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●被爆体験の継承 5

15年戦争の果てに
父、母、二人の妹を奪われた私の被爆体験

永原誠さん

2012年11月8日(木)証言
京都「被爆2世・3世の会」で聞き取り、文章化

■1945年頃のくらし、高校生活
永原さん

 私と家族の話をする前に、前提としてこれだけは、今では想像もつかないことだと思うけれど、申し上げておきたいんだけどね。

 原爆投下、終戦は1945年やけど、1931年に日本軍が勝手気ままに中国の東北部に、満州に軍隊入れて、これが日本がやった最後の15年戦争の始まりになるわけやね。
 15年の内にいきなり変わったわけではない。戦争と言うのはじわじわじわじわと普通の人間のくらしが変わっていくんやね。一口に言えば軍部独裁が強まっていくということやね。

 軍隊が指図するんであって、現代のようにまがりなりにも総理大臣がいて、議会があって国の政治が決められているわけではない。そもそも議会は解散してない。あるのは軍隊だけなんですよ。

 1945年になると、おそらくこれは僕の推定だけど日本の国家予算の8割、ひょっとして9割が軍事費。残り1割で民政などなんてできるわけがないでしょう。本当に私たちの暮らし、何から何まで物は無くなったですわ。あれはしてはいけない、これもしてはいけないだらけで、そのしてはいけないのは軍隊が決めるんですね。そんな時代になっていたわけやね。

 1945年、僕は17才、今の広島大付属高校、旧制の広島高等学校2年生だったんです。旧制高校2年生だけど、前の年、1944年4月に入学して、1年半経っていたわけやわな。その1年半の間に授業があったのは2ヶ月半かな。何もかもなくなった中には、授業すらもなくなっていた。例外が一つだけあってね、工場動員の合間に軍事教練という科目、兵隊の真似ごと、お稽古だけはあったけど。

 授業が無くなってからは工場に動員されて、工場でなければ農村に動員されて、稲刈りの手伝いをやったり、というようなことだったから、学生とはいっても生活は工場労働者と農業労働者を兼ねたような状態やったね。17才、高校2年生といっても、本当に名前だけみたいなものでしたね。

 1944年の秋から45年の春まで半年、泊まり込みで、播州赤穂にあった川西航空機の工場に動員されて行ったこともあった。ゼロ式戦闘機のエンジンの部品づくりということだったが、もう資材も何もなくなっていて、ほとんど作業らしい作業もなかったですわ。

 当時日本は、男子は国民皆兵、徴兵制で、もともと徴兵は20歳からだったが、1944年からは17才から徴兵検査をうけるようになっていた。学生の人数も減っていました。高等学校、大学に入っていたら徴兵は猶予だったんだが、これも無くなっていた。僕のクラスなんて半分ぐらい、1年生の時には30数名いたのが、2年生の時には17名になっていた。

 1944年、45年になると、日本は船自体が無くなっていたんですよ、撃沈されたりしてね。外国に兵を送ろうにも送れない状態になっていた。だから広島の街には兵隊が溢れるようになっていたのではないかな。

 くらしといったら、国家予算のせいぜいのところ2割ぐらいの暮らしを強いられていた。衣、食、住どれをとっても、ひどいものでしたよ。今の日本では想像もつかないような。

 僕たちの住んでいた家はどんな家かというとね、1944年の5月頃から、天井がないんですわ、畳もないんですわ、寝るところと食べるところと、これを残して、天井を全部はずせ、畳は全部あげろ、床板も全部はずせ、というような命令が出ていました。殺風景なものでしたよ。

 寝るところ、食べるところ4畳半にだけ畳を敷いていて、たとえばトイレに行くのに、部屋と部屋との間に渡した板の上を綱わたりのようにしていくんですよ。みんな空襲による延焼をできるだけ少なくするための命令ですからね。電気は、軍と軍需産業優先で、いつも電圧は下がりっぱなしで、夜になると暗いものでした。

■8月6日のその時

 原爆投下の時、僕の家は7人家族でした。父親、母親、僕、弟、3人の妹。

 一番小さい妹:道子は5つでしたが、5歳で遠縁の農村(志和村)にお金を出して預けられていて、家にはいませんでした。
 上から2番目の妹:珠子は小学校の4年生だったが、学校疎開というのがあって、学校ごと、クラスごとに田舎のお寺などに受け入れさせて、4月から送られていて、これもいませんでした。だから7人の内5人しかいなかったですわ。

 父親は広島文理大学の教授だったんですよ。当時、広島文理大には、東南アジアのマレーシアとか、タイトとか、インドネシアとかの国々から、軍が選んで招いてね、親日分子に育て上げようとする留学生が広島文理大学にも20人ほどいて、彼等の住む寮の寮監を命じられていてね、毎日泊まり込みで、自宅に戻ることはほとんどなかった。

 僕の家は、鉄砲町というところにあって、当時広島女学院というのがあってね、その広島女学院の西側の丁度真ん中の向かいに我が家があったのよ。ここから高等学校に電車で通っていたんですよ。

 原爆の当日、僕は、電車はものすごく混むので、40分位早く家を出た。弟や妹も7時台に家を出ていて、いずれも学校に着いていた時刻でしたね。

 8月6日は、馬鹿に天気の良い、暑い日だったけどね。雲ひとつないような。

 僕は御幸橋の東の橋のたもとからちょっと離れたところにある広島高等学校の校庭にいた。8時からの朝の朝礼が始まりかけたところでした。授業はもうされていなかったわけですわ。

 僕は高等学校の文科でしたけどね、高等学校も戦力になるのは理科だと、科学知識が急いで必要とされ、5クラス 200人位の生徒がいたけどね。理科は徴兵免除なってました。でも、理科の学生は呉の海軍工廠に泊まり込みで動員されていてね。これはこれで連日の空襲でひどい目に遭っていたけどね。先生も一緒に。

 僕は文科で人数が少なく1クラスだけ、あの日は、生徒17名と先生3名だけの朝礼だった。正門入ってすぐのところの古い木造の2階建ての本館のそばに芝生があって、そこで横一列に並んで、中原先生が点呼、出欠確認していたですよ。

 静かだったよ。先生の名前を呼ぶ声だけがしていて。

 B29は当時最新鋭爆撃機で、4機が編隊で、東から広島の上空に侵入してきたんですわ。1機が原爆を積んだエノラゲイ、1機は写真撮影機、後の2機は原爆投下効果を確かめるための観測機。その内の3機は早くから広島上空周辺を旋回していたらしい。当時日本がもっていたという最高の高射砲も届かない高度だったのと、4機は散らばって飛んでいたので音がよく聞こえなかった。

 原爆投下の直前、B29が急旋回してエンジンをフル回転する異様な音を、遠いところでかすかに聞いたようなことは覚えているんです。エノラゲイが目標(相生橋)を把握して、原爆投下のボタンを押して、90度北に旋回して逃げたその時の音だと後になって思った。

 原爆投下の目標地点は相生橋のT字形になっている所で、B29は何度も投下訓練に来ているんですよ。原子爆弾は、ボタンを押して1分後に爆発するような仕組みになっていたんですよ。ボタンが押されて、15秒後にエノラゲイから放たれ、45秒かけて落下、爆発したんやね。目標から200メートルほどずれた所で爆発したわけやね。私たちは爆心から2.5キロの距離にいたんですね。

  “ピカドン” というのはかなり離れた所で見た人の形容ですよ。実際はいきなり光った、というのではないね。僕の眼に映る、空、学校の樹木、他の教室の建物群、爆発した瞬間、物の影に隠れてないすべてのものが、色で染まったですわ。

 ピカッというのは光ではないね。色が変わった。今まで見たことのない色、桃色、青色、紅色、黄色、緑色、混ぜくり合ったような、形容のしようのない色が、空まで含めて染めました。静かな中で、爆発の閃光が届いたすべての物の色が変わった感じでね。

 何が起こったのか、分らない。みんな、思わず3〜4歩後退した。

 次の瞬間、足をすくうような圧力が来た。爆風とか、風とかいうようなものではないですわ。普段の訓練から「伏せろ」と言われていたので、その自分の意思と、圧力とで、芝生の上に倒れたんですわ。

 途端に真っ暗になったですわ。

 空襲の時には、爆発に遭った時は「4本の指で目を押さえろ、親指は固く耳を押さえろ」と教えられている。口は思い切りあけておけ、内臓が飛び出さないように、体は思い切り地面に押しつけて内臓破裂しないように、とも教えられていて、その通りにしてたら・・・・・。

 僕らのすぐ後ろにあった2階建て木造本館が物凄い音を立てながら、壊れていく音が聞こえたですわ。木造本館が壊れていくのだけは分ったが、後は何が起こっているのか、さっぱりわからない。壁は吹っ飛び、屋根も抜けるわでね。

 その物凄い音の間を縫って、聞いたこともないような音が遠くからだんだん近づいてきたんですわ。キーンという金属のこで金属を切るような音。2回目のキーンという音の後、またしーんとした静寂が訪れたんですわ。

広島大学付属中学・高校(旧広島高校)正門前の原爆碑。写真は破壊された本館建物
広島大学付属中学・高校(旧広島高校)正門前の原爆碑。
写真は破壊された本館建物。

 爆発後14〜15秒後は経っていただろうか。そっと片目を開けてみると、5〜10センチぐらいの目の前で芝草がかすかに見えるだけで、それ以外は何も見えない真っ暗闇状態。やがて10メートルほど先は見えるようになってきてね、そして200メートルほど離れていた防空壕に逃げていく友達の姿が見えてね。それからだんだんと暗闇は薄らいでいったね。僕も防空壕に飛び込んだね。

 防空壕で10分ほど過ごしてから、あまりに静かなのでおそるおそる防空壕を出てみると、空は嘘みたいな青空になっていた。夏の太陽が燦々と照っている。防空壕はグランドの真ん中にあったからね、学校全体の様子がよく見えるんだね。屋根が飛んでいる校舎もある、完全に倒れている教室棟もあってね。

 「あれ見てみろ―」と誰かが言ってね、目を上げてみるとね、北の方一帯に、原子雲が崩れつつあったですわ。横に拡散しながら、広がっていた。白かった。入道雲との違いは、こぶがぼこぼこ出来て成長しているというか、動いているようなかたちなんやね。

 もう一つの違いは、チカッ、チカッといろんな色が光るんです。一番最初に見たあの色なんですわ。但し、今度はもっとハッキリと色が分かれていて、緑、赤、桃色の色が光っていましたよ。原子が燃えていた色だったんですよ。

■原子爆弾:リトルボーイ

 原子爆弾のリトルボーイと言うのは重さ5トンと言われているけどね、その内ウラニウムは30キログラムぐらいだったんだね。そのウラニウム30キログラム全部が連鎖反応を起こしてから爆発したんではないんだね。ほんの一部なんですわ分裂反応をしたのは。

 機体を離れて45秒後から連鎖反応が起こるんだけど、ほんの一部が放射線をまき散らしたんだね。中性子線とガンマ線だね。同時に核分裂反応は強烈な熱を発するんでね、5トンの重さのリトルボーイはたちまち200数十万度まであがって、爆弾が持たなくなってね、それでうわーっと爆発するわけやね。それが原子爆弾なんですわ。5トンの爆弾の中に含まれていたウラニウムを含むすべての物質、他の金属も含めてまき散らしたわけやね。高熱を発した原子核のかたまりみたいなものが高熱を帯びると燃えるから、色がついて光るのだそうだ。

 5トンの内の50キログラムあまりのやつが高い空の水蒸気と一緒になって黒い雨になり、雨にならなかった大半の放射性物質が黒い塵、微粒子となって降下し、街を、大地を、人間を汚染したわけやね。

 たとえ話として僕はよく言うんだが、600メートルの上空に、百万分の1秒という瞬間に、直径200メートルほどの小さな太陽ができたんだと思って下さいと。異様な色を見せ、200数万度の超高熱を四方に発し、秒速400メートルの風圧に押されて爆風は衝撃波となった。キーンという音は衝撃波の音だったんですわ。

 僕たちは茫然と見ていた。何が何だかわからなかったよ。爆撃だとも思わなかったよ。異様といえばこれほど異様な体験はなかったですね。これが僕の体験した爆発後10分余りの体験ですわ。

 学校の講堂は鉄筋コンクリートで残った。僕たちは校舎の影になっていて直射は免れたわけ。おまけに爆心に対して背中を向ける方向にも向いていたわけですわ。

 ドーンという音は聞いていないのは、その前に衝撃波が、音より早く届き、建物が壊れる音に紛れていたんでしょうなあ。

 8月6日は何のために学校へ行っていたかというと、播州赤穂からかえってきた頃、学生はもうほとんどおらず、がらんどうで、「学校防衛」などという任務が与えられていたんですよ。広島高等学校の建物の窓という窓のガラスに新聞紙をテープのように切って張って、爆風で細かく飛ばないようにすることで、朝から夕方までそんなことをやらされていた。8月6日もその予定だった。

 建物は壊れてしまい、窓枠ごと吹っ飛んで穴が開いているわいな。これまで何をしていたんだ、と思ってしまったね。

■無言の列

 原爆は、核分裂反応を起こし、100万分の数秒ほど小さな太陽が出現し、熱線、放射線が前後して届き、衝撃波ですべてのものがなぎ倒されていく。こういう形で広島の街は破壊されていくわけだけど、それによって2キロ以内では火災を起こすわけですね。一斉炎上という大火災を起こすんでね。一斉炎上の結果は、燃えるものはすべて燃やしつくしてしまう、綺麗さっぱりね。

 爆心から2.5キロの高等学校までは一斉炎上は起きなかった。その後、何もすることなく手持無沙汰だった。学校では、学園の外に出ることを禁止する措置がとられていてね。学校の正門から外を眺めていると、近くにあったたぶん市立の病院めざして、そこに向かって火傷したり、怪我した住民たちが歩いているんですよ。その列を見たわけですよ。

 果てしもなく続く人の列でして。どの人も普通の服ではないんですわ。破れたり、ちぎれたりした服、汚れた姿。一見火傷や怪我のない人、一見しただけで火傷、怪我している人、とにかく絶え間なく続くんですわ。特徴はね、一つはほとんどが女の人、子ども、年寄り。若い男子はいない。みんな軍隊行きでいない。もう一つはね、沈黙。わめきもしない、おしゃべりもしない、泣きもしない、会話もしない、シーンとした、茫然とした人の列だったね。それが切りもなく続くわけ。

 それを見てね、何が起こったんだろうと思ってね、本当に茫然としたんですよ。

 昼飯時になってね。僕らの飯ってどんなものだったと思う?配給の草団子、1人2個だけ。米の配給はもう1ヶ月止まっていたね。水筒だけは絶えず携行するように言われていたが、空腹を超えた状態が慢性化していた。

■一斉炎上に追われて

 12時過ぎてから、広島市内に家のある者は帰ってよろしいという指示が出た。一斉炎上も12時過ぎると山を超えていたが、でもまだ燃えていました。僕は御幸橋を渡って帰ろうとしたが、橋を渡った西詰は綱が張ってあって憲兵がいて通行止めとなっていた。それで京橋川沿いに歩いて広島駅方向に向かうことにした。数十条の一切炎上の黒い煙が真っ直ぐに立ち昇っていたのを覚えていますよ。

御幸橋西詰南側の原爆碑。投下3時間後にこの地で撮影された惨状写真が表示されている。
御幸橋西詰南側の原爆碑。
投下3時間後にこの地で撮影された惨状写真が表示されている。

 広島駅北側の東練兵場に入った途端に様相が一変しましてね。広い草原に、負傷した人々がとにかく逃げこんだんやね。埋め尽くされていた。その規模数千人、すさまじい阿鼻叫喚の渦だったんですわ。

 これはもう我が家には近寄れない、と思っていたら、バッタリ、近所の床屋さんに出会った。「ぼっちゃん、お母さんが、あっちの川岸におられましたよ」と教えてくれたんだわ。

 それで、二葉の里地区の鶴羽根神社を過ぎたあたりまで歩いて行ったら、砂だまりで母親は茫然として立っていましたわ。ようやく神田橋を渡って母と会うことができたんです。

 原爆が落とされた時、母は台所の外を掃除していた。建物崩壊の三角型の空間にいて、偶然怪我はなかった。周囲は一面瓦の海やったと言っていた。すぐに一斉炎上が始まって、瓦の海を渡って神田橋の端まで辿りついていたんだそうだ。

 母と会った直後、黒い雨に遭った。ポトーン、ポトーンと雨が落ちてきて、川洲の砂の上に黒いシミがひろがったのを覚えていますよ。

 母と二人で横川駅の近くを通って、緑井の国民学校をめざして歩いて行った。僕たちのいた町内の避難場所として定められていた所だったんだね。横川駅周辺では、兵隊の生き残りがみんなこのあたりに逃げてきていて、太田川の土手に何百人も横たわり、「学生さーん、お願いですから水下さーい」と声をかけてきたことも覚えていますよ。

 緑井国民学校で愛国婦人会からの差し入れがあり、やっと握り飯1個を食べて、母は初めて食べものらしい食べ物を食べることができましたよ。その夜は、学校の中の倉庫で、稲束を枕に寝たけど。蚊も多くて、寝るに寝れなかったけれどね。

 翌日は、まだ市内の火災は収まっていないという話を聞いて、誤報だったけど、母と二人で当座の仮住まい探しをした。そして、さらに翌日になって我が家の後を見に行った。

 我が家は瓦の海の一部になり果てていた。家財などはすべて焼けちゃってね。大切な衣類や家財で大事だと思われるものは田舎に疎開させる人が多かったけど、私の親父は何故かそれを嫌ってね、そのため財産らしいものは綺麗さっぱり無くしたけどね。ただ、唯一、英語の辞書と本を詰めたミカン箱一つだけが残っていたけどね。

 母親はその後も、家族を捜しに僕と一緒にあちこち歩き回ったため、心労を深くしたようだった。

■親父の最期

 爆心から一番近くにいたのは父親だった。

 親父は留学生の寮の学監を勤めていたけどね、寮はね元安橋のすぐ近くにあったんですわ。本当に爆心です。ほとんどの寮生たちは朝早くから登校していて助かったが。一人だけ遅れて登校する留学生と一緒に親父も学校に向かってたんだわ。その日の朝は1時間目が授業がなかったもんでね。原爆が落ちた時は学校に行く途中だったんです。もう至近距離でね。

父親が学監を勤めていた興南寮の跡地碑。広島市中区大手町・元安川東側河畔。
父親が学監を勤めていた興南寮の跡地碑。
広島市中区大手町・元安川東側河畔。

 正確な場所は確認できないが、二人とも至近距離で被爆したはずなんだね。爆心から数百メートル、衝撃波に吹っ飛ばされて、何かに激突したのではないかと思うがね。一緒にいた留学生も血まみれになって、二人で肩を寄せ合ってよろよろと歩いていた。

 まだ一斉炎上が起こる前の時間に、学校から寮の様子を見に来る人と出会っているんですよ。明治橋をめざして、それを渡って己斐駅方向をめざしていたらしいんだけど。明治橋まで辿りついたところで力尽き、倒れたままとなって、一斉炎上の中で焼け死ぬんですわ。

 留学生の方は生きぬいて、己斐駅まで辿りつき、さらに五日市まで行って力尽き、2日後死んでいる。近くのお寺の住職が憐れんで墓立ててくれたというけどね。

 親父は真っ黒焦げになって見つかったですわ。一斉炎上というのは普通の火事とは違うそうですわ。質的に違うんやわ。熱度から何から何まで。両手は腕の付け根から無い。両足も付け根から無い。手や足は灰になったんだと思う。目は2つの穴が開いていた。口は開けて死んでいた。焼けぼっくいのようなもんやね。見つかっただけよかったようなものです。

 こんな焼死体見ても誰だか分らないのに、どうして親父と分かったかというとね、原爆投下の翌日、学校は、教職員の捜索隊を出していたんだわ。死体の山の中にうつ伏せになって死んでいたのを見つけてくれたんだそうだ。有り難いことだと思うが、丁寧に探してくれたんだね。

 死体に一つだけ残っているものがあった。それがベルトの留め金。僕の父親の留め金と認識できる職員がいて、「これ永原先生や」と分ったんだそうですわ。

 8日になって、母親と一緒に学校に行って、焼け残った建物の中にあった、黒焦げの親父と対面したわけやけどね。葬儀は学校で明くる日、他の亡くなった教職員とまとめて行われたけどね。

父親・永原敏夫の遺品。ベルトの留め金。<br>(立命館大学国際平和ミュージアム所蔵)
父親・永原敏夫の遺品。ベルトの留め金。
(立命館大学国際平和ミュージアム所蔵)

 17才と言う年齢は頼りないものでね。その時、親がどこの銀行にどれだけ預金していたのかも知らんのですわ。預金なんかも何も回収できないんやね。ついでに言うと、その後、大阪に移る時も、引っ越し先住所を大学に連絡することが頭に浮かびすらしなかった。親父の「遺族は消息不明」の扱いにされてしまっていた。6〜7年経ってからだが、退職金も支払われず、文部省に問い合わせると、国庫に返納してしまったとのことだった。

■妹:信子のこと

 被爆した家族を爆心から近い順序に言うと、次が妹の信子なんですよ。信子というのは女学校の1年生で12歳でした。女性は中学に入れない時代だったんですよ。1年生はまだ授業があったんですよ。

 ところがね、1945年8月6日は月曜日。この月曜日から1週間は広島市内の全中学、女学校は建物疎開作業に出ることが軍命令から出されていたんですよ。彼女の女学校の割り当てられた場所は、市役所の近く、爆心から900メートルの距離で、8時から作業を始めていたようです。

 建物疎開とは空襲による類焼を阻むために、建物を破壊し、道路を広げることなんだね。軍の強制接収でね。京都市内の今の広い通り、堀川通、御池通り、五条通も建物疎開で広げられた道路なんですわ。あそこにも人が住んでいたんですよ。広島でもその道を一本つくることになって、建物疎開が行われていたんだね。今の平和大通りはその跡なんですよ。

 壊したあとの片付けを中学生、女学生にやらせようとしていたらしい。私の妹も瓦を積んで担いで所定の場所に運ぶ作業をしていたようです。歩き出した時に、丁度、爆心方向を向いた瞬間、爆発し、衝撃波に吹き飛ばされてしまった。気がついて起き上がってみたら、友達はみんな川の方向に逃げていた。彼女も川(元安川)に向かって一生懸命逃げたと言っている。逃げた後から追いかけるように火事が始まって、川に入った、と言っている。

 一斉炎上の火災というのは、100メートルそこらの川幅があっても、ひょいと超えてしまうほどの炎、火勢を持っているんやね。一種の火の嵐やね。川に入って、首までつかっていたが、炎になめられそうになる。頭まで川中にもぐり、時々口だけ出して息をするようにしながら、頑張ったそうや。

 やがて火勢も少し弱くなって、やっと土手に上がったところを、救援しようとして川に入ってきた暁部隊の舟艇部隊に拾われて、広島沖合の似島(にのしま)の陸軍検疫所に収容された。

 原爆によって、広島市民は一切のコミュニケーションの手段も一切の連絡手段も失っていて、このため彼女の消息も分るはずがなかったんやね。

 広島という都市は、外国に軍隊を送りだす時の出発都市であり、帰還してきた兵隊の受け入れ都市でもあってね。特に帰還してきた兵隊のチェック、検疫所が必要で、それが似島にあったんだね。似島では数万の被爆者が収容され、庭に寝かされたりしたままで死んでいったんだね。後年、似島では数万の人骨が出たりしているんですわ。

 親父の葬式が8月8日に終わってからあちこちと探したが、女学校も潰れちゃっていて、あてがなかったんだわ。8月9日もあてなく探していたんだが、「似島にもたくさんの人が収容されている」という噂を聞いて、宇品の港まで駆けつけてみたんだわ。宇品には貼り紙があって「似島に収容せる患者は以下の通り」と書かれていてね。信子の名前があるじゃないですか。すぐに船便に乗って似島に行った。窓口で「永原さんはいますよ、火傷はしているが元気ですよ」と言われた。

 第一病棟と言われるところを覗いた時、ひどい火傷の妹がいたんだね。目はちゃんと見えていた。枕元に、皿1枚、握り飯1個が置いてあったけど。食欲がないらしい、一口だけかじった跡があったけど。「あ、おにいちゃん」と語りかけてきたんやね。意識はしっかりしていて、1時間ほど話すことができたんやね。

 「お母さんをよばれたらどうですか」と、医者からも、隣に収容されている女学生のいち早くかけつけていた母親からも語られた。隣の女学生の母親は私の妹も時々見てくれていたようだ。

 仮住所を書きとめたメモを渡しておいて、「明日、おかあさんを連れてくるからね」と言ってその日は別れた。妹はじーっとこっちを見ていた。綺麗な目をしていたね。その日、母の待つ志和村に急いで帰った。

 母親はこの時、疲れもひどかったので末娘を預けていた志和村の遠縁に行っていたんですわ。

 翌日早朝、母親を連れて志和村から広島へ来て、宇品から似島にハシケで渡ろうとすると新しい貼り紙が貼られていてね。「似島に収容せる患者は、再度の空襲の危険があるにつき、広島湾沿岸一帯の収容所に移送せしめたり、以後、似島への渡航は禁止する。」というものだったんですわ。

 宇品の港で掛け合ったが、下士官は頑固で言うことを聞かない。どこに移送したのかも言わない。似島に渡ることは断念するしかなかったんだわ。

 原爆投下の時の収容所とは、東北大震災の収容所などを想像してはならんですわ。被災者は板敷きに寝かされたまま、おびただしい数の蠅が蛆虫を湧かせる中、医師1人、看護婦はいるかいないか、血にまみれた患者が横たわっていて、すさまじいものでしたね。

 母と二人で、呉の近くの天王から西は大竹まで、収容所というところをすべて歩きまわって捜したが、1週間探し回っても見つからなかってね。

 8月17日か18日、親父の知り合いの伝手で仮の住まいに居る時、似島から言伝が届いたんですわ。割り箸を入れる紙をほぐしたものに、妹のそばに居てくれた奥さんから鉛筆で「昨日17日に亡くなられました。死ぬまで我慢強くしておられましたが、お母さんが来られるのを心ひそかに待ちわびておられました」と書かれていてね。遺髪を同封してもらっていた。

 広島市内の中学校・女学校の1年生の内30数名が、当日学校に行けなくて、生き延びたんやわ。広島市の調査では、6,317人の中学生と女学生がこの日動員に出ていて、数か月の後に全員が死んだ。こういうことも広島ではあったんですね。

 信子のことは心に刺のようになって今も残っているんだね。母を連れていけなかったことが、自分の責任ではないが。どうしてあのような貼り紙が貼られ、渡航禁止されたのか。似島には、広島市内の収まりきれない被爆者を似島に連れて行って、すさまじい死者が出ていたんではないかな。妹も土葬にされたのではないかと思うね。

宇品港沖に浮かぶ似島
宇品港沖に浮かぶ似島
■弟:裕の被爆

 その後暫くしてから仮住まいを出て、段原にある遠縁の家の一部屋に移り住むことになるわけだ。段原は比治山で衝撃波がさえぎられたり、一切炎上が和らいだりしたところだ。それでも屋根は吹き飛んだりしていたが。

 爆心地から三番目に近いところいたのが弟の裕。弟はその日広島文理大付属中学で授業を受けていてね。2階建て木造校舎で爆心から1.4キロメートルの距離だね。建物は倒壊したが幸い助かって。今も生きています。

 但し、原爆白内障を発症し、中年の頃、急性白内障で両目とも失明してます。彼は初期の急性症状も発症してますわ。下痢したりしてね。だから放射線を浴びているのは間違いない。

■母をおくる

 母親はね、9月に入って2日目にね、がっくり来たんやね。親父は死ぬし、信子は死んだりしてね。突然倒れて、高熱を発して、推定だけど40度を超えて、人事不省に陥ったんですわ。目を開けない、息はしているけど。何も食べないんでね、弟がネズミをつかまえて、肉を取り出して、スープを作って、近くの菜園からトマトを失敬して、ジュースにして、食べさせようとしたが、全然受け付けないんでね。

 医者に診せようとしたが医者もどこにいるのか分らない。一番近くの被爆者収容所に行って往診を頼むが、一人の医者で400人も見ている状態で往診などできない、連れて来ないとどうにもならない、と言われてね。母親を連れていくなどとても無理だったけどね。

 ところが、9月2日頃だったかな、真夜中、午前2時頃、その収容所の医者が来てくれたんやね。母親の口をこじ開けて、内出血の斑点を診て、「原因が分らないんやけど、みんなこれでバタバタとやられているんやわ。私は、流行性の敗血症かもしれないと思んやけど」と言いながら、ビタミンBの注射1本だけをして、「これだけしかない勘弁してくれ」と言って医者は帰って行ったんだね。

 4日まで同じ状態が続いたが、母親は何にも言わずにそのまま静かに息を引き取りましたわ。

 死体の始末をどうするか、という問題があるんだね。葬儀屋があるわけではない、火葬場なんてどこにあるのかも分らない。しようがないから、猿猴川のできるだけ下流の人気のない、誰も住んでいないところまで運んで、小川さんという布団屋さんに助けてもらって、火葬にふしたけどね。

 火葬と言ってもね、燃料などない、燃やすものもないんやね。土を掘って、草をかき集めて、秋雨の中、遺体はなかなか燃えなくて、かろうじて頭部の遺骨が取れるまで焼けた後は、土をかぶせて、ほとんど土葬に近い状態やね。

現在の猿猴川河口部
現在の猿猴川河口部
■妹:道子の死

 一番小さい妹の道子は5才やったけど、9月17日に死んだんですわ。

 道子は原爆投下の日志和村に居て、原爆で死んだわけではないんですけどね。僕の父親は末っ子で、長男が本家で大阪に住んでいた。この叔父さんが来てくれて、一家引き連れて大阪に連れていってくれたんですわ。ところがこの叔父さん自身も大阪大空襲の被災者でね、この頃枚方に仮住まいしていたんだね。

 叔父さんの長男も軍にいて、広島の第五師団にいて被爆してたんだね。叔父さんはその長男を連れて帰るつもりだったんだが、体が相当衰弱していたのでそのまま広島に残すことになったんだね。結局、叔父さんは僕と、弟の裕、次女の妹珠子、末の妹道子を連れて枚方に帰ったんですわ。

 枚方に移って1週間少しで道子は亡くなってしまった。妹は農村疎開の志和村にいた頃は割に食べ物は豊富にあったわけや。それが急に広島に連れ戻され、超満員の列車で大阪に連れていかれ、被災者の生活の中で食べ物も急に悪くなり、親もいない中でね。着いて間もなく、10日過ぎになって、丁度、疫痢が流行ってたんですわ。9月の17日になって死んだ。

 僕の7人家族の4人が死んだ、というわけですわ。

■15年戦争の果てに

 最後にもう一言だけ。

 広島の原爆というのは、1931年、日本が中国に、中国東北部に侵略したのが、そもそもの事の起こりで、そこからだんだんと完全な軍国主義に移っていって、そして一番最後に報いとして、原爆で15年続いた戦争は終わりを告げたわけやね。

 と言ってアメリカが免罪されることはないけどね。これだけ一般市民がいるところへ平然と原爆を落としたことは、免罪されるわけではないけどね。だが、もともとの出発点にあったのは、日本の軍部の責任ですよね。この戦争、これが最後になったわけで。

 今みなさんは戦争を知らない世代で、いろいろ苦労はあるやろうけど、戦時下のことを思うと豊かな、穏やかなくらしが送れてるわけやわね。

永原さん2

 日本のような先進大国が、関わる、巻き込まれる戦争がこれから起こったら。前の戦争は原爆で終わったが、今度の戦争は、日本が巻き込まれることになったら、原水爆から事は始まり、それで事は終わるだろうね。

 京都の「2世・3世の会」もできたけど、大変やと思うよ、2世、3世となると。被爆体験というと、どうしても昔話になるからね。

 大変なことだけど。でも、とても大切なことだから、頑張って下さいね。



爆心円と広島市

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