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●被爆体験の継承 54

やっとたどりついた今の幸福

山本イソ子さん

2017年4月7日(金)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

山本さん

 私は昭和2年(1927年)4月15日の生まれで、今年90歳になります。長崎県の壱岐で生まれ、育ちました。小学校の高等科を卒業した後、地元の裁縫学校に2年ほど通いました。でもあの頃は裁縫学校と言っても草履を作ったり、長刀の稽古をさせられたりばかりで、ほとんど裁縫を習うようなことはありませんでした。

 昭和18年の4月に挺身隊となって動員され、長崎市・浦上の三菱兵器大橋工場で働くことになりました。学校を卒業してまだ1週間しか経っていない、16歳の時でした。あの時、同じ壱岐から一緒に挺身隊に行ったのは10人ぐらいだったと思います。

 私たち挺身隊というのは、普通の工員さんよりちょっと格が上というような扱いでした。でも工場でやっていたことは、小さな金属を一つずつやすりで削って、マイクロで測って、検査を受けて、というようなことばかりの繰り返しでした。何か精密機械の部品のような物を作らされていたらしいのですが、何を作っているのかは最後まで一切教えられませんでした。

 私たちは爆心地から1.8キロメートルほど北の住吉町にあった三菱兵器住吉女子寮に住まわされていました。住吉寮と大橋工場との間はかなりの距離でしたが、私たちは毎日歩いて通いました。工場と寮との間を行ったり来たりするだけの毎日です。工場と寮との間にうどん屋さんが一軒だけありました。でも行ってみたら売り切れになっていることもよくありました。

 大橋工場に配属されて2年以上になりましたが、長崎の街中にはほとんど行ったことがありません。ですから長崎のことは何も知らずじまいでした。空襲を警戒して上司の人が私たちをできるだけ外出させないようにしていたせいもありました。青春時代というようなものではなく、ただただ無我夢中に働くだけの毎日でした。そして挙句に戦争に負けたのです。

 私が長崎の住吉女子寮にいる頃、血を吐いて市民病院に2カ月ほど入院したことがあります。肺結核でした。とても心細くて毎晩毎晩泣いていたことを思い出します。

長崎県広域地図

 私が長崎に来た少し後に、私の父も徴用で引っ張られて長崎に来ました。父は元々は壱岐で漁師をしていたのですが、長崎に来て三菱の造船所で働かされていました。

 父は月に1〜2度、浦上の工場にいる私を訪ねて来てくれました。いつもコッペパンを持ってきてくれて、一緒に食べました。そういう時だけがゆっくりと親子で顔を合わせて話のできる時でした。私は6人兄弟姉妹でしたが、私の実の母と父の間にできた子は長女の私一人だけで、後の5人はみんな二人目の母の子でした。そんなことから父は私のことがとても可愛かったのだと思います。

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 昭和20年(1945年)8月9日、長崎に原爆が落とされた時、私は18歳でした。私たちは工場の中で仕事をしていました。あの時のことはもうよく憶えていないのですが、とにかく落ちた時にはすぐに机の下に潜り込んで、しばらくして近くにあった工場内の防空壕に避難させられました。その時の私は足にちょっとした傷を負っただけで、幸いにも大きな怪我や火傷をすることはありませんでした。でもあの時の恐怖は大変なもので、壱岐から一緒に来た者同士が寄り集まって、「死ぬ時は一緒に死のうね」と言い合ったりしていました。

 父はあの日、船の上で作業をしていて原爆の光を浴びたと言っていました。その後、浦上の私のいる工場まで探しに来てくれたりしました。

三菱兵器製作所住吉寮の被災写真小川虎彦氏・撮影 長崎原爆資料館所蔵
三菱兵器製作所住吉寮の被災写真
小川虎彦氏・撮影 長崎原爆資料館所蔵


三菱兵器製作所大橋工場の被災写真小川虎彦氏・撮影 長崎原爆資料館所蔵
三菱兵器製作所大橋工場の被災写真
小川虎彦氏・撮影 長崎原爆資料館所蔵

 戦争が終わって、工場も閉鎖になって、遠くから来ている人から順に帰れということになりました。故郷の壱岐にいる母は私にとって二人目の母親だったような事情もあったので、私は壱岐には帰らず、そのまま友だちを頼って福岡に行きました。福岡で『おたふくわた』というお布団の会社で働くことになりました。そこでは布団の縫製の担当をしていました。

 昭和25年(1950年)、私が23歳の時に結婚することになりました。相手は親の決めた人で、それまで一度も言葉を交わしたこともないような人との結婚でした。当時は炭鉱産業が盛んな頃で夫となる人も神戸から来て炭鉱の仕事をしている人でした。

 結婚して福岡県の宇美町で暮らすことになりました。私は一組の布団と行李一つだけを持って嫁いだのです。結婚の時、夫には私が被爆していることは内緒にしていました。結婚した翌年の昭和26年(1951年)に長女が生まれ、さらに2年後の昭和28年(1953年)に次女が生まれています。

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 宇美町では5年ほど暮らしていて、その後、長崎の香焼に少しだけいて、さらに今度は対馬に移り住みました。そこでも夫はずーっと炭鉱の仕事をしていました。長男は昭和31年、対馬で暮らしている時に生まれています。息子が小学校1年生になってから、私も保育所の給食の仕事などをして働きに出るようになりました。対馬には20年ばかり暮らしていたことになります。

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 私の父は昭和29年(1954年)に亡くなりました。体中に紫の斑点ができたままの最期でした。まだ原爆手帳などない頃の時代でした。

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 やがて炭鉱産業が斜陽期を迎え、私たちもその影響を受けることになり、夫の知り合いの人の紹介で京都に移り住むことになったのです。京都に来たのが昭和48年(1973年)でした。夫は京都で、それまでの炭鉱の仕事の経験を生かして、ボーリングや地質調査を行う会社に勤めました。

 新しい土地に馴れないせいもあったのか、私は京都に来てから入退院を繰り返しました。胃潰瘍で吐血したことも、リウマチで苦しんだことも、脳出血も経験しました。病名がはっきり分からず、日赤病院で精密検査するために入院したことも度々ありました。

 京都に来てもう40年以上、今はすっかり京都の人になってしまいました。食べる物もなく、いろんな物がない中で、苦労をしながら子どもを3人も育ててきました。子どもを育ててきた苦労の思い出は、原爆を体験したことと共に一生忘れることができません。

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 夫は4年前の平成25年(2013年)に亡くなりました。92歳でした。長い間炭鉱の仕事をしてきた人ですから肺を悪くしているのではないかと心配しましたが、本人は結局最後まで一度も検査を受けることはしませんでした。

 私が原爆に遭っているので、娘や息子たちのことでいろんな心配もしてきました。でも、長女が「強く産んでくれてありがとう」と言ってくれたことがあり、あの時ほど嬉しく思ったり、ほっとしたことはありませんなでした。

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 私もこの頃はどうにか元気を取り戻し、少しは自分も幸せだなあと思えるようになってきました。苦労したけど今は幸福です。幸福の時間の方が短かったですけど。

 嬉しかったことは、昔長崎で同じ工場にいた人たちがたどりたどって京都の私の家まで訪ねてきてくれた時のことです。もう何年も前のことですけど。どんなに嬉しかったことか。いろんな話に耽りました。それ以来文通したり、電話で話したりしてきましたが、二度と原爆が無いようにと祈らずにはおられません。

 亡くなっていった人たちの冥福をお祈りすると共に、私たちは少しでも長生きして毎日を健康に注意して有意義に過ごそうと思っています。




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