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●被爆体験の継承 61

平和のために核兵器廃絶を訴え続けてきた

尾畑正勝さん

2017年11月6日(月)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

尾畑さん

■戦乱に明け暮れた時代

 私は大正6年(1917年)の生まれで、今年(2017年)の12月15日で満100歳になります。私が育った昭和の初期は戦乱に明け暮れた時代でした。昭和6年の満州事変から始まり、翌年の上海事変、昭和12年7月に始まった日中事変から第二次世界大戦となり、昭和20年(1945年)8月15日まで戦争が続いたのです。

 私は飽浦(あくのうら)尋常高等小学校(現在の長崎市立飽浦小学校)を卒業して、経理学校に1年ほど通い、昭和9年(1934年)、16歳の時に三菱造船所で働き始めました。私の父が同じ職場で働いていたので、その勧めによるものでした。

■満州の軍隊生活

 三菱造船所で4年働いた後、昭和13年(1938年)、20歳になった時に徴兵検査で甲種合格しました。その年の秋に、長崎市の職員から「翌年の3月16日に奉天満州リ部隊に入隊すべし」と書いた文書を受け取りました。そして3月9日までに広島の西練兵場に集合するよう命令が届いたのです。汽車で広島に向かい、広島からは輸送船に二晩揺られて旧満州(現在の中国東北部)の大連に行き、そこからは貨物列車に雑魚寝して奉天(現在の瀋陽)に着きました。

 私の配属先は奉天独立守備隊第一大隊第四中隊でした。敬礼の仕方、駆け足、実弾射撃などの基礎訓練が繰り返され、「敬礼が悪い」などと言ってよく怒られたり叩かれたりしました。東北地方から一年先に入隊していた自分よりも若い「先輩兵」から、「お前たちは九州男児って威張るな」と、八つ当たりされたものです。

 その後、関東軍無線教育隊で研修を受け、モールス信号の打ち方、暗号の組み立て・解読などを学びました。無線教育隊で半年ほど過ごした後、昭和14年12月にいったん元の部隊に戻り、半月もせずにまた別の部隊に通信兵として派遣されました。そこは日本側が「匪賊」と呼んでいた抗日ゲリラを討伐するための部隊でした。1個中隊を二つに分けて、50〜60人で、現地の警察隊と一緒に山中を捜し回りました。しかし実際に「匪賊」と遭遇したことはありませんでした。

 軍隊の行動を除くと旧満州での生活はなかなかいいものでした。南満州鉄道はただで乗れるし、床屋に行ったら耳垢まで取ってくれるしと。馬賊こそ見たことはありませんでしたが、編んだ髪を背中に垂らした現地の男性はよく見かけました。最初の部隊にいる時一度だけ戦闘がありましたが危険な目に遭うほどのことはありませんでした。

 そんな満州での生活を続けていたのですが、両親から日本に帰れとしきりに手紙が来てしぶしぶ長崎に戻ることになりました。

* * * * *

 あの当時、日本が負けるなんて誰も思っていませんでしたよ。ですが、結果的に私は戻ってよかったのです。

奉天の独立守備歩兵第一大隊の頃
奉天の独立守備歩兵第一大隊の頃
■三菱造船幸町工場

 昭和17年(1942年)5月に帰国し、また元の職場の三菱造船所に勤めることになりました。あの頃は仕事が終わった後、好きな映画を観に行くのがとても楽しみでした。銀幕には勇ましい戦争ものがたくさん映し出されていました。ただ、それも昭和18年頃までです。戦況が厳しくなってくると、残業や徹夜が増えてきて、定時で帰れることなどはほとんどなくなっていきました。

 昭和17年の秋に勤め先が三菱造船の幸町工場に変わりました。幸町工場は爆心地から1.5kmほどの距離の所です。ここでは兵器の部品作りが主な仕事でした。当時はまだ米軍の空襲はなく、兵器産業に携わる私たちの作業も順調に進んでいました。しかし、仕事量が多くなって、毎日が徹夜や夜勤交代ばかり、そうしないとこなせないほどの仕事の量になっていました。

 昭和19年(1944年)からは人手不足を補うため旧制の各専門学校、中学校、女学校からたくさんの生徒たちが学徒報国隊としてやって来ました。その年の終わり頃には強制連行された朝鮮の人たちも40〜50人ほどやって来ました。

 私が勤めていた幸町工場の一角には俘虜収容所がありましたが、そこにどれくらいの人たちが居たのかは知りませんでした。

* * * * *

 この頃、米は配給制でしたけど、ほとんど手には入りませんでした。日本語の話せる朝鮮人の一人がよく話しかけてきました。「戦争が終わったら、朝鮮に帰って、おいしい朝鮮米を腹いっぱい食べたい」と言っていたのを印象深く覚えています。

 その内、次第に食べ物がなくなり、衣類がなくなり、履物もなくなっていきました。靴もなくなったので、どうしようもなくて、私たちは工場でも下駄履きで仕事をするようになっていました。

 私は母の実家の畑を借りて、春はジャガイモ、秋はサツマイモを育てていました。おかげでそれほどひもじい思いをすることはありませんでした。昼飯は弁当持参でしたが、残業の時には食事が出ました。大豆の搾りかすが混ぜられたご飯に、おかずが1品か2品ついているだけのものでした。

■戦況の悪化とともに

 初めの頃は日本の戦況もよかったのですが、だんだんと資材不足と物資不足とで工業生産の遅れが目立つようになっていきました。米軍が攻勢に転じるようになると、南太平洋にある日本の島々は次々と占領され、それを基地とされて、昭和20年(1945年)に入ると東京、大阪、名古屋、福岡などの工業地帯が空襲を受けるようになりました。各都市が空襲を受けていても、長崎は米軍機が西方向の山の上を素通りして北進していきました。

 間もなくすると大村の航空廠が爆撃を受けて、炸裂する音がわずかですが聞こえてきたりするようになりました。そしてそんなことが度々続くようになりました。

 昭和20年4月には遂に長崎市も空襲を受け、多数の死傷者を出しました。6月には沖縄が占領されました。7月の末には三菱造船所幸町工場の裏手を流れる浦上川にも爆弾が落とされました。その時一帯は黒煙でしばらくは何も見えないほどで、煙が消えると、川にはたくさんの魚が浮いていました。その魚を船で捕ろうとする人もいて、怖さよりもひもじさが勝っていたような時代でした。

 この頃から「いよいよ長崎もやられるばいなあ」と思うようになりました。私の家は三菱の工場に近いので家族のことをいつも心配するようになっていました。

■8月9日午前11時2分

 8月8日には、私たちの間にも「広島が一発の爆弾で全滅した」との噂が入ってきました。原子爆弾だとはもちろん誰も知りません。私は7年前、兵役で満州に行く途中広島に立ち寄っています。長崎とは違って平野が広がり、大きな街並みだった印象が残っていました。あの広島が「一発で全滅するごたっ(全滅するような)爆弾があるもんか」と、とても信じることはできませんでした。

 この原子爆弾が翌9日、長崎に投下されようとは誰が予想したでしょうか。

 その日、8月9日はいつものように出勤していました。同僚の工員と「今日も空襲があっとやろか」「警報が鳴るやろか」と話しながら、いつものように艦艇のプロペラの穴開け作業をしていました。しばらくして警戒警報の長いサイレンが鳴り響きました。警戒警報は空襲警報に変わって、報国隊と女子挺身隊は工場外の井樋の口の小高い丘に掘ってある防空壕に避難しました。私は「どがんしようか」と迷いましたけど、工場に残ることにしました。

 しかしいつまでたっても敵機は来ません。やがて空襲警報は解除され、11時頃になって、「あと1時間したら昼休みたい」とふかしたジャガイモの弁当を楽しみにしながら、また作業を続けていました。

 11時を過ぎた時、突然、東の方がピカッと光りました。目の前が青っ白くなるものすごい閃光でした。とっさには、九州電力の変電所の事故かと思いました。しかしあまりの光の強さに「なんか、大変なことが起きたばい」と思い、とっさに地面に伏せました。直後にドーンとにぶい音が響いて、工場のスレート屋根や壁が砕け、粉々になってばらばらと私の頭、背中、足の上に落ちてきました。瞬間、「このまま死ぬんじゃないか」と思いました。同時に、妻や生後間もない長女のことが気になりました。「家は大丈夫やろか」と。

■防空壕の被災者たち

 1分ぐらい経って、起き上ってみると、工場の屋根はすっかりなくなっていて、空が丸見えでした。壁もなくなっていました。工場の外も丸見えで、周囲の家々はみんな吹き飛んでなくなっていました。工場のモーター音も止まって、あたりはやけに静かでした。

 しばらくそのままにしていましたが、立ち上がっていいのか、そのままでいた方がいいのか迷いました。また次の攻撃があるかもしれないと不安な気持ちになって、起き上ってゆっくりと周囲を見渡しました。今まで近くで仕事をしていた仲間は一人も見えません。工場の屋根、外壁のトタンはみな吹き飛ばされて、ただ鉄柱と器械だけが残って、小さな工具類があちこちに飛び散っていました。

 このままここに居てはまた後が危ないと思い、早く外の防空壕に行こうとしました。するとどこに居たのか富永さんという工員が私を見つけて、「早く外に行こう」と言ってくれました。その人と一緒に外に向かって駆け出しました。スレート瓦とか小さな何か分からないものが地面いっぱいに飛び散っていました。その上、私たちが履いているのは靴ではなく手作りの下駄です。なかなか思うようには走れませんでした。外に出る時に見た、工場の正門近くの総合事務所や守衛室の木造家屋などはぺしゃんこにつぶれていました。

* * * * *

 防空壕に着いてみると、もういっぱいの人が避難して来ていて、中は真っ暗でした。奥の方でうめき声がし、私が入ろうとすると痛い痛いと叫ぶ声がします。暗いので、どんな人がいるのか分かりませんでしたが、大怪我、大火傷の人たちばかりのようでした。うめき声が、あちこちの防空壕から聞こえていました。

 防空壕に着いて一番先に気付いたのは同じ工場の同年の江口君と、2歳年上の中山さんでした。この二人は警戒警報発令と共に学徒報国隊を連れて防空壕に来ていたのです。警報は出たけど空襲はなかったので、しかもあまりに暑いので上半身裸のまま外に出ていました。そこへ原爆を受けたものですから、チリ紙のような薄い皮膚がぺろっとむけて垂れ下がっていました。皮膚の下の牛肉の赤身のような肉がむき出しになっているのです。顔、身体一面に、露出した部分は腫れ上がっていました。彼が私に「俺は、どうかなっとらんか」と尋ねてくるのですが、私もどう言っていいのやら困りました。「えらい体の腫れとっねえ」と言ってやるのがやっとでした。その後この二人は、2〜3日後に亡くなったと聞きました。

銭座国民学校付近上空から三菱造船幸町工場方面を望む。(米軍撮影:長崎原爆資料館所蔵)
銭座国民学校付近上空から三菱造船幸町工場方面を望む。
(米軍撮影:長崎原爆資料館所蔵)
三菱造船幸町工場(米軍撮影:長崎原爆資料館所蔵)
三菱造船幸町工場(米軍撮影:長崎原爆資料館所蔵)

 一瞬にして浦上地域一帯は一面の焼け野原となったのですから、私たちは何をどうすればいいのか戸惑うばかりで、ただうろうろするばかりでした。そうしていると誰言うとなく、怪我をした人は大学病院に行けということになって、何人かで行きかけました。ところが、先の方から大学病院も燃えているぞと言ってきましたので、また元の所をうろうろするばかりでした。

 この防空壕の目の前に三菱病院の分院がありました。勤務する外科医の福田先生も来合わせていて、まだ火は出ていなかったので、3、4人の人たちと薬を取りに行きました。中身もよく分らぬまま手当たり次第に薬を取ってきました。その薬もすぐに無くなり、もう一度行こうとしましたが、瞬く間に火が燃え広がるようになり、結局二度とは行くことができませんでした。

* * * * *

 幸町工場には鋳物工場があって、長崎刑務所から何十人かの囚人が来て仕事をしていました。その囚人の多くも原爆のため亡くなりました。井樋の口の聖徳寺上り口の所で、看守が原爆で大怪我をしていました。囚人の方は怪我もなく元気だったので看守の看病をしていました。あのどさくさでの中で、囚人は逃げようと思えば逃げられたのでしょうけど、看守はうわ言のように逃げるなよ、逃げるなよと何回も言っていたそうです。

 その近くでは、倒れずに残った電柱が瞬く間に燃え出し、周りも火の手が強くなっていきました。

■浦上川を渡り切って家にたどり着く

 このままここに居ては火災が燃え広がって自宅に帰れなくなります。私の家の近くの三菱の飽の浦寮から通っていた少年工が「寮に帰りたい」と言い出したので、同じ方向だし、一緒に飽の浦方向に向かうことにしました。もう一人も加わって3人一緒になって、半壊した兵器工場の中を走り抜け裏手の浦上川に出ました。ちょうど干潮だったので、製材所のいかだの上に乗って浦上川を渡りました。

 くすぶっている箇所を飛び越えながら竹の久保に渡り切り、稲佐の商店街を通って稲佐公園に出ました。このあたりも家とか建物はつぶれていました。太陽の熱と、瓦の焼けた熱で足がとても熱く小走りで通り抜けました。稲佐山の中腹から飽の浦の上の方に出て、途中で2人と別れて、私はやっと我が家に帰り着きました。

 家についてほっとしたら、背中がひどく痛みました。腰のあたりに切り傷がありましたが、他に怪我はありませんでした。奇跡的に軽傷で済んでいたのです。

 私が家に帰るまでは、浦上は全滅だから、もし私が今夜帰らなかったら「明日は探しに行かんばよ」と母が私の妻に話していたそうです。妻に湯で背中を洗ってもらったのですが、怪我をしているので背中がひりひりしてたまりませんでした。

 我が家は四間ほどある家でしたがが、その内の一間の床が落ち、東と北向きの方角はガラスが全部吹き飛ばされていました。

 私が家に帰り着いた後、浦上方面では何かが大音響とともに爆発していました。

■身近な人たちの安否

 翌日の早朝、母は大橋にいる母の妹(私の叔母)一家のことが心配になり、福田にいる義妹と一緒に出かけていきました。大橋は爆心地近くですから叔母の家は棟続きの馬小屋と共に倒壊し、焼けてしまって何も残っていなかったと言っていました。でも叔母たちは子どもたちを連れて岩屋山の近くに避難して無事でした。家に取り残されていた者が使用人と共に7、8人ほど亡くなったと言っていました。商売用だった馬も多数焼け死んでいたそうです。

 8月の末頃になって私も叔母の家があった一帯を見に行きました。その頃は浦上地区より北はほとんどが田畑でした。今とは随分状況が違って人家は少ないところでした。だから広島に落とされた原爆より長崎の方が威力は強かったのに、被害は長崎の方が少なかったのです。そういうことを長崎の人でも知らない人がいるんですね。

* * * * *

 私のすぐ下の妹は三菱電機に勤めていて、原爆が落とされた日は家に帰ってきませんでした。みんな心配しましたが、翌日帰ってきて無事を喜び合いました。

 当時の私の家族は、私の両親、私と妻、それに私のまだ0歳の長女、そして私の妹3人と弟の9人でした。その内私の父は広島の三菱造船所に転勤していました。8月6日、広島で原爆に遭ったのですが、工場からは離れた寮に居て無事でした。私の弟は軍隊で南方方面に行っていました。ですから長崎の我が家に残っていたのは私も含めて7人で、男は私一人でした。その家族は、私が怪我をしたぐらいで皆無事でした。私の怪我もたいしたことなく日が経つにつれて良くなっていきました。

* * * * *

 同じ職場に同じ年の永田君という人がいましたが、夜勤明けで現在の岩見町あたりの家に帰って寝ていたところに原爆を受け死んだと聞きました。私の家の向かいのご主人は、私と同じ幸町工場で女子挺身隊を指導していて被爆し、その日は帰らず、3日ほどして帰ってこられました。怪我をした女子挺身隊の人を諫早方面まで連れて行ったり、救護活動をされていたそうです。見たところどこも悪くない様子でしたが、その後病気になられ、奥さんの実家がある佐賀県の鹿島に養生に行って、その地で亡くなられました。

 私の家の下の方にあった御厨さんという家のご主人は浜口町にあった三菱青年学校の指導員をしておられた人ですが、どこで原爆に遭い、どこで亡くなったのかいまだに分からないままになっています。

* * * * *

 私は、まだ戦争は続くだろうと考え、家に帰った翌日から自宅近くで防空壕を掘り始めました。8月15日、その日も汗を流しながら防空壕を掘っていた私に見知らぬ男性が声をかけてきました。「戦争はもう終わったですよ」と。思わず聞き返しました。「どっちが勝ったんですか」。男性は、「もちろん、日本が負けたんですよ」と答えました。私は「まだ日本が勝つかもわからん」と思っていたのです。もうがっかりでしたね。

 数日後、自治会長から「アメリカ軍が来て、女子どもはどうなるかわからんから避難させろ」と言われました、私は妻と0歳の長女を連れて、妻の親戚のある森山町(現・諫早市)まで歩いて避難しました。

■平和運動、語り部の活動にとりくむ

 戦後私は三菱造船所で労働組合活動にのめりこみました。一つの課の400人くらいの職場の組合の責任者になっていて、賃金アップを求めるデモなどではいつも先頭に立ってきました。そのことが原因で、昭和25年(1950年)に突然クビを言い渡され、解雇されてしまいました。母親からはボロクソに言われました。父親は三菱造船の内情をよく知っていましたから何も言いませんでした。私は何も悪いことはしとらん、人を困らせるようなこともしとらん、という強い気持ちがありましたので何も悪びれることはありませんでした。

 ただその後は苦労の連続でした。漁船に乗ったり、鉄工所に勤めたりして家族の生活を支えていきました。

 昭和56年(1981年)、64歳になった時に仕事を辞めました。そしてその年から平和運動に本格的に関わるようになりました。よその国が核実験をすると、その度に平和公園での座り込みなどにも加わってきました。

 私が原爆に遭ったのは27歳の時です。あの年の夏のことを覚えている限り、自分こそが伝えなければならない。そういう思いで語り部も今日まで続けてきました。長崎を訪れる修学旅行生やいろんな人たちに体験を語ってきました。日中は被爆地巡りをし、夜は宿泊先のホテルや旅館に赴いて原爆や平和のことを話してきました。

* * * * *

 あの時、幸町工場周辺の防空壕近くをさまよっていた人たちは、はたしてどれだけの人が生き残ったのでしょうか。長い年月の経った今、長崎の街は当時の惨状を見ることができないほど復興し発展していますが、今なお原爆後遺症のために毎年多くの被爆者が亡くなっています。長崎では昭和20年末までに7万4千人、広島では14万人の人々が亡くなったと聞きました。

語り部の場で、被災した長崎の写真を指差す尾畑さん

 被爆者もだんだんと年を取り高齢化しています。語り部の運動をしている人の年齢を見ても高齢の方々ばかりです。比較的若い被爆者はほとんど運動に参加しておりませんし、やがては被爆者は一人もいなくなります。生ある内にまだまだ若い人たちに原爆の実相を語り、平和の尊さを後世へ伝えていきたいと思います。そうして、日本だけではなく全世界の人々と共に核兵器のない平和な世界を作るために努力を続けていきたいと思っています。

 今年、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)にノーベル平和賞が贈られることになりました。とても嬉しかったです。そして、今まで私たちのやってきた平和運動が、ほんの一部の核保有国を除いて、世界に認められたのだと思いました。

 ノーベル平和賞のことも励みにして、これからもずっと平和運動を続けていくつもりです。

                       (了)





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