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●被爆体験の継承 45

原爆被害も乗り越えて生きてきた85年

K・E さん

2016年7月8日(金)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

■故郷は中国福建省

 私は1931年(昭和6年)5月27日に中国の福建省で生まれました。そして3歳か4歳の頃日本の長崎にやって来たんです。私の父は中国で蜜柑畑と米を作っていて、少しぐらいはお金のある中農程度の農業をやっていました。その父が肺結核になって、養生方々日本の長崎に行ったんです。長崎には中国人の親戚や友人もたくさんいたようでしたから。父にとってはこの長崎の暮らしがとても気に入ったんでしょうねえ、最初は1〜2年ぐらいのつもりで行ったんですが、とうとう中国から家族全員を長崎に呼び寄せることになってしまったんです。

 私は5人兄弟で、長女、長男、次男、私、弟の順でした。姉だけが中国に残って、中国に持っていた財産を姉夫婦が任せられることになりました。長男は結婚していて夫婦で大阪に住んでいました。ですから、次男以下の私たち3人兄弟と両親との家族全員が長崎に渡って暮らすことになったんです。幼い頃に長崎に来て、とうとう最後までこの日本で生き続けることになりました。

 あの頃は日本と中国の間の行き来は結構自由でした。パスポートなんてなかったと思います。長崎と上海との間には定期航路もあって、長崎からだったら東京に行くより上海に行く方が早く着くほどでした。

 福建省に住んでいた頃の思い出は3歳か4歳頃までなのでほとんど記憶に残っていません。川の傍で遊んでいたことを微かに覚えていることぐらいですかね、中国の蜜柑の木は背が高くて木に登って蜜柑を取るんですけど、その下に落ちてくる蜜柑を拾って食べたり、遊んだりしていたことなど、その程度ですかね、覚えているのは。

 中国に行ってみたことは戦後1回だけあります。福建省同郷会というのがあってそのツアーでね。日中の国交は回復してましたけど、中国はまだ未発展の頃でしたね。もちろん私の生まれた家などはもうまったく分かりませんでした。

中国の地図と福建省の位置
■長崎市新地で育つ

 私たちが長崎に渡った頃、父は中華料理の店をやってたんですよ。場所は今の中華街のあるあたりです。周りには中国の人がたくさんいました。今は中華街と言ってますけど、昔はあそこは新地と言ってたんですよ。中華街と言われるようになったのは最近でしょう。今でも正式な番地は新地だと思います。この新地の一角で中国の人達が力をあわせて暮らしてたんですよ。韓国の人たちが大阪の鶴橋に集まってやっているようにね。

 昔は中国の人たちは貿易の商売を中心にやってました。鱶(ふか)のひれやら海鼠(なまこ)やらアワビやらを乾燥させて、日本から中国に送ってたんです。そういう人たちが新地に集まってたんですよ。

 今のように中華料理店がいっぱい並ぶようになったのは戦後ですよ。終戦になって、日本の人たちは食べるものがなくてね。それで食べ物屋やったら流行ったんですね。

 長崎で通った小学校は中国人のたくさん行く時中(じちゅう)小学校と言う学校でした。大浦の孔子廟の中にあったんです。戦後子どもが少なくなって、この小学校もなくなったんだと思います。戦争中は中国は日本にとって敵国ですからね、私たちは学校に通学する途中よくいじめられたりしたもんです。

現在の中華街の一角
現在の中華街の一角
■原爆の閃光と爆風に襲われる

 原爆が落ちた時私は14歳になってましたけどまだ小学生だったんです。長崎に来て言葉がすぐには分からなかったので進級が少し遅れていたんですね。私の家は爆心地から3.5`ほどの距離にありました。その日の朝は、前の夜からの空襲警報が警戒警報に変わっていたので、友だち5〜6人と自宅の庭で遊んでいたんですよ。夏休み中でした。

 B29が飛んできて、北の方向に行くのを眺めていて、日本の高射砲が打ってはいるんですが届かないなあって思いながら見ていました。その時突然ピカっと光ったんです。光ったのが県庁の上の方だったので、県庁に焼夷弾が落ちたんじゃないかとその瞬間思いました。しばらくしてウワァーッと物凄い爆風が来たんです。いろいろな物がゴロゴロ飛んできて、自宅の屋根瓦が全部飛んでしまって、壁土が崩れ落ちて、窓のガラスがみんな飛び散ったりしました。早よ逃げんといかんと言って、大急ぎで自宅の庭にあった防空壕に入りました。

 その時にガラスの破片が胸の真ん中に当たって刺さって、その傷跡は今でもハッキリと残っています。

 原爆が落ちてから1週間ぐらいしてから、高熱が出て、おう吐、めまい、鼻血の出血が続きました。放射能を浴びた急性症状だったと思います。そして1〜2ヶ月してから、股関節の周囲にリンパ腺が腫れあがって、さらに左足膝の裏側にもリンパ腺が腫れあがりました。近くの朝永病院で手術して除去してもらいましたけど、今でもあの時の傷跡は深く残っているのです。この時は1年以上ほとんど歩くことができなくて、自宅での療養を続けることになりました。

8月8日夜 平和公園の「平和の灯」
8月8日夜 平和公園の「平和の灯」
■長崎から飯塚、京都へ

 小学校卒業してから中学は海星中学に進学しました。海星は戦後の学制改革で中学校・高等学校になって、高校も海星高校を卒業しました。時中小学校から海星中学に入れる中国人は1学年で4〜5人だけという枠があってその中の1人だったんです。ですから1クラスに中国人は2人か3人ほどでしたね。海星高校を卒業した中国人はみんな東京なんかに出て行きましたけど、私は長崎に残って就職することにしました。とは言ってもあの頃は就職難の時代で就職もなかなか難しいものでした。その上私は外国人だということで余計に就職は厳しかったです。20歳〜21歳の頃になって、やっと新地の中華料理店に見習いとして就職することができました。ところが就職して間もなく肺結核になってしまい、11ヶ月も自宅療養することになったりしました。

 1960年(昭和35年)の3月に、その頃私は長崎で中華料理店に勤めていたのですが、すすめる人があって結婚しました。29歳の時でした。妻となる人も中国人でした。同じ年の12月、福岡県の飯塚市で新しく中華料理店を出す計画があって、私に新しい店の経営をやってみないかと誘われ、飯塚に移りました。その年には長男も生まれて、1960年(昭和35年)はいろんなことが一度にあった年でした。

 1964年(昭和39年)の1月に今度は京都に移りました。妻のお父さんが京都で西洋料理の店をやっていたのですが、その後を中華料理店に変えてもいいからやってくれないかと言われて、それではということで京都に移ってきたんです。それ以来京都で中華料理店をやる人生となりました。

■被爆者手帳と闘病

 被爆者手帳は1972年(昭和47年)に京都で交付してもらいました。それまでそんなものがあるなんて全然知らなかったのです。父が亡くなって、葬式のために長崎に帰った時、親戚の人から「被爆者手帳持ってるか?」って教えてくれたんです。「どんなふうに使うのかもよう分からんけど、いつか役に立つこともあるやろう」って言われて、じゃ取っとこうかということになって京都府に申請したんです。手帳の交付はとてもスムーズでした。蜷川府政の頃ですからね、京都の担当の職員の方もとても親切に教えてくれました。

 手帳が交付されてすぐに人間ドッグを受けて、その時に高血圧と糖尿病、尿酸値異常の病気が見つかったんです。それからというものいろんな病気が相次ぎ、手術や入院を繰り返すことになりました。1995年(平成7年)に白内障手術、1999年(平成11年)に痔の手術、2003年(平成15年)大腸ポリープ摘出手術と蓄膿症手術。2009年(平成21年)には甲状腺機能低下症だと診断され、通院と投薬治療を今も続けています。そして去年(2015年)の10月、左腎腫瘍、下大静脈腫瘍塞栓と診断されました。

 体の倦怠感というのは原爆に遭って以来今日までずーっと続いています。私たち家族はみんな一緒に被爆してるんですが、父は心筋梗塞で、母は子宮がんで、兄も心筋梗塞で、みんな既に他界しています。

■原爆症認定申請

 私が長く苦しんできた高血圧と高脂血症、白内障、甲状機能低下症などの病気は長崎で原爆に遭ったことが原因だと思っていましたので、2013年(平成25年)7月に原爆症認定申請を提出しました。しかし翌年の6月になって申請を却下する通知が届きました。高血圧や高脂血症は原爆が原因では発症しないというのでしょう。また爆心地から3.5`離れていると白内障や甲状機能低下症の原因にもならないとされたのだと思います。

 諦めていたのですが、2015年(平成27年)になって左腎腫瘍と下大静脈腫瘍塞栓が診断されたのでもう一度申請することにし、今年(2016年)の1月に二度目の手続きをしました。今度は4ヶ月後に認定の通知が届きました。まるで「原爆症の認定をして欲しかったら癌になってから来い!」と言われたみたいな気がしました。

■55年間連れ添った妻との別れ

 次男、三男が生まれたのは飯塚でしたけど、息子たち3人が育ったのは京都でした。ただ子どもたちにとって京都での暮らしはなかなか厳しかったと思います。中国人の子どもだということでいじめられることが多くてね。「中国人なのに何で日本の学校に来るんや!」と言われたり。遠足に行った時に水筒を投げつけられたりしたこともありましたよ。子どもたちが自分の考えでやったんじゃないんですね。みんなその子たちの親から教えられてやったことですよ。私の子たちも作文に書いていじめのことなどを訴えたりしたこともありました。先生たちもきちんと対応してくれてやがて解決していきましたけど。

 3人の息子の内2人は日本に帰化して、今ではみんな元気にやっています。孫も全部で7人になりました。

 妻は去年(2015年)の6月19日に亡くなりました。乳がんだったんですけど肺や肝臓にも転移していましてね。結婚してから55年、ずーっと二人でやってきたんです。飯塚でも京都でも周りからはよく「中国人や」と言われて差別されたりいじめられたりもしました。それだけ苦労も多かったですけど、よくやってくれたと感謝しています。



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