ロゴ4 ロゴ ロゴ2
ロゴ00

●被爆体験の継承 6

海軍衛生兵として39日間
長崎の被爆者を救護し続けた私の被爆体験

白石辰馬さん

2013年6月4日(火)証言
京都「被爆2世・3世の会」で聞き取り、文章化

白石さん

 私は、昭和3年2月5日、大分県玖珠(くす)郡北山田村(現玖珠町)で生まれ育ちました。今年満85歳です。

 昭和20年2月1日、17歳のとき、父親の勧めもあって、長崎県佐世保市の針尾海兵団に衛生兵として志願し、入隊しました。新兵教育を終了した後、4月1日に広島県の賀茂海軍衛生学校に入学しました。通常は2年間で卒業するところ、敵軍が上陸するということで勉強どころではなくなり、「先輩、軍医に習って実践で覚えよ」と7月10日に卒業。卒業と同時に佐世保市の針尾海兵団医務科に配属され、勤務に就きました。

* * * * *

 針尾海兵団には7,000人の兵隊が所属していました。医務科は、海兵団のための病院でしたが、上海や南方など戦地から帰ってきた傷病兵が、佐世保や大村の海軍病院でいっぱいになると、針尾海兵団医務科にも送られてきました。大村湾に臨む山を削ったところに、木造2階建ての医務科の兵舎が何十棟と並んで建っていました。

* * * * *

 昭和20年8月9日、11時すぎ、私は兵舎の2階で、患者日誌を隊長に提出していたところ、ピカッ!と一瞬鋭く光ったのを見ました。その部屋にいた隊員のみんなも思わず光った窓の方角に顔を向けていました。

 ちょうど大村湾の向こうの山が低くなっている辺りが長崎市です。長崎市の上をちょうど夕日が落ちていくというか、実際はそれよりもっとギラギラ光る火の玉の夕日が落ちていく感じで、目で確認できる程度の早さでゆっくり落ちていきました。それが山陰に隠れて、辺りが急に元に戻り、どれくらい経ったか、一瞬落ちた火の玉の4倍か5倍ほどの炎がパッ!と燃え、広がるのが見えました。

 その後、元の静寂に戻り、かなりの時間が過ぎた頃、爆風が来襲し、木造の部屋中がガタガタと揺れました。後で地図をみると針尾海兵団から爆心地までの距離は直線で約40キロありました。

* * * * *

 8月13日、私は衛生兵として出勤命令により、国鉄で佐世保針尾駅から長崎駅に向かいました。汽車は長崎に向かう人でものすごく混雑していました。通常なら2時間かからないところが、線路をつたってやって来るグラマンやロッキードなど艦載機の襲撃にあい、何回も汽車が停まり、外に出るなどして、4時間くらいかかりました。

 夜7時過ぎに長崎駅に到着し、歩いて仮の救護所になっていた新興善(しんこうぜん)国民学校に入りました。爆心地から南南東に約3キロのところです。

 人手が足りず、到着と同時に、救護所で亡くなった被爆者の遺体を運動場に運びだす作業をしました。患者の包帯を替えたり、「のどが乾く」「水がほしい」と口々に訴える被爆者に水を配ってまわったり、着いた日から一睡もせず、その後ほとんど寝ずの状態が1週間近く続きました。

* * * * *

 次の日の朝からは、毎朝7時か8時にトラックに乗って、浦上をはじめ長崎市内や郊外の救護所を移動しながら、ずっと被爆者の治療にまわりました。トラックには衛生兵3人と運転手が乗りました。衛生兵の一人は、熊本の農家出身の同年兵でした。

 火災でほとんどの家屋が焼け落ちていましたが、私が入市した13日ごろにはまだくすぶりがあがっている所もありました。道ばたに馬の死体が半分以上焼けてくすぶっているのも見ました。

 放射能のことは何も知らなかったので、あちこちに散らばっている、灰が茶褐色に焼け、頭蓋骨と大腿骨が残っている死体を、手袋も使わず素手で一か所に拾い集める作業もしました。佐世保を出るとき、上官から新型爆弾が落ちたという説明はありましたが、原爆のことは何も聞いていませんでした。

* * * * *

 長崎の街は道幅がせまく、トラックが入れないところもありました。患者が大勢おられた集落があったのですが、道幅がせまく、軽傷の人にはお地蔵様の所まで出て来てもらって治療し、重傷の人は家まで歩いて行ったりしました。

 ゴザに壁はムシロで囲い、焼けたトタンを屋根にした小屋の中には、重傷者や熱傷、火傷、外傷者がいっぱいいて、中には重傷者が重なるようにしてうめいている小屋もありました。患者は爆風で着衣が吹き飛んだのか、ボロボロの下着で、満足に衣服をまとっている人はいませんでした。収容できない被爆者もあちこちにいました。20日過ぎ、重傷者をある程度、海軍病院に入院させる、それまでの1週間が大変な状況でした。

* * * * *

 とにかくすごい暑さでした。死体の臭い、ケロイドで真っ黒になった背中にハエがたかり、化膿する異様な臭い…、薬といってもリバノールという黄色い傷薬と赤チン、ヨーチンぐらいしかなく、来る日も来る日も、衛生学校では習っていない実践の連続でした。

 夜7時ごろ帰ってきてからは、亡くなった人の遺体を運動場に運び出したり、重傷者に水をあげたり、ガーゼのとりかえなどをしました。多くの人が、毎日、どんどん亡くなっていきました。生き地獄でした。後で聞いた話ですが、遺体は松からとった油で火葬されたそうですが、化膿して腐っていて、なかなか火がつかなかったそうです。

 8月末ごろの救護所の患者の中には、背中がケロイド状に黒く焼け、化膿して点々と穴があき、それにハエがたかり、その穴からウジ虫が出たり入ったりしている人がいて、それでも生きておられ、非常に残酷なことだと思いました。

新興善国民学校救護所の病室風景
新興善国民学校救護所の病室風景

* * * * *

 この暮らしが、9月21日まで39日間、休日なしで続きました。寝泊まりは、新興善国民学校の先生の宿直室で、食事は缶詰なんかを食べていたように思います。夜になると鉄筋校舎の一番上のバルコニーにあがって、真正面に見える長崎港を見ながら、故郷のことをいつも思い出していました。17歳、今の高校生の年頃です、ただただ家に帰りたかったです。

新興善国民学校救護所(新興善小学校は2004年5月に解体)
新興善国民学校救護所(新興善小学校は2004年5月に解体)

* * * * *

 8月15日の終戦で、針尾海兵団の7,000人いた兵隊は、後始末のために40〜50人を残して16日、17日にはみんな引き上げたそうですが、衛生兵、看護婦、医官だけは残って、寝る時間もなく治療を続けていました。新興善国民学校にはいろんな所から衛生兵、看護婦、軍医が入って来ていて、混乱のなか、誰が指揮官かわからなくなっていました。

 私は、賀茂海軍衛生学校の7期生でしたから、一番若かったと思います。佐世保の同年兵370人、そのうち120〜130人が戦死しています。戦艦や巡洋艦に乗り、輸送途中で戦死している者もおり、終戦が1週間早かったら助かった者もいたと思います。

* * * * *

 9月21日、針尾海兵団に帰りました。私のリュックの中はこじあけられ何もなくなっていました。厚生省の兵役履歴書には9月22日除隊としるされています。翌22日、大分の実家に帰郷しました。

 帰郷後、2週間くらい経ったころ、急に鼻血が出て止まらず、母が近所の秋好医院に電話で往診を依頼してくれました。診察の結果は原因不明で、とりあえず鼻血止めの薬をもらい服用していましたが、その後も1か月に何回も鼻から出血がありました。きつい眩暈(めまい)、嘔吐もありました。

* * * * *

 症状は、現在も続いており、眩暈は今の方が激しく、2週間に1回、医師の診察治療をうけています。鼻血は、年に1〜2回、予期せぬときに出て、出るときはハンパじゃない量の出血があります。片方の鼻の穴に栓をするともう一方から、両方の鼻の穴をふさぐと口からビューと大量の血が出て、医者がビックリするくらいです。自分でも死ぬんではないかと何回も思ったことがあります。

 私は、海兵団に入る前、鼻血や眩暈など経験したことがなく、海兵団は「甲種合格」でした。剣道をしており、野球は国体に出たことがあるなど、スポーツは何でもやっていました。だから、原爆投下後の長崎市に入市したのが鼻血や眩暈の原因としか考えられません。

* * * * *

 私が被爆者手帳の申請をしたのは、50歳を過ぎて京都に来てからです。私には大分に娘が2人います。ずっと被爆者手帳の申請をしなかったのは、2人の子どもの結婚に弊害が及ぶのではないかという不安と、将来家族や親族一同にまで迷惑がかかるのではないかという思いがあったからです。

* * * * *

 しかし、京都四条病院で医療事務の仕事をしていたとき、このときも突然、大量の鼻血が出て、病院に大変迷惑をかけました。そのとき、副院長に事情を説明したら、被爆者手帳を申請すべきだと言われました。そして新聞記事で弁護士相談を見つけ、相談に行ったところ、被爆者懇談会を紹介してくれたのです。

 随分時間が経っているのでもうだめかと思っていたのですが、事務局の田渕さんに本当によくしてもらい、何回も府庁に足を運んでもらい、手帳を取得することができました。

* * * * *

 実は、戦後、私が大分に帰ったとき、亡くなった父母から、「長崎で被爆におうたことは、死ぬまで口が裂けても言うな」と厳しく言われました。当時、大分の田舎では原爆症は伝染病のように思われていて、「村八分になる」「近所の人にも絶対言うな」と釘を刺されていました。

 私には、姉と弟2人、妹2人がいましたが、兄弟のうち33歳で亡くなった姉と教員をしていた弟だけがそのことを知っていて、妹2人ともう1人の弟は今でも私が被爆者であることを知りません。その弟は、私が鼻血を出すと「兄貴は鼻血なんか出んかったのに、なんで出るんねえ」と言っていました。

* * * * *

 つい最近のことですが、懇談会で被爆二世・三世健診のことを聞いて、娘たちに教えてやりたいと思い、自分が被爆者であることを話しました。娘たちはビックリしていましたが、二世健診のことは、どうもめんどうくさいようなことを言っていました(笑)。

 また、昨年11月には、理事をしている京都大分県人会でも、詩吟を披露した後、マイクをもって自分が長崎で入市被爆をしていることなどを話しました。

* * * * *

 自分がいつまで生きられるかわかりませんが、私が原爆投下後の長崎に入ったのは、軍の命令で、お国のために行ったという思いがあります。今まで被爆体験を書いたり、話したりしたことはなく、これが初めてです。

 いつ鼻血が出るか、眩暈が起きるか、わからないのがほんとうに困るのですが、何十年たっても九州弁がぬけないのといっしょで(笑)、死ぬまで付き合うしかないと思っています。

白石さんのお話を聞きとる様子

長崎県の地図

爆心地と長崎市の地図

■バックナンバー

Copyright (c) 京都被爆2世3世の会 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system