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●被爆体験の継承 44

被爆者救護にあたった3姉妹の被爆体験

M・I さん

2016年3月1日(火)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

■広島県立吉田女学校

 広島に原爆が落とされた昭和20年(1945年)8月の頃、私は広島市から40kmほど離れた広島県高田郡吉田町(現在は安芸高田市)というところに居て、そこの女学校1年生でした。もともとは大阪に住んでいて、市岡にある女学校に通っていたのですが、戦争が激しくなってきて、大阪にいたのでは危ないということで、父だけ残して、母親と私たち3人姉妹が一緒に父の郷里である広島県高田郡吉田町に疎開したのです。

 引っ越したのは6月ですから、後から思えばもう終戦直前。わざわざ疎開しなくてもよかったようなものです。父は大阪の郵政局に勤めていたのでそのまま大阪に残っていました。吉田町に移って2ヶ月後に原爆。そのために私たちの人生は全然変わってしまいました。

 私たち3姉妹は当時、長女の真知子が16歳で女学校4年生、次女の真利子が14歳で女学校3年生、そして一番下の私が12歳で女学校1年生でした。父親の思い入れで、3人とも名前に“真”の字がつけられていて、とても仲の良い姉妹でした。3人揃って同じ広島県立吉田女学校に通っていたのですが、あの頃はもう勉強どころではありませんでしたね。女学校は私たちの住む家のすぐ隣にありました。私たちの住む家は2階建ての一軒家でした。

 吉田町は毛利元就の居城の吉田郡山城のあったところで、歴史のある、街全体がとてもいいところでした。

■女学校で被爆者の救護活動

 8月6日の日は、私たちは校庭に集合していました。そうしたらB29だと思われる飛行機が私たちの頭上を飛んでいくんです。「あらっ、今日はちょっと飛んでるコースも様子もおかしいのと違う?」と思い、広島の方向を見たら、モコモコモコモコってキノコ雲が見えたのです。今でもハッキリとあの光景は憶えていますよ。

 それから、次の日からどんどんどんどん、怪我をした人たちが吉田まで運ばれてくるようになってきたんです。負傷者が運び込まれたのは私たちの女学校ではなくて、少し離れたところにあった吉田小学校の方でした。

 私たち女学校の生徒は1〜2年生がみんな動員されて、運び込まれてきた人たちの救護にあたりました。怪我をした人たちは「水ちょうだーい、水ちょうだーい」って叫んでいました。身体中が爛(ただ)れていて、夏の暑い時ですから、蛆(うじ)虫がいっぱい湧いていました。それを私たちがピンセットで取ってあげるんです。せっかく救出されて運び込まれてきた人たちなんですが、それでもどんどん亡くなっていきました。火葬場なんかとても間に合いませんから、普通に物を焼くところに遺体が運ばれて、焼かれていました。こんな状況が1週間ぐらい続きましたね。あの情景は今でも鮮明に頭に残っていて忘れることはできません。

広島県の地図

 私たちは広島市内には行かず、ずっーと吉田に居て救護にあたりました。たくさんの負傷者、亡くなった人に接しました。今でも頭の中にあの蛆虫がのことが浮かんでくるほど強烈な体験でした。あの時一緒に救護に当たった人たちはみんな、後になって「3号被爆者」として被爆者手帳の交付を受けることになりました。「3号被爆者」とは、「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」と定められています。

 同じ女学校でも3年生以上の上級生の人たちはさらに広島市内の救護にも駆り出されて行きました。私の二人の姉もそうです。原爆の落とされた広島には30年間草木は何もはえないと言われたほどの惨状の街です。ですからあの活動は本当に大変だったろうと思います。

 姉たちの被爆の体験は後で詳しくお話しすることにします。

■教職の夢を果たせず

 戦争が終わって、一番上の姉が最初に大阪に帰りました。後に大阪で中学の社会科の先生になっています。二番目に大阪に帰ったのが私です。

 私は戦後6年間は吉田に残って、高校も吉田高校を卒業しました。私たちが高校2年生の時に学校も男女共学になっています。そんな時代でした。私たちは新制吉田高校の3期生にあたります。私は高校を卒業してから大阪に帰り、大阪のある大学に入学しました。大学では家政学部で児童心理を勉強しました。卒業と同時に小学校教師の免許もとったので本当は私も教職に就きたかったのですが、あの時代学校の先生の欠員がなかなかなくて、希望通りにはいきませんでした。

 しかたなくある携帯ラジオのメーカーに会社勤めをしたのですが、その時私は肺結核になってしまい1年間入院することになりました。24歳の時です。担当医の先生からは「肺の悪い箇所は切った方がいい」と勧められましたが、母が「絶対に身体にメスを入れてはいけない」と言って、他の先生に診てもらうことになり、結局切らずに済むことになりました。もしメスを入れていたらこんなに長生きはしていないでしょうね。

 私が入院している間は、一番上の姉にとても世話になりました。学校勤めの帰りに毎日病院に来てくれて看病してくれたりしました。

■公文式教室とともに歩んだ私の人生

 退院してからは自宅で塾を開き、一対一で教えるやり方で子どもたちに数学と英語を教えていました。子どもたちみんなから喜ばれる、とてもいい塾だったのではないかと思っています。

 そんなある日新聞で公文式教室の教師を募集しているのを知り、行ってみようかなと思って応募したのが、私と公文との関係の始まりです。以来39年、人生の大半を公文の教師で頑張ってきました。

 公文での私はモーレツ社員でしたね。東京の新宿にも2つ教室があって、関西の西宮にも教室があって、両方やるんですから、いつも新幹線で往復しながら仕事をする有様でした。それはしんどいことでしたけど、楽しくもありました。何より子どもたちのことがとても好きだったので、それが一生懸命やれる一番の理由だったと思います。

 公文では障害児も担当しました。ダウン症の子とか、自閉症の子とか、小児マヒの子もいました。そういう子たちもちゃんと教えたら力がつくんですよ。どんな子どもでも救われますからね。公文では障害のある子たちだけの教室を作ったりはしないんです。普通の子たちと一緒の教室でやるんですよ。だからいいんですね。

 私の夫の I も他から公文に移ってきた人です。公文式の本を執筆することを仕事にしていました。そういう縁から知りあって結婚したわけです。ただお酒が好きで、体を悪くして、59歳の若さで亡くなってしまいました。

■二人の姉を看る

 私は公文の教室を69歳までやって辞めました。定年というのはないのですが、自分の病気と体のことも心配になって来ましたから。退職した後は東京に住むつもりで家まで購入していたのですが、西宮にいた一番上の姉の面倒を見なければならなくなり、関西に帰ってくることにしました。

 一番上の姉は定年で教師を退職していましたが、リウマチを発症して、車椅子生活を余儀なくされていたのです。病院への送り迎えなど全部私がお世話をすることになって、姉孝行をしました。その姉も平成26年(2014年)に85歳でこの世を去りました。

 下の姉は、丸岡文麿さんという人と結婚して丸岡姓になっていました。この丸岡さんも広島の被爆者なのですが、中学校でとてもひどい被爆体験をされていて、甲状腺や肝臓のがんなどで入退院を繰り返していた人です。夫婦は京都の伏見区に住んでいましたが、夫が働けないので、姉が会社勤めをしたり、集合住宅の管理人をしたりして生活を支えていました。姉妹の中でも一番苦労した人ですね。

 私が公文式やっているのを見て姉も公文式の教師をやりました。彼女も子どもが好きで、特に数学が好きでしたからね。でも夫の状態がますます悪くなり、その介護のために私より早く公文を辞めることになりました。夫の丸岡さんも平成11年(1999年)に亡くなっています。

 その後姉の方も体調を悪くしてきて、平成16年(2004年)頃から、今度はこちらの姉も私がお世話しなければならなくなりました。そのために私も京都に来て住むようになったわけです。姉は今は施設に入って暮らしています。

■姉たちの本川小学校での救護被爆体験

 (この項は次姉の行なった原爆症認定訴訟の裁判記録なども参考にしています)

 原爆が落とされてから2日後の8月8日、学校(広島県立吉田女学校)から非常招集がかかり、昼前に全員が登校しました。「広島が大変なことになった、救援に行って欲しい」という学校長の命令です。約100人の生徒が2台の軍隊のトラックに立ったままで乗せられて、40km先の広島市に向かったのです。長姉の真知子、次姉の真利子とも一緒でした。姉たちはこの広島行きは本当はとても嫌でした。

 広島市に着くまでに2回の空襲警報があり、その都度トラックから降りて避難したりしています。そのため広島に着くまでに3時間近くもかかりました。広島市内に入ると生徒らはそれぞれの目的地の近くで数人づつトラックから順番に降ろされ、トラックが入れない所からは、目的地まで歩いて行きました。市内の火災はおさまっていましたが、橋は落ち、人、馬、牛の死骸はそのままで、瓦礫の上に積み重なり、暑さのために干からびていました。川の中でも死んでいました。そのような情景の中を目的地の本川小学校まで1時間くらい歩いていきました。本川小学校からは、原爆ドームがすぐ近くに見えました。

本川小学校平和記念館(被爆当時の状態をそのまま保存した被爆建物。爆心地から350b)
本川小学校平和記念館
(被爆当時の状態をそのまま保存した被爆建物。爆心地から350m)

 本川小学校の校舎は、骨組みだけが残っている状態で、瓦礫を片付けて講堂を臨時救護所にしてあり、蓆(むしろ)の上に負傷者が寝かされていました。姉たちは、早速、負傷者には水を飲ませてはいけないことなど、負傷者の世話をする説明を受け、負傷者の世話の手伝いを始めました。手袋などはなく、作業はすべて素手で行ないました。負傷者の傷口の蛆虫や膿を取ったり、ガーゼの交換をしたり、バケツに入ったおかゆを竹のしゃくしですくって口に運んであげたりしました。でも、おかゆを食べる人はほとんどいませんでした。

 臨時救護所には、昼夜の別なく、「水をくれー、水をくれー」という声があふれていました。子どもたちは、「お母さん、お母さん、痛い、痛い」「お父さん、お父さん、痛い、痛い」と言っては泣いていました。泣き声が聞こえなくなったと思うと、もう亡くなっていました。死亡者が出ると、校庭に穴を掘って運び入れ、ガソリンをかけて焼いていました。そこら辺りは白骨の山でした。昼も夜もひっきりなしに遺体を焼く火が燃え続け、その煙とにおいはとても酷い(ひどい)ものでした。姉たちは、毎日、被爆によって亡くなった人の遺体を焼く灰や煙を吸い込んでいました。

 校庭では夜になるとあちこちにリンが燃え広がり、怖くて眠れませんでした。一緒に救護に来ていた友だちと毎晩のように「帰りたい、帰りたい」と泣いて過ごしました。姉たちには、夜になっておむすびが支給され、水道から流れている水を飲んで過ごしました。そして負傷者した人たちと一緒になって講堂の床にござを敷いて寝ていたのです。

 救護作業は終戦の日まで8日間続きました。8月15日に本川小学校の校庭で玉音放送を聞き、ようやく帰宅することを許されました。あの時は友だちとみんなで泣きました。

 救護活動をしている間も、体がしんどく、精神的にも強いショックを受けていました。吉田町の自宅に帰宅してからすぐに全身に倦怠感があり、立ち上がると立ちくらみがするようになり、夜も昼も眠れない日々が続きました。8月の終わりくらいから下痢をするようになり、帰宅後1ヶ月の間に歯茎からの出血、髪の毛が抜けるなどの症状が出ました。もともと大病を患ったこともなく、おてんばだった姉妹ですが、吉田町に帰ってからは身体がだるくてしようがなく、「しんどい、しんどい」と言っては、その都度母親から叱られていました。その後も下痢は続き、よく熱を出してうなされることが多くありました。風邪もひきやすくなっていました。

 次姉の真利子は、本川小学校でのあの時の体験を思い出さないように、忘れよう、忘れようとしてきたそうですが、あの情景はどうしても頭にこびりついたままになっていて、今日に至るまで睡眠薬と精神安定剤を服用しなければ眠ることができない状態になってしまいました。

左から私、次姉、長姉
左から私、次姉、長姉
■次姉の闘病と原爆症認定訴訟

 3姉妹の中でも特に次姉の真利子はいろんな病気に襲われ、それと闘ってきた人でした。壮絶な人生だったと思います。最初は41歳の時に両足の半月板損傷で手術を受け3ヶ月入院しました。リハビリは続けてきましたが徐々に足の変形がきつくなってきて、今では立っていることも苦痛で、歩くのも容易ではありません。44歳の時に突然40度の高熱を出して救急車で搬送されたことがあります。腹膜炎で手術を受けましたが、手遅れだったら亡くなっていたとのことでした。52歳の時の人間ドッグで、糖尿、肝炎、肺気腫、高コレステロールがみつかりました。現在も治療継続中です。64歳で白内障手術、65歳で足の軟骨浮腫手術、72歳の時には腸閉塞を起こして18日間入院しました。

 平成15年(2003年)5月に左の乳癌が見つかり、6月に切除手術しました。72歳でした。さらにこの年リンパ腺癌も見つかってリンパ節切除の手術と、抗癌剤投与の治療も受けています。その後も声帯にポリープができて切除手術を受け、経過観察を続けている状態です。

 次姉は平成15年(2003年)に被爆者援護法に基づく原爆症認定の申請をしました。発症した乳癌は原爆が原因であることを認定してもらうためです。ところが翌年の平成16年(2004年)になって厚生労働省から申請を却下する通知が届きました。広島市内にいて直接被爆したのではなく、2日後に市内に入って救護した人に放射能の影響などはない、というのがその理由だったようです。下痢や発熱、脱毛などあんなに酷い被爆の急性症状を、一緒にいた多くの人が経験しているにも関わらず認められなかったのです。

 あの頃、被爆者のみなさんが集団で原爆症認定を求める裁判を起こしていました。姉も原告の一人に加わって裁判に訴えることにし、平成18年(2006年)7月28日に提訴しました。裁判では平成19年(2007年)9月に本人尋問というのがあり、姉も法廷で証言しています。車椅子で証言台に進み、耳が聞こえにくくなっていたので、弁護士さんが傍にいて援助してもらいながらの証言でした。証言の最後に「私たちは好きで広島市の救護に行ったのではありません。命令とは言え、15歳ぐらいの若さで大変な目に遭いました。国はあたたかく私たちの今後の不安を取り除いて欲しいです」と訴えました。

 原爆症認定集団訴訟は全国で300人を超える人たちが原告になって行なわれていました。そしてほとんどの裁判が被爆者の訴えを認め、国の認定行政が間違っているという判決が続きました。こうしたことに押されて国は2008年(平成20年)の3月に原爆症認定審査の「新しい認定審査方針」を決めました。まだまだ不十分なものではありましたが、従来よりは認定される範囲が広くされました。そのおかげで姉の場合は、裁判の判決が出る前に認定されることが決められました。

 判決を待たずに認定された人も、判決によって認定された人も、同じ被爆者のみなさんの大きな運動があって勝ち取られたものでした。平成20年(2008年)7月18日、判決の日にはみんなで喜びを分かち合っています。

(了)    

平成20年(2008年)当時の新聞記事
平成20年(2008年)当時の新聞記事

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