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●被爆体験の継承 51

親も子も孫までも不安と共に生きた70余年

内田克子さん

2016年12月10日(土)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

内田さん

■旭兵器・奥海田工場

 私は昭和6年(1931年)1月15日の生まれで原爆の落とされた時は14歳でした。それまで山口県の宇部商業学校に通っていたのですが、終戦の1年ほど前、宇部理研株式会社という会社に勤めていた父の仕事の関係で宇部の学校を途中で辞めて母の実家の広島県に行くことになりました。

 学校の先生は「せっかく入学して、後1年だからここで卒業してはどうか」と言って下さったのですが、母が「いや、子どもたち全員を連れて疎開します」と頑張って言い張って広島県に連れ帰りました。広島県の母の実家は高田郡美土里町(みどりちょう)の、あの頃は生桑(いけくわ)と言っていた地名でもう島根県との県境に近い所でした。その後町村合併があって今は広島県安芸高田市となり、その一部になっています。

 私は宇部の商業学校を途中で辞めて広島県に来たのですけど、次にどこの学校に入学するかはまだ決めていませんでした。美土里町には高等小学校までしか学校はなく、上の学校は吉田にしかありませんでした。

 入学する学校はまだ決まっていなかったのですが、学徒動員の命令だけは先に来てしまったのです。そのため親元を離れて広島市内にある旭兵器という会社の工場に行くことになりました。その旭兵器の工場が広島市内から遠く離れた奥海田(おくかいた)という所に疎開することになり、私たちは奥海田で準備中の工場に行かされることになりました。何を作る工場なのかも知らされないまま私たちは動員されていきました。

■8月6日

 その奥海田で原爆投下に遭う8月6日を迎えました。原爆に遭うと言っても、最初は広島の上空に昇るキノコ雲を見ただけでした。旭兵器の宿舎は広島市内の舟入本町にあって私たちの荷物は丸焼けになってしまいましたが、私たちはたまたま奥海田の工場にいたので直接被害を受けることはありませんでした。

 その日の朝、私は食事の当番に当たっていて、先輩と一緒に手押しのポンプを使ってお米を洗っていました。朝礼が済んだ頃、突然ドンときました。私たちはもうどうしたらいいのか分からなくてウロウロウロウロしていました。社長さんもどうしていいのか分からなくてウロウロウロウロばかりしていました。

 そうこうしている間に、広島市内から奥海田までたくさんの怪我人がトラックに乗せられて運ばれてくるようになりました。どんどんどんどんトラックに乗せられて運ばれてくるのです。学校の教室や体育館のような建物はもちろんですけど、お寺の本堂など、とにかく広い場所は全部トラックに乗せられてきた怪我人が降ろされていっぱいに並べられていきました。

 学校の隅の方では、グランドの端っこに消防団の人たちが大きな穴を掘っていました。その穴へ、亡くなった人はもちろん、まだ息をしている人でも、もう駄目だなと思われた人はみんな投げ込まれていくのです。その上に石油をかけて火をつけられていきます。青黒い煙が昇っていきました。なんとも口では言い表せない異様な光景でした。その時の炎の色と臭いは生涯忘れることはできません。見ていない人には想像もできないことでしょう。

■救護・看護の一週間

 国防婦人会のタスキをかけた人たちがもろぶたいっぱいに真っ白いご飯でおにぎりを作って、食べなさい、ってすすめて下さったことも覚えています。でも人の焼かれる臭いはあまりにもひどくて、食事はまったく喉を通りませんでした。国防婦人会の人たちのタスキを見ていると、それは親がタスキをかけているようにも見えて、親の顔ばかり浮かぶのです。早く実家に帰りたいという気持ちだけが強くなっていました。

 満足に食事をすることもできないまま、それでも命令されて怪我をした人たちの看病ばかりしていました。看病といっても、ガーゼをペタッと顔に貼られて、口と目のところだけちょこっと開けられて、顔は真っ白、髪はもうチリヂリ。そんな姿の怪我と大やけどをした人たちばかりが並べられているところでした。怪我をした人たちは「水ーっ、水ーっ」って言うのです。「水は絶対に与えたらあかん」と言われているので、唇を濡らしてあげるだけで、水を飲ませるわけにはいきませんでした。お薬は全然ありません。それから、蛆がズルズルズルズル顔中を這っていました。怪我をした人たちには団扇で煽いで絶えず風を送り続けてあげていました。

 焼けた人の臭いがそこら中に広がっていました。その上夏の暑い時期に看病するので、私たちも嘔吐するのを堪え切れませんでした。怪我した人からトイレに行きたいと言われても、14歳で私のように小さい者には、すがりつかれたら一緒に転んでしまうのでどうしようもなく、男の人にお願いしてトイレに連れてってもらったりしていました。

■歩き通して我が家に帰り着く

 そういう毎日を一週間ほど続けていたら、ある日の朝工場長から「せっかく生き延びることできのだから、お前たちはこのまま自分の家に帰れ」と言われたのです。乾パンを6つか7つ袋に入れられて、お腹がすいたらこれを食べながら家に帰れと言われました。

 帰れと言われても鉄道も何も動いていません。向原までは工場のトラックが行くから、それに乗って帰れと言われ、同じ方面へ帰る人ばかりが集められて、布団やいろいろな物に挟まれるようにして荷台に乗り込み、朝の10時頃に奥海田の工場を後にしました。

 向原までは帰れましたけど、そこから先は何もなくて歩いて帰るしかありませんでした。「この山を越えて行きなさい」と近道となる山道を教えられて、28キロメールもある距離を歩き始めました。6人いた友だちも家の近い人からそれぞれに帰っていき、最後は私一人になりました。日も暮れて足は痛み始め、疲れ果ててきました。

 そうしている時に後ろの方から電灯の明かりが近付いてきました。男の人でした。軍服を着てリュックを背負った兵隊さんで、胸には白い布で包んだ遺骨を抱いておられました。奥様の遺骨だということで、奥様を実家に連れて帰る途中とのことでした。聞くと私と同じ方向だというので、この兵隊さんに付いてくことにしました。14歳の少女ですから、もう実家に帰り着きたい一心で、ほとんど会話もせず一生懸命兵隊さんについていったことを覚えています。

 家に帰り着いたのは深夜の1時過ぎでした。私が「ただいま」と言った時、母は敷居を跨いだまま黙って硬直したようになって私を見つめていました。私のことを幽霊だと思ったようです。私とは連絡も取れないしもう死んだのかもしれないと諦めていたのだそうです。後年になって私の妹が「お姉ちゃんぐらい親不幸はないよ。あの時どれだけ親が心配していたか分っているの?」と言ったことがあります。今になってあの時の親の気持ちが分ります。

■原爆のショックで口の聞けない子に

 父だけは仕事の関係で終戦まで宇部にいました。母も私の兄弟姉妹もみんな高田郡の生桑にいましたので、原爆の被害に遭ったのは家族の中で私だけでした。母は後になって、「あんたを原爆に遭わせるために広島に連れ帰ったようなものやねー」と言って私に謝ったことがあります。責任を感じていたようです。

 私は実家に帰り着きましたが、全然口の聞けない、何もしゃべらない子になっていました。「この子はなんとかしないと、生涯何もしゃべれない人になるのではないか」と随分心配をかけていました。それだけ原爆で怪我をした人たちの救護にあたったことはショックの大きいことだったのです。ご飯もほとんどまともに食べられないでいました。

 実家に帰ってしばらくして、私のお祖父さんに、お祖父さんの里である来女木(くるめぎ)という所にお盆のあいさつだと言うことで連れていかれました。そこでラジオ放送から、天皇陛下の言葉を聞かされました。お祖父さんが手ぬぐいをとって握りしめて、じーっと泣いていたのを覚えています。あれが終戦の日でした。

■出産、我が子の成長に苦悩

 終戦後、私は結婚するまでは洋裁学校に行っていました。私のいた田舎でも原爆に遭った人にちょこちょこ出遭うようになりました。被爆した人に冷たく接したり、偏見の目で見るような人もあり、それを見た私は辛い思いもしていました。

 私は結婚する時自分が被爆していることは打ち明けずに結婚しました。その後も長い間話すことができず、一人で悩みを抱えてきました。私は貧血がひどくて増血剤を服用していました。それ以外にも貧血によく効くと聞いたらどのようなことでも試してみました。

 妊娠してからは人には言えない心配が募ることになり苦しみ続けました。つわりだと思い我慢していましたが、あまりに長いので病院へ行ったら、肝臓が悪いと診断されました。実家の母は、原爆が影響しているのではないかと心配してくれました。母は被爆者手帳を受けるよう勧めてくれましたが、嫁ぎ先の家族の手前から手帳を受けることはできませんでした。産み月になっても普通の人の6ヶ月位の成長ぶりでしかありませんでした。予定日より3週間も早く女の子を出産しました。髪の毛の赤い、小さな赤ちゃんでした。

 娘は幼稚園になっても髪は黒くなりませんでした。それどころか大きくなるに従ってだんだんだんだんと赤くなっていき、トウモロコシの毛のように真っ赤になっていきました。中学生になった時先生から髪の毛を染めているのかと聞かれたりしました。どうしてなのか、どうしてなのかと思いつつ、私が被爆して、ずーっと薬を飲んでいたからではないのかと心配していました。私は悩み続けていましたが、幸いにも娘の方がまったく屈託なかったのが救いでした。

■繰り返される苦悩

 その長女が結婚し妊娠した時、また私の苦悩が繰り返されることになりました。妊娠6ヶ月に入った頃、流産しかけるので毎日注射をして何とかもたせることになりました。8ヶ月になった時お医者さんから、これ以上我慢したら母体が持たないので出しましょう、子どもは月が満たないので期待しないで下さい、と言われて出産しました。生まれた時、真っ黒な赤ちゃんで、ずーっと保育器に入れられました。血を全部入れ替えられる処置がされました。母親(私の長女)には言わずに、網膜症の心配があることも告げられました。何もかも私が被爆していることが原因なのかと思い悩みました。

 3ヶ月後に孫は退院しました。幸いにも後遺症はありませんでした。今はその子(私の孫)も大きく立派になって、目の方も異常がなくて、良かったなあと思っています。

■初めて観る原爆資料館で涙

 孫が14歳になった時、私が被爆した時と同じ年齢になったことを複雑な思いで迎えました。その年の夏、孫たちと一緒に原爆資料館へ行きました。私も初めて訪れる原爆資料館でした。展示されている資料を見て、思わず「こんなものではなかった」と思い、涙が出てきてしようがありませんでした。娘や孫たちが私の様子にびっくりして、じっと私の顔を見ていました。この時をきっかけにして、私も少しずつ原爆の話をするようになっていきました。

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 被爆50年の年(1995年、平成7年)に、京都府原爆被災者の会(京友会)が編集発行された祈念誌『被爆して生きて五十年』に私の被爆体験を書かせていただきました。私のひ孫が私の被爆体験を学校の先生に見せるのだと言ってこの祈念誌を持って行ったことがあります。

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 それからたくさんのみなさんのお世話でその後被爆者手帳も受けることができました。救護による被爆なので3号被爆者ということになります。

 振り返ってみますと、私の親も、私も、そして子や孫までも、原爆放射能に襲われる不安と共に生きてきた70余年だったと思います。これからも負けずに頑張って生きていきたいと思います。これまで出会った多くのみなさんに感謝しつつ、今の平和が永久に続くことを祈っています。



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