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●被爆体験の継承 63

爆心地から13キロ離れた里山で浴びた黒い雨

東(ひがし) 義隆さん

2018年2月24日(土)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

東(ひがし) 義隆さん

■安佐郡戸山村での疎開暮らし

 私は昭和16年(1941年)2月2日の生まれで、幼い頃は広島市内の横川駅近くの三篠とか広瀬などの街で育ちました。近くの天満川で水遊びをしていたことなどもかすかな記憶として残っています。父親は職業軍人だったと聞きましたが、当時は戦地に出征中で家にはいませんでした。

 戦争が激しくなる頃、母親は私を連れて実家のある当時の広島県安佐郡戸山村に疎開しました。広島市街地から北西方向に、一山か二山超えた辺りの山里で、広島市の中心地からは直線距離で13kmほどになる所です。現在は町村合併が繰り返されて広島市の一部となり安佐南区沼田地区戸山という地名に変わっています。戦争が終わるまでそこで母と母の両親(私のお祖父さんとお祖母さん)と私との4人で暮らしていました。

■黒い雨の記憶

 原爆が投下されたのは私が4歳の時です。昭和20年(1945年)8月6日、この日の朝、母は近所の人たちと一緒に山に松脂やにを取りに行っていました。あの頃は松脂をとってそれを飛行機を飛ばす燃料などにしていたのですね。

 私はお祖父さんお祖母さんと一緒に家にいました。8時15分、空気中が突然ピカァーと光って、その後ドーンと雷のような物凄い音が響きました。爆風で障子などがガタッガタッと外れてしまったのを憶えています。

 当時4歳ですから、あれから72年、もう憶えていないことも、実は忘れてしまっていることもたくさんあります。また、どこまでが自分の記憶で、どこからが後々みんなから聞かされた話なのか区別のつかなくなっていることも少なくありません。

 平成21年(2011年)に戸山民俗資料館が『「戸山村」の8月6日〜爆心地から13キロ、その証言』という冊子を発行されました。あの日、戸山村にいて閃光を浴びた人、轟音や爆風を体験した人たちの話がたくさん集められた証言集です。私と同い年の、当時4歳とか5歳だった同級生たちも数人証言を寄せています。これらの人たちの体験談を読み返しながら、私の断片的な記憶も重ね合わせて、当時のことを甦らせてみました。

 しばらくして、戸山村から広島市方向にある横滝山の頂上のあたりから入道雲のような雲がモクモクと出てきました。閃光と爆風の後は、燃えカスのような紙切れや布切れのようなものが空からたくさん降ってきました。空はだんだんと暗くなり、風も出てきてその内に雨が降ってきました。雨は黒い雨でした。真夏ですからみんな白っぽいシャツや服を着ていましたが、その上に黒いものが染みついていきました。雨は30分ぐらい降り続いたと思います。横滝山は標高637mほどの山ですが、その山に登って、はるかに見える広島の街が凄いことになっているのを見た人たちもいました。広島の建物はほとんど倒れたり、火事があちらこちらから発生しているようでした。

 後年になって私は被爆者健康手帳を取得することになりますが、手続きは母親がすべて一緒にやってくれたもので、私は手帳の内容について詳しいことは何もしらないままでした。おそらく、この時の黒い雨に打たれたことが手帳の交付を受けられる理由になったのだと思います。私の被爆者健康手帳の被爆者区分は「第3号」となっています。3号被爆者とは、「原爆投下の際、またはその後に身体に原爆の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」ということで、具体的には被爆者の救護や搬送に携わったり、放射性降下物の「黒い雨」を浴びたりしたケースが該当しています。

 手帳の交付申請には2人の証人が必要でしたが、「証人になってもらえる人がまだたくさんいたあの頃に手帳をとっておいてよかった」と母がよく言っていたのを憶えています。みんな黒い雨に打たれていますから、戸山村の人たちはほとんど手帳をとっていたのではないかと思います。私の同級生たちもみんな被爆者のはずで、実際に黒い雨を体験した人がたくさんいました。

現在の戸山地区の風景
現在の戸山地区の風景
■戸山村でもたくさんの被災者を救護

 原爆が落ちた後、広島市内で原爆に遭ったたくさんの人たちが戸山村に避難して来られました。火傷や怪我をしたその人たちの姿は物凄いものでした。学校や公民館が救護場所になっていて、たくさんの人がそこに寝かされていました。婦人会の人たちなどがみんなで懸命に救護や介護に当たっていました。食事の世話をしたり、被災された人たちの体にウジが湧くのですが、それを一つひとつとってあげたりとか。その様子を私たちはそばで見ていました。子ども心にかわいそうでした。救護と言っても薬もなく、医者に診てもらうわけでもなく、毎日たくさんの人がそのまま亡くなっていきました。男の人たちは亡くなった人たちの火葬をするため毎日毎日が大変だったようです。

 私たち親子は戸山村に疎開していましたが、私の親戚は広島市内の、特に横川や広瀬地域にたくさんありました。原爆が落とされた直後の頃だったと思いますが、お祖父さんと大八車を押して広島市内まで親戚の様子を見に行ったことを憶えています。広島の街まで行く途中の道々は焼け爛れた人たちでいっぱいでした。みんな歩いて避難するか、田舎に帰ろうとしているような人たちでした。

 広島市内の私の親戚はどこもみんな滅茶苦茶な被害に遭っていました。その時、何故か、大八車に水道管や金属類の破片や瓦礫を積み込んで家まで持ち帰ったようなことを憶えています。

■広島で就職、転勤で京都へ

 父は戦争が終わって間もなく無事復員してきました。職業軍人だったせいか、帰って来ても何かの仕事に就くことは難しかったようです。三篠の家は完全に焼けてしまっていました。そういう事情もあって私たち一家は戦後は戸山村に住み着くことになり、父は炭焼きをしたり、製材所のような所に勤めたりして苦労をしました。昭和22年(1947年)に私の弟が生まれています。父は64歳で他界しました。母親の方は96歳まで生きて、平成24年(2012年)に亡くなりました。

 私は中学校卒業までを戸山村で過ごしました。高校は海田町にあった広島電機高校(現在は広島国際学院高等学校に校名変更)に入学し、広島市内の親戚の家に下宿して通学しました。

 高校卒業後、京都に本社のある日新電機の広島支店に就職しました。そこで4〜5年勤めた後、昭和39年(1964年)、23歳の時に転勤で京都に移動しました。その後は今日までずーっと京都で暮らし続けることになり、今日に至っています。仕事は大きな施設などの電機設備を設計する重電機関係のエンジニアで、67歳で定年退職するまで働いてきました。

■被爆による健康への影響は考えたことはなかったけど

 被爆が原因で健康を害するとか病気になるとか、それから結婚する時に支障があるとか、いろいろな差別があったとか、他人からの話では聞くことがありましたが、私自身はそのような経験をすることは一度もありませんでした。母親も被爆しているのですが、身体に原爆による影響があったという話は聞いたことがありません。私も自分の健康と原爆の影響との関係を考えたことはありませんでした。

 ただ私は若い頃からずーっと高血圧が続いているのです。腎臓もよくなくてもう40年以上も薬を飲み続けています。京大病院で1ヵ月もかけて検査入院したこともありますし、いろいろ検査をしてきましたが、結局原因はハッキリしないまま今日まで来ています。

 20歳の頃、まだ広島にいた頃ですが、突然血圧がものすごく上がって倒れてしまい、救急搬送され、広島市立病院で心臓カテーテル検査をされたことがあります。その時は心房中隔欠損症という名前の病名がつけられました。右心房と左心房との間の壁に穴が開いていて、その穴を血液がツーツーと通っているのだと言われました。それが高血圧の原因だとその時は言われました。でもその穴はいずれ塞がるから放っておいていいのだという診断でした。

 京都に来て、後年京大病院で診てもらった時に心房中隔欠損症はもう治っていると言われました。でも高血圧は続いているのです。血圧は上が200位になることもあります。そんな時はさすがにフラフラしますが、それ以外の自覚症状はまったく何もありません。血圧は毎朝と夕方に必ず測って記録するようにしています。そのデータを医師に見せて、薬の処方を調整してもらっている状態です。

 腎臓の方はクレアチニンの値がいつも標準値より高いと言われていてそれを抑える薬を飲み続けています。3ヵ月に1回の割合で通院していますが、こちらも自覚症状はありません。それから脳に行く大きな血管の頸動脈狭窄だという診察も受けています。

 昔は被爆者援護制度の健康管理手当を受けるために1年に1回は医師の診断書を提出する必要があったのです。今は違いますけど。このため毎年1回は、自分で特におかしいと感じることはなくても医師の診察を受けていたのですね。そこで自覚症状はなくてもいろんな病気の診断をされることになったのだと思います。今も被爆者援護制度の人間ドッグは毎年受診するようにしています。

 被爆者の援護について一つ思っていることがあります。広島にいる頃は被爆者手帳を持っていたらどこの病院でも全部診察してもらえました。ところが京都に来てからは被爆者手帳を持っていても、それを扱ってもらえない医療機関が結構あります。法律上は診なければならないはずなのに、「うちでは扱っていない」と言われます。そういう時はレセプトをもらって自分で後から医療費の還付を請求しなければなりません。それをやると医療費が還ってくるまでに3ヵ月位かかるのですね。ですから、医者にかかる時は「原爆手帳を扱っていますか?」とまず問い合わせてから行くようにしています。

 今でも、歯医者さんなども含めて、特に開業医の中には扱ってもらえないところがあります。コルセットなどの医療装着器具の利用や購入などの場合もそうですね。実務の処理が面倒くさいのかもしれませんが。こういうことはなんとかならないものかな、と思っています。

■被爆者をはげますクリスマス平和パーティーで
   「2世・3世の会」の活動に励まされ!

 私たち夫婦は昭和41年(1966年)に結婚しました。私が25歳、妻が24歳の時でした。一昨年の平成28年(2016年)には金婚式を迎えました。妻も広島での被爆者です。爆心地から3km位のところの宇品で直接被爆しています。

 2年位前から妻の体調が悪くなってきました。妻と同じような症状の人も他にもおられるのではないか、おられたら話を聞いてみようか、いろいろお話しすると気持ちも紛れるのではないか、そんな軽い気持ちから、一昨年から京都原水爆被災者懇談会でやられている「被爆者をはげますクリスマス平和パーティー」に出てみるようになりました。

 「車椅子でも参加できますよ」と案内いただいて、次の年からは妻も車椅子で一緒に参加しようと話し合っていました。ところが妻は昨年の5月に緊急入院して、以来、とても重い病気の症状になってしまいました。今は車椅子でも参加はとても無理な状態になっています。

 パーティーに出てみて、京都「被爆2世・3世の会」のみなさんの活動にとても感服しました。被爆者の被爆体験を聞き取って記録にまとめて公表されたり、原爆症認定裁判をずっと傍聴してこちらも記録して報告されたりと。当事者である被爆者だってなかなかできないことを、2世・3世のみなさんがあそこまでやられているのを知って、本当に頭の下がる思いでした。私たちもこれは何かできることを協力しないといけない、と思うようになりました。

 先日、「日本政府に核兵器禁止条約への参加を求める意見広告ポスター」を出そうということで、それに協力する募集がありました。そういうこともあって私も早速協力することにしました。
                       (了)




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線の枠内が「原爆体験者等健康意識調査」で判明している「黒い雨」降雨地域
線の枠内が「原爆体験者等健康意識調査」で判明している「黒い雨」降雨地域

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