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●被爆体験の継承 56

閃光の下の陣中日記

高安九郎(本名 小西建男)さんの手記

高安さん

■暁部隊「船通補」

 九郎が被爆したのは広島市皆実町の「船通補」、正式には暁第一六七一〇部隊船舶通信補充隊であった。暁部隊は主として敵前上陸専門の船舶工兵隊、陸軍御用船の機関砲、機銃などの射撃手である船舶機関砲隊、武器・弾薬・食糧などを輸送する機動輸送隊、その他にも海上駆逐隊などがあって全国に散在していた。

 「船通補」と言うのは全国に散在する、これら船舶隊の通信手、暗号手、通信工手(無線機修理)などを養成する部隊でラッパ手もいたが、言うなれば船舶兵専門の短期通信学校と言ったところであった。

 通信手3名、暗号手3名、通信工手3名(九郎、大西、宇野)、ラッパ手3名計12名の原隊は「船工九」、これも正式には暁第一六七〇九部隊船舶工兵九連隊であるが、それぞれの修業のため広島市の「船通補」に分遣されたのである。修業期間は3ヶ月、分遣されたのが昭和20年5月6日、原爆投下日の8月6日に終了、原隊復帰予定となっていた。

 「船通補」は兵員数1700名位だったと思うが、その他三原市にも分屯隊があって約700名がいたと聞いていた。

 九郎たち3名の所属する中隊はサ隊、マ班で、サ隊というのは材料所中隊のザからとったもので、マ班と言うのは内務班長間宮軍曹のマをとったものであったが、なぜに材料所中隊というのかは最後まで判らなかった。更に九郎達と共に分遣されて来た、通信手、暗号手、ラッパ手達がどの中隊にいるのかも判らず、とにかくすべてが判らないことだらけの新兵生活であった。

 サ隊は200名ほどだったが、マ班は約90名、サ隊ではもっとも多い内務班のようであった。班長、伍長、専任兵長、上等兵、一等兵などが20名以上はいたと思うが、その中の2名の一等兵だけが「技術兵」で九郎達通信工手の指導兵であった。ほかの古参兵達は通信とは無関係の「船通補」の兵員であった。

 残りの60余名が九郎達新兵の通信工手修業者で、はっきりと覚えているのは石巻の船舶工兵一連隊、門司の船舶機関砲二連隊だけで、ほかにも海上駆連隊、機動輸送隊などもいたが、主として船舶工兵隊を主体にした分遣兵だった。

 「船通補」の防空壕は営庭の周囲にあったが、部隊の正面、70mほどのところにある比治山にいざという時のための司令室が掘られ、突貫作業が続けられていた。九郎達マ班の防空壕も比治山にあった。

■通信講堂に落ちた閃光

 8月5日の深夜より6日にかけて空襲警報が発令され、九郎達マ班は無線機を担い比治山の防空壕に待避した。約2時間ほど防空壕にいたが、警報が解除された6日の午前1時半ごろマ班に帰って寝たのは2時過ぎごろだったと思う。

 数時間後の6日午前7時30分、九郎達60余名は通信講堂に入った。部隊長が朝礼のあと、8時30分に検閲(終業式)に来る予定であった。

 通信講堂は昔は隔離病棟だったと聞くが、それもたしかでない。だがそれを信じさせるような頑丈な長方形の土塀が周囲にめぐらしてあった。土塀は高さが4.5m位、ピラミット型で下部の幅が1.5m位、頂上でも30cmほどあった。

 講堂は土塀から更に高く、平屋建てであったが、屋根の近くまで土塀が伸びているため、窓と土塀との間は3、40cm位しかなく、そのため電灯を灯つけぬと中はうす暗かった。

 講堂内は高さが1mぐらい、横が2m、縦が1m、表面の板の厚さが10cm位もある長方形の頑丈な机が横二列で縦に並べてあった。一机に一台の無線機、3名の通信工手、各連隊ごとで、和歌山の「船工九」は九郎、大西、宇野の3名であった。九郎達の机は講堂の入口より右側の奥の方にあった。九郎達3名が幸運だったのはこの机に配置されていたことによるものであったと思っている。

 午前8時を少し過ぎたころB29の爆音が聞こえた。九郎達は「この爆音はB29と違うか」「似ているな。しかし空襲ではないだろう、警報がないのだから」「似とるがこれは1機か2機だろう。空襲ならもっと多くくるはず」などと言いながら屋根と土塀のすき間から空を見上げていた。

 しばらくして「ピカッ」と閃光が屋根と土塀のすき間から入ってきた。

 ピカッと光ったとたん、講堂のすべての電灯が消え、内側の壁がバラバラッとくずれ落ちて土埃が立った。それは目を開けておれない、すさまじい土埃で、九郎達全員は思わず「ワァッ」と悲鳴をあげ、立ったまま両手で目を覆った。そして目を覆ったままの九郎達の頭上で「どん」という大きな音と共に屋根が落ちた。それはピカッと光ってから屋根が落ちるまで、1、2、3、4と早口で4つほど数える間であった。

 屋根は落ち、講堂は全壊したが、九郎達3名のいた机のところは屋根が斜めになったところで天井が九郎達3名の頭上すれすれのところで止まっていた。九郎達3名は目を覆っていた手をはなして天井がすれすれのところで止まっているのに気付くと、あわてて頑丈な机の下にもぐり込んだ。屋根がまた落ちてくるかも知らないと机の下から低くなった天井を2分ほども見上げていた。

 九郎達はこのままじっとしておれば、いずれ天井が落ちて脱出できなくなる恐れがあると判断し、一思いに外に飛び出すことにした。出入り口は一ヶ所しかない。暗いまだ埃の充満している屋根の間をくぐり、板切れなどをまたぎ抜けて外に出たが、外に出たのは九郎達3名だけであった。その後、屋根の下に取り残された戦友達とは1名も九郎は会っていない。

* * * * *

 脱出した九郎達の空は青空で、かんかん照りであった。そこで見たものはまったく信じられない光景であった。眼前の各中隊の兵舎は全壊しており、兵営の塀は吹っ飛び、すべての建物は全壊していた。九郎達は夢ではないかと眼を疑ったが眼前の惨状が現実にひきもどした。

 むろん原因は判らなかった。1機や2機のB29の空襲でこれほどの損害はあるはずがない。そしてB29の爆弾なら大きな爆発音がするはず。しかし3名ともその音は聞いていない。これはアメリカのスパイが広島中に地雷をしかけて一度に爆発させたのだろうか、それにしても音がするはずだ、などと言って3名はしばらく立ったまま呆然として見ていた。

■全壊の兵舎と兵庭

 するとかんかん照りの空が突然暗くなり黒い灰のようなものが降ってきた。

 灰は燃やした藁を手でもんで細かくして空からまいたような真黒な灰であった。冬に降る吹雪とそっくりで風もなかったように思われるのに、ひらひらと音もなく降ってきた。真っ黒い吹雪であった。

 九郎達は上半身裸体であった。黒い灰は顔、肩、腹、腕などに付いた。九郎が腹に付いた灰の一部を指でこすると、たどんをさわったときのように黒くうす汚れた。そのうち3名とも上半身、うす暗く汚れた。黒い灰が何分間位降ったのか、5分位だったか、仰天して突っ立っている九郎達には判らなかった。

* * * * *

 やがて黒い吹雪が弱まってくると、8月の強烈な太陽の光がその吹雪の間にさし込んできた。うす暗い中で光って見えた。その光も強烈な太陽の光が黒い灰で弱められ黄色とも金色ともつかぬ何とも表現のしようのない奇妙な光であった。

 黒い吹雪が止んで元の青空が顔を出すと真夏の太陽が照りつけた。初めて汗がどっと吹き出してきた。ピカッと光ってから仰天の連続で暑さを意識しなかったのだ。

* * * * *

 やがて九郎達は気を取り直し、屋根の下敷きになっている戦友達の救出にとりかかろうとしたが3名ではどうしようもなく、救援を求めようにも兵営内には歩いている兵の姿は見当たらなかった。

 九郎達の直属上官である部隊長、中隊長、間宮班長、古参兵達は朝礼のため営庭に整列しているはずであったが、営庭は防空壕の盛土や倒壊した建物のかげにかくれて見えなかった。マ班も通信講堂の土塀にかくれて見えなかった。むろんマ班も全壊していることは想像できたが九郎達の連絡所として班長が帰班してくると考え、一度帰班することにした。

 帰班した九郎達を待っていたものは全壊した内務班だけで一兵もいなかった。後年、被団協の京都支部である京友会の会合で、「船通補」の他中隊の古参兵2名に会い話を聞いた時、「当日朝礼に出た者は任官したり進級したものだけで、他の者は昨夜の空襲でほとんど寝られなかったので休日となり兵舎で寝ていた、そしてその古参兵2名は寝ていた屋根の下敷きになり気が付いたのは助けられた時だった」と話したが、マ班は九郎達と共に起き、九郎達が通信講堂に行った後、その他は朝礼に出ていたはずだった。そしてその通り全壊した班には床をしいたあともなく、整然と片づけられていた。

* * * * *

 九郎達は全壊した屋根のすき間を這うようにして自分の定められた場所に行き、たばこだけを数十本持って出た。

 兵営内の空地には営庭を除いていたるところに食糧不足を補うための南瓜かぼちゃ畑があった。マ班の近くの塀沿いにも南瓜畑があって青い葉っぱに黄色い花をにぎやかに咲かせ、子供の頭ほどの南瓜が幾つか成っていた。

 塀の外は一面の田圃で50cmほどの稲が青々と伸びていた。塀に沿って30cmほどの田圃の溝があり、浅く水が流れていた。塀が吹っ飛んだため兵営内の南瓜畑とシャバの田圃が溝を挟んで文字通り地続きとなっていた。

 南瓜畑に4、5歳位の男の子が全裸で亀の子のように這っていた。溝の中には若い母親らしいのが裸足で仰向けに倒れていた。

 男の子は火傷(やけど)で背中の皮が首から尻までべろっときれいにめくれていた。気が狂っているのか泣きもせず、うんうんと言いながら南瓜の葉っぱの中を這っていた。九郎達はあまりのことに足が前に出ず、声も出せず、目を一杯見開いたまま突っ立っていた。

 溝に倒れた母親が弱々しい声で「兵隊さん助けて」と言った。母親は顔の右半分と耳やえり元が火傷しているため年齢ははっきりしなかったが30歳前後のようであった。身体もやはり右半分を火傷していたが皮が赤くすりむけてひどい火傷であった。白いブラウスともんぺの右側のあちこちが焼け焦げ、皮がズルむけになった赤くただれた右の乳がはみ出していた。

■比治山に向かう

 比治山の山裾と広島駅方面からの道が通っていた、幅が5mほどのところどころ石ころの出た田舎道でそこを裸足の男女が三々五々と歩いてくるのが見えた。100m位田圃ごしに見るため身長からして15、6歳から50歳位のようであった。衣服の焦げたのは判らなかったが、みんなかなりの火傷を負っているらしく肩を落とし両腕をだらり下げ頭を前に突き出すような感じで蹌踉(そうろう)とした足取であった。

 一家の主婦を残して家族全員が徴用や学徒動員などで引っ張られ、生産活動に従事させられていたが、これらの人々はそのような人々のようであった。苦痛をこらえ、我が家に向かって必死に歩いているようであった。そんな人々が数百m向こうから歩いてくるのが見えた。

 九郎達にもどんな爆弾か判らぬが、被害が空襲によるものであることはようやく認識できた。そして「船通補」は全滅したと判断し、軍人としての責務を果たすため比治山に行くことにした。それは部隊が空襲などによって甚大な損害を受けた時比治山の防空壕内で指揮をとれるようになっており、野戦病院も設立することになっていたからであった。

* * * * *

 営門の正面から100m位の広い道路がまっすぐに比治山に突き当たっていた。突き当たった所からかなりの急坂になっていて、その急坂を7、80m登った所に部隊の防空壕や広場があった。

 部隊からの道の突き当たりと急坂との間に先に述べた広島駅方面からの例の5mほどの石ころ道とが交差していた。その道を火傷した人々がよろめきながらも続々と横切って行った。遅い人は後の人に追い越され、人々は自分の歩くのが精一杯のようであった。

 九郎達の前を中年の徴用工らしい男と、1mほど遅れて学徒動員の女生徒らしい子が横切って行った。中年の男の方は顔の火傷がひどく皮がめくれて赤くただれていた。白いシャツが首と肩と両腕の部分を残して焦げ、焼け焦げた布切れがひらひらと動いていた。そこから火傷した肌が露出していた。国防色のズボンも少し焦げてあちこちが破れていた。

 女生徒の方はやはり顔を火傷して、皮がめくれていたが、ただれてはいなかった。白いブラウスと青いもんぺがあちこち焼け焦げ、裂け目から火傷した両の乳房がのぞいていた。他の人々の火傷はほとんど身体の前面、後面、右面、左面というように片面だけを火傷しているようであった。それにしても、それぞれが重傷で普通なら身動きのできない状態であった。我が家に、家族に、との執念が歩かせているようであった。

* * * * *

 比治山の広場にいたのは若い少尉と70名ほどの兵隊達だけでほとんどが二等兵であった。天幕を張り茣蓙を敷き、野戦病院の設立中であった。天幕が足らないので携帯天幕をつなぎ合わせていた。(個人が携帯する2m四方位の小型天幕で周囲に穴が開けてあり、その穴に紐を通してつなぎ合わす)

 九郎達は少尉に通信講堂への救援を要請したが、少尉は救援しなければならないのはお前達のところだけではない、我々の為すべきことは一時も早くここに野戦病院を設立することだ、と一言ではねつけられ、逆にお前達もただちに手伝えと天幕のつなぎ合わせの作業を命令された。軍律は厳しい。命令されれば従うほかない。止むなく通信講堂の戦友に心を残しながら命令に従った。

 少尉に率いられた70名の半分以上は比治山の突貫作業に加わっていて助かった兵らしかったが、中には九郎達のように幸運なものがいたことを小さな声で話しながら知った。一人だけ一等兵がいて、その一等兵は腕を負傷して包帯でその腕を吊っていたが、口やかましく話をするな、早くせよ、と怒鳴っているため、汗もろくにふく間もなく働かされていた。

 九郎はそのうるさい一等兵の目を盗んで、広場の端に行き、廃墟と化した広島市内を見渡した。午前10時頃だったと思う。眼下の「船通補」は全壊し、1700名中残存戦闘員わずか70余名、全滅であった。

* * * * *

 広島の盛り場であった、九郎達も一度だけ外出を許可された八丁堀のあたりは瓦礫の山であった。上空は暗く曇っていた。雨が降っているようだった。地上は上空ほど暗くはなかったが、うす暗かった。手前の方が晴れているだけに暗さが際立って見えた。うす暗い瓦礫のあちこちから、白い感じのする灰色の煙が昇っているのが見え、昇った煙が上空の暗さに次々と吸収されて消えていった。右側の広島駅方面は崖や木立で見えなかったが、その方面は黒い煙だけがもうもうと上がって見えた。どうやら大火のようだった。

■比治山の急造りの野戦病院

 急造りの野戦病院が出来上がると「船通補」の負傷兵達が蹌踉(そうろう)とした足取りで登って来た。気力で登ってきたのだろうが、手当を受けて寝ると、二度と自力で歩けなかった。登ってきた兵達は一様に頭と下半身は火傷していなかった。頭は戦闘帽、下半身は軍袴(ぐんはかま)を着用していたためで、足は軍靴のせいであった。

 軍隊では軍服の上下を軍衣袴(ぐんいこ)、シャツを襦袢(じゅばん)と言った。襦袢も部厚い生地の冬用と薄い生地の夏用とがあった。薄い夏用の軍衣袴、襦袢は半袖でも戦闘用に作っていたから普通の生地より厚く丈夫であった。その軍袴が下半身を保護したのであろう。

 火傷しているところは、顔、首、胸、腹、腕、手、耳、背などであった。顔、首、腕、手、耳は露出していたためで、皮がはがれ、赤くただれた肉がところどころむき出しになっていた。胸、腹、背の火傷は襦袢を着用していたため皮も剥けておらず比較的軽症のようであった。

現在の比治山山上にある陸軍墓地
現在の比治山山上にある陸軍墓地
現在の比治山山上にある陸軍墓地

 大部分の者は襦袢は背中から、前の方をやられたものは前の方が、縦に一筋だけ焦げているだけであったが、そこを広げると背中一面、腹一面の火傷を負っていた。夏襦袢は生地が強いといっても軍袴のようには厚くなく、更に軍袴の下に袴下をはいていないから火傷したのだが、一筋焦げただけで皮も剥けずにすんだのはやはり厚い生地の賜物であった。

* * * * *

爆心地に猛威を振るった20キロトンとも15キロトンとも言われる原爆も1.8km経た「船通補」では威力もようやく衰え、露出した肌にはなお重い火傷を負わせたが、戦闘帽、軍袴、軍靴に熱を通し得なかった。わずかに襦袢を縦一筋に焦がしたのみ。もし空襲警報が発令され、防空壕に待避しておれば「船通補」は全滅していなかったに違いない。

* * * * *

 火傷の手当といっても四年樽に入った白いどろどろの油を障子張りに使う幅12cmほどもある大きな糊刷毛(のりはけ)で塗るだけであった。炎天下、滝のように流れる汗をぬぐうひまもなくどっぷりと含ませた油を次から次へと塗りまくるだけだった。

 野戦病院の設立を誰に聞いたのか、いつの間にか裸足の民間人の男女が数十人登ってきて負傷兵にまじって並ぶようになった。男も女も露出した顔、首、手足などは「船通補」の兵と同じく、いやそれ以上に皮がはげ、肉が赤くただれ、皮がぶら下がった人達もいた。男のシャツも女のブラウスも各所が焼け焦げて破れ、火傷した背、腹、乳などがその間から見えた。薄い生地のもんぺなどはぼろぼろに焦げ、その人達は外聞も構わず、もんぺをおろし、乳を出し油を濡らした。

 九郎達がここは野戦病院で軍優先だから民間人は後だと言っても必死の人々は油を塗るまで一歩も退かなかった。止むなく並んだ順番に塗った。民間人はその後も来たが、油を塗り終わると、痛みも少しは治まったのか山を降りて行った。汗だくの兵達に一言の礼をいうものがいなかった。兵達もそれを当然のように意に介さなかった。

* * * * *

 昼食は「かんぱん」であった。食い終えた頃三原市の分屯隊の救援隊の第一陣200名がトラックでやってきた。たちまち30名ほどの裸体、裸足の重傷者を担架で次々と運んできた。負傷兵達は戦闘帽、軍袴は着用していたが、何故か軍靴、襦袢を着用していなかった。朝礼の本隊とは別の行動をとっていた兵達に違いなかった。上半身の顔、首、腹、腕、手、足の皮がずるりと剥け、赤くただれていた。焼けた肌は救出の際に触れて傷ついたものか、赤くただれた胸、腕、手足などのところどころに血がにじみ、腫れたところや、えぐられたところが赤黒く変色していた。それは肉屋の冷蔵庫にぶら下げてある牛肉のかたまりのようであった。

■宇品の船舶練習隊で負傷兵を看護

 宇品の「船練(せんれん)」(船舶練習隊)に収容するため、トラックに乗せるのが一苦労であった。下半身は無傷のズボンをはいた膝を持ち上げたが、上体は皮のはがれた腕か手首を持たなければ乗せられなかった。掴みあげた手首に体重がかかり、赤黒く変色した肉がえぐれ、まるで骨を掴んでいるようで、出血がひどく、腫れあがった。それでも痛いとも言わず、うめき声もあげない。全員が瀕死の重傷で意識がなかったのである。

 最後のトラックに九郎、大西、宇野の他に3名が加わり看護兵として乗り込み宇品に向かった。トラックは比治山の急坂を降りてからもゆっくりと走った。道中歩いている人間は一人もなかった。すでに歩けるような民間人は家に帰ったか、目的地に行ったのらしい。ただ一人、顔や胸、腹などを火傷した中年の男が、呆然と半壊した家屋に座ってもたれていただけであった。宇品に近づくにつれて家屋の損害も軽微となって宇品では屋根瓦が飛んだり、ガラスが割れている程度であった。

 宇品の「船練」に多くの負傷者が運び込まれ、九郎達が看護する全員は自力で寝起きのできない重傷兵であったが意識のない瀕死の兵はいなかった。

 九郎達が受け持った病室には6、70名、病室といっても内務班の板の間に藁蒲団を並べて敷き、その上に半分にたたんだ毛布を3枚敷いただけの粗末なものであった。

 前面(腹)を火傷した兵は仰向けに、後面(背)を火傷した兵は俯きに、右面(横腹)は左面を下にして、左面の兵は右面を下にというように身体を横にして寝た。しかし身体の両面を火傷していて横になって寝ることのできない兵が6名いた。みんなが片面しか火傷していないのに何故に6名だけが両面に火傷したのか九郎達にも判らなかった。九郎達はその6名を二列に並べ、逆さにした一斗樽の前にあぐらを組んで座らせた。逆さにした一斗樽の上に小さくたたんだ毛布を置き、その上に枕を置き、その枕に顎(あご)を乗せさせて休ませた。

 負傷兵達は注射も薬も包帯のないことも知っていたから苦痛にじっと耐えていた。しかし水だけはくれと言って聞かなかった。水は火傷に悪いから飲ますなと食事の時にも湯茶、または水一杯と厳命されていた。だがそれと頼まれれば絶対に飲ませない、ということはできなかったから100tほどをその時々に応じて飲ませた。飲んで30分すると、火傷の比較的軽い皮のむけていないところに飲んだ水がたまって小さな火袋が幾つもできた。火袋ができると痛みが激しくなるらしくうんうんと唸った。それでも水をくれと言って聞かなかった。

* * * * *

 寝たきりの兵の中に30歳を過ぎた古参兵がいた。上半身裸体なので階級は判らなかったが、その言葉使いで古参兵と言うのは判っていた。その古参兵は100t位では足らぬ、もっとくれとしつこく言って聞かなかった。九郎達は身体の三分の一以上火傷した兵は助からないと内々に聞かされていた。それでどうせ助からないのなら好きなだけ飲ませてやろうと400tほど飲ませた。

 その古参兵は後面を火傷していた。軍袴を着用していたはずなのに、脚の後側を火傷していた。軍袴が古くなって生地が薄くなったところなのか、その上暑いので袴下(ズボン下)をはいていなかったのか、むろんその火傷は皮もはげず比較的軽かったようであった。更に営内靴(ゴムスリッパ)をはいていたため、踵を火傷していた。

* * * * *

 水を飲んで30分足らずで右脚の皮のめくれていない、ふくらきばのところに水がたまり、かなり大きな火袋が2つできた。痛い痛いと唸っている内に、ますます大きな火袋となった。上の火袋は踵より20cmほどのところで100tほどの水がたまった。下の火袋は踵から10cmほどの上のところでこれも100tほどの水がたまった。見ていると、たちまち、上の火袋と下の火袋との中間に空豆ほどの火袋が幾つかできた。そのうち上の火袋と中間の空豆ほどの火袋が合流して下がり、遂に下の火袋と合流したため、火袋が踵まで下がり、飲んだ水は400tほどだったのに、踵の火袋は600tほどの超大火袋となった。ふくらはぎの中間から踵の皮は風船を一杯膨らませたように伸びて薄くなり、うす桃色のきれいな中身が透き通って見えた。ビニール袋に皮をはいだ足を入れたようにはっきりと見えた。

 古参兵は痛い痛いと悲鳴をあげ、鋏(はさみ)でその皮を切ってくれと言った。九郎がその皮を鋏でちょきんと切ると、ザーと水が流れ出て元のペシャンコになった。古参兵の悲鳴はいっぺんに止まった。九郎達は400tほどしか飲まぬのに600tほどの水が出たのも不思議であったが、奇術のような見物(みもの)に気の毒を忘れて感心していた。

 夕食は飯だった。負傷兵は箸が使えないので、たまご大の握り飯を作って2個づつ配った。2個の握りを食い終えた兵はいなかった。握り飯を握る前に熱い茶で手を洗った経験がないため、油がとれずぬるぬるしていた。それをタオルで拭き取るようにして握ったのだが、ぷんと臭いがした。箸が間に合わなかったので九郎達も最後に握った握り飯を食ったがそれでもいやな臭いがした。

 夜の当直は10時から明朝6時までの8時間を1名で2時間交代で行った。九郎達看護兵の寝る場所は、それぞれ寝たきりの重傷者の隣に毛布を敷いて寝た。

■8月7日−死体を焼く黒煙

 2日目、朝食の時、大西が九郎の鼻に傷のあるのに気付いて知らせた。あわてて鏡を見ると、鼻の付け根から2aほど下がったやや右側のところが傷をしていて肉が赤黒く変色していた。しかし痛みは感じなかった。これはえらいことになったと、ベソをかいていると宇野が赤チンを何度も塗ってくれた。そのうち忙しさにかまけて忘れてしまっていた。

 午前10時頃40歳位の疲れ切った様子の主婦らしい女性がやってきて九郎に「学徒動員の娘が昨日の朝出て行ったきりまだ家に帰ってこない」という。ここは通信隊の負傷兵だけだと思うが、と首をかしげると、主婦は他所でここに女学生が100人ほど収容されていると聞いてきた、と言ったので、看護婦に聞いてみなさいと、50mほど先の救護所を教えた。「船練」の営門は自由に出入りでき、午後も中年の主婦とその弟がやってきて、徴用工員の主人を探してやってきた。

 負傷兵は話をする元気もなかったが、互いに話をしなかった。九郎達さえ用事以外は話さなかった。九郎達も負傷兵達に気を使い余分な言葉は交わさなかった。しかし1名だけ九郎と性が合うのか仲良くなり被爆の時の様子など話してくれた。関西弁のその負傷兵は寝たきりの重傷兵であったが、それでも痛みをこらえてぼつぼつと語ってくれた。

 軍隊は敵は恐れないが、伝染病は恐れた。当番が大釜で食器を煮沸した。煮沸の大釜の横に、6mに4mほどの池が、洗浄用の水もその池からの手押しのポンプで汲み上げていた。池の深さは1mほどだったという。

 関西弁のその兵は、食器当番で、上半身裸体、営内靴(ゴムのスリッパ)を履いていた。爆音は聞いたが、警報がなかったので安心してポンプを押していた。ピカッと光った途端、背中がカッと熱くなり、あまりの熱さに思わず池に飛び込んだという。池に飛び込んだために背中の火傷はベシャベシャで、濡れたように光り肉が盛り上がったところやへこんだところが出来、他の兵の火傷より相当に悪化しているようであった。更に営内靴のため踵もひどく、話のできるのが不思議なような重傷者であった。

* * * * *

 午後5時頃兵営の広場の方で黒煙がもうもうと上がった。死体を焼いているのだという。

* * * * *

 午後7時頃、九郎と話をした関西弁の兵の容態が急変し意識不明となった。くわしくは聞く暇もなかったが、何でも母一人、子一人で神戸で鉄道員をしていたと言っていた。担架で九郎と大西が救護所に運んで行ったが、救護所は担架を置く場所がない位一杯であった。20分ほど待たされたあと、診察に先だって若い看護婦が看(み)た。何時頃意識不明になったのか、と聞いた後、脈を見てくれと言った。九郎が赤くばりむけた手首を握って脈を見ると、かすかであるがあった。九郎がわずかだが脈はあると言ったが、看護婦はマッチをすって見開いた眼の上にかざし、左右に二、三度動かした。そしてこの人はもう駄目です、このまま連れて帰って下さい、と言ったきり、次の負傷兵の方に行き、九郎達を見向きもしなかった。

 夜10時以前に死亡した場合は死体置き場に入れることになっていた。死体置き場は「船練」の給水塔空洞であった。九郎と大西が担架で運んで行ったが空洞の中は暗くて何も見えなかった。先頭の九郎は2歩入った所で死体にけつまずいた。大西が知らずに後を押すので死体を踏んだ。先に運んできた兵が奥に置かず入口付近に放置していったからだ。

■8月8日−「早く死にたい・・・」

 3日目。朝起きて鏡を見る。鼻の傷は変色したまま、肉が腐って溶けたのか、小豆ほどの穴があいていた。指で触るとべとついて少し痛みを感じた。心配してもどうにもならないので赤チンを塗っておいた。

 午後になってようやく痛み止めの薬や注射はなかったが、軟膏、ガーゼ、包帯などが負傷者にゆきわたり、看護婦も増え、手当も軌道に乗ってきた。上半身、首、耳、足などは軟膏を塗った。ガーゼをあて、包帯を巻いたが、暑さのため、顔、首には塗るだけであった。

 安座のできる負傷兵達は食事のできる時だけでなく、何回か起きて座るようになった。むろん九郎達が手を貸さねば起き上がれなかったが、ほんの少しだが表情が明るく感じられた。そういう兵達は鏡を貸してくれと言った。鏡がないと断ると、火傷のひどい顔の兵と比べ、自分はあんなに酷くないだろうと言い、軽い部類にはいる顔と比べどちらが軽いかと、他の者に聞こえぬよう低い声で聞いた。

 しかし逆さにした一斗樽に顎をのせて安座したままの兵達の表情は暗かった。仰向けにしろ、寝たきりにしても身体を横にして寝れる兵はどんなに苦痛のときでも死にたいと言った兵はいなかった。生きて故郷に帰るべく必死で頑張っていた。だが、樽に顎をかけて安座したままの兵は苦痛に疲労が加わり、一人も生きることを望んでいなかった。全員、早く死にたいと言って泣いた。九郎達もそれに慰めの言葉もなかった。

 午後5時頃になると、広場の方で死体を焼く黒煙がもうもうと上がった。

■8月9日―火傷に湧く蛆

 4日目。朝起きると隣に寝ていた重傷兵が死んでいた。九郎は寝る時に具合が悪くなれば遠慮せず起こすようにと言って寝たのだが、ひっそりと死んでいた。

 朝食後、看護兵が担架で給水塔に運んで行った。

 その間に鏡を見たが、鼻の傷はますます悪化して、昨日小豆ほどだった穴が大豆ほどの穴になっていた。指で触るとべとべとしただけでなく、水気があり、かなりの痛みを感じる。これはえらいことになったと心配し、しまいには鼻が腐って落ちるのではないかとの心配が先走り、もし鼻が落ちたら格好がつかんから家に帰らず広島で暮らさないかん、と大西や宇野に冗談半分、本気半分で話していた。

 これは若い九郎にとって普通なら自殺を考えるほどのショックであったが、ひどい負傷兵達の顔の火傷との比較がそれを深刻に考えさせなかったのだった。火傷用の軟膏を丹念に塗り込んでおいたが、その内忙しさにかまけて忘れてしまっていた。

 死体を運んだ看護兵が帰ってきて、給水塔の空洞に十数体の死体が並べてあって突き当たりのところは二段に積んであったと話していた。

 午後になって負傷兵の火傷に蛆うじが湧いているのが見つかった。蛆は火傷のひどい赤くただれたところにいた。肉が腐って湧いたのらしい。よく調べると全員の身体の各処に数匹から20匹位いた。しかし蛆を取ってやるだけの暇は九郎達にはなかった。

 午後5時頃、今日も死体を焼く黒煙が定期のようにもうもうと上がった。

■8月10日―今日も死体を焼く煙

 5日目。朝鏡を見ると鼻の傷がびっくりするほど良くなっていた。大豆ほどの穴が埋まっていた。指で押さえると赤黒い肉はまだぶよぶよしていたが、あまりへこまなかった。痛みも少ししか感じなかった。快方に向かっているように思われ、嬉しくなって、治った、治った、これで家に帰れるぞ、と踊り上がって喜んでいた。しかしすぐ他の負傷者のことに気付き、普通の顔に戻り、それでも気を良くして赤チンの上に軟膏を念入りに塗り込んでおいた。負傷兵達の蛆はだんだんと増していった。しかし一人の看護婦も来なかった。

 午後5時、今日も死体を焼く煙が上がっていた。

■8月11日−病室に入らなかった将校たち

 6日目。鼻の傷にうすい皮がはり、肉が固くなって形も普通にもどっていた。色は赤黒く変色したままであったが快方に向かっているのは確かであった。もう大丈夫と安心して看護に精を出していた。

 午後2時頃、7、8名の正装した将校が視察に来た。九郎達は敬礼するのが面倒なので用事をしながらチラッと見た。階級は判らなかったが説明を受けている将校はかなり上級の将校らしかった。しかし病室の中には入らず入口に立ったまま顔をしかめて見廻していた。

 負傷兵達は火傷で身体をふくことができない。更に被爆以来の血、油、軟膏、垢、汗、蛆虫などで汚れた軍袴をそのまま着用していた。九郎達も同じく汚れた軍袴を着用していた。石鹸は一個支給されただけであったから負傷兵の握り飯を握るための手洗い用にしか使用できなかった。水は何杯でも使えたので汗は流せたが垢と油などで身体中ぬるぬるしていた。腕を近づけて匂いを嗅ぐとむかっとする匂いがしたが10cmも離すともう匂いは感じなかった。将校達はこの匂いに辟易としたらしく病室に入らずすぐ出て行った。

 午後5時頃になると、死体を焼く煙がもうもうと上がった。

■8月12日−中尉の狂乱

 7日目。鼻の傷は完全に皮をはり、かなり固く、指で押さえてもへこまなかったし、痛みも感じなかった。色は変わらなかったが治ってきつつあるのは判った。だが負傷兵に気を使い、嬉しさを隠して看護に精を出していた。

 午後5時ごろ定期の黒煙がもうもうと上がったが、昨日までの黒煙より大きかった。5時半頃隣の病室の若い中尉が狂乱した。寝たきりの重傷だったというが、急にウワアーと大声をあげて起き上がり、廊下に飛び出し、ワアワアと訳の判らぬ声を発しながら押さえようとする看護兵を振り放し、両腕を上げて10mほど前方の南瓜畑まで走ったという。

 九郎達が見た時は南瓜畑の中を上半身裸体で転げ廻っていた。5分ほどワアワアと訳の判らぬ声でわめきながら転げ廻っていた。が最後にうつ伏せになって動かなくなった。中尉は後面の火傷であった。顔、首、背、腕、手などの皮のはがれたところが南瓜の葉っぱや茎や畑の土で傷ついてひどく破れ、血と土にまみれていた。背中は肉が土でえぐれ、流れ出た血と土がまじり、泥のようになり、その中に多くの蛆虫だけが動いていた。動かなくなった背中で肉と血と泥の中で、蛆虫だけがうじゃうじゃと動いていた。

■8月13日―3名だけの原隊復帰

 8日目。鼻の傷は皮がかなり厚くなり、完治には遠いがどうやら見られるようになった。9月7日に故郷に復員した時は、うす黒い皮はそのままだったが傷は完治していた。その後、年月と共に従って色はうすくなったが、それでもなお今日、よく見ればかすかながらその痕跡が残っている。

 鼻の傷は原爆によるものではないが、それにしても怪我をした覚えもないのに傷ついたのが不思議であった。がひょっとすると、屋根が落ちた時、何かが当たったのではないか。その時は仰天していたので気付かなかったのだろうと今も思っている。しかしそれにしても肉が腐って大豆ほどの穴があいたのに痛みもほとんど感ぜず、赤チンと軟膏だけで治ったのも解せないことである。ともあれ、原爆と聞くとまず頭に浮かぶのはこの鼻の傷である。

 午前10時、九郎、大西二等兵、宇野二等兵の「船工九」に原隊復帰の命が出た。「船工九」を出発したのは12名、原隊に無事帰ったのは九郎達3名だけであった。

 昭和20年8月13日のことであった。

(了)



◆参考資料
陸軍船舶通信連隊、船舶通信補充隊裏比治山防空ごう付近「中学生のいたましい姿」
陸軍船舶通信連隊、船舶通信補充隊裏比治山防空ごう付近
「中学生のいたましい姿」
作者 後藤利文 氏
広島平和記念資料館 所蔵


陸軍船舶司令部(暁部隊)「収容された負傷者を看護する兵隊、死体を運ぶトラック」
陸軍船舶司令部(暁部隊)
「収容された負傷者を看護する兵隊、死体を運ぶトラック」
作者 道田芳江 氏
広島平和記念資料館 所蔵


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◇小西建男(こにしたけお)さんのこと − 平 信行

 本名・小西建男さんは高安九郎のペンネームで、広島への原爆投下8月6日から13日までの1週間の体験を手記の形で遺されました。本稿では高安九郎の名前で手記の紹介をいたしました。

* * * * *

 小西さんは1926年(大正15年)9月23日生まれで、被爆時の年齢は18歳でした。手記に示されているように、爆心地から1.8キロメートル、広島市皆実町の陸軍の施設で被爆されました。

 小西さんは代理人の弁護士を立てずにたった一人で原爆症認定訴訟を京都地裁に提訴した人です。1986年(昭和61年)のことでした。自身の「白血球減少症」「肝機能障害」の病気による苦しみの原因は原爆の放射線にあるとして国に原爆症認定申請をしましたが、たった一行の通知文書で却下されました。小西さんは「例え、ごまめの歯ぎしりであっても、国に一矢報いなければ死んでも死にきれん」「他の被爆者のためにも、認定のあり方を変えなければ」との思いで提訴に立ちあがったのです。

 後に尾藤廣喜弁護士等が代理人となり、支援ネットも作られて多くの人々の支えの中で、裁判は京都地裁から大阪高裁まで闘われました。2000年(平成12年)11月に大阪高裁で勝訴判決、国が上告を断念して勝利が確定しました。14年もの長い闘いでした。

 その2年4ヶ月後、2003年(平成15年)4月15日に小西さんは永眠されました。享年76歳でした。

* * * * *

 小西さんの原爆症認定訴訟は「小西訴訟」と語られ、2003年(平成15年)から全国で始まる原爆症認定集団訴訟のさきがけとなりました。小西さんの遺志を受け継いで、全国の被爆者が原爆症認定制度の抜本的な改革を求めて立ち上がり、原爆症認定集団訴訟の提訴に至りました。「小西訴訟」は全国の原爆症認定制度改革運動の原点となったのです。



大阪高裁勝訴判決の日 2000年11月7日 左から小西さん、尾藤弁護士、長崎の松谷英子さん
大阪高裁勝訴判決の日 2000年11月7日
左から小西さん、尾藤弁護士、長崎の松谷英子さん

小西建男さん
小西建男さん




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