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●被爆体験の継承 46

疎開先から見た燃える広島

伊藤瑠美子さん

手 記

 伊藤瑠美子さんは、京都「被爆2世・3世の会」の会員の堀照美さんのお母さんです。広島市在住です。
 ご自身の被爆体験の手記を寄稿していただきました。

伊藤さん
■学童集団疎開

 1945年4月、私は広島市立舟入国民学校6年に在学しておりました。当時、私の家族は私と母(49歳)姉(19歳)の3人でした。(父は職業軍人でしたが、病死致しました) 同年4月15日、学童集団疎開のため3年生以上6年生の生徒60名は、3人の先生に引率され爆心地から15km離れた安佐郡上深川村の正現寺に行きました。

 柳行李に入れられた私物と布団は、すでにお寺に届いていました。
 通学はお寺の地元の狩小川国民学校でした。授業は殆ど無く開墾作業の萱刈り等の手伝いをいたしました。

 お寺での食事は、庫裏に長机を並べ生徒全員で摂りました。食糧不足のため私達は何時も空腹状態で痩せておりました。登下校の折、道端のすいば、すかんぽ等草を食べていました。食事は地元の婦人会の方が作ってくださいました。
 おやつは、各自が縫った小さな布袋に、妙り大豆10粒を入れていただくのが決まりでした。

 夜は本堂に布団を敷き詰めてやすみました。疎開児童は、兄弟は別として近隣で親しくしていた友達は殆ど無く、中々打ち解けることは出来ませんでした。布団をかぶり泣いている子どもが沢山いました。トイレは外庭にあり夜が明けるまで我慢したものです。

 本堂の周囲に各自の柳行李を置き、そこが居場所で、行李の上で葉書を書いたり本を読んだりいたしました。

 入浴は週2回位、五右衛門風呂に半数ずつ交代で入りました。洗濯は各自でしました。疎開から暫くしますと、衣服、頭髪にしらみが湧き始め、本堂前の廊下に子どもがずらりと並び、目の細かい櫛で髪をすいて、しらみの卵を取るのが一時期日課になっていました。衣類は煮沸していただきました。

■疎開先から見た燃える広島の街

 8月6日の朝は快晴でした。私達は何時もどおり登校し、校庭での朝礼で校長先生のお話を聴いておりました。B29の爆音に生徒は皆空を見上げました。

 真上のまぶしい日差しの中に大きな機影がみえました。飛び去った直後、単1電池位の大きさに見える金色に光る物を2個残していました。その瞬間ピカッと光り周囲が真っ白になりました。そしてドカンと言う凄まじい音に、学校が爆撃されたと思いました。私は訓練どおり両手で両目を覆い親指を両耳に入れ校舎の側に伏せました。暫くして先生の誘導で竹薮に避難し、広島市内方向の空に、赤と黒の入り混じった雲が生き物の様にもくもくと大きくなり空に広がる様子が見え、「気持ち悪いね」と口々に言い合いました。

 お寺に帰りますと、御院家さんが「ドン」と音が響いた後、窓が1枚外れたと言われました。当夜は、小高い丘の上に建つお寺から、真っ赤に燃える広島市内が見え、私たちは家族の無事を祈りながら泣き続けていました。

 燃える火は3晩見えました。

原爆投下時の広島市・近郊地図
■胸が張り裂けそうになる家族の消息

 8月9日芸備線が開通し、男性の先生が、広島市内に生徒の家族の情報収集に行かれました。翌日生徒を一人ずつ先生の部屋に呼ばれ家族の消息を伝えられました。歯の治療で広島市内に帰っていた男子3人は亡くなっていました。

 私の家族は、私の疎開後道路拡張のため自宅が半分壊されることとなり、段原の借家に転居しておりました。私は最後に部屋に呼ばれ、先生から「段原までは行かれなかった。広島は全滅なので家族の事は諦めなさい」と告げられました。

 母は「あなたを置いて死にはしない。必ず迎えに行くから」と何度も言っておりましたことを信じながらも、敵が上陸して来たら1人でも竹槍で殺して、私も死ぬるのだと考えておりました。

 子どもたちどうし、家族の死について互いに触れる事はありませんでしたが、胸が張り裂けそうな気持ちは同じだったと思います。

 8月13日、先生から婦人会の方のお宅に行くように言われ出掛けました。家に入りますと、薄暗い土間の板の間に黒いもんぺ姿の母が居りました。一瞬幻かと思いました。私は母に抱きつき泣きました。姉は無事とのことでした。

 母は腕や足に怪我をしていました「杖をつけば何とか歩けるようになった」と言いましたが、僅かな段差でも足が上がらず這っていました。面会は短時間でした。私は駅まで送っていきました。階段や汽車をよじ登る姿は、今も思い出すたび息苦しい思いが甦ってきます。

 先生からの口止めもあり、私の家族が生きていた事は誰にも話しませんでした。母との面会以降私は一人でいることが多くなりました。

■大勢の怪我をした人たち、亡くなった人たち

 当時の夏休みは8月10日から20日まででしたが、8月6日以後、登校はいたしませんでした。先生の引率で川に泳ぎにいっているか、自由行動でした。

 8月15日、私は一人で学校に行きました。教室には、広島市内から逃げてきた大勢の怪我人が収容されていました。上級生の女子が傷の手当ての手伝いをしていました。上級生の男子は亡くなった人の遺体を戸板に乗せて河原に運び大人の人が火葬していました。(約700人収容、その内数十人が死亡)

 私は、婦人会の人から「怪我をした人の傷口に湧いた蛆虫(うじむし)をこの割り箸で取ってあげて」と言われましたが、教室の中に入ることがどうしても出来ませんでした。

 薬缶に水を汲んで運ぶことが精一杯でした。(疎開児童には、救護手伝いの依頼は無かったと思われます)

 婦人会の人に、正午に大事なお話があるから早くお寺に帰るように言われ、走って帰りました。御院家さんから、戦争に負けたと聞き皆茫然としていました。

■瓦礫の先に海まで見通せた

 翌16日午後、思いがけず姉が迎えに来てくれました。「敵が上陸すると女、子どもは何をされるか分からないので迎えに来た」と言いました。正現寺での家族の迎えは、私が一番早く先生方は大変喜んでくださいましたが、皆に対して「私だけが」と言う思いで申し訳ない気持ちでした。

 汽車が広島駅に着いたのは夕方近かったと思います。駅はコンクリート部分のみ残り真っ黒くすすけていました。駅前に出ると家も無く霞んだ瓦磯の向こうに瀬戸内海に浮かぶ似島(10Km先)が間じかに見えたので驚きました。道路の中央部分は大体片付けられていましたが、木や電柱は黒く焦げ電線が垂れ下がっていました。

 蝿が多く異臭が鼻をつきました。比治山の上から煙が上がっているのが見えました。(遺体を火葬する煙だったと思われます)

 廿日市の知人宅に着いたのは薄暗い時間でした。久しぶりの白いご飯に感激しました。一泊させていただき翌日、家族が8月14日に疎開しました佐伯郡上水内村の伯父の家に着きました。伯父宅には5家族が疎開いたしておりました。

■母と姉の被爆

 母は、8月6日の原爆投下時勤務先の日本通運(広島駅前、松原町)の建物2階に居りました。建物はつぶれ下敷きとなり暫く失神をしていました。身体の上の材木をのけながら、明かりを求めて窓らしき所から這い出しました。全身打撲と手足に深い傷を負っていました。なんとか這って家にたどり着きました。家はほぼ全壊、至る所にガラス片が突き刺ささっていました。母は傷口を水で洗い衣服を裂いて覆い横になっていました。

 段原は比治山(海抜約70mの小山、爆心地から1.8km)の東裏手にあり殆ど火災を免れました。

比治山から広島市内をのぞむ
比治山から広島市内をのぞむ

 姉は、鉄道局(宇品)に勤務していました。ピカッと光った瞬間机の下に入り無事でした。同僚の人の中には、爆風により壊れた窓ガラスの破片が身体に刺さり、亡くなった方もありました。

 誰しもが、自分が居る建物だけが爆撃をされたと思い、外に出てはじめて全市が破壊されている事が分かりました。

 姉は、旧宇品線伝いに自宅に戻りました。母が瓦磯の中に横たわっていました。姉は母を背負って、食糧を分けていただいていた井口(自宅から約6km)の農家をめざしました。主に国道2号線を辿りました。途中「伊藤さんおにぎりを食べて」と渡してくれた人の顔は倍に腫れ上がり目は糸のように細くなり、名前を聞くまで誰だかわかりませんでした。

 似島へ怪我人を運ぶと言うトラックはいっぱいで、乗る事は出来ませんでした。「私をここに置いて貴女は逃げて」と言う母を、若い男性が暫く背負ってくれました。姉は、母を叱咤激励しながら沢山の人に助けられて農家に着いたのは夜半でした。その時の事を、後で農家の人から「おばけが立っているのかと思い腰が抜けそうになった」と聞きました。

 姉は母を、近くの救護所に治療に連れて行ったようですが、薬も無く怪我人は大勢で、殆ど治療は出来なかったようです。農家の方に売り物にならない桃を毎日分けていただいたのが一番の薬になったと、のちに母は言っておりました。

 姉は体調が少し良くなった8月10日頃より何回か自宅に戻り、防空壕の中に入れておいたものだけが無事で、その中の重要な物を持ち出したようです。その姉の留守中に、母は私に面会に来たらしく、暫く姉は面会のことは知りませんでした。姉は、私を伯父宅へ連れ戻った頃より、歯茎からの出血、血便が始まり暫く続きましたが、医者である伯父の治療を受け、母、姉ともに徐々に回復に向かいました。

旧宇品線跡
旧宇品線跡
■母も姉も病気と闘いながら

 私は、1946年女学校に入学、広島市内の従兄の仮普請の家に同居させてもらい通学いたしました。母は、父の軍人恩給がGHQの指令により1946年廃止となり、無収入となったため1947年、広島市内の寮に住み込みで働き始めました。姉は、伯父の医院の手伝いをしていましたが、1948年鉄道局に復帰いたしました。

 家族三人が同じ屋根の下で生活を始めたのは基町の市営住宅に入居できた1948年でした。

 母は原爆について、「生き地獄だった。黒焦げの遺体は皆両手を上げ、何かを求めるように空(くう)を掴んでいた」とだけ話しました。腎臓を患い、度々貧血で倒れ、体中癌に侵されて1974年逝ってしまいました。

 姉は原爆について、記憶が抜け落ちて殆ど思い出せないと言っておりましたが、最近になって、道路にうずくまっていた被爆者が、手を伸ばし「助けて下さい」と言う人々を見捨てて逃げた。話せないと言いました。

 姉は1950年結婚、出産いたしましたが、三人の男の子を原因不明の病気で一歳まで育つことなく亡くしています。甲状腺機能低下症や脳梗塞など発症しましたが、現在なんとか日々を送っています。

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 当時は、病気の発症と原爆との因果関係を否定する医者が多かったと思います。



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