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●被爆体験の継承 60

頭上に襲い来るキノコ雲の真下で

西田哲之さん

2017年10月11日(水)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

西田さん

■三菱製作所への学徒動員

 私が生まれたのは広島県の安佐郡伴村(ともむら)という所です。昭和3年(1928年)年4月15日の生まれで、4人きょうだいの3番目でした。その村から広島市街地に出るには、距離にすれば14〜15kmほどですが、バスでよっちらよっちら行くと50分から1時間はかかったものです。道路も狭い砂利道で、途中大型のトラックなんかに出会いますと離合するのも大変でした。戦後の市町村合併が重ねられて現在は広島市安佐南区という地域の範囲となり、今や広島市の大ベッドタウンです。ふる里の風景は一変しましたね。

 中学校は広島市内の広島二中(現在の県立観音(かんのん)高校)でしたが、一時期は自宅からこの距離を毎日自転車で通ったものです。この当時の中学校は5年生制だったのですけど、4年で卒業させられましてね。2年生ぐらいまでは授業もそこそこ受けていましたけど、その間にも軍需工場に時々手伝いに行ったりしていました。3年生ぐらいからは授業そっちのでほとんど工場通いでして、4年生になるともうべったり工場で、勉強しないでも卒業できるという悪い癖がつきました。

 私が動員されて勤務していた工場は観音町に作られた三菱製作所でした。江波に三菱造船があって、その西側の天満川を挟んだ対岸が三菱製作所でした。船の装備に必要な機械類を作るのが三菱製作所の仕事でした。この工場が作られるときは、観音町の沖合をしゅんせつ、埋め立てをして新しい工場用地を作るところから作業動員させられました。もっこを担いだり、トロッコを押してコンクリートの工事用の砂利を運んだりしたものです。

 完成した工場で私が勤務したのは鋼を作る電気炉の部署でした。電気炉の仕事はもちろん専門職の人がやるのですけど、私たちはその下働きです。私はアセチレンガスを使ってガス溶接やガス切断の仕事を担当していました。日本の戦況が不利になって、人間魚雷という、一人か二人ぐらい乗って敵の艦に体当たりして自爆するという海の特攻隊の、その魚雷に装備する船のスクリューを作る仕事もやりました。砂で鋳型を作り、それに溶けた鋼鉄を流し込み、冷えてから土を壊して本体を取り出し、余分な所を切るわけです。今でしたらもっといい機械があると思いますけど、当時はアセチレンバーナーに酸素ボンベの酸素を供給して鋼を切るのです。時々酸素ボンベが火を噴いたりしまして危険な仕事でもありました。作業中に事故で亡くなった人も何人かいました。

* * * * *

 中学を卒業して、本来なら4月から上の学校に進学ということになるのですけど、当時は、何が何でもこの戦争に勝たなければならないという国の方針の下、その後も勤労作業がいろいろ続きました。私が広島高等師範学校の理科二部に入学したのは1945年(昭和20年)の7月になってから、17歳の時でした。

■広島高等師範学校

 学校に入学してからも授業はなく、毎日東洋工業(現マツダ)の学徒動員勤務でした。東洋工業の工場は広島市の東方郊外の向洋 (むかいなだ)というところにありました。あの頃の東洋工業は主に三輪自動車を作っていましたが、そこに、鉄砲や小銃、爆弾の製造なども手掛けていました。

* * * * *

 その内に、理系の者を半分に分けて、8月7日から授業を再開することになりました。

 8月6日の朝、私たちの20人が学校に残って教室の掃除をすることになりました。教室の掃除のために工場勤務を休むというのはご法度でしたから、表向きは「防空要員」という形で残されました。その「防空要員」20人が原爆にやられることなったわけです。それに教室掃除の指導・監督のため一年上の上級生が2〜3人いまして、合わせて22人〜23人がその日の朝学校に残りました。

 広島高等師範は当時の広島文理科大学のキャンパス内にありました。後で分かったことですが爆心地からの距離が1500mになります。

■閃光の下で

 工場勤務組を送り出した後、私たちは文理大の玄関近くのグランドに集まりました。掃除の打ち合わせをして、バケツや雑巾、箒などを取りに寮に向かいました。2列縦隊で駆け足なのですが、みんな栄養失調状態で思い切って走ることもできないのです。ノロノロと走っていたら後の上級生から「走れ!」という号令がかけられて、少しスピードを上げた瞬間でした。原子爆弾が爆裂したのです。私たちの半数は建物の中に入ったところでした。

 原爆が落ちた瞬間は、当時写真を撮る時にマグネシウムをたきましたが、あれの巨大版のようなものが光って、周囲がブワッと真っ白になりました。一瞬、衝撃波に襲われたのでしょう、気を失ってしまいました。気がついたら私は木造の建物(学生集会所)の下に押し込まれていました。私が倒れた所の前後に建物の屋根を支える梁が倒れ込んでいて、私は丁度その間の隙間にいるような格好となり、大して外傷を負うこともありませんでした。

 どす黒い粉塵と強烈な異臭の中から私は自力で無我夢中で這い出すことができました。

* * * * *

 建物の中にまだ入っていなかった半数の10人ぐらいは、外にいたためほとんどの人が大火傷を負っていました。帽子は破れ、シャツは燃えていました。即死は免れましたが、その後1週間かそこらでほとんどみんな亡くなっていきました。

 寮の私と同室の者が当日病気のため部屋の中で臥せっていたので、それをまず助けなければならないと思いましたが、全部木造家屋ですからすぐに火の海になって、火炎に囲まれてしまって安否の確認すらできずに撤退せざるを得ませんでした。

現広島大学東千田キャンパス構内(広島市中区)
現広島大学東千田キャンパス構内(広島市中区)

 ともかくやられた私たちは一度集まって、ここに居ても駄目だから校外に逃げようということになり、それぞれのグループに分かれて避難することになりました。私はキャンパスの東側の塀を乗り越えて外へ逃げようとしました。それまで私たちは自分たちの居る学校だけが爆弾の直撃を受けたと思っていたのです。ところが塀の外を見たら、一面に建物らしきものがなくなっている。全部倒れていて、びっくりしました。

■今も手に残る小さな子の触感

 学校を出て、逃げ出そうとする時、突然、小さな男の子が、私の手をつかみました。はぐれた両親を探してくれというのです。その子が私の手をつかみまして、「助けてくれー、助けてくれー」と言うわけです。しかし、どう見ても、もうどこにも家らしきものはない。どこを探そうにも探すわけにもいかないのです。

 その時の手をつかまれた触感がただごとではありませんでした。私の人生のたった一回の、最も強い体感上の厳しさをあの時味わいました。こればかりは生涯絶対に忘れられないですね。その子の手には皮膚がなくなっていたのです。手の皮膚が全部めくれ落ちて、指先の爪のところで辛うじて止まって、ぶら下がって、真っ黒になっていました。皮膚がむけてしまった手は白いのです。皮膚のまったくむけてしまった手で私はつかまれていたわけです。私は少々のことでは驚きませんが、あの時はびっくりしました。

 私はその子を抱きかかえるようにして日赤病院まで連れて行きました。そこでは大した薬もなく、ほんのちょっとした手当をしたぐらいです。お医者さんも看護婦さんも大怪我をして血を流しながら治療をしているという修羅場でした。

 その子はあっという間に行方不明となってしまいました。あの子はどうなっただろうか、今でも忘れることができなくて、いつまでもその手の感触が私に問い続けています。

■頭上に襲い来る巨大な雲

 私たちが逃げる途中、家屋が倒れて下敷きになっている人がたくさんありました。そこら中で助けを求める声に行きあいました。私たちもできる限りのことはしようと思いましたが、ほとんど何もできません。仲間たちと一緒に近隣の民家の人2人を迫りくる火災を避けて救出することができました。これがせめてもの慰めとなったように思います。

 私たちはとりあえず南の方角を目指して逃げました。御幸橋を渡ったあたりから、いつの間にか一緒に逃げていた同僚もバラバラとなり、私はその近くにある専売局へたどり着いた時は精根尽き果てていて、構内の芝生の上に倒れこみました。

 広島の街の上空に巨大な、白と黒の混じった噴煙が津波のようにグォーッと高く高く舞い上がっていきました。私たちを圧倒し、頭上を襲ったどす黒い巨大な雲の円柱はとてもこの世のものとは思えませんでした。それが私たちが真下から見上げたキノコ雲の正体でした。

 その様子をぼんやりと見つめながら私は芝生の上でしばらくの間眠っていました。

* * * * *

 その近くで乾パンなどを支給してもらいましたが、私の身体はすっかり衰弱していてほとんど病人状態でした。気を取り直してもう一度ふらふらと歩いて学校まで帰ってみました。学校はもう影も形もなくて焼野原状態です。鉄筋コンクリートだった文理大の校舎だけが外枠を残していましたが、中のものは何もかも燃えてしまっていました。

 血に染まった防火水槽の水が沸々と煮えたぎっていたり、一頭の馬車馬が正門近くで大きな腹を膨らませて無残にも死んでいる姿も見えました。学校の近くにあった日赤病院と貯金局だけが建物の形を残していたと記憶しています。原爆が投下された瞬間はみんなどこに逃げたらいいのかと大混乱の中で右往左往していましたけど、そういう騒乱がちょっとだけ静かになったか、という夕方の景色でした。

■御幸橋

 破壊され尽くした学校を見て、もうこれではどうすることもできないと思い、また御幸橋を渡って、専売局あたりに向かいました。

 御幸橋では、原爆にやられた人が、黒い埃を被ったまま、大火傷をし、大怪我をし、橋の上の歩道や、橋のたもとの交番所のあたりで、動かないでじーっとしていました。普通、人間は大怪我をしたりすると喚いたり暴れたりするものですけど、被爆者に限っては喚く元気もないのかと思わせるぐらい、静かにたたずんでいました。

 爆風で欄干を失った御幸橋のもの悲しい風景を思い出す時、あの人たちの人生を想像するのはつらい限りです。

現在の御幸橋西詰に掲げられた松重美人氏撮影の写真
現在の御幸橋西詰に掲げられた松重美人氏撮影の写真

 逃げる途中、喉が渇いて水道水から漏れている水を飲みました。そのためなのかどうか、それからさらに体調が悪くなっていきました。あの頃は水道管は鉄管か鉛管を使っていて、原爆の影響で鉛管が溶けておかしな水になっていたのではないかと思っています。

 夕闇せまる頃、高等師範の学生の運転するトラックに乗せられて向洋の東洋工業に収容されました。広島は七つの川といいますが、当時の橋は、御幸橋などは別にして木造が多かったため、渡ろうと思ったらここは駄目、別の橋を渡ろうと思ったらそこも駄目で、右往左往して時間ばかりがかかり、東洋工業についた時はもうすっかり夜でした。体力をひどく消耗している上に、トラックに揺られて食べたものは全部吐き出し、胃の中はすっかり空っぽになっていたのを覚えています。

■家路

 東洋工業に収容されてからその日も次の日も寝たきりになっていました。その内に、実家に帰れるものは帰れということになりました。私は身体が衰弱し切っていて、まともに歩くこともできない状態でしたので、学友に介添えしてもらって実家に向かうことにしました。私の親戚が己斐(こい)にありましたので、そこを経由して実家をめざしました。

 鉄道の無蓋貨車に乗せてもらって己斐駅(現西広島駅)まで行き、己斐の親戚で一泊させてもらって、翌日学友に支えられながら歩いて山を越え、実家にたどり着きました。どうしても親の顔を見たい、我が家もこの目で見たいという切羽詰まった思いが、なんとか辿り着かせたように思います。

 我が家の者は、何度か千田町の高等師範付近まで私を探しに行ってくれていました。しかし、大変な混乱状況ですから誰がどうなっているのか、何も分からなかったようです。私はてっきりもう駄目だったのだろうと思われていました。ですから私が帰った時の家族の喜びようは大変なものでした。

 私が家に帰り着いたのは、長崎にも原爆が落とされた後のことでした。

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 私の実家は爆心地からの距離が10kmを超えるほどありましたし、間に小さな山があってその陰になる方角でした。それでも家の窓ガラスが一部割れたりする被害が出ていました。私の肉親は幸いにも、両親、きょうだい共に被害を受けた人はいませんでした。ただ、姉の夫が広島の軍隊にいて原爆死していました。それからまだ中学生だった従兄弟が一人、建物の下敷きになって焼け死んでいました。

■高熱発症を乗り越えて

 原爆が落とされた半年後の2月(1946年)になって、私は高熱を発しました。体温が40度ぐらいまで上がり続け、うわ言を繰り返すようになりました。家族の者も、これで最後ではないかと諦めてしまうほどでした。それがなんとか一命をとりとめることができ、その時以来の私は、これを機会にこれからは第二の人生にして生きていこう、という強い気持ちを持つようになっていきました。

 その後、私は広島文理科大学に進学して、昭和27年(1952年)に卒業して、京都にあった会社に就職しました。

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 就職した当座も体調はあまりよくありませんでした。まさかこの歳まで生きさせてもらえるとは夢にも思っていませんでした。自分の余命はどれぐらいかなどと深刻に考えていたわけではありませんが、漠然とはそう長くは生きられないという思いが秘かに気持ちの中にあったのだと思います。そういう心境は無意識の内にも自分の日々の生活に表れていたのではないかと思います。「お前の言うことはちょっと一風変わっている」と他人からよく言われました。そして私の被爆のことを知っている人は、そういうことが関係しているのではないかと薄々感じていたようです。自分ではそのようには思っていなかったのですが。

 私は元々子どもの頃から体は丈夫な方ではありませんでした。それでもスポーツは大好きで、体が弱いくせによくスポーツをやってきました。子どもの頃は9人制バレーを、大人になってからは山登りも、就職してからは会社内の部活動作りにも積極的に関わってきました。そういう姿が一見健康そうに見えたのかもしれません。また、原爆の影響をできるだけ小さくすることに少しは役立ってきたのかもしれないと思っています。

■被爆体験談話の真意を忖度して欲しい

 広島や長崎の被爆者たちの談話が数多く発信されてきました。異口同音に戦争は嫌だ駄目だと言っています。それは平和を望むために言っている言葉で原爆投下を容認したものではありません。その証拠に歴代の広島市長は「被爆体験を人類全体の遺産として継承していかなくてはいけない」と訴え、「核兵器廃絶」を叫び続けています。

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 広島の平和公園の慰霊碑に「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返さしませぬから」と刻んでありますね。日本人はその真意を読みとっていると思います。外国の人はどういう読み方をしているのでしょうか。彼等は「日本人は戦争を始めて悪いことをしたと認めているのだ」と受け取っているふしがあります。

 故湯川秀樹博士は平和の尊さを内外に熱心にアピールされていました。私の手許に博士の率直で厳しい詞があります。

「まがつびよ ふたたびここにくるなかれ 平和を祈る人のみぞここは」

広島平和公園の慰霊碑

■アメリカの人々

 現役時代、アメリカに駐在していた時、テレビでトルーマン元大統領の回顧録がよく放送されていました。彼は「原爆はアメリカ兵50万、100万の命を救うためにやったことで絶対に間違っていない」と最後まで言い張っていました。それに対して、アメリカのある教会がトルーマンに手紙を送って、「日本への原爆投下はやり過ぎだったのではないか」と言いました。これに対するトルーマンの返事は大要「日本人のような野蛮人に対してやることはこれしかないんだ」というようなものでした。こういうことがアメリカの民意を代表していたように思うのです。特に在郷軍人会などは強硬でした。

 アメリカの民意もこれからは変わっていくと期待していますけど。

* * * * *

 広島の弁護士の人たちが中心になって2006年から2007年にかけて「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」というのが行われました。国際的な裁判に匹敵するメンバー選定、訴訟手続きを踏んで、検事、判事を揃えて行われたのです。被告は、アメリカ合衆国と、原爆の計画と実行に携わった人々個人で、ルーズベルトやトルーマンも真っ先に指名されていました。判決は「原爆投下を計画し、実行した人々と政府に、人道に照らして、国際法に基づいて、有罪の宣告を下す」というものでした。もちろん判決結果が拘束力を持つものではありませんが、私が強く感じたのは、憤懣を持ちつつも多くの日本人が沈黙している中で、こういう実際に目に見える形で行動する人がいるということでした。とても感動しました。

左から判事団のハインズ教授・バルガス教授・家正治教授、アミカスキュリエの大久保賢一弁護士(日本国際法律家協会ホームページ)
左から判事団のハインズ教授・バルガス教授・家正治教授、
アミカスキュリエの大久保賢一弁護士
(日本国際法律家協会ホームページ)

 事務局をしている弁護士の方に「裁判長をアメリカ人(レノックス・ハインズ)にされているけれど、よくやりましたね。すんなりできたことなのですか?」と尋ねました。実際は簡単なことではなかったようです。だけど最後にはそれを引き受けるアメリカ人がいたということも、それはすごいことだと感じました。アメリカについてはいろいろありますけど、それでも奥の深さを持った国なのではないかと思ったものです。

■卒寿を前に

 私は今89歳です。来年は卒寿、90歳を迎えます。昨今の身体の衰えを思いますと、もうそう執行猶予の期間も長くないのではないかという気もしますけど。これまでの人生、本当にいろんな人との出会いがありまして、助けてもらってきました。本当にありがとうごさいました。

 このたび、京都「被爆2世・3世の会」との出会いもありました。我が国の将来は皆様の双肩にかかっています。順風に乗り、逆風に耐えてどうか頑張って下さい。
                           (了)





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