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●被爆体験の継承 57

被爆後40年、突然襲いかかってきた
病気との闘いの日々

朝枝照明さん

2017年8月6日(日)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

朝枝さん

■8月6日の朝

 私は広島市の、今のJR横川駅に近い、楠木町4丁目で生まれ育ちました。父は私が幼い頃早くに亡くなっていて、私は顔も覚えていません。父方の祖父と母と10歳年上の姉と私の4人家族でした。

 私は昭和13年(1938年)10月1日が誕生日で、広島に原爆が落とされた時は6歳、大芝小学校の1年生でした。8月6日、その日は学校の登校日でしたが、母が友達の河野さんという方の家に行くというので、私も母についてそちらに行くことにして、学校は休んでしまいました。学校を休んだために助かることになりましたが、その日登校していた子どもたちはほとんど死んでしまいました。

 朝、朝食を済ませると、楠木町1丁目の河野さん方に行く母と、勤めの姉と私の三人は一緒に家を出ました。姉はその時16歳で基町にある逓信局に勤めていました。その姉とは途中で別れました。母と二人で河野さん方に向かっていると途中、偶然その河野さんと出会うことになりました。母と河野さんとは立ち話をすることになり、私はその間、他所の家の日陰で待っていました。

 その時でした。私の頭上で「ピッカー」「ドン」と物凄い光と爆風を感じました。気が付いた時には付近の家は倒壊しており、私は建物の下敷きになっていました。母が必死に助けてくれました。母の友達の河野さんはどうなったのか、付近には見当たりませんでした。

 それからとりあえず急いで家に帰ることにしました。建物の下敷きになった時に私の頭に何か物が当たったようで、頭に怪我をしていました。血が噴き出ていたので、どこで手に入れたのか、それがバスタオルだったのか、タオルだったのかも覚えていませんが、それを巻いて血を止めてもらい、無我夢中で家に向かいました。帰る道のりが本当に長かったこと、長かったこと。また付近では火災なども発生し始めており、とても怖かったことを覚えています。ずっと後になって知ることですが、私たちが原爆に遭ったのは爆心地からは1.8kmほどの距離の所でした。

 母は右半身全身を火傷していました。顔は、火傷で皮がずるっとむけていて、顔の判別もよくできないほどでした。もっとよく見ると手や、腰近くまで皮が?げていました。母はその日、白地に黒い水玉模様の服を着ていて、その黒い箇所だけが余計にひどく焼けていました。母はその時、「痛い」とも「かゆい」とも何も言いませんでした。

 自宅に戻ってみると、家の中は天井が落ちてメチャメチャになっており、祖父が一人で片付けなどをしようとしていました。ご飯が炊いてあった釜が遠くまで飛んでいたり、味噌汁も何もかもなくなっていたり、妙にそんな家の中の光景が記憶に残っています。

■安佐郡安村に避難

 母は体にひどい火傷や怪我をしていましたので、とりあえずの応急手当をしてから、「姉を探しに行く」と言って、私を祖父に預けて一人で出かけていきました。

 祖父と私とは母の帰りを待ちましたが、母は帰ってきませんでした。ところがそうこうしている内に火の手が家の近くまで迫ってきました。兵隊さんや近所の人たちが「逃げろ、逃げろ」と言って回っていましたので、母の帰りを待たずに祖父と一緒に逃げることにしました。祖父の親戚のある安佐郡安村の方向をめざしていましたが、ぞろぞろぞろぞろ避難する人たちがいっぱいで途中祖父とはぐれてしまいました。仕方なく近所の人の大八車に乗せられて逃げました。途中の民家の人たちから水やカンパンなどをいただきました。

 4里(約16km)を歩いて、やっと安村に着いたのは夜の8時頃、もう真っ暗でした。安村の全然知らない家にとりあえず落ち着くことができました。その夜、広島市内方面を見ると空一面真っ赤になって燃えており、母のこと、姉のこと、家のことが心配でしようがありませんでした。その夜はお腹は減っているし、疲れているのですぐにも眠りたい思いでしたが、怖くてなかなか寝付かれませんでした。

 次の日の朝起きて顔を洗ってこれから朝ごはんという時に、そこに祖父がいることに気付きました。「ここはわしの従兄弟の家じゃ」と祖父が言うので、私は偶然にも安村の親戚の家に着いていたことを初めて知りました。不思議な縁でした。それからまた祖父と一緒に行動するようになりました。

* * * * *

 安村の親戚の家には3日ほどいましたが、祖父が「わしの母や家のことが心配なので家に帰る」というので私も一緒に帰りました。私の家はかろうじて焼けてはいませんでしたが、わたしの家の3軒隣まではすっかり焼けてなくなっていました。その焼け跡に行きますと、焼けただれた死体が何十体ところがっていました。

 その後また3〜4日ぐらい自宅で生活していましたが、祖父が「母や姉が心配だ、探しに行く」というので、私も一緒に出かけることにしました。姉の勤務先である逓信局付近や広島城や西練兵場などを中心に、2〜3日ぐらい探し回りました。西練兵場では兵器庫の鉄砲が焼けただれていました。母や姉を探している途中、焼け焦げた死体がごろごろ転がっていました。臭いもとてもきつくてとても怖く思いました。しかし、結局母も姉も見つけることはできませんでした。

■母のこと

 何日か経って、お盆の頃だったと思いますけど、「あんたのお母さんは三滝の陸軍病院跡の竹藪の中に収容されているよ」と近所の人が知らせてくれました。急いで祖父と行ってみると、母は20人〜30人の人と一緒に収容され、寝かされていました。火傷している人たちは臭いからというのでみんな屋外に置かれているんです。ベッドもなければ何もない、テントも張ってなくて、露天なようなところで、蚊取り線香一本だけ点けられているようなところでした。何しろ竹藪ですから蚊が多いんですね。

 竹藪の中で、一人ひとり顔を見て探して歩きました。その内、母の方から「ここだ、ここだ」と声をかけてくれました。その時の母の顔や体は正視できないほど無残なものでした。その時私は汚いものを見るような目つきで母を見たそうです。母は死ぬまで、「あの時のお前の冷たいそぶり、汚いものを見るような目つきは、未だに忘れられない」と生涯言い続けていました。私は自分ではそんなことはないと思っていたのですが。

* * * * *

 母は暫くそこに収容されていましたが、8月の末にやっと自宅に連れて帰ることになりました。私は祖父と一緒に母を大八車に乗せて帰りました。火傷している人たちは竹藪の中からみんなどこかへ連れていかれたようです。

 家に帰っても母はとても臭かったです。その後も暫くは寝たきりの状態でした。家ではまともに治療できることなど何もなく、祖父がキュウリを切って火傷の箇所に貼ってあげていたくらいのことでした。年寄りと子どものすることですから、母も堪らなかったのだと思います。ある日、「知り合いの所に行って治療してもらって来るわ」と言って家を出ていき、それっきり帰ってこなかったのです。いくら大きな火傷や怪我をしているといっても、原爆が落とされて、戦争が終わって、みんな混乱して大変な最中に、年寄りと子ども一人を残して家を出ていくなど、許されない、ひどいじゃないかと思いました。寂しいのと同時に、私は母のことを恨みに思いました。

 母と祖父とは嫁と舅の関係で、うまくいっていなかったのも原因のようでした。

■還らぬ姉

 その後も引き続いて、祖父と私は姉を探して回りました。毎日、涼しいうちにと朝早くから出かけていきました。原爆が落とされた日、姉は逓信局ではなく、建物疎開作業に動員されて小網町の方へ行っていたことも分かりましたので、そちらの方面も探し回りました。姉をさがす途中、お腹が減って減って仕方なく、他所の畑の中に入ってトマトやキュウリを盗んで洗わずにそのまま食べたことなどもありました。悪いと思っても飢え死にそうで我慢できませんでした。

 姉はとうとう何の手がかりもなくまったく行方の分からないままになりました。いろいろな情報は入ってきましたが、どれも決め手とならず、最後は諦めることになりました。結局今も行方不明になったままです。

* * * * *

 その頃、家の近くの大芝公園には毎日のように、兵隊さんが死体をどんどん運んできてはどさっと落として焼いていました。夜には「火の玉が出る」という噂が立ち、近所の子どもたちと一緒に見に行ったものでした。

現在の大芝公園の原爆慰霊碑
現在の大芝公園の原爆慰霊碑

■脱毛と下痢

 母が家を出てからは祖父と二人暮らしになりました。

 原爆が落とされた時に負った頭の傷は10月頃になってやっと治りました。ところが伸びていた頭の毛をポンプの前で洗おうとすると、大きな固形石鹸を直接頭に当てたところ、その石鹸にバサッと髪の毛がついてしまいました。そして髪の毛は全部きれいに抜けてしまいました。学校に行くと、「はげ、はげ」とからかわれて、長い間学校を休んでしまいました。

 原爆に遭った後は下痢もずーっと続いていました。他所の畑に入ってまだ青いままのトマトをかじったり、とても暑い日差しの中を母や姉を探して歩き回っていたので、当時はそんなことが原因なのかと思っていました。

現在の大芝小学校と校内の慰霊碑
現在の大芝小学校と校内の慰霊碑

 大芝小学校を卒業して中学は中広中学校に通いました。私が中学2年生の頃、私の家は比較的大きかったので他人に貸間として貸していたのですが、その中の一人で「あんたのお母さんの居る所知ってるよ」と、祖父には内緒で私にだけ教えてくる人がありました。母は己斐の方に住んでいるようでした。会いたい気持ちはもちろん強かったのですが、恨みに思う気持ちもあってすぐには素直に会いには行けませんでした。結局最後は母の方から、「寂しかったか?ごめんな」と謝ってくれて、やっと再会することができました。その後は祖父には内緒でちょくちょく会いに行くようになりました。

* * * * *

 高校は山口県にある全寮制の学校に進みました。私がまだ高校在学中に祖父は亡くなり、天涯孤独の身となりました。高校を卒業して、いろいろ親身にお世話いただく方があり、その人のお陰で就職もすることができました。最初はガソリンスタンドでの勤めから初めて、若い頃は広島市内でいろいろな仕事を手掛けてきました。

 昭和40年(1965年)、27歳の時に結婚しました。2年後の29歳の時には自分で土建会社も起こしました。会社と言っても、嫁が電話番して、自営業と言った方がいいぐらいで、でも役所の仕事ができるように登記はちゃんとしました。

■“原爆ぶらぶら病”と闘病人生

 そうして広島で土建業の仕事を続けていましたが、45歳になった時、突然肝臓を悪くしてしまいました。症状は急に出てきたのですが、ご飯が食べれなくなって、なんとも言えない脱力感がきつくなっていきました。主治医の先生からは“原爆ぶらぶら病”ではないかと言われました。

 検査してもらうと肝臓がひどく悪いという結果が出て、いきなりですが昭和58年(1983年)から昭和63年(1988年)まで6年間も入退院を繰り返すことになりました。仕事をしないと食っていけないのに、体がどうしても思うように動かすことができず、どうしようもありませんでした。この時それまで順調にやってきていた会社も倒産してしまいました。

 その後友達が社長をしていたこれも土建会社の役員などをしていましたが、平成2年(1990年)に京都へ支店を出すことになり、私がその京都の支店の責任者になって、初めて京都に移り住むことになりました。

 バブル景気の盛んな頃で、会社も拡大路線を歩んでいました。ところが京都に支店を出してから1年後に、広島に本社のある会社が潰れてしまって解散することになりました。京都ではもうあちこち人との関係ができていましたので、結局私一人が京都に居残ることになりました。その後も京都で仕事を続けてきて今こうして京都に居座るようになりました。

 京都に来た頃からも肝臓の経過観察や治療は続けていて、平成4年(1992年)から3年間肝臓と糖尿病で第一日赤に入退院を繰り返しました。平成8年(1996年)には、以前から悪かった椎間板ヘルニアによる腰痛がいよいよ我慢できなくなって、歩けないほどになり、京都府立大付属病院で手術しました。椎間板ヘルニアはその後も悪い症状を繰り返し、これまで3度も手術をしています。狭窄症も発症し、腰に金具を入れて、それをボルトで締めて維持しなければならないほどになりました。それ以来まったくの車いす生活になりました。

 平成13年(2001年)には脳梗塞も発症し、この時も入退院を繰り返しました。

 今年の6月、人工透析の治療を行っている病院で毎月1回定期のレントゲン検査を行ったところ、肺が真っ白になっていることが分かり、第一日赤で詳しい検査をした結果、肺腺腫であると診断されました。それまで少し胸が苦しい、食事がすすまない程度のことはありましたが、ほとんど自覚症状らしいものはありませんでした。私は酒もたばこもやってこなかったので肺の病気にだけは絶対に罹らないと自信があったのですが、自信過剰だったのかもしれません。6月、肺に溜まった水をカテーテルを入れて抜き出す手術をしました。言葉で言い表せないとてもしんどい手術でした。今は抗がん剤の投与を続けているところです。

 45歳の時初めて肝臓が悪いと診断されて、以来30年以上、入院と退院の繰り返し、通院も途切れたことがなく、病気と闘い続ける人生でした。原爆さえなかったら、と思わない日はありませんでした。

■原爆症認定の申請

 私は平成20年(2008年)3月に原爆症認定申請をしました。この時の申請疾病は2型糖尿病、糖尿病性腎症、慢性腎不全、高血圧症でした。しかし2年後に申請を却下する通知が届きました。却下に対する異議申し立てもしましたがそれもあえなく棄却されました。私が訴えた病気の発症は原爆放射線が原因ではないという決定なのですが、これだけ人生の大半を病気と共に生きてきた私としてはとても納得できるものではありませんでした。

 あれから7年、今度は肺腺腫を発症しましたので、もう一度原爆症認定の申請をすることにし、この8月再び申請書を提出しました。

* * * * *

 私は以前、日本被団協の新聞か何かを読む機会があり、被爆体験を語って後世に残していく、私も何かをしなければと思うことがありました。それを機会に京都原水爆被災者懇談会の役員にも一時期なり、請われて語り部をしたこともありました。語り部をする時には、一生懸命調べものもして、準備をして臨みました。ところがある時、たまたま運悪く、私が語り部をしようとしたその場が、お祭りのような場で、お酒も出ているような会場にあたったことがありました。ほとんどまともに被爆体験を聞いていただけるようなところではない、まったく相応しくない会場でした。あの時私は相当に頭に来て、もう二度と語り部はしない、懇談会も辞める、と言ってしまいました。

 そんなこともありました。でも今はもう一度思い直して、少しでも、ささやかでも私の被爆体験を聞いていただけるなら、語り継いでいただけるならと思い、こうしてお話しをしているのです。

(了)





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