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●被爆体験の継承 59

兄たちと従兄弟たちとの原爆被爆

山下義晴さん

2017年10月9日(月)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

山下さん

■8月9日の朝

 私の家は長崎市の稲田町にありました。長崎の街の南の方、爆心地から4kmほどの距離のあたりです。原爆が落とされたのは私が仁田小学校(当時は国民学校)3年生で8歳の時でした。私の家族は父と母と5人きょうだいで、私が一番下でした。一番上の姉はこの頃もう嫁いでいて、長男は長崎の三菱造船からこの頃広島の三菱造船工場に派遣されていました。二番目の姉もたしか結婚を間近にして家を出ていたと思います。ですからこの頃の我が家は両親と二番目の兄と三男の私の4人だけになっていたことになります。

 8月9日の朝は、兄や従兄弟や近所の子どもたちと一緒に、家の近くの広場で遊んでいました。空襲警報が鳴ったのですぐ近くにあった町内の防空壕に入り、それから解除になったので防空壕から出てきたところでした。入口の辺りで空を見上げたら、飛行機の爆音が鳴っていて、B29が2機キラキラキラキラ光って飛んでいました。私の兄や私と同じ年頃の子どもたち3〜4人で一緒に「B29やんか!」と言ったその時、突然ピカーッと光って、後は気を失ってしまいました。

 気がついた時には防空壕の一番奥のところにいました。爆風で吹き飛ばされたんだと思います。その時はもう防空壕の中も外も夜のように真っ暗になっていました。後から思うと、あの時、私たちはキノコ雲の下にいたんだなあと思います。私は少し軽い火傷をした程度で、幸いにも怪我らしい怪我もせずにすみました。

 長崎は急坂の街ですから、家の建つ地面が段々に積み上がっていて、そこに家が建ち、家の後ろはすぐ石垣が迫る構造になっていました。私の家も、中にあったもの、家具や家財などが全部裏の石垣の方に打ちつけられるように吹き飛ばされていました。この時、私の父は家の中にいて、火傷をしたみたいで皮膚が黒くなっていたのを覚えています。でもケロイドが残るほどの火傷ではなかったようです。母はどうしていたのか、今はどうしても思い出せません。

 原爆が落とされた日とその翌日は、街の中心部に行っていた人たちが、みんな大火傷をしてゾロゾロゾロゾロ焼け爛れて帰ってこられました。まともに正視できないほどひどい格好でした。そういう人たちがいっぱいになっていました。みんなひどい火傷や怪我をしているのですが、病院もなければ何もなかったのです。

 原爆投下の日の夜は、長崎の街の半分は大火事となって燃え続けていました。

■叔母を探して爆心地へ

 私の父の兄(私の伯父さん)である山下萬造さんが爆心地の近く、大学病院のすぐ北西あたりの坂本町に住んでいて、土方の親方のような仕事をしていました。当時は爆心地付近全体を「浦上」と呼んでいましたので、私たちも伯父さんのことを「浦上の伯父さん」と呼んでいました。

 私の父の妹(私の叔母さん)の小林キクさん一家は私の家の向かい側の長屋に住んでいました。叔母さんの夫がその頃出征中で、二人の男の子(私の従兄弟になる小林平次郎さんと勇さん)との3人暮らしでした。原爆投下の日、叔母さんは浦上の伯父さんのところに働きに行っていて、そのまま帰ってきませんでした。家には2人の兄弟だけが取り残されてしまいました。

 そこで、原爆が落とされてから2日後の8月11日か3日後の12日、私の父が、私の兄(山下次郎)と私と、従兄弟の小林平次郎さんと勇さんとを連れて、5人で浦上の伯父さんの家の近くまで叔母さんを探しに行くことになりました。勇さんはまだ5歳という年齢でした。

 街はすっかり焼けていて、焼け跡を踏み超えながら歩いて行きました。浦上の伯父さんの家に行くには、稲田町の家から大波止まで行き、それから線路沿いに医大病院のあたりまで歩くことになります。長崎駅を超えたあたりから、周囲にはあちこち、くすぶるような煙がまだ立ち昇っていたのを覚えています。そこかしこに人の死体や、焼けたしゃれこうべ、牛の骨などがありました。

 伯父さんの家の辺りまで行きましたが、あたりは一面の焼け野原で、何もかも焼けていて、どこが伯父さんの家だったのか正確には分かりませんでした。どこの家も基礎だけが残っているような有様でした。しばらくあたりを歩きまわって小林の叔母さんがどこかにいないか探しましたが、何も見つけることができず、その日は帰ってきました。その後も何日か探しに行きましたが、結局叔母さんを見つけることはできませんでした。

 この時に見た爆心地付近の破壊された凄まじい光景は今でも忘れることができません。大学病院の建物の煙突が壊れたままになっていたり、片足だけ残ってそれでも建っていた鳥居などは特に強く記憶に残っています。

長崎医科大学付属病院の煙突(林重男氏撮影・長崎原爆資料館所蔵)
長崎医科大学付属病院の煙突(林重男氏撮影・長崎原爆資料館所蔵)

山王神社の片足鳥居(石田寿氏撮影・長崎原爆資料館所蔵)
山王神社の片足鳥居(石田寿氏撮影・長崎原爆資料館所蔵)
■従兄弟たちの被爆

 ずーつと後年、平成22年(2010年)に従兄弟の小林勇さんが原爆症認定の申請をしました。勇さん本人はその時もう亡くなっていて、遺族の奥さんが代わりに申請したものです。担当のお医者さんは病気の原因は原爆だろうと診断してくれたのですが、厚生労働省が認めてくれません。そこで裁判をして争うことになり、勇さんと一緒に浦上まで歩いた私が証言台に立つことになりました。裁判は結局勝訴となり、原爆症は認められることになりました。浦上まで一緒に歩いた人たちももう生き残っていたのは私一人だけでしたから、私は貴重な証言者でした。

 裁判の尋問では国側の代理人からしつこくいろいろなことを聞かれました。特に、勇さんや私たちが8月11日頃から浦上まで行ったという事実を認めたくなかったようです。子どもの足で稲田町から浦上まで歩いて行けるはずがないとか、5歳の勇さんが歩けるはずがない、などと言われました。しかし昔はみんな歩いて移動したのです。歩くのが当たり前の時代でした。昔の長崎の人は急な坂を昇り降りして育ったのですから。そんなことを法廷で国側の代理人と言い争ったりもしました。

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 原爆が落ちて3日目の8月13日頃、浦上の伯父さんの三男である山下三郎さん(この人も私の従兄弟)が突然稲田町の私の家を訪ねてきました。訪ねてきたというより、辿り着いたという感じでした。伯父さん一家は全員亡くなっていて、この三郎さんだけがたまたま防空壕にいて助かったのだそうです。しかしこの三郎さんも私の家に来てから吐血、下血を繰り返し、一週間ほどしてから息を引き取りました。廃材などをかき集めて、広馬場町で三郎さんは荼毘に付されました。

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 広島の三菱造船工場に行っていた一番上の兄の松良も8月13日に長崎の我が家に帰ってきて家族と再会しました。広島の三菱造船工場は広島市の江波というところにあり、爆心地から4.5kmぐらいの距離でした。兄が帰ってきた翌日の8月14日も、その兄も一緒になってまた浦上に叔母さんを探しに行っています。ですから長兄の松良は広島で直接被爆し、帰ってきた長崎でも入市被爆して、二重の被爆をしていたのではないかと思います。

■死に物狂いで頑張ってきた人生

 私は中学は地元の大浦中学を卒業しました。あの頃の私の家はとても貧乏していました。父は傷痍軍人で身体が弱くなっており、母が沖仲仕などして暮らしを支えていました。高校にも行けないほどで、とにかく食べていかなければならない。そのため、私は友だちを頼って大阪に出ていくことにしました。昭和29年(1954年)、私が17歳の時です。

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 大阪ではミシンの販売の仕事をしました。ところが給料がとても安くて、1ヶ月働いても4,000円。食事代とか必要な生活費を差し引くと手許にほとんど残りませんでした。苦労している母親に送金もしたかったのですが、とても無理でした。それで私と縁のある人で京都でとび職をしている人がいて、とび職は収入がいいというので、その人を頼って京都に行くことにしました。

 しかし、私はもともと体も小さいのでなかなかとび職の仕事はできませんでした。当時とび職といえば、50kgのセメント袋2つを平気でかついで歩かなければならないような仕事でした。私は人並みにできないので、他の部署で、例えば朝早くから飯場で飯炊きの応援をするとか、夜も風呂焚きで、職人全員が風呂からあがるまで働く、そういうところで毎日頑張り続けました。そういう頑張りが認められて、職人たちから「お前が親方になる時には応援に行ったるぞ」と言われるまでになっていきました。

 昭和34年(1959年)、22歳の時に旗揚げして親方になりました。旗揚げとは、会社を立ち上げることです。とび職としての会社登録もしました。某大手工務店の下請けの下請けの仕事を一生懸命やっていましたので、そちらからの仕事も回してもらうようになりました。会社の名前は初めは「山下組」でしたが、後に「山下建設」に改めて今に至っています。会社の立ち上げと同時に結婚もして所帯を持ちました。

 それからも苦労の連続でしたが、死に物狂いで仕事を頑張ってきました。いくらかずつでも母親への送金を続けてきました。一男二女の3人の子どもにも恵まれました。私が高等学校にも行けなかったので、子どもたちには3人とも大学まで卒業させようと思い、その通りにすることができました。

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 私は原爆に遭ってからは、子どもの頃からいつも身体がしんどいと思うようになりました。疲れやすく、それからちょっとした怪我でもなかなか血が止まりにくい体質にもなっていました。

 被爆者健康手帳を手にしたのは、昭和59年(1984年)、47歳の時でした。それまで手帳についてはあまり関心もなく、詳しいことも知らないままになっていました。たまたま通っていた近くの病院の看護婦さんから進められて手帳をとることにしました。私の友だちのお母さんが長崎にいて、私の被爆の証人になってくれたりしました。

■剣道一家

 私の長男が生まれてすぐの頃生きるか死ぬるかと言われたほどで、とても弱い身体でした。特に扁桃腺が弱かったのですが、剣道すれば声を出すので鍛えられると聞いて、小学生の頃から剣道をさせるようにしました。その時私も、弱かった身体を少しでも丈夫にしようと思い、剣道を始めることにしたのです。37歳という歳になってからでした。長女も付き合いでこの時一緒に剣道を始め、その後次女も続いて私の家族は剣道一家になっていきました。

約35年前の正月 藤森神社境内にて。左から長男・祐幸、私・義晴、長女・房枝、次女・幸子
約35年前の正月 藤森神社境内にて
左から長男・祐幸、私・義晴、長女・房枝、次女・幸子

 子どもたちはメキメキと腕前を上げていき、特に長女はインターハイ、国体、全日本選手権にも出場するほどになりました。今、長女が剣道七段、息子が五段、次女が三段になっています。私も七段になっています。原爆の影響で弱くなった身体をちょっとでも鍛えて、健康のためと思って始めた剣道ですが、少しは効果があったのではないかと思っています。私も60歳以上の人が対象となるネンリンピックに京都市代表として2回ほど出場させてもらったことがあります。

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 一緒に被爆した私のすぐ上の兄の次郎は肺がんでなくなりました。私も昨年(2016年)の11月、肝臓がんがみつかり手術をしました。この3年間、病気に襲われ続けてきました。もともと血小板が足らないと言われていて、血が止まりにくい症状がありますから、それもいろいろ影響しているようです。今年6月には脱腸の出術をしました。8月には胃の中で静脈瘤が破裂して出血したのでその手術をし、同じ8月には脳梗塞の診断も受けて治療をしてきました。

 昭和12年生まれの私は今年ちょうど80歳になります。いろいろと無理はしてきましたが、健康に気をつけて、まだまだ頑張って生きていきたいと思っています。(了)





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