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●被爆体験の継承 48

父の被爆体験、母の戦争体験

隅田百合子さん(被爆2世)

2016年11月7日(月)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

 私が小さい頃、私の父親のことは家族みんなが伏せていたのかどうか、あまり話を聞くことはありませんでした。それでも私のお祖母ちゃんや叔母さんたちから断片的に聞かされてきたことが頭の中に残っています。それをつなぎ合わせながら、父のこと、そして私を女手一つで育て上げてくれた母のことを語ってみたいと思います。

■父の被爆体験

 私の父隅田英美は大正13年(1924年)、子年の生まれです。広島市の西白島(にしはくしま)にあった実家で生れ育っています。父は4人兄弟でした。父が長男で、次に弟、その下に双子の妹がいました。父は勉強がよくできたようで、広島の旧制修道中学校を卒業して、清水高等商船学校に入学しています。清水高等商船学校は昭和18年(1943年)創立とされていますから、1期か2期の入学だったということになります。生徒会長もしていたそうです。

 ちなみに父の弟(私の叔父さん)も旧制修道中学校を卒業して江田島にある海軍兵学校に入っていました。

 昭和20年(1945年)夏、父は本当は8月10日頃広島に帰郷する予定でした。それが何かの事情で8月5日に実家に帰っているんです。翌8月6日、父は広島の実家で被爆しました。20歳の時です。ただ、白島で被爆した時の様子がどのようであったのかは、一緒にいて被爆したはずのお祖父ちゃんからもお祖母ちゃんからもしっかりとは聞いていないのです。

 父の双子の妹(私の叔母たち)の内の一人は千鶴子さんといって安田高等女学校の生徒でした。8月6日、千鶴子さんは学徒動員によって市内の建物疎開作業に出掛けていました。朝は家族みんな一緒に食事をして、それから出かけて行って、そのまま帰って来なかったんです。父はこの妹を必死になって捜し回りました。広島中を歩き回って、倒れたり、亡くなっている人の顔を一人ひとりめくるようにして捜しました。しかしいくら捜しても、何度も何度も広島の街を捜し回りましたけど、結局見つかりませんでした。千鶴子叔母さんの遺体は今も見つかっていないままです。

 父は妹を捜し回りながら広島市内のあまりにも悲惨な状況を見てきました。その様子は、もう一人の妹(私の叔母の隅田多鶴子さん)に語っています。父もその後で、歯茎から血が出たり、髪の毛が抜けたりする症状を経験しています。

 戦後父は商船学校を卒業し、日本郵船に入社し外国航路の船に乗船することになりました。

現在の安田女子高校に設置された慰霊碑と刻印された三百十余名の死没者名簿(叔母・隅田千鶴子の名前も)

現在の安田女子高校に設置された慰霊碑と刻印された三百十余名の死没者名簿(叔母・隅田千鶴子の名前も)
現在の安田女子高校に設置された慰霊碑と刻印された三百十余名の死没者名簿(叔母・隅田千鶴子の名前も)
■片腕を奪われた母の戦争体験

 私の母隅田イトは大正15年(1926年)、寅年の生まれです。出身は新潟県なんですが、昭和20年(1945年)、19歳の時に知人を頼って東京に出ていました。東京は何度も大空襲、空襲に襲われていますが、その内の何度目かの空襲で母は大きな被害に遭いました。爆弾が落ちてきて、周囲に飛び散るような爆弾だったそうで、それが母の右手に当たって大怪我をしました。当時は医療設備も充分でなかったようで、右手は切断せざるを得なくなりました。19歳の若さで右手、右腕を失ったのです。

■父と母の出会い

 戦争が終わって、父と母とはどこかで出会う機会があり、右手を失った母と被爆者だった父とが恋愛をし、結婚しました。しかし、家族やみんなに認められての正式な結婚ではなかったようです。妻になる人が片手だと言うことを父は家族に言い出せなくて、東京で二人だけで生活していたようです。

若い頃の母
若い頃の母

 父は外国航路の貨物船に乗っていましたので、航海に出ると母と会えなくなります。このためたくさんの手紙をやりとりして心を通わせていました。その手紙がトランクにいっぱい詰め込まれて保管され、残されていました。私が高校生ぐらいの時のある日、こっそり手紙の一つを抜いて見たことがあるんです。「あなた(母)は強い人だから、僕は子どもが好きだから、結婚したら子どもを作って、学校の近くに文房具店をやったら、毎日子どもたちが来てくれていいんじゃないかな」とか、「君は僕の夢だ」とか、「僕が宝くじを当てたら、あなたはしっかりものだからやっぱりあなたが管理するでしょうね」とか、いろんなことが書かれていました。

 今にして思うのは、右手を失くした女性でもパートナーに選んだ父は偉い人だったんだなあと。そのことを実家の親達に言えなかったのはいろんな事情があったんでしょうけど、そういう女の人を選んだ父は立派な人だったんだと。

■アトミック・ボーイ

 父は、戦後になって初めて日本からアメリカに渡った船に乗っているんです。着いたのはサンフランシスコだと思うのですが、当時はまだ日本とアメリカとの間に国交がない頃なので上陸はできなかったようです。ところが船の航海日誌から「日本から来た船にアトミック・ボーイの乗組員がいる」ということが分って、「降りてこい」ということになりました。初めてアメリカに来た被爆者だということで、ホテルに監禁され、2〜3ヶ月いろんな検査、チェックを受け、調べられました。待遇はすごく良かったようです。父について残されている被爆体験にまつわる数少ない出来事の一つです。

■私が生まれた2ヶ月後、異郷の地で父は殉職

 昭和27年(1952年)、第一子となる私の兄が生まれました。ところがこの兄は生まれて2〜3ヶ月で亡くなりました。父が被爆者であったことの影響かどうかは分っていません。

船員時代の父(下)
船員時代の父(下)

 翌年の昭和28年(1953年)5月14日、私が生まれました。ですから本当は私は2人目の子なんです。私が生まれると、父は「この航海を最後にする。これが終わったら船を下りて、陸の仕事をする」と言って、そういう覚悟をして最後の航海に出かけて行きました。

 しかし、私が生まれた2ヶ月後の7月15日、父はイラクのバスラで亡くなりました。28歳の若さでした。

 航海日誌によると、この航海は日本が初めて中東にオイルを買いに行く大きなタンカーでした。前例となる航海実績がどこにもないため航海はとても難しく、バスラ港にタンカーをつけるのも大変なことのようでした。7月と言えば特に暑い頃です。ペルシャ湾を懸命に航海してやっと陸に上がった時、父は熱射病に犯されたような状態になっていて、そのまま倒れて亡くなりました。航海日誌には熱射病のようなことが書かれていますが、周りの多くの人々は原爆放射線の影響ではないかと言っていたそうです。しかし、被爆の影響ではなく、熱射病を原因にしておかないと船員保険から出ないからそうしたんじゃないか、と後々お祖母ちゃんは言っていました。

 父はイラクのバスラで埋葬され、母の手許に帰ってきたのは父の爪(つめ)と髪の毛だけでした。父はイラクのバスラの外人墓地に今も眠っています。

■母と共に広島に

 その頃乳呑み児の私を抱えた母は東京にいました。父が突然亡くなって、母は私のことを考えて、母の実家の新潟に帰るか、父の実家の広島に行くか、判断を迫られることになりました。それで、私を可愛がってもらえるのは父の実家の方ではないかと思い、広島に行く決意をしました。

 父が亡くなったことで、父の実家でも大変なことになっていて、それに加えて実は結婚していたんだ、子どももいたんだ、ということになったんですね。息子が結婚していたことが実家の家族に初めて明らかになったわけです。父の母、私のお祖母ちゃんがとても心の広い人でしたので、私たち母子を快く受け入れてくれました。そしてお祖父ちゃんも了解してくれて、それで私たちは広島に移り住むことになったのです。ですから私は東京生まれですけどわずか2ヶ月で、その後はずっと広島で大きくなっていきました。

■母の生き様

 広島に帰った当初、母は働かなくてもよかったんです。しかし、お祖父ちゃんが亡くなって、私もだんだんと大きくなってきて、母も働かざるを得なくなってきました。当時、女性が正社員として働く機会はなかなかなくて、学校の先生くらいで、他は何もありませんでした。それで、近所の人の紹介で、生命保険会社のセールスをすることになりました。母が32歳の時です。母は物凄く頑張って、トップの成績を上げるほどになっていきました。いろんな所を回ってセールスするんですけど、だんだんともう行く所がなくなる。ある時吉島刑務所の傍を通っていて、「この壁の中には誰も言っていないだろうなあ」と思って入り込み、刑務所の職員さん全員を一括して契約したこともありました。割りと大きな企業の保険も随分と契約したようです。全国でもトップの成績を何年か続けていましたので、すごく努力していたのです。

 母は父のことも原爆のことも私にはあまり話しませんでした。父の命日にはお墓に参り、8月6日には黙祷もするんですけど、亡くなった人たちのことをあれこれ言うのではなく、今を生きる人たちのことこそ大切なんだ、という考え方に徹した人でした。母はとても気丈で強い女の人でした。

 母は若い頃は義手も作って持っていました。私はそれを見ると気持ち悪かったことを覚えています。しかし結局義手を使うことはほとんどありませんでした。母はいつも着物を着るようにしていました。着物だと右手がないのを少しでも隠すことができたんですね。私が幼稚園の時、運動会で親が子を背負って走る競技があったんですけど、母は着物姿で左手一本で私を背負って走ってくれたんです。そんなこともありました。

 字を書くのも左手で、結構上手な字になっていました。左だけで裁縫もしていました。着物を着るのも左手だけで。片手で着物を着るのは本当に大変なはずなんですけど一人でちゃんとやっていました。雑巾絞るのも左で一本で。不自由だという自覚すらなかったのではないでしょうか。子どもの私が何か手助けしなければならないようなことはほんどありませんでした。ただ右手はないのに、その右手が痒い感覚はあったらしいです。

 女の人が右手を失くして、その上一人で子どもを育てるのは本当に大変だったろうと思います。戦争のおかげで右手を失い、自分の人生も狂ってしまったわけなんですけど、それを人前で恨めしく言ったりとか、愚痴をこぼすなんてことは全然なくて、それを乗り越えようとすることの方がはるかに大きかったんです。

 その母も平成22年(2010年)、84歳で波乱の人生の幕を閉じました。

■母を描いたドキュメンタリー放送『どっこい生きている』

 昭和62年(1987年)、NHKの地元広島放送局制作の30分のドキュメンタリー番組で、母の生きてきた人生が放送されました。『どっこい生きている』と言うタイトルでした。午後7時30分からのゴールデンタイムの放送で、再放送、再々放送まであって、広島中の人が視られたようです。NHKでは『おしん』という人気ドラマがありましたが、それを上回る視聴率だったようです。全国放送にもなって、母が京都の私のところに孫を見に来るシーンもあったんですね。それで、京都にいる私のところにまで激励の電話がかかってきたりしました。「お母さんごいですね」とか「頑張ってねとか」。

 あの頃、手を失くしているとか、戦争の被害に遭っているとか、そういうのは「可哀想だね」「よく頑張っているね」とかいったお涙頂戴みたいなイメージが強い世の中でした。テレビのドキュメンタリーでも、ドラマでもそういうのが一般的だったと思います。ところが母は違いました。母は、右手を切断したことも乗り越えてきた、夫が亡くなって一人で子どもを育てることも乗り切った、今私は60歳になったけど、何かもっと凄いことが起こっても乗り越える自信がある。そんなことを訴えました。自分の人生で、あれも乗り越えた、これも乗り越えた、これからも乗り越える自信がある。そういう新しい考え、女性の主張と姿をディレクターがしっかりと取り上げていただいたおかげでした。

 母のドキュメンタリー番組は全国放送にもなりましたので、かって父と同僚だった日本郵船の人たちも視られたようです。そのことがきっかけとなって、元の同僚のみなさんの手によって、バスラに眠る父の墓が新しい金色の墓標に立て替えられることになりました。母はいつか私を連れてイラクに行き、父の墓にお参りすることを強く願っていましたが、遂に叶えられませんでした。残された私だけでもイラクに行ってみたいと思っているんですけど、まだ実現していません。湾岸戦争やイラク戦争も起こりましたしね。

■父母の体験を、私の子ども、孫たちにも伝えていくために

 広島で大きくなった私は、白島小学校から袋町小学校に転校し、そこを卒業して、比治山中学・高校・比治山短大と学びました。短大では美術をやっていました。短大で日本絵を勉強していたので、京都の伝統工芸の仕事をやりたくて京都に来ることになりました。

 私が育った家では毎年、8月6日の朝早く平和公園の慰霊碑にお参りして、それから白島の電停のすぐ傍にある萬行寺(まんぎょうじ)さんに行ってお参りしていました。萬行寺さんは原爆で全部潰れて、その後宮大工だったお祖父ちゃんが棟梁となって再建したものなんです。その時に寺内に墓所をもらって、そこに隅田家の墓が置かれました。父の爪と髪の毛もそこに入れられて、そして母も一緒に眠っています。

 私は小さい頃はすごく病気が多い子でした。小さい頃の写真を見るとほとんど寝間着姿のものばかりです。今は元気ですけど。

 自分が被爆二世であることは私なりに受け止めて生きてきました。広島で育ちましたから、戦争とか原爆とかは、他の地域よりかなり教育はされていたと思います。被爆の体験など身近に聞く機会も多くありました。ましてや、自分の父や母のこともいろいろ聞いていましたし、私の兄も亡くなっていますので。

 それを私だけに止めておくことはできない。少なくとも娘や息子には伝えていかないといけないと思い続けてきました。私は特に、女の人が「戦争してはいけない」ことをはっきり理解しておかないと、母親が勉強しておかないと、子どもたちに伝わっていかないのではないかと思ってきました。男の子より、女の子が、戦争してはいけないとか、戦争の怖さを、母として知るべきだと思っていたのです。ですから特に娘にはひどく言い育ててきました。京都から広島に帰った時にはいつも子どもたちを原爆資料館に連れて行って、いろいろな資料を見せて、「戦争してはいけないんだ」、「戦争したらこうなるんだ」、「戦争はすごく身近なものなんだ」ということを、子どもたちがちっちゃい時から何回も何回も言い聞かせてきました。娘には「あんたに子どもができた時にもこんなふうに教育しなさい」とまで言ってね。その娘は今36歳、息子は24歳、孫(私の娘の子)も中学3年と小学校6年になります。

 私が「2世・3世の会」に入ろうと思ったのは、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、母も、もう誰もいなくなって、やっぱし広島に育った者として、母も戦争の被害者だったし、そういう中で育った自分という者を考えた時に、原爆のことは自分の中のかなり大事な部分としてあったので、子どもたちや孫たちにそういうことを伝えなければならないと思ったからなんです。でも自分一人ではどうにもならないこともあるので、何らかの方法で他の人たちとも一緒にできるように一歩踏み出そうと思っていたんです。そんな時に丁度奥田美智子さんから声をかけていただいたのです。私自身も被爆二世というものをもっと掘り下げていきたいなと思って。

 今毎年被爆二世は無料で健康診断を受けられるようになっています。(簡単な検査ですけど。)でもこの被爆二世健診の申込書には親の被爆者手帳番号を書くようになっているんですね。私の父は昭和28年に亡くなって被爆者手帳の制度が出来たのは昭和32年です。手帳制度が出来る前に親が亡くなっているんですから手帳番号なんて存在しないし書けるわけがない。昨年は京都府の担当者の方にこうした事情を言って手帳番号はなくても受診できるようにしてもらいました。今年は別の担当者の方から難しいようなことも言われましたけど、やはり事情を強く言って受診できるようにしてもらいました。私と同じような事情の人は他にもたくさんあるのではないでしょうか。(了)

■資料

 平成22年母が亡くなった時、喪主をつとめた私がみなさまにお届けしたあいさつを紹介します。私の母への思いの一端を綴ったものです。

「どつこい」生きた母の人生に拍手を贈ります

 いつも明るく前向きに生きた母は、太陽に向かって懸命に花を咲かせるひまわりのような女性でした。

 東京の大空襲で右手を失い、私が生後二ヶ月のときに夫を失いました。母は左手ひとつですべてをこなし、私を育て上げました。AIGスター生命(旧千代田生命)で80歳過ぎまで働き、そのかたわら囲碁に詩吟に朗読、カラオケ、手話、和太鼓と、多彩な趣味を探求しておりました。

 母 イトは平成22年3月30日、84年の人生に幕をおろしました。NHKのドキュメンタリー番組「どっこい生きている」で特集していただいたことがあります。母の「私は右手をなくしたときも、夫をなくしたときも乗り越えた。次に何か大きなことがあっても乗り越えてみせる自信がある」という言葉は、私の人生において大きな礎となっています。

 「お母さんの生き方を見てきた私だから、これからも頑張っていくよ。今まで本当にありがとう。あなたの娘で幸せでした」

 母が長い人生の旅路を歩むことができたのは、皆様からのご厚情があってのものです。母に代わり心より感謝申し上げます。本日は誠にありがとうございました。厚くお礼申しあげます。

                                       隅田百合子



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