ロゴ4 ロゴ ロゴ2
ロゴ00

●被爆体験の継承 53

あの惨禍が二度とないようにと語り継ぐ

榎 郷子(きょうこ)さん

2017年2月22日(水)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

榎さん

■父と母と二人の姉と私

 私は昭和9年(1934年)5月27日の生まれです。広島に原爆が投下された時は国民学校の5年生、11歳でした。

 私たちが小学校に入学した年に学校の名前が小学校から国民学校に変わり、それから戦争が終わって国民学校を卒業する時にまた名前が小学校に変わったんです。私たちの小学校の6年間だけが国民学校と言われていたわけで、大橋巨泉さんとか愛川欣也さんとかが同じ年齢で「昭和9年会」と言うのをやっておられましたね。

 私が住んでいたのは舟入川口町と言う町で爆心地から2キロメートルぐらいのところでした。私の通っていた学校は中島国民学校で、そこの5年生だったわけです。中島国民学校は、今の平和公園の南の方角、当時の県庁とか県病院のあった一帯の南側にありました。私の家からは川を一本隔てたところで、私は本当は校区外の子だったんですけど、進学率やらなにやら考えて親がそこに通わせていたんです。

 家族は父と母と二人の姉と私の5人家族でした。父は、東洋製缶という元々は缶詰の工場だったのでしょうけどその頃は軍需工場になっていた工場の青年学校の校長をしていました。青年学校というのは、小学校を卒業して働きに来ている人たちを教える高等小学校みたいなところです。

 母は小学校の教師をしていましたが、空襲のサイレンが頻繁に鳴るようになってから、子どもたちのことが心配だということで、恩給がつくようになったらすぐに辞めて、家にいて家事に専念するようになっていました。

 二人の姉は共に県立広島第一高等女学校に通う女学生でした。上の姉が2年生、下の姉が1年生でした。私たちは女の子ばかりの3姉妹です。父や母が私たち3人を連れて街を歩いているとお知り合いの人から「まあ、お宅はお嬢ちゃんばかりで、兵隊さんがおらんのじゃねえ」ってよく言われていました。あの頃男の子がいないというのは引け目でね、私は一番下だったのでよく男の子の恰好をさせられたもんです。水兵さんのようなセーラー服とか着せられて歩いていました。とにかく兵隊さんでなかったらいかんような時代でしたから。

■印象深く残っている配給の思い出

 私が小学校に入る頃までは動物ビスケットとかウエハースとかお菓子のおやつがまだあったんですよ。だけど日を追うごとに、私たちの学年が2年、3年と上がっていくに連れて、お菓子というものは手に入らなくなっていきましたね。男の人はどんどん招集されて兵隊さんになっていくから働き手が少なくなっていて、農業の担い手も少なくなっていって食糧の生産も原材料も少なくなっていたんでしょうね。電気の供給とか燃料なども減っていたんだと思います。

 私たちが国民学校の2年か3年生の頃から食糧も衣料も全部配給制になっていきました。配給切符というのがありましてね、その切符が何枚か貯まったら持って行って、銘仙とか着物の生地とか下着とかが買えていました。

 配給で今でも印象深く残っていることがあるんですよ。親が忙しいときは子どもが配給の列に並ばされるんです。組長さんのような人が順番に配ってくれるんですが、マッチの配給があった時です。みんなに一箱ずつあれば問題はないのですが、大きなマッチ箱を3軒ぐらいで分けることになったんです。マッチの軸をまず分けてもらって、マッチを擦るところも3つにばらして配られたんです。組長さんが親切に一人の子どものポケットに捻じ込むように入れてあげたんです。そしたらポケットの中でマッチが擦れて火が着いたんですよ。うわーっとなって、大人の人たちがポケットの上から叩いて消してやったことがありました。それでお当番の組長さんは自分のをその子にあげて・・・もしかしたら隣組助け合いみたいな気持ちは強かったですね。

 そんなふうに何でも分けて配られていましたね。下駄が2軒に一足とかね、どうやって分けたんでしょうね。お魚も2軒で一切れとかね。二枚におろすとみんな骨のついた方が欲しいのでよくもめたりしていました。骨のついた方をもらった家ではその骨をカリカリに焼いて子どもたちにおやつ代わりに食べさせていました。カルシウムをとらすのだとか言ってね。

■集団疎開と残留組

 私たちが4年生の終わり頃(昭和19年)から集団疎開が始りました。学校の先生が希望者を連れて集団で郡部の方のお寺へ疎開するんです。縁故疎開というのもあって、こちらは田舎の親戚縁者を頼ってそれぞれ疎開したんです。

 集団疎開した子たちは大変だったみたいです。お寺で集団で生活して、食べるものは少ないし。地元の農家の子たちは食べものはあるのに、自分たちにはない。本当に情けなかったと言っていました。縁故疎開の子たちも肩身の狭い思いをしたんだと思います。

 私たちは残留組といって疎開しなかったんです。私の両親は私がすごく偏食だったこともあって、どうせ死ぬなら親子一緒に死ぬことにしようっていう感じで、疎開しなくていいという考え方で残留組になっていました。

■8月6日8時15分

 8月6日は月曜日で、よく晴れた日でした。姉二人は第一県女の生徒でしたから私より早く、7時30分頃には「行って帰ります!」と言って出かけ、母が「行って帰り!」と言って送りだしていました。「行ってきます」のことを広島では「行って帰ります」と言っていたんですよ。下の姉はその日たまたま夏の麦わら帽子の配給が学校である日で、母からお金をもらってもの凄くうれしそうな顔をしていました。その表情は今でもよく憶えています。

 月曜日ですから私も本当は国民学校に行かなければならない日でした。その時季は夏休みの時季なのにずーっと学校があったんですよ。どうしてだったのか分かりませんけど。その当時電力供給がお休みという日があって、父の勤めていた東洋製缶では月曜日が電気がお休みだったんです。それで父の仕事もお休みなので、私は「お父ちゃんがおるけえ学校に行かん」と言ったんです。私は末っ子で父にとても可愛がられていたものですから。

 あの頃は学校に行ってもほとんど勉強らしい勉強はなかったんですよ。校庭を畑にしてカボチャとかお茄子とか作ったり、お掃除したり勤労奉仕みたいなことばかりやっていました。みんな疎開しているでしょ。残留組だけだから2学年が一緒になっていて、あんまり勉強なんかなくて、畑作りとかお掃除したりとかそんなことばかりやってた印象が強いんですね。

 親もまた親で「ほうか、そんならお休みにしようか」と言って私を休ませてしまいました。そういうことで私はその日たまたまずる休みをして舟入川口町の自宅の中にいたわけです。

 8時15分、父と母と私と3人で茶の間にいました。よく原爆のことをピカドンと言いますけど、私はそのドンは聞いていないんです。遠くにいた人たちは聞いたみたいですけど。私たちが座っていたら、突然世の中すべてが真っ暗になって、ピカーッと稲妻が走りました。

 父は爆風で庭へ飛ばされました。母は私の手をとって一緒に玄関の方へ走ろうとしたらしいんですが、手が離れて、母だけ玄関の方に飛ばされてしまいました。私は一人で、丁度階段の所に佇んでいました。階段のところは柱が多いせいか比較的丈夫なんですね。今でも私は地震があったら階段まで走ることにしていますけど。

 母は玄関のところで、爆風で粉々になった格子戸のガラスに全身を襲われていました。額から足の先まで64か所ガラスが突き刺さったり、切ったりしていました。庭に吹き飛ばされた父は左足の薬指を切って、もげ落ちかけるほどになっていました。私だけが奇跡的にまったく無傷でした。

 ふっと気づいたら家の中はグチャグチャに壊れていて、私が立っている階段のところだけしっかり残っている状態でした。父が「みんな元気かー?、大丈夫かー?」と言って来て、母も気丈に「大丈夫じゃけこれぐらい!」と言って立ちあがってきました。「我が家に直撃弾が落ちてきた」と思って表に出てみると、近所の人たちみんなが「うちに直撃弾が」「うちに直撃弾が」と言って出てきているんですよ。生きている人はみんな「大丈夫か?」「生きてて良かった」と言いあってましたね。

 うちのお隣が立派なおうちで、田舎の方の名家だそうでそこから材料を持ってきて建てられた家だったのですが、大きく立派な梁が落ちてきて、奥さんと2歳になる男の子が梁に押し潰されて出てこれなくなっていました。駆けつけたご主人が「家内が中におるんです」と言って、みんなで助けようとするんですけど、重機も何もなくて立派な梁がどうしても動かないんです。その内に30分も経った頃からどこからか火が出てきました。

 私は小学校5年生の女の子でしたけど、炎って腰ぐらいの高さまできたら怖くなって足が竦んでしまいますね。中にいる奥さんが「もうええけえ、みんな行って下さい。もうええけえ、みんな逃げて下さい」って声は聞こえてくるんですよ。だけどもうどうしようもありませんでした。日本は木造家屋だから火が出てくると本当に怖いですよ。気の毒だけど、声は聞こえているんだけど、みんな逃げたわけですよ。私たちも逃げたのです。あの時の奥さん25歳の若さでした。

 戦後しばらくして、そこのご主人とお会いしたことがあるんですけど、私たちは奥さんと2歳の男の子が亡くなったと思っていましたけど、「お腹にももう一人子どもがいたからうちは3人死んだんですよ」と言われました。

現在の舟入川口町電停
現在の舟入川口町電停
■何度も何度も助けられて

 母は64ヶ所も傷を負っていて出血多量で顔面蒼白になっていました。途中でもう歩けなくなりました。人間、生きるときには因縁というものがあるのだと思いますけど、丁度その時、目の前で一人のお爺さんが乳母車を置いて腰が抜けたようにして座り込んでいたんです。父が「悪いけどそれを貸してくれんかいね」と言ったら、「ええよ、ええよ、持って行きんさい」と言ってくれたんです。その乳母車に母を乗せて私たちは逃げたんです。

 江波に陸軍病院があるというので、ずっとそこをめざして歩きました。でも行っても行っても行き着かない。そのうち火も追ってきて、どこまでもこれじゃしようがない。父が「お父ちゃんはお母ちゃん連れて走って行くけえ、あんたはこの畑のようなところで待っとりんさい」と言って私を一人置いて行ってしまいました。畑はまだ青いトマトでいっぱいでした。周りの大人の人たちはその青いトマトをとってかじっていました。夏の暑い時ですからみんな水分が欲しかったんですね。私は小さいころから「青いトマトなんかかじったらいけんよ」と言われていましたので見ているだけにしていました。

 しばらく待っていると、またブーンというB29のような飛行機の音が聞こえてきました。私たちは畑の中にうつ伏せになって隠れました。後で聞いたのですが、B29は爆弾の効果を偵察に来ていただけだそうですが、当時の私たちは何やらまた新型爆弾を落としに来たのかと恐ろしく思いました。

 その頃になると街中からたくさんの人がどんどんどんどん逃げてくるようになりました。真っ黒になった人、皮膚が垂れ下がった人たちがたくさん逃げてくるのです。何故か布団のようなものを背負ったり、毛布のようなものを持ち抱えて歩いてる人たちもいました。私たちの近くまで来たら力尽きてぱったりと倒れたりする人もありました。私たちの感覚ももう変になっているから気の毒とも思わなくて、気持ち悪いとも怖いとも思わずに、そんな人たちをひょいと跨いだり、間を歩いたりしていました。

* * * * *

 しばらく青いトマトの畑でそんな人たちの様子を見たりしているうちに父が戻ってきました。陸軍病院にも薬も何もなくて、人がいっぱい溢れていて、「あそこにおってもしようがないけえ、庚午(こうご)に行こう」ということになったのです。庚午は広島の西の郊外で己斐(こい)の近くにあって、なにかあった時にはそこにある親戚に集まろうと決めてあった所なんです。

 父が母の乗った乳母車を押して歩きました。母はもう出血多量で意識がないほどでした。とにかく西に歩いて大きな川の川岸に出て橋を渡ろうとしたのですけど、橋はもう燃えかけていたんです。父は私を川岸に下して、「あんたは一人でこの川を渡りんさい」って言うんです。「お父ちゃんはお母ちゃんを乳母車に乗せたまま燃えかけている橋を走って渡るけえ。あんたが一緒じゃったら走られんけえ、あんたは川の中を渡りんさい」と言って、父は橋の方に向かいました。

 その辺りの川はもう河口に近い所ですから水深も深くて渡れないんですよ。2歩、3歩川の中に足を入れるんですけど、水の流れに勢いがあって渡れそうにない。11歳にしては小柄だった私の胸のあたりまで水があるんです。そうしていると上流の方からたくさんの人が流れてくるんです。みんな裸に近い状態で、衣服が焼け爛れて。不思議なんですけど、女の人は仰向け、男の人はうつ伏せなんですね、みんな。私はもう普通の精神状態じゃないから怖いとも何とも思わないで、流れてくる人たちをちょいと避けたりしながら。でも川の中を進めないから、行きつ戻りつしてどうしようもないなあと思っていました。

 父の方が先に渡ってしまって、渡った先に私がいないもんだから「石崎郷子はいませんかー」「いしざききょうこー、いしざききょうこー」と土手の向こう側で叫んでいるんです。丁度その時近所の八百屋のおじさんと行き合わせて、「お嬢ちゃん、このベルトのところを持ちんさい」と言ってくれて、「はーい、石崎郷子はここにおりますよー」「今渡しますけぇー」と叫んでくれたんです。私は八百屋のおじさんにしがみつくようにして川を渡してもらったんです。命の運のある者はそういうものかと思いますけど、何度も何度も人に助けられるものなのかなあと思いましたね。

■避難先の庚午(こうご)

 やっと向こう岸まで渡ることができて、落ち合うことになっていた庚午の親戚の家に行く着くことができました。親戚の家の近くの大家さん方では、「広島で大事(おおごと)があったようで、みんな何も食べていないだろう」と気を利かして、ご飯を炊いてくれていました。中に大豆の入ったようなご飯なんですけど。私にも「食べんさい」と勧められたのですが、この時はさすがに子どもでも食べられませんでした。喉を通らなかったのです。「可哀そうに、こういう目におうたら子どもでもご飯を食べられんのじゃねえ」と慰められました。

 母はもう気を失って家の中に寝かせてもらっていました。そこにたまたま父の教え子の軍医さんが通りかかられて、「先生、カンフル剤が一本だけ残っとりましたわ」と言って母の胸に注射をしてくれたんです。母は幸運にも息を吹き返して元気を取り戻していきました。母は怪我人なので座敷の畳の上に寝かせてもらって、私たちは無傷でしたので、屋外の庭の木の間に蚊帳を吊ってもらって地面の上に茣蓙を敷き、そこで2晩を過ごさせてもらったのです。

 庚午の親戚の家からは、家の前の通りをたくさん避難していく人たちを見ることになりました。みんな生きることに一生懸命だったんだと思います。30センチぐらいの竹の物差しが顔の目のあたりから頭の後ろに突き抜けたままの女の人が、裸足で、自分の足で歩いて逃げていく姿も見ました。真っ黒焦げになった人がやっと庚午まで辿り着いて、そこで倒れたり、足が変な恰好に曲がってしまった人が、それでも自分の足で逃げて行きました。他にもいろんな人が歩いて行きました。人間って、怪我をしても生きようとする気力はすごいんですよね。

 あの時、街の角々に国防婦人会の人たちが立って、白いご飯でオニギリ作って、「お腹すいていませんかー」「ご飯は食べましたかー」って呼びかけていました。オニギリ2つとタクアンもらって、とても美味しかったことを覚えています。兵隊さんたちも角々に立って、小さい包みに乾パンと金平糖を入れて配っておられました。久しぶりの甘いものでそれもとても美味しかったのを覚えています。

■長姉の生還

 二人の姉は8月6日の夜は帰ってきませんでした。次の8月7日の朝、父が「あんたはお母ちゃんについとりんさい」と言って、一人で姉たちを探しに出かけて行きました。広島の郊外の小学校はどこも負傷者がいっぱい収容されていました。みんな火傷しているから顔が分からないんですよ。顔に真っ白いものも塗られていて。

 父はそこら中で「いしざきのりこー(長女:石崎規子)」《※規子→正しくは「矢見」子、PCで変換ができないことがあるため》「いしざきむつこー(次女:石崎睦子)」と叫んで回りました。トラックを出してきてその上から情報を伝達する係のような兵隊さんもいて、そこへお願いしたら、「石崎規子、石崎睦子、おったらいつも親戚の集まる庚午に父も母もいるからそこへ来なさい!」とメガホンで叫んでくれたりもしました。

 上の姉は県立第一高女から観音町の軍需工場へ動員されていました。原爆が落とされて、先生に引率されて、山の中に避難していたのです。姉たちは黒い雨にも打たれています。山の中で一夜過ごして、次の朝に無事山を降りてきて、トラックの兵隊さんがメガホンで叫んでいるのを聞いたんです。一緒にいた友達に「さようなら」も言わずに踵を返して父母のいる庚午へ飛んで来たのでした。母の喜び方は尋常なものではありませんでした。母は三人姉妹の長女だから妹たちの手本になるようにと特に規子を厳しく躾けていたので、その分気にかかっていたと後日私に述懐していました。

■未だ消息不明、行方不明の次姉・睦子

 次女の睦子はいつまで経っても帰ってきませんでした。3日目ぐらいになって広島の街の火もようやく収まってから、父は毎日広島の街中まで探しに行きました。あの日第一県女の姉たちの学年は小網町(爆心地から500メートル)の建物疎開の作業に出ていたらしいのです。10日ほど経ったころ「ちょんちゃん(私につけられていた愛称)も行ってみるか」と言われて、私も父について行きました。

 小網町一帯で、父が「ここらが睦っちゃんのおった所じゃけどのう。何もないのう」といいながら探していました。私は小さいので視線も低かったからだと思いますが、屋根瓦の積まれた間に何か小さな布切れのようなものを見つけたのです。それを摘まみ出すように引っ張ってみたら、ずるずると服が出てきたのです。それが姉の上着でした。

 あの頃は白いものを着ていたら敵機から機銃掃射を受けるから白く目立つものはいかんと言われていて、父の大島か何かの着物で上っ張りのようなものを作ってもらっていました。外を歩く時はそれを着ていて、たぶん作業するときは暑いから脱いで瓦の間にでもはさんで置いていたのではないかと思います。

 ズルリと出てきた服はほとんど焼けもせず、胸に名札が縫い付けてあって、「広島市舟入川口町 広島県立第一高等女学校一年 石崎睦子 血液型エ型」と書いてありました。肩から斜めにかける炒り豆の入った小さな袋は見当たりませんでしたが、上着だけは出てきたのです。

 その日、姉の上着を持って帰って、「お母ちゃん、睦っちゃんの上着だけあったんよ」と言って母に渡しました。その夜、母は上着を抱きしめたまま泣いて泣いて泣き続けました。そして高熱を出して数日大変でした。

 8月6日の前日5日の日、滅多とないことですが、たまたまミカンの瓶詰の配給が一瓶だけあったんですね。睦っちゃんは割とハッキリものを言う子でしたから「食べたいね」と言ったんです。母が「こういう日持ちのするもんはいざという時のためのもんじゃけえね、これは置いとこうね」と言ったんです。睦っちゃんは「うん」と言って頷いていました。母は「なんであの時食べさせてやらんかったんかねえ」と言って泣きました。その後母は生涯ミカンを口にすることはありませんでした。「ミカンは苦い」と言ってね。私も、子どももでき、孫の顔まで見る年になって、あの時の母の気持ちが痛いほど分かるようになりました。

* * * * *

 私と次女の睦子とは原爆の落ちる4ヶ月前頃から毎晩、庚午の親戚の家まで泊まりに行ってたんですよ。自分の家で晩ご飯を食べて、それから夜道を歩いて庚午まで行って、日記をつけて、泊まって、朝起きたらまた舟入の自分の家まで帰ってきて、みんなと一緒に朝ご飯食べる。そんな毎日だったんです。親が夜だけでも下の二人の娘を安全な所へ避難させておこうと思ったらしいんですね。

 ですから庚午の親戚の家に姉の日記が残っていたんです。前の日までつけられていた。書かれていたことが健気なんですね、軍国少女ですから。「私たちも大変だけど、戦地の兵隊さんのこと思ったらこんなことでへこたれたりできない、もっとがんばろう」みたいなことでしたね。

 その日記と見つかった上着は姉の遺骨代わりに、父と母が亡くなるまでは家で保管していました。でも両親とも他界して、残された姉妹だけで持っていても朽ち果てるかもしれないと思い、原爆資料館にお預けすることにしたんです。資料館ですときちんと管理していただけるし、私たちが見たいと思ったら申請すればいつでも見て、会うことができますしね。

* * * * *

 私の母は割と理知的な母でしたけど、姉が亡くなってからいろんなところにすがるようになったんです。占いのような人にすがるんですよ。姉のことで拝む人を訪ね歩いたりね。拝む人から、「お母ちゃん、熱かったけえ川へ入ったんよ」と言っていると言われたりして。本当にそうだったのかもしれないんですけどね。たくさんの人が川に流されたのですから、あの中にいたのかも知れない。兵隊さんが川岸の法面に大きな穴を掘って、そこに流れてくる死体を引っ張り上げて、大きな木を組み上げて、黒い油をかけて燃やしていたんです。夏だから腐敗が早いんですよ。だからどんどん燃やすんです。姉はあの中にいたのかもしれませんね。

 あの時次女の睦子は12歳、今なら中学一年生の年齢でした。70年以上経ちましたが、姉は結局死亡確認できていないままなんです。上着が見つかっただけで、他には何も見つからず、未だ消息不明、行方不明のままなんです。骨壷には第一県女からもらった校庭の石ころ一つが骨の代わりに入っているだけでした。普通じゃないですよね、あの状況は。

県立広島第一高等女学校跡に残された門柱と追悼の碑(平和大通り)
県立広島第一高等女学校跡に残された門柱と 追悼の碑(平和大通り)

 県立広島第一高等女学校の睦子の同級生はみんな亡くなったのですけど、同じ舟入に住んでいた睦子の友達の1人か2人は家まで辿り着いた人がいるんですよ。私の母がその友達のお母さんに、「お宅は帰ってきて良かったねえ、娘さんに会えて。うちの子はどこでどうなったんか、分からんのよ」と言ったことがあるんです。そしたらそのお母さんは「いいや、会えん方が良かったかもしれんよ。『お母ちゃん』という声で娘だとは分かったけど、全部火傷しとってとても見られた顔じゃなかったから。可愛かった頃の顔はもう思い出せんのよ」と言ったのだそうです。

* * * * *

 一番上の姉は私より3歳上ですが、お陰様で今も元気にしています。

 父も、毎日毎日広島の街中を次姉を捜し歩いたのですが、97歳まで生きました。ボケもせず、自分の足で歩いて、自分の手で食べて、小学校の教員などをしていた人ですから姿勢もいい人でした。

 母は78歳で亡くなりました。姉を原爆で亡くして、食べたいと言ったものを食べさせてやれなかったことをずーっと悔やみ続けていたのではないかと思います。決して母の責任ではなかったのですけど。

■ABCCのことなど

 広島と長崎の原爆はろくに実験もせずに落したんでしょう。広島と長崎が実験場だったみたいなものですよ。私が中学に入学した時に、ABCC(今の放射線影響研究所)からMPみたいな人がジープで学校に乗りつけてきて、爆心地から1000メートル以内で被爆して生き残っている子を、男の子でしたけど、強制的に連れていくんですよ。そしていっぱい検査したんですって。血液とったり、いろいろやって、そして終わったらまたジープで送ってくるんですよ。アメリカはそうやっていっぱいデータとかをとったんじゃないですか。本当に実験場みたいなものですよ。その男の子はその後胃がんになって結構早い年齢で亡くなりました。

 郊外の庚午に避難している頃、近くに爆心地から生きて逃げ帰ってきた人たちが何人かいました。気の毒でしたけど、みんな1週間か10日位で亡くなりました。急性白血病というんですかね。子ども心にも恐ろしい思いをしました。体の穴という穴から全部出血するんですよ。目も耳も、鼻からも、口からも。すっかり病み衰えて恐いような顔で亡くなっていきました。その死に方が哀れでしようがありませんでした。

■中島国民学校の同級生たち

 8月6日中島国民学校に登校していた子は全員亡くなっているんです。爆心地に近い学校ですから。校舎は全部倒れて燃えたそうです。天皇陛下、皇后陛下の御真影と教育勅語なんかが収められていた建物だけはコンクリートでしたけど真っ二つに割れたのだそうです。

 私は庚午に避難してからはそのままそちらに住み続けて、学校も草津国民学校に転校して、そこで卒業しました。

 戦後、かって中島国民学校で一緒だった人たちとは一度も会っていないんです。集団疎開してた人たちや縁故疎開してた人たちは戦争が終わって帰ってきているはずなんですけど。街全体が破壊され尽くしましたし、その地域の親たちも多くが亡くなっているんですね。だから疎開していた子たちも元の家とか、中島国民学校には帰って来れなかった人が多かったのではないでしょうか。

 そういう事情もあって中島国民学校の同級生たちとは誰とも会っていませんでした。ところがまったく偶然なんですけど、今私が住んでいる家の近所の方のご主人が広島出身で、しかも中島国民学校に通っていた人で同級生だったんですよ。お互いは全然憶えていないんですけど。「どうして生きているの?」と聞いたら、原爆投下の2ヶ月前にお父さんの転勤で山陰の方へ引っ越してたんですって。それが戦後初めて同級生と出会った時だったんです。

 おそらく結構な人数の人が生きておられると思うし、呼びかけたら集まるとも思いますけど。でも集まって何を話すのかなあってことも考えますね。「私ら運が良かったねえ」とでも言うんですかね。あんな悲惨なことは二度とないようにと語り合うのは意味のあることだとは思いますけどね。原爆だけじゃない。全部戦争が悪いんですからね。

 大きくなってから私お茶を習ったんですけど、そこで“一期一会”ということを教わりました。これが最初で最後と思って人に尽くしなさいってことですよね。でもそのことは私小学生の時に身をもって知ってたんですよ。友だちと喧嘩して、「もう明日は遊んだげんけえ」と言って友だちと別れたけど、遊んであげなかったんじゃなくて、もう二度と遊べなかったんですよ。もうあんなこと言ったらあかんのや、明日はないのや、とあの時つくづく思い知らされたんですからね。(了)

現在の中島小学校(広島市中区加古町)
現在の中島小学校(広島市中区加古町)


【資料】

焼け跡で見つけられた姉・睦子の制服(広島平和記念資料館 所蔵・提供)
焼け跡で見つけられた姉・睦子の制服(広島平和記念資料館 所蔵・提供) (内容)
 県立広島第一高等女学校1年生の石崎睦子さん(当時12歳)は、土橋付近の建物疎開作業現場で被爆した。父の秀一さん(当時42歳)は、帰ってこない娘を心配し、来る日も来る日も捜したが、遺体すら見つからなかった。

 この制服は、秀一さんの着物の生地で作った物で、作業現場にうずたかく積まれていた瓦の下から、8月20日頃睦子さんを捜しているときに見つけたもの。作業前に畳んで物陰に置いていたために焼失を免れたらしい。怪我を負って娘を探しに行けなかった母親の安代さん(当時37歳)は、娘の帰りを信じて待っていたが、夫の持ち帰ったこの制服を見て泣き伏した。

(展示説明文)
 県立広島第一高等女学校1年生の石崎睦子さんは、動員学徒として建物疎開作業中に被爆。一緒に作業に出た同級生全員が死亡した。遺体は発見されなかったが、作業前に畳んで物陰に置いてあったため焼失を免れた制服を、父親が見つけ、持ち帰った。


姉・石崎睦子の日記(広島平和記念資料館 所蔵・提供)
姉・石崎睦子の日記(広島平和記念資料館 所蔵・提供) (内容)
 県立広島第一高等女学校1年生の石崎睦子さん(当時12歳)は、土橋付近の建物疎開作業現場で被爆した。父の秀一さん(当時42歳)は、帰ってこない娘を心配し、来る日も来る日も各地を捜しまわったが、遺体すら見つからなかった。怪我を負って娘を捜しに行けなかった母親の安代さん(当時37歳)は、亡くなるまで、睦子さんの残したこの日記を大切にしていた。

(展示説明文)
 県立広島第一高等女学校1年生の日記。

 県立広島第一高等女学校では、土橋付近の建物疎開作業にでていた1年生223人が全滅し、これらの日記が親元に残されました。日記は組ごとに先生に提出したもので、女学校に入学してからの日々の生活がつづられています。万年筆で書いたもの、鉛筆で書いたもの、表紙に千代紙を貼ったもの。内容もそれぞれ個性豊かです。

「8月5日 日曜日 晴
起床 午前五時〇〇分 就床 午後九時〇〇分
学習時間 二時三十分 手伝 ふき上げ

(略)午後 小西さんと泳ぎに行った。私はちっともよう泳がないのに、皆んなよく浮くなとなさけなかった。今日は大変よい日でした。これからも一日一善と言うことをまもらうと思う」

 母親の安代さん(当時37歳)は、睦子さんの残したこの日記を時々読み返しつつ、亡くなるまで大切にしていました。



※右クリックで、「新しいタブで画像を開く」か
  「画像を保存」してから開くかで、大きく見ることができます。
広島県の地図

■バックナンバー

Copyright (c) 京都被爆2世3世の会 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system