ロゴ4 ロゴ ロゴ2
ロゴ00

●被爆体験の継承 52

大芝公園で斃れた人々を思い起こしながら生きてきた

住田紀美子さん

2017年2月18日(土)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

住田さん

■脳裏に焼きついた大芝公園の人々

 私は昭和15年3月7日、広島市の楠町13番地というところで生まれました。横川駅にほど近い町です。原爆が落とされた時は5歳でした。

 8月6日の朝、私の父は広島市内の勤め先に出ていました。母もその年5月に生まれた私の弟を連れてどこかに行っていて家には居ませんでした。兄が2人いましたが2人とも学童疎開か何かで家にはいませんでした。私の下には弟が2人いたのですが、一人はもう戦前に亡くなっていました。ですから私の家族は6人だったのですが原爆投下の朝家にいたのは私一人でした。母の姪にあたる人が私の家に来ていて、私の面倒を見てくれていたように聞いています。

 この日、私は一人っきりになって、ふらふらと近くの公園、太田川沿いにある大芝公園に遊びに行っていました。

 そんな時に原爆が落とされ、私は被爆したのです。ピカッと光って、ドンと地響きが走りました。爆心地からの距離は2.4kmとされています。

 あの日のことで私の記憶にあるのは、真っ黒になった人たちがゾロゾロゾロゾロと公園の土手を歩いて来て、川の方へ降りてきたことです。私はビックリして、その人たちをボーっと見ていました。

 その内に私も家に帰らなければと思い立ち帰ろうとしましたが、家の方角がもう真っ赤になってすごい火事になっていて帰ることができません。仕方ないから公園でずーっと立っていました。するとさらにたくさんの人たちがどんどんどんどん歩いて来ては倒れていくわけです。ゾロゾロゾロゾロと逃げてきては倒れていく。その様子をずーっと見ていました。まわりの人をキョロキョロ見ていて、みんなギャーギャー騒いでいるけど、何が何やら分らないわけです。日が暮れてしまうまでそうやっていました。

 暗くなった頃、たまたまですけど、近所の知り合いのお姉さんたちが通りかかってきて、「いやーっ紀美ちゃんがこんな所にいる!」と見つけてくれたのです。私を抱きかかえるようにして川の下の洞穴のような所に連れて行ってくれました。もしこのお姉さんたちに出会っていなかったら、私はそれっきり戦災孤児になっていたところでした。あの時のお姉さんたちの中の一人は今も生きておられます。「あの時の紀美ちゃんは泣いて泣いてすごく困ったのよ。口を押さえれば押さえるほど泣くし、夜通し泣いていたのよ」とよく言われたものです。

 次の日、私の家の近くには小さな竹藪があったのですが、そこまで行けば誰かいるかもしれないということで、竹藪まで連れて行ってもらいました。幸運にもその竹藪で父や母に会うことができたのです。その後は、近くにあった私のお祖母ちゃんの家から蚊帳を借りてきて大きな竹藪の中で寝泊まりしていました。竹藪は草がいっぱい茂っていて涼しいので、たくさんの人たちが避難して集まってきていました。竹藪の中ではギャーギャーギャーギャーとすごい悲鳴が上がっていました。

 それから数日後私は大芝公園に避難して来た人たちのことが気になりだして、また一人でトコトコトコトコ公園まで歩いて行きました。何日か経っていたので公園は片づけられていましたが、死体の山が積み上げられていました。亡くなった人たちが燻りながら燃やされているのです。3つぐらいの山になっていました。それを見て、かわいそう、かわいそうと思い、じーっと立っていました。大人の人から「帰れ!」って言われて、それでもかわいそうでならなくて帰らないでじーっと見ていたのです。仕方ないので男の人が来て、私を抱きかかえるようにして追い返しました。それで私もやっとまたトコトコトコトコ歩いて帰りました。

太田川沿いにある大芝公園

太田川沿いにある大芝公園と慰霊碑
太田川沿いにある大芝公園と慰霊碑
■牛小屋に隔離されて

 この頃の私は記憶が飛んでいて、ところどころ断片的にしか覚えていないのです。ある日気が付いたら島根県にある母の実家に一人で連れて行かれていました。その頃から髪の毛が抜けだして、バッさバッさと自然と抜けるのです。どうして髪の毛が抜けるのか田舎の人たちには分らない。だからライ病か何かかと思われて、変な病気だと思われて、牛小屋の2階に隔離されてしまいました。閉じ込められて、下に降りられないよう梯子も外されて、ご飯だけは与えられるようなことになりました。ひとりぼっちで、夜は真っ暗だし、とにかく泣こうがわめこうが絶対に下には降ろさない、外にも出させてくれませんでした。病気がうつると思われていたのです。こうしたこともあって私の体は一層悪くなっていったのかもしれません。

 それから何ヶ月か何日か、どれぐらい経ったのか分らないのですが、次に気が付いたら、今度は天井に星空のようなものが綺麗に見える所にいました。島根県からまた広島に連れ戻されて、三篠4丁目というところで、父親が建てたバラック小屋の中にいました。穴だらけのトタン屋根から光がさして星空のように見えたのです。島根県に連れて行かれた時のことも知らない、広島に帰って来た時のことも分らない、記憶がなくなっているのです。

■脱毛と治療の辛さ

 広島に帰って来てから、父親が私の髪の毛が抜けたことをとても心配してくれました。父親の友だちにお医者さんがいて、そのお医者さんにもいろいろ相談してくれました。薬もないし、病院もまだまともに診察などされていない頃です。どくだみ草を蒸して、熱灰(あつばえ)の中に埋めて、濡れたようなものに包んで、それを綺麗に拭いた頭に乗せていく。私が動かないようにしっかりと体を押さえつけてやられるんです。その時に頭の地肌が痛いんです。父と母とが一緒になって私の頭を綺麗に拭いてくれるのですけどそれがすごく痛い。

 髪の毛が少しづつ生えてきた頃は、風が吹いただけでも猛烈に痛かったのです。よく泣きました。「紀美ちゃん髪の毛生え出してきて良かったなあー」とか言われるけど、とんでもなく痛くて泣きわめいていました。どくだみ草を塗って、その上から手ぬぐいを置いて、その上に防空頭巾かぶせて、絶対安静にと言われて、じっと動かないようにする。そんな格好や姿が走馬灯のように思い出されます。小学校に行くようになってもしばらくは防空頭巾をつけていたように思います。

 自分では細かい事までの記憶はないのですが、後に被爆者手帳の交付を受けた時、たくさんの原爆急性症状を発症していたことが書かれていました。例えば、脱毛、下痢、発熱、食欲不振、倦怠感、紅斑、紫斑、胃腸障害などです。

■子どもの頃から健康に見放され

 戦後はバラック小屋のあった三篠町で育ちました。子どもの頃はずっーと下痢が続いていました。体がもうゴボウのように細くなって、黒くなって。小学生の頃はよく「紀美ちゃんゴボウみたい」と言われていました。その上さらに貧血もきつくなって、お医者さんにかかるようになり、毎日のようにすごく太い注射を打たれました。今のような点滴などない頃で、ペニシリンとかブドウ糖とか、マイシンとか。その注射も痛くて、それが何年も続いて、今も注射の跡がタコになって残っています。

 私の貧血はものすごくきついものでした。お医者さんたちもどうしたら治るのか分らなかったのだと思います。だからあれをやりこれをやりして、いろんなことが行われました。増血剤の投与もされていたのでその影響で肝臓もやられました。肝臓やられたら黄疸も出て、黄疸が出るとシャツまで全部黄色になってしまいました。15〜16歳の頃は足がすごくむくんで膨れて、紫色になっていました。

 子どもの頃は大きくなってくると自転車にも乗りたくなります。自転車の練習しようとすると母親が「紀美子は怪我したらどうするの!」とすごい剣幕で怒ったことがあります。怪我して出血でもしたら大変なことになると思われていたのです。

 19歳の時盲腸の手術をしましたが、この時私は1ヶ月も入院させられて、退院してからもさらに2ヶ月絶対安静にさせられました。貧血がきつくて血がないので動かされなかったのです。実は私は輸血もできない、受けられない体であることを、京都に来てから初めて知ったのです。

■ABCC(放射線影響研究所)のこと

 小学生の頃からの忘れられないことの一つはABCC(今の放射線影響研究所)のことです。ABCCがジープで学校の運動場に入って来て、みんなが見ている中で私一人が強制的に連れて行かれるのです。とても恥ずかしくて嫌でした。それが毎年々々続き、中学生になってもずーっと続きました。

 実は今も放射線影響研究所からは調査アンケートが来ているのですよ。ABCC(放射線影響研究所)は病気になっても決して治療してくれる所ではありません。生きていることが珍しいほどの私のような子が、どのように成長しているか、放射能に対する被害を調査する所だったのです。

■大芝公園の人たちを見たから生きてこれた

 お医者さんは母親には「もうちょっとしたらよくなる、もうちょっとしたらよくなる」と言うけど、何の病気かも言わない。言えないのですよ、分っていないから。私も15〜16歳の頃になって、みんなと一緒にいろんなことをしたい、それができないから、「先生の嘘つき!」と言ったりして、お医者さんに反発したこともありました。そうすると先生は怒って、「体には自然と治そうとする力が備わっているんや。だからあんたに治そうという気持ちと心がないと治るものも治らない。その気がないと絶対に無理なんや!」「僕らは手助けしているだけ。だからいろんな薬使ったり、機械使って調べてるんや!」と言われました。

 こういう時にはいつも大芝公園にいっぱい積み上げられて亡くなっていった人たちのことが頭に浮かんでくるのです。「そうやなあ、あの人たちはどこの誰かも分らないまま積み重ねられて、かわいそうやったなあ」、「あの人たちが戦争したわけでもないのに、山のように積み上げられて、罪のない人たちが亡くなっていった」、「私はまだ生きているじゃない。くそったれ、生きたるわ!意地でも生きたるわ!」と思い返しました。大芝公園のあの光景を見たから、私は今もしつこく生きているんだと思っています。

 私はこれまで何度か死のうと思ったことがあります。薬を飲んだりいろいろなことをしました。でも悔しいけど死ねませんでした。そういう時はまた大芝公園の人たちのことを思い出して、「よっしゃ、もうちょっと生きたろ!」「生きられるだけやってみたろ!」と思うのです。私はたまたまみんなの助けがあって今日まで生きて来られたけど、神様仏様が守ってくれたのかもしれませんね。

■母親の手一つで育てられ

 私の父は私が小学生の時に亡くなりました。私をとてもかわいがってくれた父でした。私が小学校の修学旅行から帰って来る日、横川駅まで迎えに来てくれたことを覚えています。その3日後に事故で亡くなったのです。10月13日でした。

 上の兄も小学生の頃腹膜炎を患って亡くなりました。将来は大学まで行きたいと言っていた兄でした。ですから私たちは戦後長い間、母と2番目の兄と私と一番下の弟の4人家族で暮らし、そんな中で育ちました。

 それから原爆投下の日に私の家に居てくれた母の姪ごさんは原爆症で早くに亡くなっています。

 父親が早く亡くなったので母親は働きに出なければならず大変でした。私も兄弟の中では女の子一人で、三度三度の食事の用意などいろんなことをして母親を助けました。体が弱くてしんどいことは続いていました。あんまりしんどい時は背中から体中が痛くて涙が出るほどでした。母親は、「紀美子、泣くぐらいやったらせんでもいいよ」「私が帰って来てするから」と言って、でも勤めから帰って来てまたすぐに畑に出て行くのです。少しでも野菜や果物がとれたらそれを売りに出そうとして。そんな時私は「お母ちゃん、大丈夫すぐ治るから」と言いながら、また泣いていました。

■結婚をあきらめ京都(田辺町)へ

 結婚のことを考えるようになったのは体の方が大分よくなってきてからです。私にも好きな人が出来て、結婚の話になって、私も結婚しようと思いました。ところが、「あんたは血がないから結婚しても子どもは作れないよ」と言う人があったのです。それは私にとってものすごく大きなショックでした。その時は本当に死にたくなったのです。このことは親にも言えませんでした。言えば心配するのは分っていましたから。

 その時の結婚は諦めることになりました。でもその後私がぐずぐずしていたら、今度はお見合い話が持ち上がりました。私は体力的にもすっかり自信をなくしていたので、お見合いを断わり、それで広島を離れることにして、逃げるように京都に来ることになったのです。遠縁にあたる人の知り合いから、「気分転換になるから、しばらく京都の家に来てみないか」と誘われて、私もどこかに逃げ出したくて、その方を頼るようにして京田辺市(当時田辺町)に来たのです。私が26歳の時でした。

 その方は原さんと言って、お寺の僧侶をされているご夫婦でした。息子さんが3人おられたのですが、私のことを娘が一人増えたようにしてかわいがっていただき、長くお世話になることになりました。私もお二人のことを大切にしてきました。お二人とももう亡くなられたのですが、最後は二人共私が送ることになりました。

 京都に来た最初の頃は、私は歩くのもなかなかだったのです。あの頃地域の人たちは木津川まで流れ木(流木)を取りに行ってそれで風呂などを沸かしていたのですが、よく原さんに木津川まで連れて行かれました。私が嫌がるのに大八車に乗せて木津川まで行って、河原の砂の上を歩かされました。「京都に来てまでなんでこんな砂の上を歩かされないとあかんのや」と思いながら歩きました。砂の上を歩くと背中から足にかけてものすごく痛いのです。それに足が笑う、手も笑って、ふるえてきて、どうしようもありませんでした。それでも少しづつ体が鍛えられていったのだと思います。

■美容師を生涯の仕事に

 京都に来た最初の頃は母親から仕送りもしてもらっていましたけど、いつまでもこんなことを続けていたら駄目だと思うようになり、何か仕事をしなくてはと、体を慣らしながら、あちこちパートにも行くようにもなりました。

 広島にいる頃から和裁はしていました。「紀美子は体が弱いから和裁やったらできるかな」と母に言われて習いに行っていたのです。それで京都でも和裁をしようと思っていたら、原さんから「和裁はダメ、体を壊すから」と止められてしまいました。それでまた他のことをいろいろ考えることになりました。

 原さんの息子さんの奥さんが美容院をされていて、「紀美ちゃん、手伝ってもらえないかな」と言われて時々掃除とか細々とした仕事の手伝いをしに行っていました。そこで「紀美ちゃんこの仕事(美容師)してみたら」と言われたのです。「紀美ちゃんは器用そうな手をしてるし、紀美ちゃん体弱そうやし、この仕事はお客さんがドライヤーに入ってる時は休息もできるから」などと言われて。それで美容師の勉強をしてみようと思うようになりました。

 通信教育を2年受けて、夏休み、冬休みのスクーリングにも行って、京都市内のいろんな美容室にも実地の勉強をさせてもらいに行きました。美容師の国家試験免許を取ったのは昭和48年(1973年)33歳の時でした。それから3年後の昭和51年(1976年)に今のところに美容院のお店を出すことができました。店の名前は「BEAUTY SALON きみが」とつけました。店を出すといってもそれまでしっかりとした仕事もできていなかったので普通の融資はしてもらえませんでした。原さんのお知り合いの税理士さんに保証してもらってやっとお金を借りることができたのですが、それを返していくのも大変でした。

 美容院を始めてこれまで40年間ずーっとやってきました。ほとんど休むことはありませんでした。借りたお金は返さないといけない、日々の生活はある、それから若い頃ちゃんとした勤めとかできていないので年金もなかったのです。

■闘病人生

 体調の方が良くなっていったわけではありませんでした。貧血と肝臓は子どもの頃からずーっと悪い状態が続いていて、肝臓機能障害だと診断がされていました。それから、白血病、心臓病、大脳神経障害を患いました。42歳の時、不規則性抗体という診断がされ、輸血ができない体なのだと言われました。その他にも京都に来てから初めて、骨粗鬆症だったこと、両変形性膝関節症、両下肢静脈血栓症、高血圧症であることが分りました。

 私は骨髄で血液が造られていない体です。そのために、食べもので血になるものを取るように言われました。しんどい時はとにかく安静にすること、歩いている時はしゃがんでじっとしていること、などいろいろ教えてもらいました。いつもそうした教えを思い出しながら生きてきました。お医者さんから、病気は治り切ることはないが、上手に体を維持すれば長生きできるよ、と言われて、それを信じて今日まで頑張って来たのです。

 平成14年(2002年)に胃がんが見つかって開腹せずに摘出手術をしました。去年(平成28年/2016年)には大腸がんも見つかって、今抗がん剤の治療中です。

 抗がん剤の影響でずーっと手も痺れて、足も痺れていました。去年の夏には肺炎まで併発して。肺炎になった時は足もとられて歩けなくなりました。本当に怖かったです。このまま歩けなくなるのではないかと思うと情けなくなって、泣きました。先生に「歩けなくなって他人様に迷惑かけるのは嫌やから安楽死させて欲しい」と言ったら、「それはできない!」ときつく叱られて、「それなら頑張るわ」と言ってリハビリにも一生懸命とりくんできました。病院のみなさんもチームを作っていただいて親身になってサポートしていただきました。

 体の病気とは別に、夕立などで空に黒い雲が湧きあがった時、異常な胸騒ぎを覚えてしまい抑えることができません。今もその症状は続いています。71年前のあの日に受けた衝撃と恐怖がトラウマとなって今も私を襲ってくるのです。

■がんになってやっと原爆症認定

 去年、がんの発症について原爆症認定を受けることができました。認定申請書の作成も必要な書類の準備も全部自分でやりました。認定されたのは平成28年(2016年)6月9日付です。私は5歳の時からずーっと病気で苦しんで生きてきました。全部原爆が原因です。なのにがんに罹らないと原爆症認定しないというのはおかしいと思っていました。そのことを直接厚生労働省に電話して抗議したこともあります。

 原爆症認定通知書が届いた時に、厚生労働省にこのようなお礼の手紙を書きました。


 ご迷惑をおかけしてすいませんでした。

 被爆していろいろな病気をしてきましたが、がんにならないようにいろいろ考えて きましたが、最後はやっぱりがんで終わりかと思っております。

 抗がん剤の点滴をしながら、仕事もしながら頑張って6ヶ月が過ぎました。副作用もだんだんひどくなり、仕事もできにくくなりましたので、死を考えたり、いろいろ悩んでおりましたが、原爆症認定書を送っていただき、やっと分ってもらえたのかと思っております。

 本当にありがとうございました。

追記

 私のような身体の者でも良くなったら、他の方に「私のような身体の者でも良くなったから、今は医学も医療も科学も良くなっているから頑張ってね」と言って上げられるように、もう少し頑張ります。

■“散髪ボランティア”で生きる支えをもらってきた

 長年生きてきて一番ショックだったことは、随分以前のことになるのですが、被爆者のみなさんの集まる会合で、元軍医さんという方が役員か何かやっておられて、その人が「5歳ぐらいの被爆じゃ何も分りはせん!」と言われたことがあったのです。それから別の女の人からは「仕方がないわねー、戦争だったんだから」とも言われて。私は腹が立って悲しくて、この人たちは一体何を考えているんだろうか、と。京都の人には何も分ってももらえないのではないかと思いました。もうこんなところには二度と行かないと決めて、それ以来その会合には行かなくなりました。

 私はいつも思っているのです。自分はいつ死んでもいい。もう命は惜しくはない。ただ自分が寝込んでしまうことは嫌だ。寝込んだら他人様に迷惑をかけることになる。それが嫌なのです。他人に負けてしまうことはいい。でも自分に負けてしまったら寝込むと思うので自分には負けたくない。

 私は、“散髪ボランティア”と言って、いろんな老人施設や福祉施設などを訪問して入居されているみなさんの散髪をさせてもらうボランティアをやってきました。後には京田辺市の社会福祉協議会の人に送迎されて自宅を訪問して在宅の方たちの“散髪ボランティア”もしてきました。そこでいろんな人を見てきました。喉に穴のあいた人、体が硬直してまったく動けない人、胃ろうをされている人等々。可愛そうやなと思う人もたくさんありました。「私はあの人よりはまだ元気な方やから、もうちょっとがんばろうか」と思って、それでずーっと毎年々々ボランティアを続けてきました。髪を綺麗にしてあげたらニコッと喜ばれるんですよ。あの笑顔が私の心の支えになって、私の心が助かって、私の生きがいにもなって、私の方が頑張りをもらってきたのです。

 介護されてる人も、介護している人の姿も見て、私も頑張ろうと元気をもらってきました。とてもいい勉強をさせてもらったと思っています。

 今は私の体の方が思うようにならなくてボランティアもできていませんが、できればもう一度元気になって、またみなさんの笑顔に出会いたいなあと思っています。



※右クリックで、「新しいタブで画像を開く」か
  「画像を保存」してから開くかで、大きく見ることができます。
広島県の地図

■バックナンバー

Copyright (c) 京都被爆2世3世の会 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system