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●被爆体験の継承 62

原爆死を免れて

丸岡文麿さん

この体験記は、1990年10月18日、
丸岡文麿さんが京都生協支部平和学習会で語られたものです。
『京の語り部−45年目のヒロシマ、ナガサキ』
(京都原水爆被災者懇談会編・1991年5月26日発行)
から転載しました。
丸岡文麿さんは1999年9月4日、闘病の末永眠されました。
享年67歳でした。

 中東において、非常に危険な状態をはらんでいる時期に、「被爆の体験」「被爆者援護法」「戦争体験」の話をさせて頂く機会を与えられましたことをうれしく思います。

 私は広島で、中学一年のとき、原爆にやられました。爆心地から750メートル。ですから殆ど直撃と同じ状態でした。

 それから45年間、被爆者であるが故の、悲惨な生き方をしてきました。こうして生き残った被爆者とは、一体何でしょうか。まず、皆さん方に問いかけをしたいと思います。

ありし日の丸岡さん(左)
ありし日の丸岡さん(左)

■平和の中でも核被害の危険が

 1977年の夏、今から13年前、広島で「被爆者の実相に関する国際シンポジウム」が開催されました。世界各国から著名な学者、平和運動家が集まりました。ノーベル平和賞を受賞されたノエルベーカー博士も来ておられまして、博士は開会のあいさつの中で、「今や広島・長崎を体験した人たちだけがヒバクシャではない。全世界の人類がヒバクシャである」と提言されたのです。その意味を皆さん、お分かりでしょうか。

 現在、世界で数ヵ国が核兵器を持ち、核実験を毎年どこかでやっています。その結果、核のホコリ、粒子が気流に乗って、地球上をずうっと回っているのです。いまこの頭上においても放射能の粉塵が降っているかも知れない。それを浴びたら、広島で被爆したぼくと同じように、皆さんも「ヒバクシャ」になるのです。

 今から4年前、ソ連のチェルノブイリで、原子炉の事故による放射能漏れがありました。放射能は広範囲に流れ、すでに一万人近い人が亡くなり、十数万人の人たちが生命の危険な状態に置かれている。そして三十数万人の人たちが今住んでいる所から避難しなければならない環境にある、といわれています。

 ここから直線距離で80キロくらいの敦賀に、関西電力の原子力発電所があります。もしそこでチェルノブイリと同じような事故が起こったら、京都は瞬く間に放射能の粉塵の中に巻き込まれてしまいます。一見、平和な何でもないような環境の中にも、我々の周囲にはそうした危険が常に同居していることを考えていただきたいのです。(この語り部から3カ月後に、現実に美浜原発の一次冷却水の細管破裂事故が起こる)

■勉強のない中学生

 私が原爆にやられた当時の中学生(旧制)は、勉強する時間は全然なかったのです。「決戦教育措置要綱」というものができまして、中学生は向こう一年間勉強しなくてもよい。君たちは農作業に出たり、軍需工場に行って兵器を生産すればいいのだ、という法令が出たわけです。私たち下級生は麦刈りに、建物疎開の作業につきました。空襲があったとき、類焼しないように家を壊すのです。皆さんもご存知の御池通りや五条通り、昔はあんな広い通りは京都にはなかったそうです。密集した家を壊して、爆撃から街を守るためだったのです。完全なる戦争の遺物といってもいいでしょう。

 そのように学校とは名ばかり。軍国主義教育にがっちり組み込まれ、天皇崇拝によって人間の生き方まで規制され、もうまったく自由とか、人権とか、民主主義、そういうものはかけらもなくなっていったのです。

 いま、我々はこうして自由であるから、マイクを持って天皇の批判も、政府の批判も勝手にしゃべることができる。自由だからです。

 しかし、今でも地球上において、こうして自由にしゃべれない国はいくらでもあります。

 この自由とは何でしょうか。自由が規制されたらどうなるのでしょうか。言論の自由の崩壊、報道の自由の規制、教育の自由も信仰の自由も、そして恋愛の自由もなくなってくる。まったく戦前の暗黒の社会になってしまうわけです。

 天皇批判をしたら不敬罪で警察に引っ張られてゆく。報道は真実の姿を知らせなくなる。戦時中、大本営というものがありました。それによって国民は踊らされ、軍隊の言うがままに引きずられていったのです。

 例えば、ミッドウェー海戦で、海軍がほとんど全滅しても、勝利だと報道し、また、戦争に抵抗した知識人や日本共産党の人たちは、そのことで弾圧され投獄されていった。そういう悲しい歴史があるのです。人間形成においてもっと大事な学校教育も、戦争という一つの形態に組み込まれ、軍国化の渦の中に巻き込まれてしまうのです。

 機会が均等に与えられた教育であってこそ初めて人間は自由な発想ができ、自由な発言、自由な行動ができる。それらが全部崩壊してしまって人間らしい生き方ができるでしょうか。そうした自由が?奪された昭和20年までの日本は、最低にして、最悪の哀れむべき姿であったと言えるでしょう。

 私たちが中学生の頃には、女学生と一緒に歩いたり、話をしてもいけなかった。上級生に見られたら、その場でこっぴどく怒られたのです。少年の我々には恋もできなかった。だから、女の人と話すのが下手ですし、今でもまだ躊躇します。いや、ほんま!!笑わないで下さい。

 そういう成長し切れない人間が戦争で生まれてくるのです。国家統制の中で、国民は弾圧され、我々は身の回りの羽根も手足も取られ、丸裸にされてしまう。そういう時代になってしまうのです。

■チョコレートつきビラ

 昭和20年8月6日朝8時過ぎ、南の方から一機のB29が北上してきました。当時私たちはB29が来るのが楽しみだったのです。

 不謹慎な、と思われるでしょうが、それにはわけがあるのです。B29が来たら、時々落下傘を落とすのです。ふぁーっとね。その落下傘の中にはチョコレート、ガム、ノート、エンピツ、万年筆などが入っているのです。

 当時の日本には、もう国民が最低の生活をする物資もなかったのです。米なんて、あのころの国民一人、一日の配給は二合五勺なんです。その二合五勺も確実に配給されない。2ヵ月も3ヵ月も遅配が続くのです。魚はイワシの頭も見ることができない。肉はウサギ、ニワトリを飼って食べていたのです。衣服はキップ制ですが、キップはあっても買う衣服がなかったのです。道端の草まで食べて生命を維持し、戦争に勝つために国民は我慢していたのです。

 しかし、我々のまわりには、生産された物は確かにいくらでもありました。米も野菜も、牛もいれば魚もとっていました。西陣では織物も織っていました。だがそれらは全部、軍隊、兵隊さんために、ということで取り上げられてしまったのです。ですから、B29から落とされるチョコレートなんてものは、我々にとっては「おとぎの国からのプレゼント」−そうした気持ちだったのです。しかし、万年筆に時限爆弾が仕掛けてあったりして、それからは警官・憲兵が来て全部没収してしまうのです。その目を盗んで拾って歩くのがまた楽しかったのですね。

 その頃B29が宣伝ビラをまいていました。

 「日本のみなさん。もう日本には何もないでしょう。食べる物も、着る物も、兵器さえもうないじゃないですか。アメリカは今、南方の遠い島から操縦しなくても、飛行機がひとりで飛んでくる。そして日本を爆撃することができます。早く戦争をやめて、日本も自由な民主主義の国になって下さい」― そういうビラをどんどんまいちゃうんです。国民の脳裏の中に俗にいう反戦思想を植え付ける、そして早く戦争を終わらせる手段だったのです。しかし、悲しいかな、我々の周辺には、たとえ戦争がそういう悪化してゆく状況にあっても、それへの対応は全然なされなかった。もう沖縄までアメリカが攻めてきている。その頃日本で一番大きな戦艦大和が撃沈されても、まだ日本は勝利に向かっているのだ、というような報道がなされていたのです。

 1938年に、「国家総動員法」が発令され、国民は、すべて何もかも国に協力しなさい、という法律ができました。だから老若男女、生きとし生けるもの、すべての人と資源が戦争に動員されていったのです。

■警報解除下にエノラ・ゲイが

 8月6日、朝8時15分、B29から2個の落下傘が落とされました。不思議なことがあるのです。当日7時頃、空襲警報が出ました。その頃空襲警報が出ると学校に行かなくてよかった。しかしすぐ解除になり学校に行ったのです。8時15分、真夏の太陽が照り付ける中、銀色に輝くB29、エノラ・ゲイが飛行雲を引いて、広島上空に侵入してきました。

 何故でしょう、空襲警報のサイレンが鳴らないのです。防空頭巾はかぶらない、防空壕にも入らない、人は街を歩いている。我々中学生は建物疎開の現場に入っている、大量殺人の条件が全部出揃っていたのです。

 一時間前に出た警報が、何故この時間にサイレン等によって市民に伝達されなかったのか。20数万人の人間が、一瞬に死んでいった原因が、ここにあるといっても過言ではないでしょう。

 今から5年前、アメリカに3週間、被団協の方々と平和行脚に行きました。その時、ワシントンで、保存されていたエノラ・ゲイと再会しました。

 40年前が、昨日の出来事のように脳裏によみがえってきました。感情も、理性も忘れて、思い切りエノラ・ゲイの機体を殴りつけました。手から血が流れました。誰もそれを止めることはできませんでした。

 最後に大きな声で

「エノラ・ゲイをぶっこわしてしまえ!!」

と怒鳴って帰ってきました。

 相生橋のふもとにある産業奨励館の上空、600メートルで炸裂した原爆は、広島の街のすべての生命、音を奪ってしまいました。そして、広島の街は消えていったのです。

 校舎の下敷きになって意識を失い、2、3時間たって天井を破って外に出ました。焼けつくような夏の太陽が皆既日食を迎えたように、真っ暗な世界でした。しばらく茫然としていると、私の隣の席の宮野君が、天井から落ちた大きな梁に首を挟まれているのです。

 「丸岡君、助けてくれ!!」と叫んでいるのです。助けようと思って、一生懸命天井の梁を動かしたのですが、でっかい梁ですから、13歳の少年ではビクともしません。その時左手に力が入らないのです。見ると径15センチ、幅8センチくらい肉がごっぽり取れて、骨が出ていました。タオルを裂いてそこに巻き付けました。

 だんだん火が燃え移ってきた時、彼が、「もう君がここにいたら、ぼくと一緒に死んでしまう。逃げてくれ」と言うのです。

 子どもなのです。命が惜しい。彼を見捨てて逃げていきました。確実に焼け死ぬであろう、火はもうそこまで来ているのですから。

 そして逃げていく私の後ろ姿を、じーっと見つめているのです。ものすごく綺麗な目でした。それから45年たった今でも、彼のあの目が脳裏に焼き付いてはなれません。

 グランドに逃げました。服を着ている人は一人もいないのです。

 幽霊、本当ですね。ゆうれい、お化けの絵を小さい時から見ましたが、ゆうれいは全部、手を前にこうしてぶらさげているのですね。体一面焼けただれ、女の人は、皮膚と一緒に髪が抜けて頭の前に垂れ下がっているのです。モンペもパンツも焼けてしまって、男女の区別さえできない程でした。焼けた皮膚からは黒い血が流れ、ボロボロなのです。

 地獄絵図なんてものではありません。

 「痛いよー、痛いよー、お母さん!!」と泣いているのです。

 二度とあってはいけない、あらしめてはいけない、あの残忍な絵図は、少年の私にとっては人生の生き方を変えてしまうほどの衝撃でした。

 広島に投下された原爆の爆風は、爆心の近くでは風速150メートルといわれ、二階建ての家なんか、50メートルも吹き飛ばされたのです。

 爆風に当たった人たちは、目玉がカニのように5センチぐらい飛び出している。そしてお腹は妊娠10ヵ月ぐらいに膨れているのです。男性の睾丸はソフトボールのようにはれていました。

 6000度の熱に焼かれ、風速150メートルの爆風で、皮膚はボロボロになり、腹が妊娠10ヵ月になっても、水を求め、火のない方へ、一生懸命逃げているのです。一列に並んで逃げるその光景は、異様でした。

■冷たく淋しい人間の死・・・

 グランドで、毎朝一緒に汽車通学している栗本君に会いました。彼は、後頭部をやられ、穴が開いて、そこから脳みそが流れているのです。服には火がついて、くすぶっていました。そこへ教頭の桑田先生が大八車を捜してきて、動けない者を乗せて火のない方へ逃げていったのです。

 宇品の近くに御幸橋という橋があり、そこまで逃げて行ったとき、橋のふもとに、母親に抱かれた、まだ一歳ぐらいの赤ん坊が、火のついたように泣いているのです。

 教頭先生がそばにいって、「お母さん、一緒に逃げましょう」と声をかけました。ところが、母親はすでに死んでいました。たとえ、自分は死んでもこの子だけは殺してはならない、と胸に抱きつつ死んでいるのです。母性愛でしょう。

 その焼けて真っ黒になった母親の乳房を求めて、「おぎゃあ、おきゃあ」と泣いているのです。母親に抱かれた赤ん坊をとろうとしましたが、強く抱きしめていてとることができない。見捨てて、宇品港まで行き、そこから船で似島に収容されました。

 そこで重症の栗本君と別れました。彼は、戸板のタンカに乗せられていて、「栗本君、早く元気になって一緒に帰ろう」と声をかけたら「うん・・・」と小さくうなずきました。これが最期でした。

 4日後、広い倉庫の莚の上で寝ていましたら、「丸岡さん!!広島一中の丸岡さん!!」と私を呼ぶ声。それは栗本君の父親でした。栗本君は翌日の7日に死んだ、と父親から聞かされ、一本のベルトが形見として、父親の手にしっかりと握られていました。

 3日目ぐらいから、生きた人間の体にウジ虫が湧いてくるのです。びっくりしましたね。私も左手の傷にウジ虫が湧いてきました。その広い倉庫には、300人ぐらいの被爆者が寝ていて、朝、目が覚めると、数十人の人の顔に白い布がかけてあるのです。冷たく、淋しい人間の死でした。

 食事は、味噌雑炊が支給されます。食器がないので竹を切って使いました。数が足りないので、廻し食いです。ところが、私の横の人は、顔がめちゃめちゃに焼けただれ、顔一面ウジ虫がはいまわっている人です。その人が「ああ、うまい、うまい」と言って雑炊を食べて、竹の食器を私に廻してくるのです。半分ぐらい残っていました。ふと見ると、食器の縁にウジ虫がぞろぞろ這っているのです。とても食べられなかったです。

似島馬匹検疫所焼却炉跡。ここでたくさんの被爆者が火葬された
似島馬匹検疫所焼却炉跡
ここでたくさんの被爆者が火葬された
■準備されていた私の葬式

 似島に13日までいて広島に帰りました。日赤病院まで裸足でやっとたどりつきました。小京都と言われた広島の街は、消えて瓦礫の山になっていました。夕方になり、動かなくなった体で、病院の建物の陰に横たわっていました。

 どこからか、サンマを焼く、いいにおいがしてくるのです。一週間何も食べていない腹に、初めて空腹感が、ぐうーっと浸み込んできました。ところが、それはサンマを焼くにおいではなく、人間をやいているにおいだったのです。

 日が西に沈むころ、そのにおいをかぎながら、初めて「お母さーん!!」といって泣き出しました。腹は減るし、だんだん寒くなってくるし、やっぱり一番欲しいのは母親の愛情だったのです。

 今私に、90歳になる母親が健在です。広島にいます。目も耳も達者ですが、少々老人ボケがきています。それでも世界で一番好きな女性は母親です。文句なく、めちゃくちやに大事にします。母が死んだら、私も一緒に死にたいぐらい母が好きです。

 そして横になっているところへ、見知らぬおばさんが来て、
 「ぼく、そんなところに寝ていると、夜露にあたって体に悪いから、おばさんの家へいらっしゃい」と声をかけてくれたのです。

 一緒に行きました。比治山の裏にあって焼け残ったのですね。でも家は半分傾き、雨戸や障子はふっ飛んでいました。5年生と3年生の男の子がいました。おじさんは兵隊に行っていました。

 おばさんはタライに水を張って、真っ黒に焼けた体を、やさしく洗ってくれました。その手の暖かみは、母親と同じでした。医薬品はないから、傷口に赤チンをつけて、タオルを裂いて巻いてくれました。夕食は、おばさんが大事に残しておいたのでしょう。かぞえるほどの米粒と、サツマ芋の入った雑炊を食べさせてくれました。

 最高においしかったです。蚊帳を吊って、おばさんは私の横で寝てくれました。

 話をした内容はもう覚えていません。しかし、戦争中の食べ物もない時期に、見知らぬ人間に、温かい心ともてなしをして下さった行為に、小さな少年の心は、感謝以外の何ものでもありませんでした。

 翌朝、帰る時に、おじさんのシャツとズボンを着せてくれました。

 私は「おばさん、帰ったら米や野菜や、玉子をたくさん持ってきてあげます」と約束したのです。にっこりとうなづきました。

 両親は毎日広島市内の焼け跡を、私を探して歩き回ったそうです。14日の夕方、死んだと思っていた私の姿を見て、最初はゆうれいだと思い、次は私を強く抱きしめて、母は泣いていました。生まれて初めて母の涙を見ました。やっぱり温かい、私が想像していた胸でした。

 8月15日、私が帰らなかったら、葬式をするのだといって、中学校の焼け跡から白骨を拾ってきて葬式の準備までしていました。

■髪がゴボッと抜けて

 昭和20年8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して、第二次世界大戦は終わりました。いや、終わったのではなく、日本は完全に戦争に負けたのです。

 今まで、偽りの中で、勝った!勝った!と踊らされてきた国民が、初めて真実を知り、そして長い軍国主義の歴史の中で弾圧されてきたその手に、自由と民主主義を初めて握ることになりました。

 8月20日頃だったでしょうか、母が夕餉の支度をしていました。頭がかゆいのでかいたら、2センチぐらいに伸びた髪がパラパラと落ちたのです。あれっ!と思って、握って引っ張ったら、握っただけゴボッと抜けちゃうのです。びっくりして、「お母さん、来てくれ!!大変だ、ぼくの髪が抜けてしまう!!」と叫びました。

 母は冗談だと思いながらやって来て、髪の毛を引っ張ると、ズボッと抜けたのです。「これは大変だ」とすぐ村医者に連れていきました。医者に行って裸になったら、体一面血の斑点が吹き出ているのです。村医者は母に「これはダメです。手の施しようがありません」といったそうです。

 医者に見放された私を、父は「よし!!治してやる」と。とにかく、傷口の悪臭、そしてウジ虫が湧くのは、毒を吸っているからだ、早く毒を出さんといかんというわけで、それでゲンノショウコとドクダミ草を真っ黒に煎じて毎日飲ませました。こういう状態だから血も汚れているかも知れん、と鯉やニワトリを買ってきて、その生き血を飲ませる、それがなくなると、野山に行ってヘビを獲ってきて生き血を飲ます、くさくて嫌がるのを、時にはゲンコツまでして飲ませました。

 そうした両親の看病のおかげでしょうか。村に二十数人被爆者がいたそうですが、ほとんど全滅、私の他3人ぐらいしか生き残っていませんでした。しかもその死んでいった人たちは、私は爆心地から750メートルなのに、ほとんどが1キロ以上離れた所で被爆して死んでいったのです。条件の悪い所で被爆した私が助かったのは、やっぱり両親の1年あまりの、昼夜別なくの看病と愛情だと思います。

 昔気質の父でしたから、非常に厳格でした。親の言うことを聞かなかったら、必ずゲンコツが飛んできました。その父が、汗と泥にまみれて助けてくれたのです。ある日、父が、枕もとで、「文麿、広島の街は焼野原だ。人間も住むことができん。その中でお前は助かったのだ。これからの自分の命と人生を大切にせんといかん」と目に涙を浮かべて話してくれました。母は、つるつるになった頭をなでながら、「早く毛が生えるといいね。文麿は、やっぱり近所の子どもを泣かすぐらいの、元気のある方がいい。ガンボタレの文麿がいちばんいいよ」と泣きました。

 当時、原爆について言われたことは、「広島の街は、70年間草木も生えないし、人間も住むことかできない」とのことでした。しかし翌年の春、瓦礫のすき間からタンポポが芽を出し、クローバーが生えてきました。焼けて、枯れ木のように立っていた木から、小っちゃい芽が出てきました。うん、植物が生えるということは、土が生きている。土が生きていることは、人間も住むことができる。そして、焼野原の街に人々が集まってきました。焼け板やトタン板を集めてきて、雨をしのぐ程度のバラックを建てて、広島の街にまた人が住むようになったのです。

 一年余りの闘病生活を送りました。中学校に行けるようになった時、最初の日に母に、リュックに米や野菜、トリの肉、玉子などを詰めてもらって、一晩泊めて下さったおばさんの所に飛んで行きました。おばさんは、2ヵ月前に血を吐いて死んだと聞かされました。一年前、おばさんが私に声をかけてくれなかったら、コンクリートの下で、衰弱しきった体は到底助からなかったでしょう。私は悲しみのどん底に突き落とされました。

 首を梁ではさまれ、助けることもできずに死んでいった親友宮野君。

 いつも一緒に通学していた栗本君が、一本のベルトになった死。

 御幸橋のふもとで、死んだ母親に抱かれて泣いていた赤ん坊。

 そしておばさんの死・・・・・・・。

 ふと見たら、私が一番身近に感じ、生きていて欲しいと思っていた人たちが、そうして死んでいったのです。運命のはかなさ、といえばそうかもしれません。しかし、戦争がなかったなら、その人たちは死なずにすんだのです。

■次々と学友が死んでいった

 学校に行くようになって驚いたのは、1年生6学級には300人の学友がいたんですが、それが45人しか生き残っていませんでした。しかもその45人の友も、次から次へと死んでいったのです。ある学友は肝臓がはれて死んでいく。ある学友は甲状腺がはれて声が出なくなって死んでいく。ある学友は血を吐きながら死んでいく。その一人ひとりの友は、自分が何の病気で、なぜこうなったのか、ということも知らずに死んでいったのです。

 ふと、今日も主のいない空いた机を見ると、「もうぼつぼつ俺の番じゃないのか・・・」恐怖心、生への執着、そして死のむなしさ、とでもいうのでしょうか・・・それはもう、学校に行って勉強なんかする気にはとてもなれませんでした。

 300人の学友は、いま8名ぐらいしか生き残っていません。こうして死んでいった学友や、広島市民は、自分が死に至る原因も知らずにいってしまったのです。

広島一中(現国泰寺高校)の原爆死没者追悼の碑。犠牲となった367人の名前が刻まれている。
広島一中(現国泰寺高校)の原爆死没者追悼の碑
犠牲となった367人の名前が刻まれている。

 当時の広島では、原爆と名のつくものは一切タブーだったのです。だから「あなたは、こうこうで、原爆によるこういう病気なのです」と医者は言えなかった。それだけではありません。新聞・ラジオも原爆に関しては、プレスコードがひかれて、報道は禁止されたのです。

 戦後まもなく、比治山に、ABCCという原爆放射能研究所が設立されました。私もそこへ2回、無理やりにジープで連れていかれて、そこで皮膚をとったり、血をとったり、小便をとったりして検査をしました。しかし、いつまでたっても検査結果の報告がないので、ABCCに聞きに行ったのです。「返事はできない」と門前払いなのです。で、頭に来ましてね、友だち4人と呉のGHQ(連合軍司令部)に抗議に行ったのです。「広島で原爆にやられた人を、色々検査しているが、なぜ検査結果を本人に連絡してくれないのだ。友だちも原因不明でどんどん死んでいっている。治療方法、病名を教えてくれたら治すこともできるじゃないか」と。

 下士官クラスの軍人が会ってくれて、回答もなく、「君たちはもう二度と来るな、来たら君たちに責任は持てない」と脅迫に近い態度で追い返されました。これが民主主義の国か、と憤りをぶつけて帰りました。その後2回行きましたが、同じことでした。日本で原爆に関する、そういう形での抗議行動をしたのは、私たちが一番最初ではなかったかと思います。それは昭和25年ですから。

 検査結果を知らせない、ということは、じゃ、何の目的で被爆者を片っ端から、強引にABCCに連れて行って検査をしたのでしょうか。それは、核軍拡競争時代に入っている。核を使用した時、そこでどういうことが起こるだろうか、人間への影響、動物、植物への影響、また土の中、空気中においての放射能の被害などを、アメリカ自身が研究するための資料の蒐集をする機関だったわけです。

 広島市民は、ネズミやウサギと同じようにモルモット扱いにされていたのです。被爆者を治療してくれる機関ではなかったのです。被爆者が死ぬことなんか、どうでもよかったのです。

現在の放射線影響研究所
現在の放射線影響研究所

 そうした現状を、最初に気付き、問題に目覚めたのが、広島で生き残った30数名の医師たちでした。医師たちは、「このままの状態で放置されたら、これから何十万人と死んでいくだろう。何らかの方法で、被爆者の状況を記録として残しておかなければいけない」と市当局に強く訴えました。治療していくうちに、被爆者は一般の人より、異常な病気があることを発見していった。ガン、白血病、肝臓、甲状腺、小頭児等。医師たちは、これらを原爆症として位置づけ、医療の面から救済していったのです。

 また、被爆して体が弱く働けない人のために、貧困から生活面の救済まで、提言していったのです。戦後の混乱している時期、また原爆がタブーとされている時に、この二つの問題で市当局に働きかけていったのです。市当局もそれを受け入れ、カルテを大事にしだし、死亡診断書にも被爆の事実関係を4つに分類して記載するようになったのです。

 こうした広島医師会の画期的努力が、「原爆二法」の基礎になったわけです。広島医師会のあの努力がなかったならば、恐らく、我々が持っている、原爆手帳も、原爆二法も、できなかったであろうといっても過言ではありません。戦後の混乱した時期に、将来への展望、被爆者の実態を明らかにする努力をした医師たちは、高く評価されるでしょう。

■被爆者なるが故の差別

 広島の街も刻々と復興していきました。5年前の焼野原が想像できないほど、会社や工場ができました。街も明るくきれいになっていきました。しかし、世の中が平和になり、幸せになっていくほど、被爆者はだんだんと、苦しい奈落の底に突き落とされていったのです。

 それは被爆者なるが故に就職できない、被爆者なるが故に結婚できない、という、差別問題が起こってきたのです。

 6000度の熱に焼かれ、放射能を浴びた人間が、健康な正常者と同じように働くことが、どうしてできるでしょうか。そこで被爆者を採用するな、ということになるわけです。

 髪が抜け、体一面に血の斑点が出たり、体にウジ虫湧いたような人間と結婚したら、カタワしか生まれてきやしない。そんな奴と結婚したら、一生不幸を背負って生きてゆかねばならん・・・・・・と。就職に結婚に、被爆者は、原爆以上に恐ろしい差別を受けるようになったのです。カタワという言葉は、今は差別語として使えなくなっていますが、私自身、カタワ、と言って差別されてきましたので、使わせていただきます。

 考えてみたら、善い悪いは別として、戦争という目的のために、一緒に命をかけて戦い、「銃後」を守ってきた人間同志じゃないですか。それが、平和という時代になったとき、なぜ、被爆者だけが精神的に、肉体的に、そして、社会的に差別を受けなければならないのでしょうか。平和は、被爆者をいつしか社会の片隅に追いやっていたのです。

 私は、貝のように、人と接することも、人の前でしゃべることもできなくなりました。語り部なんて、とんでもないことでした。

 ある時、ある人と口論しました―「ぼくは、芝居小屋で演じるピエロではないんだ。被爆者に体験を語らせたいなら、なぜもっと早く、被爆者が、社会的、肉体的に差別を受け、苦しいどん底にあった時、被爆者の実相を知り、援助することを原点とした、原爆反対運動をしなかったのだ。被爆者問題が世界大会等でスローガンに取り上げられ、真剣に取り組むようになったのはやっと15、16年前からではないか」と。

 そうした状態で、怒りが段々と潜在化し、平和運動、核廃絶運動に出なくなったのです。私のそうした心を開いて下さったのが京都原水協の細井友晋理事長でした。

 当初に述べました1977年「被爆者の実相に関するシンポジウム」に、細井先生、伊吹先生、大釈さんと4人で出席しました。(細井先生はその後1991年1月、大釈さんは1990年10月に死去されました)

 その時、細井先生が、
 「丸岡さん、平和運動、原水爆禁止の運動というのは、理論ではないのだ。実践なのです。確かに、丸岡さんはそういういろんなことで苦しんできただろう。しかし、苦しんできたからと言って、逃避するのは卑怯であり、現実を見ていない。32年間、原爆症で苦しんできた、その苦しみを二度と人々に味わせないために、広島を三度繰り返してはならない、ということを、なぜあなたは訴えようとしないのか。そうすることが、あなたが今日まで生きてきた、一つの大事な証になるのではないですか」とおっしゃったのです。

 我々がやたらと声を大にしてしゃべるより、被爆者の体験の方がより訴える力の強いことを理解してほしい、とこんこんと話された時、初めて開眼したような、心の明るさを覚えました。

■死の宣告を受けて

 昭和39年(1964年)6月、ある朝突然意識不明となり、救急車で病院に運ばれました。脊髄の中に放射能の影響が残っていたのです。2日目に医者が妻に「もうダメです」と死の宣告をしたそうです。

 物が見えなくなる、しゃべることもできない、水一滴飲むことができない、大小便も自力ではできない、手足も動かなくなってくる。まったく植物人間になってしまいました。

 こうした状態が半年も続きましたが・・・、医者も薄情なものですね、ダメな患者は手にも触ってくれない。病院も「もう入院していても同じことだから連れて帰ってくれ」というのです。

 妻は、「わかりました。先生が助けてくれないのなら、私が助けます」と献身的な看病をしてくれました。当時妻の給料は15,000円、ヘルパーを頼むこともできません。朝は、6時に病院に来て食事をさせ、大小便をとって御池にある会社に行く。昼はまた食事をさせるために病院に来る。仕事の帰りに病院に寄り、食事、下のものの整理、体を洗い、動かぬ体をマッサージして、歩いて30分かかる6畳のアパートに帰っていく。

 夜10時頃から、彼女は近くの本屋さんの帳簿づけを始めました。15,000円では病院代はおろか、食べることもできない。みじめなものでした。民生委員が来て、生活保護をすすめました。私は、しゃべれない口を動かして、「絶対に受けるな、お前が倒れたら受けよう」と反対しました。

 そしていま、私が民生委員をしているのですから、人生の巡りあわせも不思議ですね。自分の闘病生活の経験が、いま大いに役立っています。ある日、妻に「いまなら、君も若い。新しい人生の道を選ぶこともできる。これ以上治らないぼくの看病を君にさせるのは残酷だ。別れよう・・・」と言ったのです。すると妻は笑って言いました。「分かりました。あなたが元気になって、社会復帰できたら、別れてあげましょう・・・」と。

 「よーし、見とれ、絶対に俺は生き返ってやる」と決意して、血のにじむような、リハビリが始まりまた。物を見るとゴーストになる視覚の矯正、アイウエオからの発声の訓練、頭痛に耐える気分転換の仕方、自力でできる大小便の繰り返し、手・足を動かすことへの挑戦。5年間、肉体と精神力の闘いの日々でした。左半身のしびれ、視力障害、頭部の激痛の後遺症は、人間として生きることの喜びも、悲しみも奪ってしまっていました。

 やっと、ステッキをたよりに歩けるようになり、退院しました。

 5年ぶりの畳の上、やっぱり最高でした。死ぬる時は、畳の上が一番です。ところで、たちまち、妻の稼ぎだけでは生活できなくなったのです。

 履歴書をせっせと書いて、毎日会社の門をくぐりました。70枚履歴書を書きました。しかし、ステッキをついている哀れな人間、原爆症で5年間も苦しみ、いつ死ぬか分からないような人間を、どこも採用してくれませんでした。

 戦後、被爆して25年、平和で高度成長している日本には、被爆者に対する白眼視、差別意識がまだ根底に残っていたのです。求職先で、本題から離れた被爆者の実相も話しました。それは戦争の犠牲者であると同時に、被爆者が差別との闘いの中で生きて来たことを知って欲しかったからです。

 だが、どの会社でも門前払いという現実は動きません。

 愕然としました。「だったら、だったら被爆者はどうして生きていったらいいのだ」― そういう抑圧された精神状態の中での、細井先生のあの言葉、「厳粛な現実の中で生きてきた人生ほど、尊いものはない」・・・・。この言葉を噛み締めながら、自分で一生懸命模索して生きてきました。そして語り部の中に入っていったのです。

■国家補償の被爆者援護法を

 現在全国で37万人の被爆者がいます。我々が声を大にして求めているのは、「被爆者援護法」の制定です。45年の節目の今、被爆者は先頭に立って署名活動に取り組んでいます。

 先ほどいいました原爆二法ですが、1957年に「原爆医療法」ができ、1968年に「被爆者特別措置法」が制定されました。それがあるのに、なぜ今、新しく「被爆者援護法」だと思われるでしょう。それは今ある原爆二法が、欠陥だらけの法だからです。たとえば、被爆者手帳を使うにも、所得による制限など、いろんな条件がついているのです。

 これではおかしい。我々被爆者は、被爆者であることが、無条件でなければならない。この手帳が、いつ、いかなる時でも、何処でも、どこの病院でも、自由に使えなければならない。健康管理手当、医療手当にしても、制限をつけることが不自然です。それを改正するのが我々被爆者が求めている援護法なのです。

 我々被爆者が、援護法を国家補償として要求しているのは、第一の理由として昭和25年、「サンフランシスコ講和条約」において、日本政府はアメリカに対して、原爆に関する一切の権利・請求権を放棄したからです。国際法違反を侵したアメリカを免罪した日本政府の責任は、とうていまぬがれることはできないのです。

 第二に、原爆によって、原爆症に苦しみ、差別という悲惨な生き方をした被爆者の、この責任を負うのは、戦争を遂行した、日本政府として当然の義務です。

 第三に、医療の充実と経済的な援助。これは45年間、苦しみ抜いてきた被爆者の心情を理解して、法制化するのが当然です。これらを総合的に考慮するとき、被爆者援護法が国の責任として、明確化されなければならないのです。

 こうした理念に立って、日本被団協が「援護法をつくって下さい」と4つの柱の要求を出しました。

 一番目は、再び被爆者をつくらない決意を込め、原爆被害に対して国家が保障をすること。

 二番目は、原爆死亡者の遺族に遺族年金を支給すること。

 三番目は、被爆者の健康管理、治療、療養のすべてを国の責任で行うこと。

 四番目は、被爆者全員に被爆者年金を支給すること。

 これが被爆者の最低の要求であり、グローバルには、核兵器廃絶・核戦争禁止とつながる、世界平和の道でもあるわけです。

 私たちは、我々が被爆者である、という被害者意識だけではなく、加害者としての体験と責任のあることも忘れてはいけないと思います。15年戦争における何百万人もの死者は、軍国主義国家の犠牲であり、再び侵略国家となった誤ちを繰り返してはいけない。その証が、国家補償による援護法なのです。一つのけじめをつけることが、被爆者へはもちろんのこと、アジア諸国に対しても、戦争責任の強い反省と、償いになるのです。

 現在中東問題が、世界の目を引き付けています。国会では「国連平和協力法」が審議されています。自衛隊の派遣が認められたらどうなるのでしょうか。すでに近隣諸国から、強大な経済力をバックにした日本の自衛隊派遣に、異常な関心が向けられています。

 この法案は絶対につぶさねばなりません。財力と権力意識が、理性をマヒさせて、15年戦争で日本が犯した加害を忘れさせてしまうことになるのです。戦争はエスカレートしていきます。15年戦争も満州、中国、東南アジアへと拡大していきました。今は核の時代です。核を使用しないという保障はどこにもありません。もし、中東で核が使われたならば、地域の人間の死亡だけでなく、オゾンは破壊され、地球は氷点下20度の冷たい地球になってしまうのです。そして核の灰が、地球上の人類の頭上にふりまかれるのです。

 アインシュタイン博士が、アメリカで原爆の研究に携わり、広島・長崎に投下された原爆の想像を絶する破壊力に愕然とし、自分が原爆製造に手を貸したことに生涯苦しんだ、という彼のエッセイを読みました。核は人間を殺すための兵器ですが、キノコ雲の下、黒い雨を浴びて生き残り、悲惨な生き方をしなければならないことの方が、死ぬことよりももっと残酷であることを、みなさんに十分理解して欲しいのです。そのために、核廃絶の署名運動が大事なのです。

 5月にある大学に講演に行ったとき、「署名活動に一体何の価値があるのですか」と質問を受けました。今頃まだこんなことを・・・、寒い思いがしました。しかし、これが現実かも知れません。今の日本は、あらゆる面から見て「平和」という安楽鍋にどっぷりと漬かっているのです。危機意識はどこにもありません。

 「昭和25年、朝鮮戦争が勃発したとき『ストックホルム・アピール』が採択されました。これは朝鮮戦争でマッカーサーが、原爆を落とすことをホワイト・ハウスに訴えたのです。トルーマン大統領は反対したと言われていますが、ペンタゴンには原爆投下のプランがあった、と言われています。その時世界の世論は、三度原爆を投下させるな!!と5憶の反対署名を集めたのです。この5憶の署名がホワイト・ハウスにぶつけられた時、トルーマン大統領は愕然として、原爆投下の戦略を撤回した、と言われています。その時、世界の5憶の反対署名がなかったら、朝鮮に原爆は投下されたでしょう」

 「今、我々が訴えているのはそこなのです。一人ひとりの署名が、集まって大きな力になった時、初めて、地球から6万発の核はなくなっていくのです。この点を十分に理解され、一人の力が、日本を、世界を動かし、平和を築いていくのだ、という信念をもって活動して欲しいのです」

 質問した学生にこう話したら、彼は深くうなずいて、理解を示してくれました。

1985年アメリカの街頭で署名活動した時の様子
1985年アメリカの街頭で署名活動した時の様子

 我々被爆者は、被爆45年を一つの節目として、自分たちで最低限できる活動に取り組んでいます。

 一つ、原爆被爆者援護法の早期実現

 二つ、核兵器廃絶・核戦争禁止

 三つ、被爆・戦争体験の継承

 この三つを、被爆者の悲願として活動しています。

 21世紀を担う、若い人たちのためにも、戦争と被爆を体験した人間は、忘れ去られようとするあの恐ろしい悲劇の時代を、再び繰り返してはいけないこと、平和で緑の地球を守ることを訴え続けなくてはいけません。

 8月2日、イラクがクェートに侵攻しました。今日10月18日、解決の糸口はなく、最悪の事態に突入することも考えられます。こうした危機状態の中でこそ、我々は平和の尊さを認識し、そのための努力をしなければと思います。こうした時期に、素晴らしい機会を与えていただき、お話しさせていただきましたことを感謝します。
                       (了)





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