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●被爆体験の継承 58

71年の歳月を経て夫の霊に手を合わせた日

姜静子(カンチョンジャ)さん

2017年9月15日(金)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

姜さん

■韓国で生まれ東京で育つ

 私は昭和2年(1927年)韓国の慶尚南道宜寧郡というところで生まれました。暮らしがあまりにも貧しかったので、私の父は単身で日本の東京に働きに出向いていて、私が3歳になった時、母と私を東京に呼び寄せました。父は鉄くず収集などで働いていました。私の生まれは韓国ですが、3歳までですから生まれ故郷のことは何も覚えていないのです。

 私は東京の大森で大きくなりました。きょうだいは8人になりましたけど、私が長女なのです。東京では、家の中でも日本語を使っていて、静子と呼ばれて育ちました。ずっと後になって戸籍謄本を取り寄せた時、初めて本名が「姜井玉(カンチォンオク)」だと言うことを知りました。それまで本名さえ知らなかったのです。

 妹たちは子どもの頃、「朝鮮人」だと言ってよくいじめられたと言っていますけど、私にはそういう記憶はありませんね。

 日本の国が日中戦争から太平洋戦争へ、どんどんどんどん戦争を広げていった頃、私たちは学校ではろくに勉強もしないで、なぎなたや防空訓練のようなことばっかりをやっていたように思います。青春などというものは何もありませんでした。

■結婚のため広島へ

 18歳になった時、親戚の人に縁談を勧められて、広島にいる7歳年上の孫三祚(ソンサムジョ)さんという人と結婚することになりました。昔は親の言いなりでしたからね。孫三祚さんは朝鮮半島から留学して来た人で、その頃は広島瓦斯(今の広島ガス)の設計技師をしていた人でした。

 私は7人もいるきょうだいと両親を少しでも楽にさせたいと思って、昭和20年(1945年)の1月に広島市へ嫁いでいきました。一緒になるまで夫となる人の顔も知らないまま広島へ向かったのです。

 それから7ヶ月後です、原爆に遭うことになったのは。

■原爆に断たれた新婚生活

 8月6日の朝はとても暑い日でした。夫はもう出勤していました。空襲警報が一度鳴ったので防空壕に入りかけましたけど、すぐおさまったので、私たちもまた建物疎開の奉仕作業の現場に出かけていきました。後になって知ったことですが、私たちが作業していたのは爆心地から1.8kmほどの距離のあたりでした。

 ピカッと真っ青に光って、ドーンと物凄い衝撃がありました。それから周りが真っ暗になって、気がついたら私は建物の下敷きになっていました。首だけを瓦礫から外に出して、身動きがとれなくて、「助けてー、助けてー」って叫び続けました。でも、誰も返事してくれる人はいません。みんな我が身かわいさに逃げるのに必死でした。少し明るくなってから、やっと私も瓦礫の下から引っ張り出してもらって、助けてもらったのです。引っ張り出された時に着ていた服もボロボロになってしまいました。

 かろうじて助け出されてから、「夫は必ず帰ってくる」、「自宅で落ち合う事ができる」と思って、火の海をかいくぐるようにして自宅まで急ぎました。自宅は広島瓦斯の寮で、千田町の広島市内電車の車庫の近くにありました。

 帰宅して着替えをしようとすると、右の手の甲から肩まで、皮膚がズルッとむけました。その時はじめて右肩から手の先まで大やけどしていることに気づきました。

 家に帰って待っておれば夫と会えると思っていましたが、しかし、夫は何日経っても帰ってきませんでした。

 留学生だった義弟(夫の弟)が心配して来てくれて探し回ってくれましたけど、見つけることはできませんでした。その義弟も爆心地まで入り込んで歩き回ったりしたせいか、間もなく亡くなってしまい、数日後には遺体で発見されてしまいました。

 夫とは遂に会うことができず、遺骨さえ見つからないままになってしまったのです。私たちの新婚生活はわずか7カ月で、原爆によって切り裂かれ、断たれてしまいました。私の手許に残されたのは結婚した時の夫と一緒に撮った写真だけでした。

大切にしてきた、夫と一緒に撮影した唯一の写真
大切にしてきた、夫と一緒に撮影した唯一の写真

 会社で支給されたパンがあると、一つは自分で食べて、残りの一つは私に持ち帰ってくれる、そんなやさしい人でした。

* * * * *

 8月15日に戦争が終わったと知らされました。ただ終戦だと聞いても、すぐには何も感じることはできませんでした。だんだんと自分が惨めになってきて、何のために爆弾落とされて、何のためにこんな辛い思いをしなければならないのかと、あの時はそんなことばかりを考えていました。

■戦後を独りで必死に生き抜いて

 しばらくして、広島の田舎にあった夫の遠い親戚の人が助けに来てくれて、その人の家に避難することができました。そこで、やけどの傷には擦ったジャガイモがよく効くからと言われて、それを塗ってもらうなどして傷を癒していきました。1年間ぐらいはその家で厄介になっていたと思います。

 やがて東京にいた両親たちが韓国に帰ることになり、私も一緒に帰るようにと、広島の田舎まで連れに来てくれました。ところが韓国に帰る予定だった船が遭難して、親たちはそのまま日本に残ることになりました。私だけはいろいろな事情から一人で韓国に帰されました。韓国では誰が迎えに来てくれるのかも分からないままの、とても不安な帰国でした。

 一旦は韓国に渡り、大邱(テグ)で二度目の結婚のような形での生活を始めました。ところが相手の人が2ヶ月後には日本に商売に行って、それっきりになってしまったのです。後で事故で亡くなっていることが分かりました。縁のない韓国で私一人ではどうすることもできず、私もまた日本にとんぼ返りのように帰ってきたのです。

* * * * *

 戦後は、日本のいろんな地域を転々として、パチンコ店や土木作業の現場で、男の人と同じようにして働いて生きてきました。たいていは住み込みでしたね。とにかく生きるのに必死でした。

 あの頃は「原爆にやられたら子どもは産めん」と言われていましたし、自分が被爆者だと誰かに話すこともありませんでした。広島で原爆に遭っている人はひどい差別も受けていましたからね。母親からも、子どもは諦めろと言われました。それからは再婚することも出産も諦めて、被爆していることは長年、心の中に秘めるようにして生きてきました。

 30年前に京都市南区の東九条に来て、60歳を超えてやっと少しは落ち着いた暮らしができようになったように思います。

 私は戦争が終わってから一度も広島の街に行くことはありませんでした。夫は広島のどこかに眠ったままになっているのだろうと気がかりではありましたけど、生きるのに必死で広島のことを考える余裕はなかったのです。

■最初は相手にもされなかった被爆者健康手帳の申請

 私が被爆者健康手帳を手にすることができたのは昭和63年(1988年)10月のことです。京都に来てから、私はもう61歳になっていました。それまで被爆者手帳を交付してもらえることなど何も知りませんでした。

 あることをきっかけにして、広島の田舎にいた夫の遠い親戚にあたる人が手帳のことを教えてくれて、それで手帳の申請をしようということになったのです。でも原爆からもう40年以上も経っていて、私はすぐに広島を離れていましたし、私の被爆を証明してくれるような人もいるわけではなかったので、それは大変なことでした。私が一人で京都府や京都市に行ってお願いしても、誰も信じてくれなくて、相手にもしてもらえませんでした。

 途方に暮れて、もうどうしようもないなあと思っていたところ、夫の遠い親戚にあたる人が、とても一生懸命になって走り回ってくれたのです。京都府や京都市への嘆願書を書いたり、必要な書類を全部作ってくれたり、いろんなことの手続きをしてくれました。そのおかげで、苦労の末にやっと手帳を交付してもらうことができたのです。

 この時初めて戸籍上の本当の名前が「姜井玉(カンチォンオク)」だと知ったのです。私もびっくりしました。

 その遠い親戚の人も今は北朝鮮に帰国してしまわれました。

■エルファで若い人たちに被爆の体験を語る

 戦争が終わってから70年も経って、私も体の不調が年々ひどくなってきました。原因不明の体のほてりや、全身を針で刺されるような痛みに悩み続けています。原爆の影響が今になってこうして出ているのではないかと思ったりもします。耳も遠くなって、酸素吸入器は片時も手放せない毎日です。狭心症とか心筋梗塞、気管支炎、胆石などの薬も処方してもらっていて、たくさんの薬を飲んでいます。

 周りの人はみんな死んでいきました。私も近い将来そうなるのだなあと思ったりします。自分の身体が動かなくなるにつれて、戦争で人生をめちゃくちゃにされた人がたくさんいることを忘れないでいて欲しいなあ、と強く思うようになってきました。

 私は何年か前からエルファという施設のデイサービスに通っているのですが、そこで、研修のために来られる学生さんたちに私の被爆体験を話すようになってきました。みなさんにせめて私の体験したことを語り残しておきたいと思うようになってきたのです。エルファとは、在日コリアンのためのお世話をしてもらっている「京都コリアン生活センター・エルファ」のことです。

 このエルファにはよく学生さんや高校生の人たちが研修に来られます。ベッドに一緒に座ってこの研修生の人たちにお話ししたり、語り合ったりしているのです。

■エルファの人権学習(紹介)

 エルファへの研修生は、京都市内だけでなく日本各地、海外にも及び小、中、高、大学生、社会人、各種団体まで年間900名ほどになります。 目的は総合、人権学習、多文化フィールドワーク、聞き取り調査、教職員研修と実に多様です。

 在日コリアンがなぜ日本に居るのか、エルファの利用者のみなさんがどういう歴史を生きてきたのかについて施設のスタッフがお話をして、その後でエルファの利用者さんたちとのふれあい、交流会を持ちます。交流はだいたい1対1とか2対1とかの組み合わせで、学生さんたちが利用者さんのお話しを聞くことから始まります。15分から20分間ほどの対話をした後で一緒に遊んだり、歌を歌ったりの時間を共にしていきます。


人権学習でエルファを訪れた高校生に自らの被爆体験を語る姜さん(エルファ通信第30号より)
人権学習でエルファを訪れた高校生に自らの被爆体験を語る姜さん
(エルファ通信第30号より)


 利用者さんが異国の地でどんな思いで、どう生き抜いてきたのか…ひとり一人の歴史に触れることになります。学生さんたちが教室で学んだ歴史の理解をおばあちゃんたちの血の通ったお話しでさらに深めていくことになります。利用者さんたちの思いが心に届くのですね。

 韓国の大学生たちも訪れますが、自分と同じ郷の学生がいると喜びもひとしおで、韓国語での会話に花が咲きます。海外から移民や異文化理解などを研究する先生や学生、福祉施設職員、自らが異文化と複雑な背景を持つ方々など、多様な来訪者と利用者さんとのふれあいは日常的な光景です。

 京都は修学旅行でたくさんの中学生が来るところでもあります。修学旅行中の一日を人権学習に充てる学校からの研修依頼も増えています。

 訪れた人たちは利用者さんたちから直接お話しを聞くことで、塗り替えることのできない歴史を知り、自分の在り方、戦争と平和について考え心に留めて帰っていきます。このような研修の受皿としてたくさんの出会いを実現できるのは、単なる福祉施設だけに納まらない、エルファだからこそ果たせる社会的役割だと自負しています。人権学習の場の提供は未来を担う学生さんたちのために特に活用されているのです。

NPO法人・京都コリアン生活センター
 エルファ 副理事長 南c賢(ナンスンヒョン)さん

■71年ぶりに踏む広島の地

 被爆体験を語っている内に広島のことや、亡くなった夫への思いがだんだん強くなってきました。こうしたことがきっかけとなって、施設のスタッフの方が私の夫のことについて広島ガスに問い合わせをしてくれました。すると、広島ガスの社史の中に、原爆で犠牲となった社員として夫の名前のあることが分かりました。

 昨年(2016年)の10月、デイサービスの職員さんたちに付き添われて、戦争が終わって以来初めて広島を訪ねることができました。かすかに記憶に残っている71年前の街並みや、廃墟となった情景を思い浮かべながら、あの頃のことを思うととてもきれいな街になっていて、外国に来たのかと思うほどでした。

 原爆が落された時に広島瓦斯の社屋のあった場所に広島ガスの原爆犠牲者の慰霊碑がありました。そこを訪ねて花束と夫の写真を供え、夫の霊を慰めました。大切にしてきた夫の写真を見つめながら、「夫のことは心の底に秘めたまま『あの世』に行くことになると思っていたけど、こうしてもう一度来ることができた。もういつ死んでも惜しくない」と思いました。

広島瓦斯・原爆犠牲者追悼の碑(広島市中区)
広島瓦斯・原爆犠牲者追悼の碑(広島市中区)

 広島平和記念公園にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」にも行って、手を合わせ、花束と真新しい下着を供えることができました。

 この時は、広島の在日コリアンのたくさんのみなさんが利用されている介護施設の「ありらんの家」も訪問して、在日朝鮮人被爆者連絡協議会の会長さんとお会いしたり、利用者のみなさんとの懇親会もしていただきました。

平和公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で手を合わせる姜さん(エルファ通信第30号より)
平和公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑の前で手を合わせる姜さん
(エルファ通信第30号より)

 同行してもらった職員さんに広島市に問い合わせてもらったところ、広島市の平和公園の原爆死没者名簿に夫の朝鮮名「孫三祚」が登録されていることも分かりました。一体誰が登録してくれたのか。プライバシー保護のため登録してくれた人の名前は明かにされませんでしたが、でもその人のおかげで、広島でもう一度夫と会うことができたように思いました。

 私の胸は感謝の気持ちでいっぱいになりました。(了)





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