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●被爆体験の継承 55

今も脳裏から消えることのない
一口の水と少年の笑み

藤村敏夫さん

2017年3月24日(金)
「おじいちゃんに聞くヒロシマ被ばくの話&平和と食べものの話」と題した企画が
コープ自然派京都のみなさんによって催されました。(京都「被爆2世・3世の会」も協賛)
広島で被爆され、現在松山市を拠点に被爆体験の語り部をされている
藤村敏夫さん(86歳)と次女の渡部敦子さんをお招きしてお話を聞くつどいです。
お話しいただいた藤村さんの被爆体験を文章にして紹介することにしました。

藤村さん

■13歳で国鉄広島機関区へ学徒動員

 私が生まれ育ったのは山口県の岩国市から北西へ向かった山間部の田舎です。その小さな部落で育ったわけですけど、昭和19年11月、私が13歳の時、急に校長先生から呼び出されて、「お前たち、一週間後に広島の日本国有鉄道広島第一機関区に行って、そこで働いてくれまいか」と言われたんです。当時の国民学校高等科の一年生、今なら中学校の一年生ですね。それでその年の11月から、広島の機関区に、機関車ばっかり集まっている大きな所に行って働くことになったわけです。

 田舎にいた時の平和な暮らしとは打って変わって、毎日サイレンが鳴りっぱなしの生活に放り込まれました。サイレンが長い音声で流れるのが空襲警報、ゴワーッと流れるのが警戒警報。そういう中で、怖いというか、不安というか、そんな毎日でした。田舎から出てきたもんですから食べるものはない、着るものもない。そんな状態の中で、13歳の私は広島で働き始めたわけです。

 当時は17歳から60歳までの男の人はほとんど戦争にとられていましたから、国内は労働力不足で、私たちのような年齢のまだいかない者でも徴用で引っ張り出されたんですね。

* * * * *

 今の時代、電車やバスはキーを入れてギュッと回せばそれで動くわけですけど、当時の蒸気機関車というのはいつも温度を一定の15キロ蒸気圧に保っていなければならないものでした。そのため常に石炭を機関車の釜の中に放り込んで補充しなければなりません。一日に何台もの機関車を受け持って管理するわけですけど、この管理する人を保火番(ほかばん)といいました。

 保火番の他に点火番(てんかばん)というのもありました。機関車は6カ月に1回、「6検」と言いまして、機関車を集めて、分解して、みんな点検して、悪いところは部品を取り換えたりするのが6カ月に1回あるわけです。その6ヵ月に1回の点検が済んだら機関車が私たちの機関区に帰ってきます。

 ところが帰ってきた機関車は火が消えたままになっています。それで最初は機関車の穴から釜の中へ入って、当時は枕木というのはみんな木ですから、腐って駄目になった枕木を小さく切って、それに火を着けて、ある程度外から石炭を放り込んでもう火は着いて大丈夫だとなりますと穴から出てくるわけです。それが点火番。

 私たちのように火を守るのは保火番です。保火番と点火番という仕事を私たちのような13歳から14歳の頃の年齢でやっていたわけです。

14歳の頃の藤村さん
14歳の頃の藤村さん
■虱(しらみ)には泣かされた

 あの頃、食べるものはない、着替えもない、石鹸もない時代でした。ひもじい思いをしながら、配給で下着を買おうと思っても手に入らない。下着を一度着たら、それを何年も着続けなければならないんですから、そういう時代で、大変だったんですね。

 着る物を一度買ったらそれを何年も着るわけですから、体にウジがわくんです。ウジというのは虱(しらみ)です。みなさん聞かれたことはあると思いますけど、見られたことはないでしょうね。虱がわくんです。

 田舎には虱はいなくて、女の人が髪の毛を櫛ですくと虱がひっかかる場合があったような気がしますけど、その程度でした。田舎から出てきた私は体中に虱がいるようなことは知りませんでした。

 当時は石鹸もなくて、着替えもない汚い状態でしたから、虱が服にずらーっと卵を産みつけて、2〜3日すると孵るんでしょうね。白いような、黒いような虱がうわーっとわいてくるわけです。服の縫い目を見ますと、縫い目の糸にずらーっと卵を産みつけているんですよ。何日かするとそれがみんな孵ってくるわけです。

 広島に着いて一週間ぐらいして、2階の会議室で講話を聞いている時、「わしは大丈夫や、そんなもの、体に虱なんかおりゃあせん」と言って自慢してたんです。ところが講義を聞いている最中に、なんか腹のあたりがぐじぐじするような、今までにないような感じの感触をふっと感じて、みんなが見ていないところでそぉーっと服をまくり上げてみましたら、どうですか!そこに虱が、初めて見るようなものがおるじゃないですか。私がさっきまで自分にはいないいないと言っていた虱が私にもおったのです。

 虱は熱には弱いんですね。機関区ですから蒸気はありました。そこで、蒸気の中に服を漬けて虱を煮てやるわけです。それで何日かは持ちますけど虱は非常に繁殖力が強い。虱には本当に泣かされましたですねー。

■機関区車庫内で浴びた閃光

 広島機関区で働くようになったその翌年、昭和20年、私が14歳の時、8月6日に広島の原爆に遭い、被災しました。8月6日の朝はいつものように8時前に寄宿舎を出て、機関車がたくさん集められている機関区に出勤して行きました。出勤して20人か30人がぞろぞろ集まってきたところで、班長から「今から朝礼をやる、伝達事項をやる、集まってくれ」と声がかかり、集まりました。機関車だけを入れている倉庫の一隅で朝礼が始まりました。その日の仕事の割り振りとか伝達事項を班長が話している最中でした、

 突然、車庫の各窓から、そして周囲から物凄い力の光がピカーッと入ってきました。白いような、青いような光です。アーク溶接といって鉄と鉄とをひっつける溶接がありますが、あんな光が全体に光るように、バアーッと入ってきました。

 それと同時に、とても熱い、そしてもの凄い爆風が車庫の各窓を押し破ってバアーッと入ってきて、ピューッと車庫の中を通り過ぎて行きました。

 私たちはなぎ倒されて、しばらくその場で、目と耳を手で塞いでしゃがんでいました。

* * * * *

 それから10分か15分か分かりませんけど、しばらく経って、ちょっと耳から手を離してみると、なんだか外の方でがやがやというようなざわめきがしているような感じがしました。

 私は吹き飛ばされた時何ヵ所かにケガはしていましたが意識ははっきりしていました。それで、じわーっと立ち上がって壊れた窓の方に近づいてみました。何が起きたのかさっぱり分かりません。怖さと不安もありましたけと、窓にじわーっと近づいてひょいと外を見てみました。

 そしたらどうですか。今まで広島の街の隅々まで立ち並んでいた家が一軒残らずぶっ倒れているではないですか。「あれー?こりゃあどうなってるんや?」さっぱり分かりません。その当時の日本の建築物はほとんど木造でした。その木造の建物が全部ぶっ倒されている、倒壊している。

■燃える家屋の下で

 倒壊した家の中にはお爺さん、お婆さんなどの年寄り、子どもたち、若いお母さん、そういう人たちがいたんですね。倒れた家の下敷きになって、家の中から大声で「助けてくれー」「足を挟まれたー」「手が抜けーん、助けてくれー」という声が聞こえてきました。そして倒れたぶっ壊された各家からは火災が発生するわけです。どの家からも火が出て火事が起こる。それが海のようになってだんだんだんだん迫ってきました。

* * * * *

 耳を澄ましていると、私たちのいる機関区の車庫から割と近くの方でまだ火の出ていない倒れた家の下敷きから、4〜5歳ぐらいと思われる小さい男の子の声で「お母さーん、今背中に何か落ちてきた、押さえつけられた、痛いよー、お母さーん」という声が聞こえてくるんです。お母さんは割と近くにいたんでしょうね、「今お母さんが助けてあげるから、頑張れやー」と我が子の名前を連呼していました。そのお母さんも様子からどうも下敷きになっている。お母さんも子どもも下敷きです。どうすることもできません。お母さんはよじりながら、横ばいになりながらして、我が子の所へ少しずつ手を伸ばして行ったんでしょうね。少しずつ少しずつ、いざりながら、我が子の方へ手を伸ばしたに違いない。そして、どうやらやっとの思いでお母さんと子ども手が触れ合ったように思うんです。子どもの声が小さくなったので、あー、お母さんの手が届いたんだなあーと、察したわけです。

 お母さんはその子を倒れた家から引っ張り出してやって、安全な所へ助けてやろうと思って、ぎゅーっと引っ張ったに違いないんです。でも二人とも倒れた家の下敷きになっている。どうすることもできません。その内に火災がだんだんだんだんその親子の家にも迫ってきました。「お母さーん、熱いよー、熱いよー」と言いながら、その声も私たちには聞こえました。かなり近かったんだと思います。どうすることもできないまま、そのお母さんと子どもの声はやがて聞こえなくなっていきました。火事が迫ってきて、倒壊した家が焼かれて、その火の中に倒れたままだったので声がしなくなったんだろうと思うんですね。

■国鉄管理部の消火に向かう

 私たちも不安でした。本当のところを言うと私たちも逃げたい。安全な所へ行きたいのだけれど、でも何が起きたのかさっぱり分からない。どこが安全なのかも分からない。そんな状態でうろたえていたら、班長がどこからか飛んできて、「お前たち、今から手足の動く者は、国鉄の管理部、広島駅のすぐ西隣にある、それを焼いたら大変なことになるので、それを守るために手伝ってくれ」と言って、それで私たちは管理部に向かうことになりました。

 機関車を3台連ねまして、それに手足の動く者30人ぐらいだったかもしれませんが、機関車に乗って、引き込み線から広島駅の方向に向かいました。爆風と熱風のためにそのあたりの線路の上は散乱物がいっぱいあって、そのままでは機関車を動かすことができません。散乱物を少しずつ取り除きながら、駅の西側の管理部に向かって進んでいきました。

 少し行った頃、ひょっと見ると駅の方から一頭の馬が全速力で私らの方に向かって爆走してきました。怖くなりました。広島駅の周辺には線路が無数に敷き詰めてあります。それにつまずきながら、足をひっかけながら馬が爆走してくるのです。怖くなって高さ2mほどの機関車に飛び乗りました。

 脇を走り抜ける馬を見ていましたら、馬のお腹は大きく膨れていましたけれど、その横っ腹に大きな穴が開いています。その穴から中のもつ、腸がずらーっと長く出ているのです。こりゃどこかでケガしている。きっと馬小屋がぶっ壊されて、それから自分の力で蹴ったり跳ねたり、小突いたりしながらしてやっとの思いで馬小屋から逃げてきたのに違いない。その時に横っ腹を怪我して穴が開いたのだと。腸をひこずりながら、それでもあの燃え盛る広島の街中に向かって走っていきました。火の中に向かって走って行ったので当然死んだろうと思います。

■凄惨だった広島駅構内

 私たちは管理部を守ることが目的なので、また少しずつ進み始めました。やっとの思いで広島駅の構内に差し掛かりました。その西隣が管理部ですけど、駅の構内を通過しないと行けない。駅の構内に差し掛かった時の状況がまたこれ悲惨なものでした。

 原爆が落とされる少し前、山陽本線の上り下りの列車がほとんど同時に広島駅に入っていて、両方とも停車していました。広島駅で降り立つ人、また広島駅から乗ってどこかに行く人、そういう人たちでプラットホームは溢れかえり、ざわめきあっているところでした。

 原爆が落とされたのは広島駅から2キロ半ぐらいの距離の所です。その時に駅にいた人たちはほとんどみんな火傷しているわけです。目をパチクリと瞬きした瞬間、自分の体全体が火傷していたわけです。なんで火傷したのか本人たちにも分からないまま。大変などよめきだったと思います。

 広島駅にはその当時一本の地下道がありまして、南の出口と裏側の北の出口と、その通路を通らないと駅の外に出ることができません。どうにかして安全な所に逃げたいのが人間の心理です。体全体を火傷した被災者が、体全体に火ぶくれが腫れあがったような人たちが、地下道の階段めがけて、みんな我先にと押し寄せました。

 我先に逃げよう、安全なところに逃げようと。背中を押され、横っ腹を押され、後から後からみんなの力で押されながら。一人転び、何人かが転びますと、後から何十人という人が前の人の上に重なって倒れ、押し重なって何重にも倒れていく。下にいた人は圧死したに違いありません。火傷はしているし、人が後から重なりあって来るので逃げ場もなく。

 やっと管理部の近くまでたどり着いて、火消しを始めました。でももう周囲は物凄い火の海です。それでも管理部を守るため放水をし、1時間近くはやっていたと思います。しかし周囲の火力、火勢によってもう管理部も火を噴いて焼け始めたので、どうにも手が付けられなくなりました。もう止めて帰ろうということになって、また機関車に乗って、出てきた機関区に3台連ねて帰りました。

被爆後の広島駅
被爆後の広島駅
広島平和記念資料館所蔵  撮影者:川本俊雄氏 提供者:川本祥雄氏

■一口の水と少年の笑み

 機関車を入れる車庫の横隣に大きな広場があります。その広場に機関車を止めて、そこにみんな降りていきました。ところがその降り立った所に1人、5人、10人、30人という具合に人々が、全身火傷した人たちが歩くともなく、いざり寄るともなく、どろーり、どろーりと、広場の機関車が止めてある隙間に集まってきます。

 なにぶんにも真夏なので暑い。照り付ける太陽の下、ただでさえ40度にも近い気温の中です。しかも自分たちは体全体を火傷しているので、火ぶくれで、そこに座るわけにもいかない。お尻の方から前の方から火ぶくれになっているので座ることができない。横になるわけにもいかない。そこで、機関車と機関車との間に入ってきて、機関車にもたれて手で支えて立っているほかないんです。座ることも寝ることもできない、もたれて立っている。

 その内に体全体を焼いた火ぶくれが、中に水のようなものが溜まっていて、それが一つ破れて、また一つ破れて。その火ぶくれは皮膚なんです。自分の皮膚が盛り上がって、中にリンパ液が水のように溜まる。リンパ液が破けて、その辺りが濡れてしまうぐらいの火傷をみんながしている。その皮膚が破けたら、中から自分の筋肉がむき出しになる。赤いような、紫色みたいな色をした筋肉がむき出しになって、それは哀れな状態でした。

* * * * *

 みんな水を欲しがって、周囲には何百人という人がその暑さの中で耐えています。「水をくれー」「のどが焼けるー」「あー、水が欲しいー」と言いながら、無心になってみんなが水を欲しがっています。

 私が機関車から降りてみたら、すぐ近くで一人の少年が水を欲しがっていました。その少年に水を飲ませてやろうかなと思いました。火傷には水は一番いかんということを普段から聞いていたのですが、でもあの少年だけには飲ませてやろうと水道のある場所まで行きました。

 でももう水道の機能は失われていて、ただパイプの中に残っていた腐ったような水がチョロチョロ流れていました。その辺りに転がっていた器にどうにかしてその水を少し受けて、少年のところに持って行って、2口〜3口飲ませてやりました。水道のパイプの中に残っている水ですから茶色のような、腐ったような、真夏ですから生温い水でした。

 それでも少年は一口飲み、ゴクッと飲み、二口飲みして、それでどうにか少しはのどの渇きが止まったんでしょうね。それまで張りつめていたような気分がその水を飲んたため少しは和らいだのだと思います。そこで少年は私の方を向いてニコッと笑ってくれたような気がしました。「ありがとう」と、出もしない声で言ってくれたような気がしました。その時の様子は今でもずーっと私の目に映っていて、可哀そうでした。

 その子もやがてその場でねじ伏せられるように、ぐにゅぐにゅぐにゅーっと倒れていって、とうとう起き上がることもできない状態になってしまいました。なんとかしてこの子を陰に連れて行ってやろうと、ひこじってでもと思いましたけど、その子も体全体を火傷していて、火ぶくれですから触るところがないんです。

 どこをつかんでもみんな火ぶくれ。触れば破けるという状態でした。その辺りにあった板切れのようなものをその子の上にかぶせて、陰でも作ってやろうと思ったのですが、間もなくその子もその場で息を引き取っていきました。そんな状態がその全体、機関車と機関車の隙間いっぱいに、大勢の人が、バタバタバタバタ倒れていきました。

 あの日、私は広島の機関区でそんなことをこの目で見てきました。

■鉄橋上で燃え盛る貨車

 8月6日、原子爆弾が投下された日の夕方には、私たち学徒動員で来ていたものは解放されて、実家に帰ってもいいことになって、郷里に帰ることになりました。

 岩国方面に帰る途中、鉄橋の真上で一台の貨物列車が炎に包まれてわんわんわんわん燃えているのを見ました。今は鉄道の貨車は鉄でできていますけど、戦争中は鉄は回収されて供出されていますから、貨車は木材で作られていました。

 木材の板でできているとは言え貨車が簡単に燃えたりするものではありません。ところがそれがわんわんわんわん燃えているのを見て、どれだけの火力があったのかと思いました。ずーっと後になってものの本で3000度から6000度、測るものもないほどの高熱だったことを知りました。ですから、外にいた人はほとんどが全身の火傷をしたわけですよ。

■とび口を構えたまま動かない人

 一度田舎に帰りましたけど、8月12日にはまた広島の機関区に戻って来いと言われていたので、広島の街に再び入ることになりました。その途中、トラックに満載した死体に行き合うことになりました。もう8月12日ですから死体も半分は腐ったような、ウジがわいているような、もの凄く変な臭いがしている。

 そういう死体をトラックに、みんなで抱え上げて積み重ねているわけです。そして駅前の広場に運んで、その死体を降ろすわけですけど、ダンプなんて当時はないので、積み重ねてある死体を下からとび口を打ち込んで引きずり降ろしていました。死体の頭であろうと、腹であろうと、胸であろうととび口を打ち込んで、下に降ろすのです。

 そうした状況の中で、とび口をふりかざしたまま、じーっと止まったままの姿勢でいる人を私は見ました。死体ですから死んでいるんですよ。とび口をじっと構えたまま、じっとしていました。可哀想に思ったんでしょうね。打ち込むことがなかなかできないんです。ためらう人がいた。人間の心だと思いましたね。

■終戦の前の日に奪われた命

 私の田舎から広島の機関区に学徒動員で行ったのは私も含めて同級生3人一緒でした。その内の1人は帰って来れなかったんです。私たちは保火番、点火番の仕事をしていましたが、3人の中の1人の同級生は、機関士、機関助手、機関士見習いといった機関車の運転をする人たちを朝起こしに行く仕事をしていました。「時間が来ましたよー、出勤しましょう!」と言って起こしに回る、そんな仕事もあったんです。

 機関車を運転する人たちは機関区の周辺に住んでいたわけですが、原爆が落ちた時に家はぶっ壊されて運転士の家が分からなくなっていましたから、そのことに慣れている同級生の仕事がとても大切でした。

 「勤労学徒の人たちは実家に帰ってもいい」と言われて、許してもらって、私たちは5〜6人で岩国方面に帰っていったのですけど、同級生のその人だけは「お前は特別にここに(機関区)に残ってくれ、盆の8月15日には絶対に帰してやるから我慢してくれ」と言われて、そういうことで運転士を起こしに行く仕事をそのまま続けていたんですね。

 8月14日、明日はお盆という日にやっと休みをもらって、彼はご飯はいっぱい食べられるし、下着もあるし、喜び勇んで田舎に向かいました。機関区を出て西に向かって帰って行ったに違いありません。

 ところがその子が岩国の駅に降り立った時、そこへB29から500キログラム爆弾という大きな爆弾が雨のごとく、どんどんどんどん落とされてきたんです。岩国駅のすぐ近くの機関区めがけて、雨のごとく落とされて、その周辺には直径8メートルぐらい、深さ4〜5メートルぐらいの穴が開いていったそうです。

 そんな時に同級生は汽車から降り立って、爆弾の中で砕けて散って、影も形もないようになってしまいました。どこへ行ったのか分かりません。今も行方知れずのままです。家族の人が探しに行ったのですが、何も分かりませんでした。3人の中の1人はそういう状態で、終戦の前の日に亡くなったんです。可哀想に思います。明日は終戦という、8月14日の日に岩国はやられたわけです。

■闘病−半分は原爆のせい

 今私はこうしてお話をしていますが、実は私は腹部を5回も切っているのです。一番初めは胃のがんで切除手術しました。次が胆のうの手術、こ れも全摘でした。胃の手術をして取り出した時に、腸が中でもつれあって、剥がすのがどうすることもできないぐらい癒着したらしいのです。

 胆のうの手術をする時に、腸を少しずつ剥がしながらやったのですけど、どうすることもできないところがあって、腸を4cmほど切りまして、その腸と腸とを突き合わせて縫ったわけです。ところが縫って納めて、「今日は抜糸の日や」ということで、外の縫い目は抜き取ることができましたけど、中にある腸と腸とをつなぎ合わせた箇所が縫合不良という病名をいただきましたけど、縫い合わせ不良で、そこから液が出る。

 小さな穴をつぶすことができなかったので、それをもう一度腹を切って開いてそこをつぶそうとするのですけど、一旦縫合不良のところから排せつ物が出てきて、肉の中に、体の中に漏れてしまうと、絶対と言っていいぐらいくっつかなくなるのだそうです。もう一度切ってつないでもだめらしいですね。それで3回です。

 それでどうすることもできなくて、体の中に汚物が流れ出るわけですから腹膜になります。熱が出る、そしてまた病院に駆け込む。救急車でも3回搬送されました。松山の日赤に担ぎ込まれて、そういう生活が3年間続きました。病院に担ぎ込まれて熱を納め、でも汚物は少しずつでも出ているわけですからまた熱が出る。この熱たるや40度近い熱が出るのです。

 体の中にばい菌が出るわけですから。腹膜を起こさないよう病院で注射などで抑えていたに違いないんですけと、その手当てがどんなふうにされていたのかは分かりません。3年から5年間ぐらいその縫合不良のために病院に通いました。

 そいう経験をしてきましたけど結局は「こりゃいかん」「大腸を通さないことにしよう」ということになり、小腸から大腸に渡るところでぶつっと切って、そしてストマと言いますけど、人工肛門をつけてもらってそこに袋をつけてもらって、汚物の流れを袋にとって、そういう状態に今はなっています。

 ストマという言葉を使いますけど、要は人工肛門です。これは難儀です。小腸で止まって、その小腸から出てしまうので栄養は半分です。食べたものの半分しか栄養は摂れない。

 そういう状態でいましたら今度は心臓が悪くなりまして、ペースメーカーを入れています。このペースメーカーを入れてもらって、どうにかこうして生きているわけです。

 5回手術しました。5回の手術の原因がすべて原爆のせいかということは誰にも分からないです。私にも分からない。私は原爆のせいが半分はあると思うんですけど、他の人は「いやそれは持病じゃ」「それは仕方のないことじゃ」と言う人もいて。そう考えている人もいるかもしれませんが、私は原爆のせいも半分はあるんじゃないかと思うとります。

■ボランティアをして健康をいただく

 私は今団地に住んでいます。1300戸ある団地です。この団地は周辺の山を削り取って、法面を叩きつけて盛り上げて作った敷地です。法面には草が生えます。その草を刈り取らないと、葛がどうしようもないほど団地を襲うようになります。ですから法面の草を綺麗に刈り取ってやらないといけない。そこで今から20年ほど前に、私とある耳鼻科の先生と2人で草刈りを始めたわけです。

 その内に一緒に草刈りする人が3人、5人、10人とだんだん増えてきて、今では30人もの人がグループに入ってくれるようになりました。このグループで手をとりあって草刈りをやるわけです。みんなボランティアです。「やれ」と言われてやっているのではありません。

 ボランティアというのは不思議と喉が渇きません。お金をもらうとジュースが欲しくなります。休憩も欲しくなります。煙草も吸いたくなります。でもボランティアというのはジュースも我慢できます。煙草も吸いません。不思議ですね。

 そいう状況の中でボランティアをやっているのですが、それは何故かというと、それで自分の健康をいただいているんです。あの草刈り機という道具を一日持って振り回してみて下さい。法面ですから物凄い急斜面なんです。ただ立っているだけでも大変なんですよ。そこを私たちはボランティアでやっているわけですから、喉は乾かん、ジュースも我慢できる、そういう気持ちでやって健康をいただいているんです。

父を語る 渡部敦子(次女)さんのコメント

 父は、もともと山育ちなので山は大好きなんです。禁止されても草刈りだけは絶対に行きます。これが自分の元気の源やと思っていますから。

 山はどこの山に行っても草を刈ります。でもうまいのは梅の芽とか、草刈りしながらそういう植物は除けておいて自分の家に持って帰って、団地に移植するんですよ。実のなる木を今のうちに植えておこうと言って。今では団地に梅の木もいっぱい育っています。2年ほど前、団地の緑化の日本一になって表彰されて、賞金ももらって。今はそこで山羊も飼っています。その山羊にも草刈りさせて活躍させています。

藤村さんと次女の渡部敦子さん
藤村さんと次女の渡部敦子さん

■一人でも聞いてもらえる人がいたら語り残していく

 私は原爆の風評被害というものを体験しました。原爆に遭っている奴は、被爆したあの人からは放射能がうつるなどと言われて。生まれてくる子どもたち、2世・3世にも影響があってはいかん、ということでその原爆の話はずーっと秘めてきました。

 戦争が終わって昭和20年に田舎に帰って、何年か田舎で過ごしておりましたが、その時はまったく語ることはなく、就職、転勤で松山に移り住みましたが、サラリーマン時代もそのことを語ることはまったくありませんでした。

 ところが、娘から「お父さん、そりゃあいかん。世の中に伝えて、一人でも多くの人が原爆はいかんと思うようになるよう、話して、伝えて世の中が安心安全で過ごせるように努めてはどうか」と言われました。この娘の勧めによりまして、松山市の「平和の語り部」という会に入れていただきまして、8年前から原爆の話をさせていただくようになり、現在に至っております。

 元気な限りはこの語り部をやらせていただいて、平和などこでも安全に住めるような社会作りのお手伝いができるならば、そういう方向に努めていきたいと思っているわけです。

父を語る 渡部敦子さん(次女)のコメント

 最初は湯ノ山の団地の九条の会の人たちが、そういう人(被爆者)がいらっしゃるなら、一度お話をしてもらっては、ということで声をかけて下さったのがきっかけなんです。その時に私の娘の同級生の女の子も、高校生だったんですが、私の娘もその子も一緒に聞いてみようということになりました。そしてレポート用紙10枚ぐらい感想文書いてくれて後から送って下さったんです。

 それを読んで「ああ、こんなにいろんなことを分かってもらえるんだ、きっかけになるんだ」ということで話し始めたのが最初なんです。それからいろんなところでよばれるようになりました。それまではこういう話は敬遠していたような人たちが意外にも、「来て良かった、藤村さんのお話を聞いて元気になったわ」と感想をいっていただいて、そういう人が多くて、ありがとう、ありがとうと言われて。それで広げられて、続けてくることができました。

 一度関東で語り部をする時に飛行機で行ったのですけど、機内でスチュワーデスさんに「今高度何m位を飛んでいるんですか?」と尋ねたら、「1万mくらいです」と言われて、「ああ、B29はこれぐらいを飛んでいたんやな」と勝手に話し出したんです。

 そしたらスチュワーデスさんが「あの戦争体験された方ですか?」と聞かれて、「広島で被爆して・・・」と話していたら、その時のスチュワーデスさんが泣き出されて「私は関東に住んでいるから、そういうに人会ったこともないし、身近にきいたこともないんです」とおっしゃったことがあるんです。

 その時に、「関東から向こうにも伝えとかんと死ねんよ」ということになって、今度北海道で3ヵ所ほど行くことになったのです。

 父は今は元気ですけど、やはり奇跡的に生き抜いてきた人だと思います。原爆投下当時も14歳ぐらいですから、さぼりたいし、お腹はすいているし、仕事も厳しいのでちょっと今日は病気で出勤できません、という子たちもいっぱいいたみたいで、そういう子たちは別に集めて上官の人が病院に連れて行ってたみたいなんです。

 その人たちは外を歩いていたので全滅なんですね。もし父もその日さぼっていたり、病院に行こうとしていたら、そのまま亡くなっていただろうし。要塞のようになっていた機関車の車庫が、鉄の壁に窓ガラスがついたような所ですから、鉄の壁の内側にいたから助かった、窓に向かっていたら危なかったと思います。

 被爆の体験をみなさんに伝えるのも父の生きがいになっています。始めたのは7〜8年前頃からです。それまでは全然語っていなくて、「もうええやん、そんな嫌な話を思い出してしゃべらんでも」と言ってましたけど、話し始めると次々と当時のことが思い出されてきて、伝えるのが楽しくもなってきて。次々と、一人でも聞いてくれる人がいたら、言い残しておきたいと。それも今の生きる力になっています。

■平和な地球を後世にまで ― 私たちの責任

 みなさん、おろかな戦争はいけません。昭和16年12月8日、「ニイタカヤマノボレ」で始まった日本の太平洋戦争。それが昭和20年8月15日まで4年間戦争が行われ続けたわけです、あのおろかな戦争を。

 戦争はしたらいかん。このことは現代の人は分かっていると思いますが、そのことを、平和で安心な地球をずーっとずーっと後世にまで残していって、孫子の代まで申し送っていかなければなりません。それはここにいる人、この場に立っている人みんなの責任です。

 そういうことをみなさんと手を携えて、手と手をとりあって、近隣の国の人たちとは仲良くし、問題は話し合いでもって解決し、戦争のない国を作ってもらうようお手伝いできたら、私は大変嬉しく思うわけです。

 今世界には核兵器が1万5千発もあるそうですね。その1基も広島に落とされた原爆とは比較にならないほどの破壊力を持っているそうです。アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス、大きな国はみんなその原爆を持っているわけです。どこから飛んでくるか分かりませんよ、今から戦争したら。戦争になって、北朝鮮がそれをもって、ミサイルに核弾頭つけて、伊方原発ねらって打ってきて落とされたら。

 核の廃絶、非核の3原則、日本でも必ず守って、みんなで手をとりあって核の廃絶をめざしていきたいわけです。みんなでやりましょう。(了)




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