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●被爆体験の継承 64

綾部と広島で、
私の被爆体験と「ふりそでの少女」を語り継ぐ

福留美智子さん

2018年3月4日(日)お話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化

福留美智子さん

■広島県大野村に生まれ育つ

 私は、広島県佐伯郡大野村という所で、昭和9年(1934年)7月12日に生まれ、育ちました。広島市から西方向に20km以上はある所です。現在は合併されて広島県廿日市市大野町となっています。当時の私の家族は両親と姉と私と、私の下に3人の弟たちの7人家族でした。父が出征した後は、残された母親が一人で5人の子どもたちを面倒見なければならなくなっていました。

 父は中国電力の社員でしたので、そのおかげで私たちは割と裕福な生活を過ごすことができていました。電化製品も、コンロとか、扇風機とか、一般の家庭にはまだないいろいろなものが揃っていましたね。ところが父が出征してからは、給料も減り、食べ物も乏しい時代になってきて、たくさんの子どもを抱えた母親は大変な苦労をすることになりました。川堀りの人足仕事などもしていました。

1945年当時の広島市付近図

■幼いながらも被爆者の救護活動

 原爆が落とされたのは私が大野国民学校の5年生、11歳の時です。8月6日、原爆が落とされたその日から、たくさんの原爆の被害に遭った人たちが大野村にも運び込まれてきました。小学校の教室も講堂も全部開け放たれて、怪我をした人たち、大火傷をした人たちの救護所になりました。

 地域の婦人会の人たちに強制的に動員がかかって、被害者のお世話をすることになりました。私の母もその救護のため一生懸命出かけて行きました。「お父ちゃんには頑張って帰ってもらわにゃいけんからね。みんなにようしてあげよう」と言いながら毎日のように出かけて行きました。私もその母について救護所となった小学校にでかけていきました。

 全身焼けただれた人、大怪我をした人、もう人形のような格好になって一言もしゃべらない人、黙ったままで目が剥けるように引きつった人、傷ついて、とても悲惨な姿になったいろいろな人を目の当たりにしました。焼けただれた人の体からウジ虫をピンセットで取ったりするのですが、私たちはそれを手伝ったりもしました。取ったウジ虫をゴミと一緒にトイレに捨てに行ったりするのも私たちの役割でした。

 救護所となった講堂や教室は、「痛いよー痛いよー」と泣き続けている人、黙ったままの人、四六時中キョロキョロ見回している人など、いろんな人がいて、そんな中で私たち子どももお世話をしていました。

 運び込まれた人たちもどんどん亡くなっていきます。そういう人たちが学校の教室に積み重ねられていく様子も見ました。火葬するにも場所がないので、山の方へ運んで、山の中に穴を掘って、まとめて火葬したりもしていました。亡くなった人が大八車に積まれて運ばれていくのですけど、友だちと一緒にその後について行ったこともあります。

 そういう毎日が、その夏中ずっと続いていきました。

 私の父の両親(私の祖父母)は当時広島市内の舟入に住んでいました。原爆が落とされたすぐ後に、母は私のすぐ下の弟を連れて父親の両親の安否を尋ねて舟入に行きました。祖父母は直爆で即死でした。その時のことで母親と弟は入市被爆もしたわけです。

■枕崎台風

 9月に入って(17日)、とても大きな台風が来ました(枕崎台風)。私の家の被害がどの程度だったのかは憶えていないのですが、大野村の、宮島口から岩国方面にしばらく行ったあたりの丘の上にあった陸軍病院が、とても大きな建物でしたけど、山津波に襲われました。無茶苦茶に破壊されて、大変な被害と犠牲者が出たということでした。

■被爆者手帳

 原爆が落とされた時私の家にいた6人の内、母と私のすぐ下の弟だけが被爆者健康手帳の交付を受けられました。祖父母を尋ねて広島市内の舟入まで行ったので入市被爆しているということからでした。

 私や私の姉は入市こそしていませんが、被爆された人たちを一生懸命教護していましたから、救護による被爆で手帳の交付を受けられるのではないかと思っていました。しかし、それは叶いませんでした。当時、嘘をついて手帳の申請をする人などもいて、いろいろ複雑な事情もあったようです。手帳の交付は難しくなっていました。

 私の小学校の時の同級生だった友だちに、お姉さんが広島市内の女学校に通っていた人がありました。そのお姉さんは市内で直爆に遭い、大火傷をして帰ってきました。私の友だちの家族は全員で介抱にあたりました。そのことで救護被爆したとされて、私の友だちも被爆者手帳の交付を受けていました。そういう人もあったわけです。同じ大野村で救護にあたっていた人でも、手帳の交付が受けられた人と受けられなかった人がありました。受けられなかった同級生はいっぱいいました。

 私は後年、京都の綾部に移ってから手帳の交付を受けることができました。でも、被爆された人たちを一緒に救護していた私の姉は結局今に至るまで手帳を手にすることができていないのです。

 尚、女学校に通っていた私の友だちのお姉さんは、その後、原爆乙女の第一号としてアメリカに渡り、手術を受けて帰国された人です。顔の火傷の手術でしたが、完全には治らなかったということでした。

* * * * *

 私の父は戦争が終わった翌年昭和21年(1946年)に戦地だったビルマから無事帰ってきました。父は80歳まで、母は78歳まで生きてくれました。

■造幣局に就職、結婚、出産

 小学校を卒業して地元の中学校に進学しました。私たちの学年から中学校も新制中学に切り替わりました。中学を卒業して、五日市にある造幣局の広島支局に採用されて就職することになりました。自分では勉強できる方だとは思っていたのですが、高校に進学しようとはまったく思いませんでした。兄弟があんなに多くて、母の苦労も見てきましたので、とても高校進学どころではなかったのです。

 あの頃も大変な就職難で、造幣局への就職も容易なことではありませんでした。採用試験は何百人という人が受けて採用されたのはたったの十数人、私の中学からは40人受験して3人採用という厳しいものでした。私はよく合格したということで、校長先生から表彰されたのを覚えています。

 その後、昭和35年(1960年)に結婚し、翌年の昭和36年(1961年)長女を出産しました。事情があってその後離婚しましたが、夫だった人も被爆者でした。離婚した後で、胃がんやたくさんの病気に襲われ、54歳という若さで亡くなっています。

■再婚、そして京都の綾部に

 その後年月を経て、昭和60年(1985年)、 私の友だちを介してすすめる方があって再婚することになりました。「いい人だ」という言葉だけを信用して、それ以外のことは何も知らないままの再婚でした。その相手が福留経怜(ふくとめつねさと)さんでした。

* * * * *

 長崎の原爆で亡くなった二人の少女が美しい晴れ着を着せられて火葬される、その様子が『悲しき別れー荼毘』という絵に描かれました(1974年、松添博さん作)。その絵がきっかけとなって、描かれた少女の一人が福留美奈子さんであることが判明し、さらに美奈子さんのお母さん:福留志なさんが京都府綾部市に住まわれていることも分かり、昭和63年(1988年)、絵を介して43年ぶりの親子の対面が実現しました。松添博さんがこのことを『ふりそでの少女』という絵本にして出版され、広く紹介されています。

悲しき別れ―荼毘-制作:松添博 長崎原爆資料館所蔵
悲しき別れ―荼毘
制作:松添博 長崎原爆資料館所蔵

 『ふりそでの少女』で語られる福留美奈子さん、そのお母さんの福留志なさんのことは、結婚して綾部に移るまで私はまったく知りませんでした。そして夫となる福留経怜さんが美奈子さんの弟であること、福留経怜さんのお母さんが福留志なさんであることも結婚した後に知ることになったのです。

 福留美奈子さんは3人兄弟だったのですね。両親が上海に赴任されていて、戦争当時一番上のお兄さん(経昭さん)と美奈子さんは長崎の親戚に預けられていて、一番下の福留経怜さんだけが福留志なさんの実家のある綾部に預けられていたのです。上の二人は長崎で共に原爆に遭い、美奈子さんの方は『ふりそでの少女』となって葬られたのです。

 再婚した当時私たちはずっと広島での生活を続けていました。ところが夫の母親の福留志なさんが独り暮らしなのでお世話しなければならなくなり、平成2年(1990年)、京都の綾部市、山家に移り住むことになりました。

 京都と聞くと、きっといい所だと思いましたけど、初めて綾部に行ったときはどんどんどんどん山の奥へ入っていくので、「こんな田舎とは」とびっくりしたものです。

■「ふりそでの少女」のとりくみ

 綾部に来てから、地元の中学生や高校生たちの「ふりそでの少女像をつくる会」のとりくみなどに関わることになり、特に綾部中学校の伊達順子先生からいろいろなことを教えていただきました。いろいろな所へも行動を一緒にさせていただきました。伊達先生は私のお義母さんの福留志なさんのお世話を本当によくやって下さいました。

 「ふりそでの少女」のとりくみには今でも伊達先生を通じて、私からの応援のメッセージを届けさせていただいています。

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 京都に来てから、昔の小学校時代の友だちから進められて、もう一度被爆者健康手帳の交付申請をしてみようと思うようになりました。その時に、伊達先生の紹介で京都原水爆被災者懇談会の田渕さんと知り合いになることができたのです。手帳の交付までに田渕さんにはすごく援助していただき、力になっていただきました。京都府の担当の方には、私の被爆状況ではなかなか手帳の交付を認めていただけなかったのですが、粘り強く状況を説明し、証人も、私が小学生だった時の友だちに随分協力してもらいました。そうしたみなさんの応援で平成15年(2003年)11月にやっと手帳の交付を受けることができたのです。原爆に遭ってから58年も経ってからのことでした。

 このことがあって以来、私も京都原水爆被災者懇談会のとりくみには積極的に参加させていただくようになりました。

■再び広島へ、被爆体験を語り継ぐ

 夫の福留経怜さんは平成17年(2005年)にすい臓がんで亡くなりました。68歳でした。私のお義母さんの福留志なさんはその4年後の平成21年(2009年)に亡くなりました。107歳という長寿でした。母親より息子の方が先に亡くなったわけで、夫の亡くなった後4年間は、私が一人でお義母さんをお世話してきました。

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 お義母さんも亡くなり、綾部で私一人で住み続けるのも難しくなり、広島の海田町にいる長女に誘われて、平成22年(2010年)に再び広島に帰ることにしました。 綾部も住めば都、綾部に移り住んだ時は「ここを終の棲家に」と骨を埋めるつもりでした。その時はまさか、主人の方が先に亡くなるとは思いもよりませんでしたから。綾部には20年間住みました。綾部を離れて7年になりますが、今でも綾部は懐かしい所ですね。私にとって綾部は第二の故郷です。

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 私の健康は特別に悪いところはないのですけど、甲状腺の方は長くお医者さんにかかっています。定期的に通院し、薬も続けています。その原因が原爆によるものなのかどうかは分からないのですが。歳をとってからは、脊椎性狭窄症という診断をされました。股関節の変形なのだそうです。お医者さんには手術を進められているのですけど、この歳になってからの手術はやりたくなくて、まだ手術はせずに頑張っています。

* * * * *

 今は広島県の海田町に住んで、デイサービスに行ったりなどの生活をしています。デイサービスでも、他の所でも私の原爆の体験を話すことがよくあります。広島県でも原爆のことを知らない人が多くなってきているので、私が話すとみんなとても関心をもって、よく聞いてもらえるのです。被爆の体験を話せる人も少なくなりましたね。私もきちんとした語り部ができるようになっておけばよかったと今になって思っています。

                       (了)

《資料》長崎で被爆死「ふりそでの少女」 鶴折り半生 母逝く
           反核運動に情熱 京都の107歳 福留さん

         2009年(平成21年)12月2日 西日本新聞

 長崎原爆で被爆死し、振り袖姿で荼毘(だび)に付された少女を題材にした絵本「ふりそでの少女」。その少女の母親で反核運動に情熱を注いだ福留志な(ふくとめ・しな)さん=京都府綾部市=が11月29日、同市内の病院で肺炎のため107歳で死去した。原爆で引き裂かれた子を思い「平和が一番」と折り鶴を折り続けた半生。オバマ米大統領のプラハ演説以来、核兵器廃絶の機運がかつてなく高まる中、また1人、悲劇の証人がこの世を去った。

 福留さんは戦時中、夫と中国・上海で生活。長崎市の親せきに預けていた長女の美奈子さん=当時(9)=は原爆で亡くなり、別の少女とともに薄化粧を施され振り袖姿で火葬された。

 この模様を実際に見た同市の画家松添博さん(79)が1974年、絵に描いたのがきっかけで、少女の1人が美奈子さんだと判明。88年に松添さんが絵を携えて京都に福留さんを訪ねると福留さんは「炭のようになったと思っていたが、きれいでよかった」と涙を流したという。

1945年当時の広島市付近図  「娘の供養のため長崎にお地蔵さんを」と願った福留さんの思いを受け建立されたのが2人の少女が空を舞う像「未来に生きる子ら」だ。綾部市民らが全国から寄付金を募り、96年4月、長崎原爆資料館の開館に合わせて屋上庭園に設置された。除幕式には福留さんも出席した。

 美奈子さんが荼毘に付された長崎市滑石にある滑石中学では、この物語が語り継がれている。10月には2年生が京都への修学旅行で福留さんに千羽鶴を贈った。平和教育担当の豊坂恭子教諭(38)は「志なさんは核廃絶を願って、今年も病気と闘いながら折り鶴を1羽だけ折られたそうです。その心を引き継いでいきたい」と惜しんだ。
            ◇    ◇
 福留志なさんの葬儀・告別式は2日午後1時から、京都府綾部市田野町田野山1の15、綾部市斎場で。喪主は次男の妻美智子(みちこ)さん。


◆「ふりそでの少女」のとりくみ 〜その2〜

伊達順子さん(綾部市)からの寄稿

 第2の故郷になった綾部の地を離れられた美智子さんが、広島の地で語ってくださいました被爆証言。私たちにも幾度か語ってくださいましたが、長い人生を通しての生きざまにも触れ、今更ながら、よう語り継いでくださいました!と胸を熱くして読ませていただきました。ありがとうございました!

* * * * *

 国民学校5年生だった少女・美智子さんは、ふりそでの少女の美奈子ちゃん(国民学校4年生)と史子ちゃん(女学校1年生)と同じ年頃です。絵本に描かれた松添博さんと同じような「荼毘」の場面には、本当に胸が詰まります。このような悲しみに満ちた場面も体験も、二度とあってはならない!創ってはならない!それが、志なさんの最期まで語り続けてくださった「戦争はあかん!平和が一番!」の想いでもありました。

 1990年に広島から綾部へ来られた美智子さん。夫の経怜さんとお義母さんの志なさん二人を、最期まで支え励ましながら、慣れぬ異郷の地で本当に頑張って生きてこられました。私が初めてお出会いしたのは、綾部の中学生たちと志なさんとの運命の出会いがあってからほどなく?だったでしょうか。志なさんが住んでおられた山家は、綾部駅からひと駅の距離、車なら15分もあれば行ける山紫水明の自然豊かなところです。が、バスや電車を乗り継いで通われたお二人には、大変なご苦労ありの距離でした。

 像建立後、毎年4月になると、ふりそでの平和活動している子どもたちの手で、志なさんの「誕生会」をすることが習わしとなりました。子どもたちと出会った志なさんが93歳から107歳になられるまで、実に、15回もです!そんな子どもたちのとりくみを、いつも陰からそっと支え励ましてくださったのが、経怜さんと美智子さんでした。

1998年4月29日、美奈子桜を記念樹として志なさんに贈った97歳誕生会(中央が美智子さんと経怜さん)
1998年4月29日、
美奈子桜を記念樹として志なさんに贈った97歳誕生会
(中央が美智子さんと経怜さん)

 毎年、平和の学習を続けてきた中・高校生たちのとりくみのなかで、地元の被爆者の方々の証言を聴くとりくみも大切にしてきました。その時、美智子さんも、大野村の救護所でのお話をしてくださいました。毎夏、平和の旅カンパ活動をしながら、ナガサキ・ヒロシマに高校生の代表を送り出す時も、いつも励ましのメッセージをくださいました。

 2003年11月、被爆58年後に、ようやく被爆者手帳交付を受けることができた時の電話報告を私もいただきました。粘り強く申請してくださった田淵さんやお友達への感謝を込めたそのお声は、今でも私の耳に残っています。その後、一人でも多くの被爆者が手帳を交付されるよう励ましとなりましたし、美智子さんも積極的に京都の被災者懇談会の席へ参加されるようになったとお聞きし、私たちも励まされ嬉しく思いました。

 2005年、夫の経怜さんを一人でつきっきりで看病し見送られた後、施設に入所して穏やかに過ごされているお義母さんの志なさんには、「京都の病院へ転院して治療を受けているからと伝えましょう」と、本当に苦しい思いでそれからの数年間過ごされたことでしょう。娘・美奈子さんに続き、息子・経怜さんが母親より先に天国に行くとは・・・私たちもどうしても本当のことを伝えることはできませんでした。2年ほど経ったころから、「つねさとは?」と、志なさんも私たちに問うことをされませんでした。その間、美智子さんは、施設を訪れる度に、本当に苦しい思いでお義母さんとお話されたことと思います。お二人とも今はもう天国で再会して、笑いながら穏やかな日々をおくられていることとでしょう。

 遠く離れた広島から、明るいお声の電話やメールが届く度に、懐かしさが込みあげます。最愛の娘さんの近くで、新しいお友達にも恵まれながら、経怜さんの分まで、お義母さんのように長生きをされますように!と祈りつつ、感謝とお礼を込めて。

2007年5月初め、105歳の誕生会も無事終え、毎年届く土佐文旦を届けた美智子さんと
2007年5月初め、105歳の誕生会も無事終え、
毎年届く土佐文旦を届けた美智子さんと




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