若い息子を連れていて、「あんたどこへ帰るんか?」と聞かれました。「従妹が大手町にいるはずなので、そこへ行ってみたいと思っています」と言ったら、「家に一台しかないリヤカーだけど、これに乗せてやろう」と言って下さって乗せてもらいました。

 宇品では警防団の人たちが非常用の食事だといって乾パンを配られていました。私は広島市民ではないからと言って遠慮していると、「今は誰にでも配っているのだから。市内に入るなら配給もしてなかろう、分けてあげて欲しい」と言って10袋もいただいてしまいました。

 リヤカーで運んでもらう途中大きな馬が倒れているのを見たりしました。リヤカーからは日赤の建物の見えるあたりで降ろされ、「この道を行きなさい」と教えられました。日赤では傷痍軍人やそれを助ける看護婦さんたちが外に出ていかれるところでした。メガホンで、「この建物は壁が白いから狙われやすいです。空襲があったら爆撃されるから一歩でも二歩でも遠のいて下さい」と叫ばれていました。いくら野宿でも、兵隊さんや看護婦さんたちと一緒なら大丈夫だろうと思いまして、その夜は日赤近くの屋外の瓦礫の中で過ごしました。野宿とはいってもほとんど寝ることはできませんでした。

現在の広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク
現在の広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク
■大手町から八幡村へ

 翌日8月7日の朝は4時頃には目が覚めてしまい、大手町の方向へ向ってボソボソと歩き始めました。その辺りでもまた警防団の人たち4〜5人と出会っています。大手町に行く途中、道端にお婆さんが一人しゃがみこんでいて、そのお婆さんから「水汲んできてくれ」とせがまれたんです。水を汲める場所は30mほど離れていて、鉄管から水が溢れ出していました。その水を真っ黒になった缶詰の空き缶に汲んで来てあげました。

 大手町に着くと、人がたくさん集まっていて、その中から「悦ねぇ〜ちゃーん、悦ねぇ〜ちゃーん」って、私の名前を呼ぶ声がするんですよ。それは従妹の声でした。「いやー、二人とも生きとったねー」って、再会できたことを喜び合いました。

 従妹は原爆が落ちた時建物の中にいましたので、火傷もしていませんでしたし、着物が燃えたりもしていませんでした。ただ、2階から落ちていたので、怪我はしていました。従妹たちは、川の向こうから火が出たので泳いで川をこちら側に渡って、それで一晩明かした人たちでした。

現在の元安川 右岸一体が大手町
現在の元安川 右岸一体が大手町

 みんなお腹も空いて、体力も落ちているから何か食べものはないかと探されていましたので、「乾パンならあるよ」と言って私がいただいていた10袋全部を従妹に渡し、それがみんなに分けられていきました。

 従妹と出会うことが出来てほっとして喜び合っていましたら、5〜6歳くらいの男の子が川を流されてくるのです。「可哀想、あんなに幼い子まで被害にあって」と話しますと、従妹は「ああして流れてくるのよ昨日から。大勢の人が川いっぱいに流れてきたよ。私たちも川を泳いでくる時は亡くなっている人をかき分けて泳いだの」と淡々と話すのです。今でも忘れられないことです。

* * * * *

 私たちの女学校時代、英語の授業は2年生の2学期まではありましたけど3月期からはなくなったんです。敵国語ということで。3年生になると漢文の授業も敵国後だというのでなくなったんです。そのなくなった時間を使って救急看護法が教えられました。傷の手当はどうするとか、三角巾はどうやって巻くとか、包帯はどうとか。その時に傷のある人には絶対に水を飲ませてはいけない、鬼になったような気持ちで水を飲ませてはいけない、ということが教育されました。そのことがこの時には、自分に役立つことになったと思っています。

* * * * *

 そうしている内に今度は広島県の双三郡(ふたみぐん)という所から救急班の人たちが大きな旗を立ててトラックで駆けつけてきて、救護活動を始めたんですね。みんな手当をしてもらって、私も赤チンつけてもらって。従妹は「すみません、強心剤打って下さい」と言って、注射してもらいました。従妹はそれでもまだしんどい、しんどいと言っていましたね。

 その後には今度は似島(にのしま)に行く救護のための大きな船が川を遡って来ました。「これに乗んなさい。連れて行ってあげますから」と言ってね。どこに行くのかもよく分からなかったんですけど、とにかくみんな並んで船に乗る順番を待ったんです。従妹のところの順番までは乗船許可となったのですが、次の私のところでこれ以上はダメということになったんです。それじゃあということで従妹も一緒に船には乗らずに残ることにしました。乗っていたら、似島の隔離病院に行って大変だったのではないかと思います。

 夕方になりますと今度はトラックが来て、楽々園(広島市から西方向郊外に設置されていた遊園地)の方に連れて行って下さることになったんです。楽々園までは行ったんですが、そこの収容所がもう満員でこれ以上収容できないということで、他に回されることになりました。夜になってもう真っ暗でした。どこに行くのか分かりませんでしたけど、ライトを照らしたり消したりしながら進みました。着いたのが佐伯郡の八幡村というところで、そこの国民学校に収容されることになったんです。

 八幡村は広島からは相当に距離のあるところでしたけど、それでも爆風で窓ガラスなんかが割れていたり、小学校の1年生が10人ぐらい怪我をしたと言われていました。今でいう体育館と音楽教室を兼ねたような場所にゴザを敷いて下さって、その晩からここで寝ることになりました。

 翌日8月8日になって、びっくりしたのは、「お食事は、おもゆとおかゆとご飯ができますが、何になさいますか?」と聞かれて、思いもかけないもてなしを受けたことです。従妹はこの頃はまだ元気でしたから「ご飯が食べたい」と言い、私は2日間何も食べてこなかったのでおもゆをいただきました。お昼を過ぎてからは浴衣まで用意していただきました。村中から集められて持ってこられたもののようでした。

■従妹の死

 8月9日になりますと、病人・怪我人が状態に応じて色々と分けられることになりました。私と従妹もこの日別々の棟になったんです。そしてその晩、従妹は亡くなっているんです。16歳でした。最後の看とりができなかったことを今でもとても残念に思っています。

 八幡小学校にいる間に、私や従妹の持っていたお金で、従妹の火葬もしてもらいました。その頃私の母と叔父(従妹の父親)は私と従妹を探して広島市内中を歩きまわっていたんです。やっとのことで八幡国民学校の収容先に居ることが分り出会うことができたんです。従妹のお骨が木箱に入り名前など記入されて英霊並みの扱いにされていたので、叔父は娘の死を悲しむと同時に、最後の扱いをとても喜んでくれました。叔父も叔母も亡くなるまで「あんたがいてくれて澄子(従妹の名前)は幸せだったろう」と私を労わってくれました。

* * * * *

 八幡小学校に収容された頃、あまりにも右足が痛いので自分でなんとかしたいと思いました。そこでピンセットを借りて、ピンセット一本で、麻酔もかけずに、自分で切開手術のようなことをしてガラスの破片を取り出したりもしました。

* * * * *

 私は八幡村国民学校に収容されている時、自分の着ている着物について憲兵に調べられたことがあるんですよ。どんな衣服が空襲に耐えられるか広域に渡って調査中だということで、私が着ている着物について知りたかったらしいんです。憲兵に最敬礼されて頼まれて、帯の下につけている紐から下着まで徹底して、材質や色などを調べられました。私は黒っぽい着物を着ていましたから、「黒がよかったんでしょうか」などと言われながらね。その憲兵は絹のことも分からない、木綿といっても知らないような人でしたから、私が蚕からとってとか、綿からとってとか、全部説明したんです。

 憲兵の調べが終わってから、「兵隊さん、私もこれだけ恥ずかしい思いをして協力したんですけど、一体、広島のアレは何だつたんですか?」って聞いたんです。その時でもまだ、自分ではガスタンクの爆発か何かと思っていて、市内の惨状と空襲とが頭の中では結びついていなかったんですね。そしたら、「あれは強力な新型爆弾です」としかおっしゃらなかったんです。「僕たちはそこまでしか知らないんです」と言われてね。丁寧に敬礼されて、「ありがとうございました」と言われて帰られました。

■郷里へ、そして3ヶ月間の入院の後に復職

 私は右足の状態が悪くて歩けないので8月の終わり頃まで八幡小学校にいました。母も一緒でした。8月28日になってやっと八幡小学校を後にすることになりました。八幡国民学校では村民のみなさんに大変な温情と食料等々のお世話をいただきました。あらゆるものが乏しい時にも関わらず、私たちにかけていただいたご親切にはどれだけ感謝してもしきれないほどのものがありました。この時の感謝の思いをいつまでも忘れないようにする、万に一つでもどなたかにお返しできるようにしていく、これも私の人生の中で大切にしてきたことの一つになりました。

* * * * *

 大八車に乗せられて己斐の駅まで運んでもらい、そこから列車で郷里に向かいました。私が島に帰る前、島では私の葬式の相談もされていたのだそうです。私が広島へ出張中の被災でもあったので、学校では校葬にせないけんじゃろかなどとも検討されていたのだそうです。

 ただ、島に帰っても即、島にあった県立病院で切開手術をするということになりました。表面の傷口はすっかり治っていたのですが、万が一ということもあるので、県立病院で右足の切開手術をしてもらったんです。切開してみると、中の方は化膿してぐちゃぐちゃになっていたそうです。その時初めてアキレス腱が3分の2切れていたのが分ったんです。3分の1は残っていましたから、これで十中八九は歩けるようになるだろうと言っていただきました。私はその時初めて希望を持つことができました。それまでは学校に帰ってもこんな足では先生できないし、何か他の仕事を探さなければと思っていましたから。

 9月16日になってからですが、右足の踵(かかと)がやっと床に着いた時の喜びは忘れられません。生きる希望が見えた時でした。

* * * * *

 9月に入って8日頃だったと思いますけど、私は急に気分が悪くなりまして、隣の島のかかりつけのお医者さんのところに行ったんです。そしてそのまま母が私を因島の病院に入院させてしまいました。結局、9月、10月、11月と3ヶ月も入院することになりました。あの時代の入院といいますと、お布団から鍋釜まで全部持ち込まないと入院できないんですよね。おまけに、あの頃お金はいくらぐらいしか使われないという封鎖の時代でしたからね。母はかなり苦労したんだろうと思います。

 入院した病院の先生のご子息が医大に行っておられる人だったんですね。そのご子息が「こういう症例の講義は受けたけれどまだ臨床の経験はない」とおっしゃっていたんです。そのことを聞いた母が「もし講義で聞かれた通りの処置をしていただいて、それで障害が残っても、亡くなっても一切文句は言いませんから」と言って、処置して下さいとお願いしたんです。

 今から思うと簡単なことなんですけど、静脈から血をとって、それをお尻に注射するんですね。私は恥ずかしくてその処置が嫌で嫌でしようがなかったんですけど、最後には先生と母とが馬乗りになって私を押さえつけて注射されてしまいました。後で聞いたのですがそれは体蛋白刺激療法とかいう手当方法だったようです。そんなことが1週間ぐらいは続いたでしょうか。

 3ヶ月入院している間に、そんなにひどくはなかったのですけど髪の毛が抜ける経験もしました。あの頃原爆の影響で髪の毛が抜けるなどとは思ってもみませんでしたけど。

 11月の終わりに退院することになり、12月になってやっと学校に復帰、あらためて先生を続けることができるようになったんです。

■53年目にして観た原爆資料館

 結婚したのは昭和24年です。結婚させられたようなものなんですけどね。主人も学校の先生でして、親戚の校長先生から無理やり押し付けられて。主人は引き揚げ者で苦労していました。私も被爆者ですし、お互い何も無い者同士だったんですね。

 結婚も大変でしたけど、結婚よりも一番心配でしたのは生まれてくる子どものことでしたね。当時、小頭症の子どもができるとか何とか言われてましたからね。幸いそういうことはありませんでしたし、子どもたちも割合元気に育ってくれましたけど。

 私の叔母からは再三にわたってABCC(現在の放射線影響研究所)に行って協力するように言われたこともありました。でも、大勢の人たちをひどい目にあわせて、アメリカの資料にするためのモルモットにされるなんて嫌で嫌でしようがなく、最後は叔母と喧嘩するようにして断りました。その代わりに妊娠した時には広島の市民病院に行ってしっかり診察してもらいました。

 被爆者健康手帳の番号は広島県の208番なんです。広島県で208番目に手帳を取得したということですから結構早かったわけです。叔父が中国新聞社の記者をしていた人で、被爆者の制度ができたことなども早くに教えてくれたおかげでした。

 私は終戦の年の秋に3ヶ月入院してから後は特に問題もなく健康に暮らしてくることができました。原爆に遭っているから、ということで余計に体のことには気をつけてきましたね。神経をとがらせて。

* * * * *

 戦後、広島の平和祈念式典には度々参りましたが、原爆資料館の入口までは足を運びましても階段の三段目くらいでいつも頭痛がしたり気分が悪くなったりして結局入館を諦め、情けなく思ってきました。修学旅行の引率で参りました時も同じような情況で、校長先生のお許しをいただいてみんなが退館してくるのを一人で待っていました。原爆資料館には70歳になるくらいまでは入れなかったんですよ。79歳の時、「今見なかったら、一生見ることはないんだと決心しましてね」、亡くなった従妹の妹と一緒に資料館に入って、「こんなもんじゃなかったよね」と言いながら見て回りました。

広島市平和祈念式典(2012年)
広島市平和祈念式典(2012年)
■教え子たちに囲まれて

 昭和20年(1945年)に女学校を卒業してすぐに小学校の先生になり、以来、ずっと瀬戸内海の島々で、昭和53年(1978年)まで小学校の先生をしてきました。最初に勤めた学校が井口島の中にある瀬戸田小学校で11年。次が同じ井口島の中の茗荷(みょうが)小学校で8年、そして大崎下島の大長(おおちょう)小学校に9年、本土の木谷小学校で2年、最後は瀬戸田西小学校に3年勤めました。

 京都に住んでいた息子夫婦に子どもができて、私の孫ですけど、その孫の面倒見るために、島の学校の先生辞めて、京都に引っ越してきたんです。息子夫婦が共働きしてたものですから。

* * * * *

 去年88歳になりましたけど、ここ何年かで小学校の教え子たちに米寿のお祝いをしてもらったんですよ。教え子たちがね、3組も京都に来てくれてお祝いしてくれたんです。私にはお金はないけど教え子だけが財産です。そんなにいい先生じゃなかったと思うのですけど。子どもたちに怪我をさせない、いい子にして遊ばせる、約束を守る、これだけをモットーにしていました。他の先生のように鍛えたりはしませんでしたね。教え子たちももうみんな70歳代ですけど、その教え子たちがこうしてお祝いしてくれるの、幸せ過ぎだと思います。

■紙一重紙一重で生かされてきた人生

 自分の被爆の体験思い起こしてみると、紙一重紙一重の差で、いい方へいい方へと行くように、恵まれてきたと思います。私は運が良かったと思います。

 被爆者として私が一番言いたいことはですね、広島のあの惨事でしたけど、救援救護の手配は物凄く良かったんですね。私はその良かった所を通ってきたように思います。

 それと教育です。自分が習ってきたことがあったために、水も飲まなかったし、自分で怪我の処理もできたわけです。経験とか勉強とかはしておかなくてはいけない、つくづくそう思いますね。

* * * * *

 私の孫がキリスト教の牧師になってましてね、岩手県の遠野の教会にいました時に、「おばあちゃん、平和の学習しに来てくれへんか?」と言ってくれましてね。遠野に行って私の被爆体験をお話したこともあります。

 それから今年中学一年生になるひ孫が去年の夏、「おばあちゃん広島の原爆に遭った時のこと話してくれる?」と言ってきたので話してやりました。そしたらその話を夏休みの課題にして提出したらしいんですね。先生がそれに共鳴して下さったとかで、学習発表会の時に取り上げて下さって、劇にしたと言っていました。

 私は若い頃から、どこかに出かけて行って「被爆した、被爆した」とお話するようなことはしてきませんでした。でも実際には被爆しておりましたので、求められればみなさんにお話しするんですよね。そのことがどこかで何かの役に立っていればいい、どこかでどなたかが聞いていて下さればいいじゃない、と言うぐらいの気持ちでいました。

* * * * *

 アメリカのオバマ大統領が広島に来ることになりましたけど、必ず核兵器をなくすことに努力して欲しいですね。

(了)     


教え子たちに囲まれて 平成27年(2015年) 前列中央が松浦悦枝さん
教え子たちに囲まれて 平成27年(2015年) 前列中央が松浦悦枝さん


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